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2017年11月の2件の記事

2017年11月25日 (土)

 アンドロイドは叛乱する? ブレード・ランナー2049

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 映画自体は35年ぶりの続編で、映画の世界じゃ30年後の西暦2049年のロサンジェルスの街って設定なんだけど、海外での商業的評判が今一つ芳しくないって風評、予告編の凡庸さ、更に同じリドリー・スコットの《 エイリアン・コヴェナント 》も今一つだったのもあって、こりゃ余り期待できないのかものモヤモヤをひきずりながら、平日の人影も疎らな回を観てみた。只、平日の割にゃ、珍しく( 恐らく )週末の封切り日と同じだろう箱(劇場)で、十分に映像的・音響的迫力が効いていたのは幸いで、やっぱりスペクタクルものは広い箱じゃないと意味がないなと今更のように思い知らされた。

 結局、《 ブレード・ランナー 》って、近未来世界ってとこでのロスの街のイマジネーティヴな世界の創出ってことに尽きる。そこであってこそ、そんなに遠くない将来の象徴たるロボットより一歩先のアンドロイド(=人造人間 : 映画中での製品名はレプリカント)も活きてくる。1982年に公開されたオリジナル《 ブレード・ランナー 》は、正にそこにおいて世界の耳目を集めたんだけど、果たして、広めの劇場で観ることができたのも幸いしてか、オリジナルを凌駕するようなイマジネイティヴ=クリエーティヴな未来世界構築は見られなかったものの、オリジナルと違和を感じさせない程度の敷衍的光景は悪くはなかった。
 映画の中じゃ30年の月日が過っていて、オリジナルだと街中の巨大なオーロラビジョンに“強力わかもと”を手にした日本髪の女の微笑みが印象的だったの比べ、今回のは主人公に語りかける小さなビルなら跨ぎかねないくらい巨大な全裸のジョイという娘のホログラム的姿態が立体的+エロスってところで進化したのだろう。
 あるいは、老デッカードの隠れていたラスヴェガスの古い建物の中に備わった、遙か以前の遺物として設定されたステージ上のプレスリーやジューク・ボックスの中で歌うシナトラのホログラムともども、近未来性を際立たせるための小道具としては面白い。


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 オリジナルじゃ、宇宙植民地から逃げてきたレプリカント叛乱組織の圧倒的な強さをみせるリーダー、ルトガー・ハウアー扮するロイ・バッティと、逃亡レプリカントを抹殺するロス市警の捜査官リック・デッカード(ハリソン・フォード)との死闘と寿命間近かな人間的な生を求め延命を獲ようと足掻くレプリカント達が漂わせる悲哀が、ヴァンゲリスの奏でるシンセサイダーに増幅され中々に味わい深かかったけど、今回の《 ブレード・ランナー 2049 》じゃ、同じくロス市警の捜査官K(ライアン・ゴズリング)が、自身の記憶に埋め込まれた子供の頃の断片的記憶を機縁にして、ラスベガスの旧い館に隠れているデッカードと精密なレプリカントだったレイチェルとの間に出来た、ひょっとして実の息子かも知れないと想い込む様になってゆくのだけど、遂には、あくまで権力を欺くためのデッカードや叛乱レプリカント達の手の込んだ攪乱策だったことかが明らかになる。こっちは、情緒たっぷりって風情じゃなく、Kの勘違いが独り歩きしてゆく様がもう一つしっくりこないまま展開してゆく。後半になって唐突に現れた叛乱レプリカントの存在が余りに宙ぶらりんなまま、Kのバッティと同様の寿命切れで静かに終焉してしまう態は、いかにも次作を匂わせる。
 ひょっとして、オリジナルの《 ブレード・ランナー 》世界が仮構された来る2019年に、続編が発表がされるのだろうか。

 それにしても、リドリー・スコット、《 エイリアン 》ともども、アンドロイドに随分と執着している。
 "技術の独り歩き"ってすぐれて今日的な命題とともに、人間的な、あまりに人間的なアンドロイドたちの人間の業にも似た転輪し続ける炎によって、逆に人間達の真相をあぶり出すって寸法なのだろう。
 

