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2017年7月の3件の記事

2017年7月22日 (土)

真夜中の牛肉麺

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 先だって博多に行った際、キャナルシティーという商業コンプレックス・ビルのラーメン・コーナーで、“大明担々麺”の看板を見つけ入ってみた。
 但し、“ 重慶 ”と銘打ってあって、担々麺といえば四川料理のはずなのに・・・と怪訝に思いながらも、紅く映えた見栄えの良い一品に舌鼓をうった。激辛ってほどじゃなく、食べ易い。日本人向けにディフォルメしているんだろうか。

 かつて一度だけ四川の省都・成都を訪れた時、体調をくずし、咽喉の調子が悪かったのもあって、せっかくの辛さが面目の四川料理をあれこれ試食するって機会を逸してしまった。ふと通りかかった路地角の小さな担々麺屋のガラス棚の中に、実に簡素に、丼に山盛りになった麺と別の碗の濃いスープが並んでいるだけで、そのいかにも麻辣(ピリ辛)風に映えた赤黒いスープに、思わず咽喉の奥がピリピリしてきた記憶が甦ってきた。
 
 でも、それは四川の中心地・成都でのことで、そういえば、これも最近ちょっと散歩気分で地元の路線バスに長々乗って、めったに訪れることもなかった一応デパートもある、しかし、周辺の商店街は構えばかりですっかり廃れた、自民党半世紀支配の論理的帰結、所謂“アベノミクス”的帰結を絵にかいたようなくすんだその昼尚薄暗い商店街の奥で見つけた小さな中国食品屋の棚に陳列されていたインスタント・ラーメン二種、片方は有名な“康師傅(カンシフ) 牛肉面”、もう一方ははじめてお目にかかった“酸辣”(ホット&サワー)味の表示のある“重慶小面”、この“重慶小面”、発売元が躍進著しいらしい《四川・白家食品》なのだが、生産地が四川・成都となっていた。
 ( 因みにブログ見ると、十年くらい前、日清食品がこの白家食品の株を取得のため協議したことがあったようで、その後どうなったのだろう。)


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 そもそも重慶って、調べてみたら、元は四川省に属していたという。
 雲南や貴州の一部も。行政的区割りとして、四川省から直轄市として独立して重慶市(北海道くらいの広さ)となったに過ぎず、風土・食物まで変わった訳じゃない。
 四川は四川。
 もう二十年近く以前、二、三回ほど、列車の窓から重慶の町の姿を望み見たことがあった。
 内陸奥地の赤土の曠野の涯の、両側のクレパスのような長江と嘉陵江の濁流に臨んで屹立した正に異境都市然としていて、通る毎に、そんな地の果ての荒寥とした佇まいに、中国人=漢人たちのバイタリティーに感心したものだった。
 2002年の中国映画《 ションヤンの酒家 》を観て、重慶の街並みが結構近代化されているのが分かったけど、映画は旧い繁華街の再開発問題を背景に使っていて、それから既に15年も過っている現在、すっかり近代的な都市の景観を呈しているのだろう。


で、大明担々麺だけど、もう一つの売りメニューに、“四川・牛肉麺”があった。
 これも流行りのメニューのようで、最前の“ 康師傅 牛肉麺 ”はじめ結構色んなメーカーがインスタントの牛肉麺を出している。
 生の牛肉麺は、といえば、これまた相当旧いけど、ちょうど20年前、昆明から列車で2泊3日かけて上海に夜遅く到着し、定宿の《 黄浦飯店 》はさすがにチェック・インはできないだろうと、駅前のあっちこっちに現地の人々が、新聞紙やゴザを敷いて寝っ転がっていたのを見るにつけ、朝まで駅前で待つことにし、とりあえず夕食とばかり入った店が、中国のあっちこっちで見かけるようになっていた《 美国加州牛肉面大王 》だった。
 一番最初にその名を見たのは、確か敦煌観光の拠点の町・柳園の通りで、大道音楽芸人のパフォーマンスが行われていた近くに、オープン記念だったかの派手な看板が並んでいたのを思い出す。“加州”ってのが一体何のことか分からず、ひょっとして米国のカリフォルニアのことかなと推測しながらも、
 アメリカに拉麺なんかあったっけ?
と、それが牛肉麺といかなる関係があるのか理解できぬまま気にもとめなかった。
 さすが上海と云うべきなのか、その店は24時間営業の店だった。
 値段は当然少し高めだったけど、どんな麺料理なのか試してみたかったのもあって、くだんの牛肉麺をスプライトと一緒に注文。
 牛肉麺=6・5元   
 雪碧( スプライト )=5・0元   
 醤油系スープに麺、その上に、牛肉とレバーの角切り、香菜(パクチー)と刻み葱。
 普通の拉麺で辛くはなく、けっこう旨かった。
 深夜の上海駅前の光景を眺めながらすする牛肉麺はまた格別だった。
 
