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2016年12月23日 (金)

インド=ボリウッド 旅先のポストカード

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 旅先の見知らぬ街や路地裏で、ふと見つけた絵葉書(ポストカード)って、それが安っぽく通俗的なものであればあるほど、ポップでキッチュな味わいってものが醸し出されてて、つい手にしてまう。
 その典型がインドの神様絵葉書や映画俳優絵葉書だろう。
 かつてイラストレーター横尾忠則が彼の土俗的サイケデリック世界のモーメントとして好んで駆使してた世界でもある。
 部屋の戸棚の奥のぶ厚い封筒の中に20年近くの歳月( 一瞬ドキッとさせられてしまう言葉だ )を経た、まだまだ残っている何枚かを取り出してみた。


 ギータ・バリ

 1930年生まれの1965年死亡(天然痘が死因)故って訳でもないんだろうけど白黒写真に着色した何ともレトロな仕様で、発行所がボンベイ(デリーの住所も)ってのが、如何にも時代を感じさせてくれる。
 大部以前、グル・ダットと共演した《 バーズ 》(1953年)を紹介したことがあった。男まさりに剣を振りまわす愛らしいお嬢様役を好演してて、表情豊かなこの時代を代表する女優の一人らしい。でも、35歳で病死とは早すぎる。
 グル・ダット監督作品にはこの《 バーズ 》も併せて3回出演してて、この作品だけダット本人と共演。他の2作は、売れっ子男優デヴ・アナンダとの共演。
 まだパキスタンがインドから分離独立する前のパンジャブで生まれ、その後アムリトサルに長く住んでいたようだ。アムリトサルといえば、ヒンドゥーとイスラムの中間的な宗教らしいシーク教の本拠地で、彼女の父親もシーク教の宗教音楽歌手でもあり哲学者でもあったという。
もし長生きしていれば、1984年のアムリトサルにあるシーク教本山にたてこもったシーク教徒過激派をインド軍が襲撃し多くの犠牲者を出した“黄金寺院事件”を経験することになったろう。


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 ラタ・マンゲシュカル

 インド映画の女性プレイバック・シンガーとして有名過ぎるぐらい。
 唄った曲が何万曲というギネス記録すら持っているらしい。
 1927年生まれで、現在も元気で活躍しているようだ。
 彼女の存在を初めて知ったのは、イラン→パキスタンで一緒になったカメラマン氏に教わった時で、イランから西パキスタンの要衝クエッタに入ると早速レコード屋に走り彼女のミュージック・テープを買い求めていた。
 若い頃の彼女を知る訳もない当方だけど、聴かしてもらって、当時60歳代の彼女の歌声って、インド独特の文化的産物だなと感心してしまった。大御所然として悪くはないのだけれど、やっぱしも少し若いアルカ・ヤグニクの方が声が艶やか。
 
 1960年代、彼女は男性歌手マダン・モハンとコンビを組んでヒットを飛ばしていたらしい。マダン・モハンは中東イラク・クルディスタンのエルビル生まれのインド人で、7歳ぐらいの時家族と一緒にパンジャブに戻ってきたという。ガザール(宗教音楽)歌手であり、作曲家、音楽監督でもあって、シャールーク・カーン&プリティー・ジンタ主演の《 ベール・ザーラ 》(2004年)でも、ラータ&マダンと同世代の監督・プロデューサーのヤシュ・チョプラの思い入れだったのか、30年前に亡くなったマダン・モハンの曲をラタ・マンゲシュカルと他の男性歌手とのコンビで唄わせていて、中々雰囲気があって良かった。その音楽だけのメイキング映像が別途一枚、映画のDVDに封入されている入れ込みよう。
因みに、モハン、クルド育ちといってもイスラムじゃなく、ヒンドゥーらしい。


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 シュリ・デヴィ
 
 本物のボンベイの路上生活少年少女たちを主人公にしたミーラー・ナイール《 サラーム・ボンベイ 》(1988年)の映画館の場面で、少年たちが画面に映し出された人気女優のダンス・シーンに合わせて客席で踊り出すシーンがあった。その銀幕上でインド中を席巻した彼女の代名詞ともなっていたらしい“ハワ、ハワイー”を踊っていた女優こそが、シュリ・デヴィだった。彼女の名と姿を日本国内でマイナー・ヒットしていたその映画で初めて知った。
 劇中での歌や踊りって、何もインド映画だけのものじゃなく、邦画界も嘗ては東映の時代劇なんかもやっていたのはレンタル屋で確認できるだろう。そういえば、相当昔、どこぞの名画座で、高倉健・三国連太郎・北大路欣也・小林稔侍なんかが、埃っぽいスラム街で、ハリウッド映画を標榜したらしい歌と踊りのシーンがはじまり、マジすか!と暗い客席で両の眼が点になったのを記憶している。深作欣二監督の《 狼と豚と人間 》(1964年)だった。 
 
 1963年、南インド・タルミナドゥー州生れ。
 小さな頃から映画界に入り、ローテイーンの頃にはタミルや他の南インド諸州の映画に出演し、ブロックバスター・ヒットした有名男優ジータンドラと共演した《 ヒマトワラー 》(1983年)で、本格的なボリウッド(ヒンディー映画)・デビューを果たしたってことらしい。
 彼女の名を不動のものにしたのは、やっぱり1989年の《 チャンドニィー 》のようだ。
 ヒット・メーカーのヤシュ・チョプラが監督し、得意のダンスも人気を博した、80年代を代表する映画の一つともいわれているらしい。
 パキスタンはペシャワールの、もうなくなったが90年代初頭まだ営業していた《カイバル・ホテル》に泊まっていた日本人娘が、シュリ・デヴィの大ファンで、わざわざレンタル屋でその《 チャンドニィー 》のビデオ(当時はカセット式)を借りて、旧市のバルーチだったかパシュトンだったか忘れてしまったがその部族専用宿に泊まっていた長期滞在の日本人の部屋でみんなで観たことがあった。“チャンドニィー、オ・メレ・チャンドニィー”と唄いながら画面のシュリ・デヴィと一緒に踊り出してのを覚えている。

 2012年に、《English Vinglish》(邦題 マダム・イン・ニューヨーク)で、15年ぶりにカンバック。


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