《 ブレード・ランナー 2049 》(2017年)
 制作 リドリー・スコット  監督 ドゥニ・ビルヌーブ (米国)


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2017年11月13日 (月)

転向論的ゆらぎ 岩佐作太郎=秋山清  

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 門司港レトロには中国・大連から移築した二十世紀初頭ロシアが建てた東清鉄道汽船会社事務所木造三階建のレプリカ《 日中国際友好図書館 》があって、中国や韓国の書籍や中国語の大判の辞典も揃い重宝していた。初期の頃は、東南アジアの小説も申し訳程度だけど並んでいたのが、数年前に殆ど放出してしまったようで、完全に東アジアに絞った正に“東アジア図書館”。
 幾年か前、二階の奥に、平凡社の“東洋文庫”がずらり並んだ。
 アジアの古資料としては申し分ないだろう。
 最近、その草色のハードカバーを手に取って確かめていると、ふと《 共同研究 転向 》とあった。ページをめくると、見覚えのある名前が出てきた。大正時代のテロリスト集団“ギロチン社”の中浜鉄の生家の隣村生まれ、同じ大正・昭和のアナーキスト詩人・秋山清だった。
 中浜鉄が門司・柄杓田の産で、その隣の同じく漁村・今津が秋山の郷里。
 それも遠戚同士ってことで、何度か面識もあったという。
 因みに、秋山の言だと、中浜の柄杓田より今津の方が明らかに貧しかったってことだった。( 詳細はこのブログの《秋山清『目の記憶』》、《大正テロリスト・ギロチン社》(2014年)を参照 )
 

 戦後、しばらく、戦前の権力・軍部の対外戦争の挙国一致的キャンペーンへの協力およびその思想的変節=“転向”を非難・批判する動きが様々な分野で行われたという。戦前=戦争とその軍国主義体制への反省から発したもののようで、その一つの成果として《共同研究 転向》(思想の科学)編集・鶴見俊輔 があった。てっきり所謂社会主義者たちの思想的・運動的変容を指すのかと思っていたら、自由主義者なんかのもっと広範囲な人々を対象にしていたのでちょっと驚いてしまった。

 軍部統制の全国的挙国一致モードの真っただ中、徴兵されてない人々って、生活の幅も極端に狭くなり、到底意思(おも)うようには活動できなくなって、それでも僅かに例えば映画なんかで成瀬巳喜男のいよいよ戦争も押し迫った1939年(昭和14年)の《はたらく一家》、《まごころ》で挙国一致的記号を羅列はするけど、同時に自分たちの秘教めいた記号を埋め込んだりの一筋縄ではいかない風に作られたものもあった。
 
 映画・文学なんかは、まだ、そんな記号論的な術の余地が残されてはいたろうが、岩佐のような国家権力に対してもっとも先鋭な批判的・敵対的な政治的な運動の象徴的な存在だと、そのもっと早期から、1935年頃にはもう、一般にはあまり知られてないようだけど、日本全国でアナーキスト達数百人が逮捕される“農村青年社事件”と呼ばれた事件があって、権力に完全にその動きを封殺されてしまっていたようだ。
 殆どでっちあげ逮捕らしく、昨今も戦前権力と同質な自民党権力が戦後一貫してその成立を策してきた全体主義体制の常套=治安維持法=“共同謀議”的フレームアップ法体制化にうつつを抜かしているようだ。もっとも、国家権力って、そんな法がなくったって如何様にもデッチあげは出来るし、戦後も一貫してフレームアップ事件を起こし続けてきている。もう、やりたい放題。それでも、ある種の手合い(エスタブリッシュメントとも謂うらしい)は、この国が民主主義国=法治国家だとしたり顔や涼しい顔して喧伝して廻っている。戦前にも腐るほど列島中に跋扈していた類だ。正にバーチャル・デモクラシー世界。


