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2017年5月 5日 (金)

《 長州・奇兵隊墓碑 関門相克史 補遺 》

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 ( JR線路沿いの国道三号線から赤坂一丁目東の信号を折れ少し行くと、左手鳥越・手向山方面奥に黄色のマンション「プレジデント赤坂」が見え、その脇の細い階段を昇ってゆく。)

 幕末・慶応二年(1866年)7月27日、長州軍は、6月17日の田野浦・大久保上陸以来、三度目の門司(小倉藩領)上陸を企図した。今度は、一挙に大里の少し手前の小森江近辺に上陸。
 沿岸部を報国隊が、山間部を山県有朋率いる奇兵隊が快進撃を続けていたが、小倉口=弾正山がグッと海まで突き出て行く手を阻む地形の赤坂=鳥越近辺に到ると、敗走した小倉藩兵と打って変わった肥後・熊本藩の当時最新鋭のアームストロング砲と長州に勝るとも劣らぬ近代的装備で武装した藩兵の的確な猛攻に、途端、一進一退の悪戦苦戦のドロ沼に叩き落とされてしまう。


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 ( 周辺には嘗てのお屋敷が凋落していった廃墟が点々と並んでいて、これから向かうその大半が20代の若者であった長州奇兵隊士の墓のイメージと微妙に融け合った荒廃と悲哀の雰囲気が漂っている)

富野台の忘言亭山から一気に熊本藩軍目がけて駆け下りてきた勇猛で鳴らした山田隊(第一小隊)も、先頭の隊長・山田鵬介をはじめ次々と斃されていき、壊滅。
 結局、早朝から夕刻までの熊本藩軍との延々熾烈な死闘のあげく、さしもの高杉晋作も、ついに退却を余儀なくされてしまった。

 ところが、翌日、長州藩軍と同様、甚大な被害を出した熊本藩軍が、小倉藩というより幕府軍=総督・小笠原長行に不信・反感の念を抱いたらしく、夜闇にまぎれて撤退してしまい、更に将軍・家茂の訃報に当の総督・小笠原自らも遁走してしまって、幕府合同軍は事実上瓦解し、小倉藩を残して霧散。
 城を自焼し遠隔の地・香春への小倉藩の敗走行の顛末。 


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 ( 細い階段を登り切ると左右に道が分かれていて左側に進む。路地めいた小径を進むと狭い駐車と覚しき一角に出る。その少し上側に覗けている。よく確かめないと見逃しかねない。)

 そんな激戦の最中故に、長州軍、とりわけ山間部での自軍兵の屍体を持って帰る余裕あるはずもなく、そのまま放置されたままだったようで、さすがに、山田隊の隊長・山田鵬介の死体だけは、生き残った隊士が首だけを斬り取って持ち帰ったという。
 翌日火葬にふされそのままに放置されていた長州兵たちの死灰・遺骨を、熊本藩軍参謀格の横井小南が見かねてか、集めて《 防長戦死之塚 》を建て供養したのだけど、維新後、現在のすぐ向こうに関門海峡をはさんで間近に長州(下関・彦島)の望める丘の上に移された。


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 ( 墓地の一角。下方の国道に面したフェンス越し前方に、関門海峡を挟んで長州・彦島が望める。左側には小倉・戸畑の工場群が覗けている。)


赤坂のこの近辺って結構“お屋敷”の類も少なくはないけれど、一廻りしてみたらここもご多分に漏れず、何とも平成末=アベノミクス的凋落としか形容しようがないほどに無惨な朽態を露呈していた。一軒などは妙な崩落の異態を晒したまま。

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 やがて、明治維新になり、長州軍がこの辺りも小倉=企救郡も占領することになるのだけど、その最高責任者が、佐藤寛作。誰あろう昭和の悪名高い佐藤栄作・岸信介兄弟の数代前の先祖であり、その末孫がアベノミクスの張本人=現総理大臣・安倍晋蔵って訳だ。これはやっぱし、歴史の皮肉って謂うべきだろう。
 山田鵬介率いる第一小隊が駆け下り突撃してきた現赤坂三丁目あたりの高台は比較的最近造られた住宅街のようで、そのど真ん中にポツンと公園があって、その奥隅に、長州藩軍・熊本藩軍死闘熾烈の合戦の地として《 慶應丙寅激戦の址 》の碑が取ってつけたように佇んでいる。およそ何の趣きも感じられない雰囲気の代物だけど、この辺りに、件の横井小南の建てた《 防長戦死之塚 》があったようだ。


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 ( 四柱の墓石が奇兵隊士のもの。一番小さいのが、切り込み隊長・山田鵬介の墓碑。首のないまま荼毘にふされたのだろうが、150年の年月に風化してしまって小さな文字は判読しづらい。国道をもっと小倉方面に進むと現・延命寺があり、そこにも奇兵隊士の墓碑が立っている。)


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