 この《 美国加州牛肉面大王 》、もう中国全土的チェーン店らしいのだが、《 李先生 》なる新看板と重複したりのややこしい商標トラブルに揺れているという。
 人民中国、いよいよ“改革開放”の波に乗って、絵にかいたような資本主義的トラブル全開ってところなんだろう


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1974年の紅い水蓮 シアター・プノンペン

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 カンボジア映画って、2001年の《バンコク・フィルム・フェスティバル》でのリティ・パ二ュ監督のドキュメンタリー映画“ザ・ランド・オブ・ワンダリング・ソウルズ”以来。
 バンコクからハノイまでのコンピューター回線だったかの地下埋設工事のプノンペン周辺の工事の光景を、その土地に埋もれたカンボジアの歴史を“digging”してゆくって寸法だったんだろう。暑熱のプノンペンの光景を、やたら冷房ガンガン効いたたった十人居るかいないかの客席で、長袖ジーンズシャツをTシャツの上に着こんで震えながら観ていた記憶ばかりが残っている。

 普通のカンボジア映画を観るのはこの《 シアター・プノンペン》が初めて。
 今回ネットでちょっと調べてみたら結構カンボジア映画作られていて、日本でも上映されていたらしい。
 今世紀初頭、というと何とも仰々しいが、2000年代に入る前後のプノンペンの映画館ってそれまで煤けたフランス植民地時代の旧い佇まいの文字通り古色蒼然とした廃墟でしかなかった。別の用途に使われていたり、表にポスターを貼りだして細々と営っているところもあった。只、上映映画って殆どがポルポト時代以前に作ったものなのか、あるいはタイから安く輸入した如何にも古めかしいホラー物ばかり。さすが、観る気にはならなかった。それでも、今世紀に入ってからは、メイン通りのモニボン通りに面した映画館が小綺麗にリニューアルし、大きな看板までかかげて“現代”ものらしき作品を上映するようにはなっていた。
 興味をひかれ、平日の昼間入ってみたら、まだ上映前で、男女の高校生ばかりが群れていて、さながら中学校の休み時間なみのはしゃぎよう。昼間のせいか、一般客はわずか。やがて始まった映画は、どうも様子が、プノンペン=カンボジアのものとは思われず、ポルポト以前の首都プノンペンが小パリと呼ばれていたのを考慮にいれたとしても、まるで雰囲気も地理も違う。やがてそれが、隣国タイの首都バンコクらしい、それもどうも1973年に軍政側と学生の衝突したいわゆる“血の日曜日”事件を扱った映画らしいのが分かり始めた。何のことはないタイの映画だった。でもそれが、ポルポト時代以前に輸入したフィルムなのかそれともそれ以降あるいは最近輸入したものなのかは定かでない。