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 岩佐作太郎って、戦前、明治末頃から戦後もしばらく活躍していて、大杉栄と並び称されるもう一方のアナキストの代表的存在だったらしいけど、風雲児・大杉栄に比して実直な岩佐作太郎の情報ってホント僅少。
 若くして米国に渡り、社会主義活動に目覚め、渡米した幸徳秋水とも交流を持ち、16年近く滞在。1910年に勃発した幸徳秋水たちが逮捕され12人が死刑、5人が獄死した《大逆事件》に抗議し、《 日本天皇及び属僚諸卿に与う 》なる公開状を日本政府に送り付けたのでも有名で、帰国後も、中国に渡って中国人アナーキストたちと交流をもったり、戦後も《 日本アナキスト連盟 》の全国委員長を務め、1967年没。
 この《 国家論大綱 》の巻頭に、刊行者の山本勝之助の記した岩佐の略歴がある。
 

 「 明治十二年( 一八七九年 )九月廿五日千葉に生まる。中央大学の前身東京法学院に学び、卒業後、漢学者山井幹六先生の塾に遊ぶ。又故三浦梧楼氏の処に寄食す。その頃、故神鞭知常氏の紹介で故近衛篤麿氏に接近し支那問題に働きかけるべく画策した。後渡米し渡米中のアナーキストとしての活躍は、余りにも有名なものである。日本の某大事件に対するサンフランシスコに於ける反抗演説会の演説は世界に喧伝されたものである。又米国を騒がした所謂「革命事件」の立役者でもあった。帰朝後は大杉、堺、荒畑、山川諸氏と共に社会運動の輝ける巨星であった。後昭和の初め中華民国の元老蔡元培、李石曾氏等の招聘に応じて渡支し、上海労働大学の設立に参画し、そこで革命史を講ず。済南事件後帰国し郷里に引退し今日に及ぶ。」

( 注 ) 三浦梧楼=元長州・騎兵隊出身だけど、山形有朋等の藩閥政治に批判的で、谷干城たちと反主流派を形成した軍人政治家。朝鮮国特命全権公使時代に起きた閔妃暗殺事件に連座したとされ投獄されてもいたようだ。


 岩佐の《 国家論大綱 》( 昭和12年2月=1937年 )って、たかだか20ページ弱の小冊子で発行所は《 亜細亜政策研究所 》となっている。山本が中心というより音頭をとって作ったのだろう。巻末に《 国策批判会論集 》の近刊予告があって、そこに山本や岩佐の《 支那について( 断想 )》、そして藤岡淳吉や矢部周の論文タイトルと名も連なっている。調べてみると、藤岡は草創期の共産党のメンバーらしく出版関係に拠点を置いていたのが、この頃“ 偽装転向 ”し、東条英機と拮抗したといわれる石原莞爾の本なんかを出版したりしてたのが、戦後は再び共産党に戻って出版事業に専念した人物。
 もう一人の矢部は、大杉栄と同時代の社会主義者から国家社会主義に変転した高畠素之の弟子らしく、この顔ぶれから、当時のエスタブリッシュメント=東条体制に批判的な位置関係にあったのが窺われる。
 因みに、岩佐に接近し、《 国家論大綱 》を書かせたといわれる発行人の山本勝之助も、元アナーキストだったのが、石原莞爾に魅せられて右翼サイドに思想的変転した人物らしい。


 この岩佐の《 国家論大綱 》、それ以前の岩佐が“ アナーキスト ”の頃には社会と国家とを峻別し、あくまで国家(=権力)は社会に寄生する本質的に異なるもの、敵対するものしてときっぱり否定していたのが、まずは社会的動物・社会的人間として、人間世界における社会の優位性を説く。


 「 人は社会的動物なり、社会は人よりも先在者なり」

 「 人々相寄り、相扶(たす)け、共にその自由を享楽し、発展を図ることは、これ本然の性である。この社会性を、集団心理を基調として、国家は生成し、もしくは樹立されたものである。」
 
 「 世に国家なく、法律なくば人々相食み、相殺し、相損い合うが如くいうものあるは大なる誤である。」


 とし、国家には二種あって、自然生成的国家と人為工作的国家があり、自然生成的国家を世界で唯一無二、日本だけの独自的存在性として提示し、他の国々、とりわけ欧米先進国をその典型とする人為工作的国家を対峙させる。
 
