« 中国武侠映画的覚書 | トップページ | 小倉=長州・企救郡百姓一揆 ノート (4) »

2017年3月 4日 (土)

関門相克史・後日譚 《 門司港の英国領事館 》

Moji_a1


 以前、このブログの《 関門相克史(新・源平合戦)》で、門司(小倉藩)=下関(長州藩)の狭い関門海峡を挟んでの角逐、その一つとして英国領事館設立に触れたことがあった。
 その明治中葉に下関側設置で決着がついたはずの英国領事館勧誘事件、最近、地元の小さな書店で買った復刻版《 日本國門司港湾案内 》を眺めている内、ふと《 英国領事館 》の表示があるのに気づき驚いた。
 まさか石コロを投げれば届きそうな狭い関門海峡を挟んで、門司=下関両方に《 英国領事館 》が建てられたのかと、思わず自分の眼を疑ってしまった。場所は、山側に近い、現在もある《 門司倶楽部 》の下方。ご叮嚀にも、英国国旗の絵まで記してあるではないか。この《 門司倶楽部 》って、明治36年に、レトロ門司港を象徴するように炭鉱関係や地元の銀行なんかの幹部達の社交場として建てられ、戦後中国料理レストランとなって現在に至ったものらしい。
 
 
 この地図、作成年度が不詳で、添付のパンフレットによると、推定明治40年前後という。有難いことに、件の《 英国領事館 》の項目もあった。
 実は、《 英国領事館 》設置が下関側に決定した後、未練がましくも門司側、尚も英国に領事館設置を具申し続けたのだった。
 そもそもが当時駐日英国公使=アーネスト・サトウが、関門エリアに領事館設置を企画したのが発端らしく、既に時代の流れ的には新興著しかった門司港側が適切だったに違いないのだけど、何しろ維新の軍功めでたい雄藩・長州ってことで、下関側に傾いたのだろう。まさか、下関側が英国に具申した、「 門司の住民の半ばは石炭積込みの労働者及び日本における最下級に属する人物なり・・・」ってところじゃないだろうが。
 

 で、その相克的執拗さで、門司側にも、《 英国領事館 》設置をもたらしたのかと思ったら、そのパンフレットには、“領事館”の明示を、“出張所”と訂(ただ)してあった。
 地図に明示された《 英国領事館 》の何処にも“出張所”の但し書きはない。「対抗意識」と、パンフレット作者は推論してたけど、果たして相克なら正にその通りに違いない。
 下関側設置決定が明治34年(1901年)、建設が5年後の明治39年。
 門司側“出張所”設置は明治36年。
 尤も、パンフレットには「設置が実現した」としか記述されてなく、それが建設をも意味しているのか曖昧なまま。


Moji_b


 
 ところが、《 硯海鼠璞 》(けんかいそはく)なるブログには、昭和初期の門司港地図に触れながら、件の明治40年頃の地図に明示されていた《 英国領事館 》を“出張所”と訂し、「明治36年4月1日開庁式」、「船舶事務」を主に取り扱っていたと附言し、その上で、「場所が違う」と明記してあった。
 えっ? 
庁舎の看板を誇大明示した上に、場所も違う?
 時代的社会的ラッシュとはそんなものなのだろう。
 

 が、同じそのブログ確かめてみたら、ことはそれだけで終わっていなかった。
 第二次世界大戦突入で《 英国領事館 》自体が閉鎖され、米軍による猛爆撃で壊滅的打撃を受けた門司港、戦後もまだ機雷処理に明け暮れしている昭和27年に、急に明治の 《 英国領事館 》争奪戦を思い出したかのように、早速英国にまたぞろ領事館設置を具申したという。結果は不詳だけど、そのまだ残存機雷が浮遊していたらしい関門海峡を挟んだ門司・下関両側のどちらかに《 英国領事館 》なるものがあったという話、寡聞にして聞いたことがない。
 尤も、明治の関門《 英国領事館 》に深く関わってきたらしい、長崎グラバー商会系のホームリンガー商会の現在も門司港にある戦後建てられた建物、あるブログじゃ、そこが戦後のだろう英国領事館の建物と記述しているのだけど・・・


|

« 中国武侠映画的覚書 | トップページ | 小倉=長州・企救郡百姓一揆 ノート (4) »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事