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 この2014年制作の《 シアター・プノンペン》の舞台ともなった映画館もそんな廃墟然とした旧い建物で、場所的には、モニボンなんかのメインの通りじゃなく、むしろ奥まった路地に面したような薄暗い佇まい。2014年現在でのプノンペン設定なので、まだまだ似たり寄ったりの映画館事情なのだろう。
 もっとも、昨今は、プノンペンにも、場所は定かでないが、日本出資のイオンモールが出来、タイの映画会社メジャー・シネプレックスが入って、多数のスクリーンも備わり、3Dどころか最先端らしい4DX(匂いも風も、しまいにゃ水で濡れたりもする体験型らしい)まで揃えているという。

 暴走族の親玉ベスナと恋仲の女学生ソポンは、ある日、ちょっとしたトラブルからプノンペンの町中の煤けた古の映画館の中に一人紛れ込んでしまう。
 そこには、立ち退きを開発業者の手先から迫られながらも、頑なに拒否し、何とかかつてポルポト体制直前に作られた恋愛叙事詩映画《長い家路》の最後の部分last reelの欠落を補って上映したいと願っていたベチアという初老の支配人が一人住んでいた。
 実は、その映画の主演の女優こそ、ソポンの病気がちの母親だった。
 以前女優をやっていたとは生まれてこの方一度も聞いたこともなかったソポンは、残ったフィルムの欠落部分を補おうと、通っている大学の映画部の教授に協力を仰いだ。生徒たちを引き連れ教授は、傷んだフイルムを整備し、残りの欠落部分を、ソポンと暴走仲間から抜けたベスナに主演の恋人同士を演じさせ、ベチアの案内で、かつてそれが撮られた場所へとロケに向かう。

 ところが、母親が撮影に参加し、監督のはずだったベチアと四十年ぶりに対面すると、途端血相を変え、「この男は監督じゃなく、彼の弟よ!!」と吐き捨てて逃げ帰ってしまう。ベチアやソポンの母親、監督たちはポルポト体制下に連行された労働キャンプで、誰かの内通で正体(ポルポト体制下では、映画関係者も処刑の対象となっていた)がばれそうになり、取調室=拷問部屋に連れ込まれたベチアが、拷問の末か、兄が映画監督であることを白状し、監督は処刑されてしまっていたのだった。
 そもそもが、ソポンの母親と監督は恋仲にあったのだけど、その映画で、仮面をした村の男を演じた俳優であもあったベチアも、ソポンの母親に強い恋情を抱いていたのだった。今回の欠落部分も、実はちゃんと映写室に残っていて、思い余って欠落部分を自分の恋情を遂げるシナリオに書き換えて完成させようと企図したものだった。その上、ソポンの父親も、実は、このポルポト的惨禍に深くかかわっていたのだった。


 中国でも文革時代の頃の惨禍・惨劇さらに現在でもその力学が作用しているらしい政治的相克には、中々触れられたくない雰囲気だけど、カンボジアのポルポト体制下に行われた惨劇、その渦中に放り込まれた人々の芯奥の傷(トラウマ)は容易に癒えることの難しい事柄で、端(外人)が勝手に思うようには触れがたいもののようだ。ポルポト全体主義体制下の愛憎的残滓が、しかも尚現在にもそれが暗渠の底に鬱々と暗い流れを作っているカンボジア的今を、流行のミステリー仕立てにしてみせた小品。
 あの、タイとは一味違った赤土から発するカンボジアの熱気と土埃が嫌いじゃない僕にとって、あらゆる意味で、興味深い映画作品。


 欠落した部分(リール)のあるフィルムって、すぐに、中国文化大革命や、それ以前の反右派闘争=百花斉放百家争鳴的整風運動などの渦中である巻(リール)が紛失し更にフィルム構成が支離滅裂にされてしまった中国映画《 孤島天堂 》(1939年)を想起してしまう。
 中国・文革=カンボジア・ポルポト派的社会革命、両者を統べるものはマルクス主義的全体主義ってところなんだろうが、中国文革の方は映画や芸術など自体を否定している訳じゃなく、あくまで党=毛沢東の意に沿っていない反党的、反革命的つまり右派として指弾されてのパージ・弾圧なので、その辺がポルポト的機械的全体主義と相違するところだろう。
 反右派闘争と文革に通底とているのが諜報関係のトップ康生で、毛沢東・江青とつるんで多大な犠牲者を出してきた張本人。《 孤島天堂 》の改変や廃棄も彼なら可能だったろうが、推測の域を出ない。その康生とポルポトの影響の伝聞が時折見られるけど、直接の接触はなかったようだ。 