 自然生成的国家とは、「 統治者と被統治者との関係が、人間の社会性の、集団心理の上に自然に生成発展したるものであって、かの父と子との関係が自然に生成し、例え天地が転倒し太陽が西から出ることあろうとも、父が子となり、子が父となるが如きなく、その関係が絶対的なものであるように、絶対的であって、天壌と無窮溢れることなき国家を言うのである。」

註]天壌無窮溢(あふ)れることなき=戦前の超国家主義者たちの定型句。天孫降臨の際の天照大神の勅。未来永劫、栄えつづけるの意味。岩佐も、一つの時代的趨勢・皇国史観的体裁を整えるためのラベルとして多用している。


 それに対して、人為工作的国家とは、「 統治者と被統治者の関係が、人為の工作に由って樹立されたもの、詳言すれば、征服とか、契約とか乃至は偽瞞等々に由って人間の社会性の、集団心理の上に樹立された国家である。」
 つまり、「 昨日の統治者必ずしも今の統治者でなく、昨日の被統治者必ずしも今の被統治者でない。」
 「 統治者と被統治者の関係が相対的なるが故に、強は弱を排し、賢は愚に、徳不徳に代る、これ実に、人為工作的国家の常道である。」 


 この日本だけを特殊化した“ 唯一無二 ”等をはじめ当時の趨勢=皇国史観的国粋主義的なラベルを貼りまくって構築した自然生成的国家は、あくまで当時の天皇制国家を実像としていて、統治者と被統治者との関係が「 絶対的なるが故に、賢不賢、徳不徳、強弱等に依って統治者の代わることはない。統治者は千古、万古依然として統治者であり、被統治者は千古、万古被統治者であって、統治者となり得ないことは疑義を挟むことを許さない。」
 
 「 被統治者固(もと)より忠順統治者に絶対的に服従して居るべきが故に、統治者にして賢明、有徳なるに於ては、その国は無上の進化発展を遂げ、人民は鼓腹撃壌みなその徳に浴し、自由を享受することあるべきも、苟も上に立つもの尽忠の心に欠き、頑迷不霊、暴虐無道なるに於ては、その害悪の及ぶところ、人為的国家の比ではなかるべく、実に寒心すべきものがあろう。」


註]鼓腹撃壌( こふくげきじょう )=中国故事。善政がしかれ、太平の世を人民が謳歌する様。

註]苟も=いやしくも。

註]尽忠( じんちゅう )=君主や国家に忠義を尽くす。  

註]頑迷不霊( がんめいふれい )=頑固で道理を悟ることのない無知。


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 「 かかる場合に於ては、人為的国家にあっては湯武あり、クロムエルあるべく、特に人民は革命を以って応ずることがあるであろう。
  然るに、自然生成的国家にあっては、統治者は絶対の存在なるが故に、かゝることは夢想だもされ得ないところであるからである。」


註]湯武( とうぶ )=湯武放伐ともいう。中国の伝説で、夏王朝最後の王=暴君・桀王を殷(いん)の湯王が倒し、殷の暴君・紂(ちゅう)王を周の武王が倒し次の王朝を建てた。有徳の王が天子の座を有徳の者に譲る禅譲と真逆。


 「苟も上に立つもの尽忠の心に欠き」は、統治者=天皇だけど、それじゃ差障りがあるって訳で、権力の代行者としての統治者にすり替えている。すぐ前の“忠順統治者”が“忠順”で切れていれば別だけど、“忠順統治者”と一つの単語に繋がっているならそれであり、もっと後の箇所でその代行権力者を“当路者”(=重要な地位にある者。)としても明示している。
 当時だと、東条達軍部権力だろう。このパンフレットの発行者・山本や実態があったのかどうか定かじゃない《 亜細亜政策研究所 》周辺って、東条達と拮抗していたらしい石原莞爾サイドってことで、正に“君側の奸”=東条一派に対する指弾・批判って構図。
 ( この国家論のパンフレットが発行された前年勃発した《 二・二六事件 》の際、石原は東京警備司令部参謀として反乱軍鎮圧の先頭に立ち、天皇ヒロヒトに昭和6年の石原と板垣が画策した《 満州事変 》もあって訝られながらも一応の評価はされたらしいが、翌当年、つまりこのパンフが出た頃は、倒れた広田内閣の後任に推された穏健派・宇垣陸軍大将の組閣を、あくまで軍部主導の政治を目して流産させることを画策して奔走している最中、私見するところ、所詮石原莞爾も東条等と一つ穴のムジナ。おそらく、岩佐自身も冷めた眼で同様に視ていたろう。)


