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2017年10月29日 (日)

ミレニアム的動物愛護週間

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 中国・江西省チワン族自治区で、町興しの一環なのか、約二十年前から恒例の行事と化したらしい《 茘枝狗肉節(ライチ犬肉祭)》、地元の有名物産扱って訳か果物のライチと犬の肉を供するフェスティバルに、お決まりの西側( 欧米 )からの風当たりが、最近では中国国内や地元からすら強くなってきているという。
 ネットの写真見ると、店頭にずらり犬の丸焼きが吊るしてあって、尻尾までが焦んがりときつね色に焼かれ、これからクリスマスが近づくにつれ欧米や日本国内、否、中国の街角でもターキー(七面鳥)あるいはその代用としてのチキンが店頭に並べられるのと同様、行き交う人々の食欲をそそるのだろう。
   
 日本でも、つい最近まで、伝統食として誇ってきたクジラ、つまり鯨肉食に対して同様に、欧米からの非難・指弾のバッシング激しく、随分と国内の“何言ってやがる!”、“余計なお世話だ!”等の反発も喧しかったのだけど、その折にも、日本国内での犬肉食には、文化ではなく四国等の一地方的な慣習と決めつけ、鯨肉食とは別個の悪弊とばかり鯨肉食擁護派が貶めるのが大勢だった。
 しかし、かつて江戸時代初期頃は、冬になると江戸市中から犬の姿がなくなってしまうくらいに貪られていて、朝鮮半島から犬を食用として輸入までしていたというのだから、これって、何しろ幕府のお膝元、花のお江戸の冬の風物詩だったのだろうから、もう(食)文化の範疇ではなかろうか。 
犬肉食って、アジアだけじゃなく、ヨーロッパはじめ世界中で食べられてきたろうし、英国でも、狩猟の際に連れ歩く犬も、場合によっては、つまり遭難等の不慮の状況に陥った時の非常食としてのすこぶる現実的な役割を与えられていたらしい。愛犬家も糞もあったもんじゃない。さすが、ネアンデルタールの後裔だけのことはある。えっ、ネアンデルタールのDNAって日本人のDNAにもちゃんと含まれているって? ・・・でしょうね。
 

 と、思っていたら、犬だけじゃなく、猫の方も、ちゃんと江戸時代にゃ食されていたという。そもそも数が知れているのと、基本肉食は仏教的に禁忌という建前で、日常食って訳にはいかなかったろうと思っていたら、犬肉と同じく強壮剤的な意味合いや、黒猫の黒焼きなんかは喘息の薬としても珍重され、果てはこれは終戦直後の闇市にも出回って美味だったといわれる猫の“おでん”も江戸の庶民が舌鼓をうっていたという。現在なら、さしずめコンビニの四角いおでん鍋の一隅に人待ち顔で端座しているってことになろうか。
 それが、明治維新で、西洋文化とともに西洋食文化も輸入され、牛・豚・鶏等の《 食肉 》が大っぴらに大量に食され飼育されるようになって、それまでの季節的風物詩程度の特別食を担ってきた犬肉食・猫肉食が衰退していき、一部の地域や好事家に細々と嗜好されるだけになってしまったのだろう。


Eating_1

 そういえば、以前、インドの最貧困州といわれたビハール州で、州政府の高官が、貧窮に業をにやしてか、ネズミ肉食をぶちあげたことがあったのを覚えている。
 要は、“ 貧乏人は、ネズミでも喰ってろ!”って訳だろうが。
 そこら辺の食堂から、レストラン、果ては高級ホテルにまでに、ネズミ肉のメニューを加えるように要請したらしいのだけど、基本は、動物性たんぱく質摂取の乏しい貧困層対策なんで、特定してネズミ肉食を求めると、さすがにヤバイと思っての平等的糊塗策の類。そもそも、中産階級や裕福な家庭の者が、ネズミなんて喰う訳もなく、十分に他の肉を贅沢に喰っているのだからその必要もない。
 もっとも、金持ち連中の中には、好事家や飽くなき嗜食家(グルメ)も居て、珍奇を極めようとする可能性もあろうが。
タイの貧困エリアといわれるイサーンの人々も、昔から乏しい動物性たんぱく質摂取という切羽詰まった必要性でネズミ肉食を続けてきていたらしけど、さすがに昨今イサーンの人々も、以前と違って、もっぱら酒やビールのつまみ・スナックとして喫食しているようにも見受けられる。


 以前、大泉黒石の戦時中の野草譚《 草の味 》の紹介の際、大日本帝国軍=皇軍の南方での人肉食、つまり食人についてちょっと触れたことがあった。
 映画《 野火 》の中で皇軍兵達の人肉への執着を、人肉に含まれる“塩分”が根拠と語っていたものの、実際には周辺の野生動物(の血液等)にも塩分は含まれているにもかかわらず、杳としてそんな痕跡もないのを現地人達に訝られ恐れられていたのだけど、遙かネアンデルタール人たちの共喰も昨今有名になって、はてさて、人間の食的性向って、いよいよそこはかとない業って想いが一層強くなってきた今日この頃。


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