 《 シアター・プノンペン》the last reel

監督  ソト・クォーリーカー
脚本  イアン・マスターズ / ソト・クォーリーカー
制作  カンボジア(2014年) 

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2017年7月 8日 (土)

改革開放的顛末 《 山河ノスタルジー 》

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 久しぶりのジャ・ジャンクー(賈樟柯)。
 第一作《 小武 》(1997年)で、国策=“改革開放”の波に何とも不器用に乗ることもできず旧態依然に翻弄されるばかりの庶民、その典型=象徴たる主人公・小武の右往左往の果ての凋落の軌跡を、これ又、改革開放的人民中国を象徴するようなくすんだ佇まいの地方都市・汾陽(フェンヤン)を舞台に描いて見せた。
 古からの名水=名酒、中国最古のレンガ造りの塔=文峰塔と鉱物資源でそこそこ有名らしい人口十数万の、石炭鉱山の影響か煤けくすんだ町の佇まいに、改革開放的溌溂さ等とは無縁な、それでいてそれなりに旧態から抜け出ようとして選んだみみっちいスリ稼業から足を洗えず鬱々とした日々を送っていた小武の姿が違和感なく溶け合っていて、絶妙な世界感覚に感動ものだった。

 
今回の現題《山河故人》、物語の基本的流れは、“ 世界の果てまで中国人 ”という、改革開放以降世界中に利潤を求めて飛び出していった出稼ぎ・新移民と、そんな資金も伝手もない零細庶民の国内的出稼ぎ盲流(=民工潮) に分かたれていった二人の幼馴染の男達との愛憎とその結節点たる女(タオ)それぞれの軌跡。
 そして、海外雄飛(ニュージーランド)していった実業家( 張晋生 : ジンシェン )の息子(ダオラー)の父親との確執と、中国語を忘れてしまったために雇われた母親と同年齢の中国語教師( ミア )に対する思慕といったところ。
 
 今回変わってる点は、物語の後半のオーストラリアでの時間設定が2025年と未来になっているところ。使っているスケルトン・タイプのノートパソコンがそれらしさを醸し出していたけど、母国語たる中国語を忘れ話せなくなるって現象は、海外に移住した人民中国(大陸)の中国人達の新世代にやがて起こりえる事柄として捉えられたのだろうが、そん新世代の青年ダオラーは、しかし、心の奥底に母親=母国中国への憧憬が不明瞭なままゆらぎつづけるって設定。
 これは、以前同じ大国インドの映画なんかでも頻繁に取り上げられていたテーマで、例えば若い娘でなくても、やっぱりカーストはじめあれこれの封建的遺風や宗教的しがらみを厭ってまだ自由の利く海外での生活を手放そうとは中々しない女達。それでも、移住先の米国でNASAでの仕事も順調なのにもかかわらず、子供の頃育ったインドの郷里に一度里帰りをし、その郷里の人々の温かな人間関係と後進性に心を捉えられ、米国に戻っても、徐々にインドの郷里への思慕の念が高まってきてとうとう帰国を選んでしまうというシャールーク・カーン主演の《サワデス》(2004年)なんかその好個の例。