 これが、岩佐のこの国家論の基本構造ともいうべき反語的レトリック。
 先ず国家より社会の優先性・優越性を宣言しておいて、以降、幾ら国家に関して美辞麗句・賞賛宣揚をしてみせても意味を持たせない基本構造。(後出する右翼的農本主義者・権藤成卿の相似なこの論理に対する右翼達による批判は少なくなかった。)
 自然生成的国家の統治者=天皇を、絶対的統治者・天皇≒代行権力者と曖昧化しておいて、堂々と統治者=天皇を、「 賢不賢、徳不徳」、「 頑迷不霊、暴虐無道、その害悪の及ぶところ、人為的国家の比ではなかるべく、実に寒心すべきもの 」であっても金輪際統治者であり続け、被統治者は永遠にその苛政・苛斂誅求に甘んじ従順に堪え続けなければならないのに較べて、欧米等の人為工作的国家は、抑圧された人民達は起ち上がり革命等によって苛政・圧政権力を打ち倒し自分達の新しい社会を樹立すると説く。
 実に簡明な対照的比較論法とでもいうのか、一見欧米諸国( 人為工作的国家 )を否定・批判しているようにみせかけながら、日本=自然生成的国家の方が根本的に破綻し自壊してゆく矛盾・自滅的契機を内に予め孕んだ構造。正に、人民解放の革命へのアジテーションを、堂々とやってのけていたってことだ。
 言葉にすると大げさだけど、実際は驚くくらいに簡単明瞭過ぎて、偽装性の意味があまりあるとは思えず、よくこんなものが出版を許されたもんだと感心してしまう。非主流派であってもまだ石原莞爾が有力であった時節と、そもそもが岩佐に話を持って行った当事者でもあるらしい発行者の山本の政治的手腕の故なんだろうか。


 以上、岩佐作太郎の《 国家論大綱 》の簡単な概要をみてきた。
 次に秋山清のこの《 国家論大綱 》に対する言及・批判に触れてみる。
 

 「 大正の労働運動にアナルコ・サンジカリズムの勢力がある程度伸長した歴史をもっているアナキズム運動の流れの上に、満州事変、日支事変と第二次世界大戦のプログラムが進むにつれて、いち早く、殊にその指導的部分に思想的転向を表明するものの相次いだ事実は、革命思想としてのアナキズムが所謂アナキズムの陣営のなかにおいてさえも、意外に薄弱化にしか浸透していなかったということを示しているもののようである。 この研究は、二、三の著名なアナキストの動向によって、その歴史的必然と人間的必然との重なり合いによって表面化された転向の、よってきたるところをたずねようとするものである。」(p302)

 
 著名なアナキストとは、この《 共同研究 転向 》のアナーキストの章でもう一人取り上げられた詩人の萩原恭二郎や、当時農本主義志向に一層傾いていた石川三四郎等のことだろうが、“革命思想としてのアナキズム”の薄弱的浸透、つまりアナーキズムの根本把握と血肉化の脆弱さ故の、歴史的・人間的な必然的産物との断定。
 萩原と石川は取りあえず置くとして、かつては大杉栄の労働運動社に参画すらしていたもう一方の旗頭の岩佐作太郎にピタリ《 転向者 》としての照準を合わせ、アナーキスト詩人・秋山はこう続ける。

 「 ここで特に注意すべきは、転向した岩佐の国家観および道徳観の集約的表現と見られる『 自然生成的国家』という思考の背後に存在するものが、日本の特殊性、という観点に貫かれていることである。日本を特殊な国家と見ることで天皇の存在を許容し、大陸への侵攻に批判をさし控えるという、これは共産主義者の転向にも用いられた一つのケースである。」( P307 )