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 北京からそれほど隔たっていない山西省の小さな町フェンヤンの約20年後の現在の姿は如何、と画面に展開される街並を眺めると、もはや以前の炭鉱や鉱山の町ってくすんだイメージは薄れ、否、もはやしがないスリの小武の舞台としてではなく、1999年のディスコティックなプロローグで始まる学校教師・タオと二人の幼馴染の男達の舞台って趣きに撮られた光景が展開していた。
 もはや値段票のついた安っぽい背広やサングラス、ウンコ坐りにタバコをふかしたり大きなホーロー碗で昼飯をがっつくような世界じゃなく、スマホを片手にワインでも酌みかわしそうな雰囲気。それでも、タオの父親が死んだ際、別れた実業家の夫(ジンシェン)が再婚相手とともに住む上海から、タオとの息子(ダオラー)を葬式に列席させるため呼び寄せ、迎えに現れたのが空港で、えーっ、空港も出来たのか驚いたら、どうも隣の中都市・太源のエアバスも離着できる国際空港(ほとんど東アジア便のみ) だったようだ。


 冒頭、ペットショップ・ボーイズの“Go West”(1993年)の曲にあわせて踊るシーンがある。中国では、'90年代後半に流行ってたらしい。正に、改革開放のテーマ曲って趣き。そういえば、かつて中国・雲南の大理の現地人ご用達のカフェで見た香港のビヨンドの何ともぬるい曲を若い娘達が嬉々として聴いていたのも、西方世界からの自由の春風って趣きだったのだろうが、ぼくが持参していた中国ロック(揺滾)の旗手・崔健の“紅旗下的蛋”をかけて貰い、大きなスピーカーからハードなロックが流れ始めたら、怪訝な顔して娘達はぞろぞろと店を後にしていったのを思い出した。
 この曲、最後の場面でも、薄っすらと雪の積もったフェンヤンの郊外で、かつて皆と一緒ににぎやかに踊っていた頃を思い出しながら、タオが、一人踊りはじめるシーンにも使われていて、何とも物悲しい哀愁を帯びたエピローグ。


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 東風は西風を圧す、はずが、Go West!! 西へ行こう、孫悟空一行ならめざせ西方浄土だろうし、西側世界へ出て行ってばっちり(外貨を)稼いでこい! だと、北朝鮮風味になってしまうが、改革開放的盲流の世界への流出。ダオラーが母国語すら忘れてしまう2025年頃には、世界に溢れ席巻してしまうのだろうか。
 タオが強引に押しまくられて結婚してしまう実業家のジンシェンは、やがてタオと別れ息子のダオラーを連れてニュージーランドに移り住むけれど、もう一人の、タオに袖にされる控えめな性格の炭鉱労働者の梁子(リャンズ)は、タオから距離をとることを条件に彼(ジンシェン)が買収した梁子の働いている炭鉱のそれなりのポジションの申し出を蹴って、町を出てしまう。フェンヤンからさほど遠くない邯鄲(かんたん)の夢で有名な邯鄲の炭鉱に職を求め、その内出逢った娘と結婚し、労働環境の悪い中で働き過ぎたのか病に冒され、小さな子供を連れて、再びフェンヤンも戻ることとなる。さっそく梁子の嫁がタオの家を訪れ、涙ながらに梁子の重篤な病を打ち明け経済的援助を乞う。
 上海から海外へと雄飛していった実業家のジンシェンと対照的に、小武を思わせるようなうだつの上がらぬ旧態依然の一方の典型・盲流的鉱夫=梁子のこの凋落は、やはり、小武と同致な存在として設定されているのか。意固地的旧態依然の形象?

[注] 盲流は、基本、農民達が都市部に出稼ぎにゆくことを指す。農民は農村に縛られ、出稼ぎは違法行為らしい。
 革命を起こした割には都市部と農村部の住民の身分扱いに基本的な差別を設け現在まで続いていることからすると、あの人民中国革命って、所詮、都市部住民・労働者達のための革命に過ぎなかったということになってしまう。
 荘園領主に縛られていたかつてのタイの農民達とそれほど際立った違いはなく、昨今のタイの農民達の反-軍事政権的運動の過激化の根もそこらへんにあるんだろう。
 都市部の住民が国内や海外に出稼ぎや移住してゆく流れを、中国語独特の言い回しで何と言うのか定かでないので、敢えて盲流=民工(=農民)潮の流行言葉を使わさせてもらった。

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