 「 岩佐は、これを地理的に、また歴史的に、日本について合理的に説明しようと努力しているようであるが、《 国家論大綱 》のこの理念は、極めて容易に岩佐の内部に、可なりに彼の若い時代から発酵しているかに推量されるものである」( P307 )


 「 いいかえれば、明治三十年代から在米国時代の社会主義活動以来、岩佐の約四十年間( 太平洋戦争まで )の国家権力とのたたかいの活動の歴史のなかに、その底流が見出されるかもしれない」( P308 )


 「 従来の彼の理論の観念的傾向と、《 生成的国家 》の説とが極めて近距離、等質的なものであったためと考えられる 」


 「 『 日本の盛衰は統治者の行蔵の如何にかかわる 』というに至れば、これは民衆の力による下からの革命の拒否である。統治者を天皇と見、天皇以外の支配階級を君側の奸と見ることによって、アナキスト岩佐の、反権力反支配階級との闘争ははそのまま彼の内部に生きつづけるごとき錯覚となり、隣にゆくような気軽さで、アナキスト岩佐は日本国家の称揚者となったのである。」(p319)


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 一見、秋山のこの岩佐の《 国家論 》に対する批判って、岩佐がこの論を発表した戦前当時に、傍から、つまりアナーキスト陣営からの批判として、岩佐の見え見えの“ 偽装転向 ”を手助けするカモフラージュとして認められた一文かと錯覚してしまうぐらい。
 が、実際は、戦後十年以上過ぎての批判論で、秋山も、岩佐のこの《 国家論 》が巧く出来ているとは認めながらも、「 排外的なすなわち日本主義と呼ばれる右翼的思考と全く区別ない主張を展開した 」と、けんもホロロ。
 秋山の、この岩佐に対する硬直というより頑なさは一体何処からきたものなのか。
 それは、例えば秋山のこのくだり。


 「 岩佐のこのような思想的転回と相伴う現象として、後進のアナキストの多数がこの前後から、全く岩佐と同様の歩調をもって右翼的な国家主義の地点に続々と移行していった事実がある。・・・・・・もっとも尖鋭な無政府主義の思想団体と自ら号し、革命にたいして個人的な創造的暴力を絶対視して革命的なアナルコ・サンジカリズムをさえ、その労働者組織を、権力発生の萌芽なりとして暴力的に排撃した黒色青年連盟員らが、日本の戦時体制に順応して、後には戦火の灰燼の中に“ 必勝革新運動 ”を唱えたり、または明治神宮あるいは二重橋前に早暁の礼拝に憂身( うきみ )をやつすようなみすぼらしい顛落を生じていった原因には、岩佐の転向の与えた刺激が大きかったという責任があるだろう 」(p322)


 「 所謂純正無政府主義を称した人びと、一切の革命のための組織 ── 労働組合、農民組合、あるいはそれらの職業別組合、さらにまた思想文化の団体にまで、反革命としてのその結成に反対しようとした観念的な思想体系は、戦時体制の下では生活の方途にすら混迷せざるを得なかったのである。日常生活に民衆の労働と勤勉を持たなかった人びとは、自主自立を根底とするアナキズムを自己内部からさえ喪失し、喪失したことによって、支配権力の元締めである天皇と天皇制とに、独自の解釈を加えることで、これを容認し、近づこうとしたのである。」(p323)

 
 上記に共通する秋山の思いと感情、それは次の当時の秋山の現実状況の把握に端的に現れている。

 「 第一次世界大戦後の労働組合の発達と社会主義の活性化の中では大杉栄を中心とする《 労働運動社 》の活動が、思想運動、労働運動におけるアナキズムの中心であったが、大杉の事後、大正末期にはギロチン事件等のテロリズムの発生となって、とかく労組等の組織活動を軽視する傾向がつよくなり、アナルコ・サンジカリズムがわが国のアナキズム運動の中心勢力であるという事情は、急速に変化しはじめた。
 昭和になってからはさらに、石川三四郎らも穏健なサンジかリズム的思考を非難されて、黒色青年連盟( 黒連 )や全国労働組合自由連合( 自連 )などの指導的位置には自然と岩佐作太郎が据えられる形となった。この間アナキズムが、労働運動においても文化運動においても影響力を弱めていった・・・」

 秋山は戦前・戦後もいわゆる岩佐達の所謂“ 純正無政府主義 ”と角逐し対峙した“ アナルコ・サンジカリズム ”系のポジションにあり続けたらしく、増々時代が閉塞してゆく中で純正派が、急進的な青年的ヒロイズムと一蹴されかねない切羽詰まった将来的展望の欠如した直接的暴力主義に傾斜してゆく過程で、秋山達アナルコ・サンジカリズム派を誹り排斥したという秋山の裏切られ切り捨てられたようなトラウマと怒り=呪詛の念、正にこの一点に、秋山の純正派の象徴=岩佐作太郎に対する論難は成り立っているように思えてしまう。
 当方、当時の純正=アナルコ・サンジカリストの角逐・争闘の具体的詳細はつまびらかにしないけれど、秋山をして、そこまで執拗に糾弾させた要因・契機が、彼の批判の論の中には他に見出されない。
 

「 世に国家なく、法律なくば人々相食み、相殺し、相損い合うが如くいうものあるは大なる誤である。国家は人間の社会性の、集団心理の上に生成し、もしくは樹立されたものであって、その成員をして人間としての完成を遂げしむることが、その使命である。・・・・・・
 国家が、その使命を閑却し、もしくは私の法を作り、私の欲を逞うし、人民の自由を奪うに於ては、人間社会は、こゝに醜悪、悲惨、残虐な修羅の巷となるであろう。」(《 国家論大綱 》5p)


 先ず国家より社会の優先性・優越性を宣言しておいて、以降、幾ら国家に関して美辞麗句・賞賛宣揚をしてみせても意味を持たせない基本構造。最初にそれを提示してみせるという、しかし、そんな恥ずかしいくらいに見え見えの単純な偽装性であっても、ともかく一応は、山本勝之助の手腕の故なのか検閲の網の目を通過でき出版されたのだけど、今度は欧米型の《 人為工作的国家 》を貶め指弾するように見せかけながら、その実、我が国固有・絶対的なものとして持ち上げた《 自然生成的国家 》を、現実状況をも媒介として、逆照射し、《 自然生成的国家 》=天皇制国家・大日本帝国を根底的に否定し批判するという逆説的手法を臆面もなく延々と展開してゆく。
 繰り言になるが、当方から見ると、よくもあんな石原莞爾すら東条に排斥されてしまうご時世に、かかる鉄面皮な、こう言って良ければ、空前絶後なスケルトン的偽装転向の金字塔《 国家論大綱 》を世に出せたものだとホトホト感心してしまう。

            
 補足すれば、これは秋山も指摘していることだけど、明治・大正・昭和の時代を通じて、所謂“右翼”的サイドに身を置き、“社稷”(しゃしょく=大地に根差した自治的村落共同体)の概念を基準にした“農本主義”を唱え、“五・一五事件”にも影響を及ぼしたといわれる権藤成卿の論に同調・触発されてはいるだろう。
 権藤は、甘粕等陸軍の大杉栄殺害およびそれに対する右翼サイドの同調的言動にかなり不快感を示したり、軍部の言論弾圧に“ファッショ”の語句を使って批判したりの、必ずしも全体主義的超国家主義者じゃなく、例えば、プロシアを規範にした明治国家を次のように批判した。

「社稷を離れたる国は、必ず尊己卑他の国にして、其民衆は権力者の奴隷となる」
 
 そして、岩佐が《 国家論大綱 》で援用した理念が、

 「 土ありて而(しか)る後民人あり、民人ありて而る後君長あり」

 あくまで主役は“民人”なのであって、天皇や権力は、良いとこ、二次的存在に過ぎない。勿論、この論に当時の右翼サイドからも、この理念に異を唱え批判する者も少なくなかったという。ともあれ、権藤の自治的農本主義に、岩佐が必ずしも近代主義一辺倒じゃないアナーキズム的共感を覚えたのは確かだろうし、転向的偽装に好個の論理と意匠を得れたってとこだろう。

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