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2018年1月の1件の記事

2018年1月20日 (土)

七彩のアジア的幻視 ? 《 シャンバラの道 》 ニコライ・レーリッヒ

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 シャンバラ関係の定番とも謂うべきニコライ・レーリッヒの《 シャンバラの道 》(1996年)、眼を通してみると、シャンバラの探求書というより、1920年代( 大正後期~昭和初期 )のチベット=東洋文明に関するレーリッヒの著作を集めたアンソロジーってとこで、シャンバラに言及したのは一部。どころか、レーリッヒ、当時のチベット仏教の現状にかなり辛辣な言及をしていて、それはそれでリアルで興味深い。
 

 レーリッヒとその家族がチベット=アジアを旅したのは1920年代で、英国(インド)・ロシア・中国・米国・日本等の列強がそれぞれの己が利益と侵略的野望のためにチベットを篭絡し浸蝕し、ダライ・ラマ13世、パンチェン・ラマ ( タシ・ラマ ) 9世たちが遁走・奔走に明け暮れる正に混沌の坩堝。
 いやでも命がけの、否、何人もの犠牲者すら出しての過酷なチベット=シャンバラ探求行となってしまった。厳しい自然的環境の故というより、専ら当時のチベットに蔓延していた頽廃と政治的な無能・悪辣の故。
 実際にチベットに入ってレーリッヒが何よりも一番驚いたのが、チベット僧( =ラマ僧 )たちの無能と堕落だったようだ。

 
「 あるラマは雪雲を阻んで、雪を解かしてやろうと申し出た。この気象上の現象がごく手ごろな値段で手に入るという ── すべてひっくるめて二アメリカ・ドルだ。わたしたちはそれをのんだ。ラマは骨の笛を吹き、まじないの言葉を大声で叫んだ。が、彼はなかなかの商売人で、私たちにその二ドル分のご大層な領収書をよこした。私たちはまたとない好奇心でそれを取っておいた。雪は降りつづき、さらに寒さが厳しくなっていたが、それはどうでもよいことだった。このタントラ行者はくじけなかった。彼は自分の黒い天幕の上に紙の風車のようなものを取り付けて、ひと晩中、人間の骨でできたらっぱを吹き鳴らしていた・・・。」


 「 ダライ・ラマから特別な信任を得ているあるラマ僧の外交官は、私たちがある僧院に灯明の油代として一〇〇ナルサンを寄進したことを聞いて、にわかに怒り出した。彼は言った。『 いいですか、ここの僧侶はあなた方の金を自分で着服してしまい、けっして灯明に火をともすなんてことはしませんよ。聖像に明かりを供えたいのでしたら、この私から油をお買いなさい』」
 

 「 中央チベット、シェーカル地方で、数人のラマが近づいてくるが、そこで聞かれるのは祈りではなく、市場(バザール)を訪ねたことがある者にはおなじみのあの言葉だ。驚くなかれ、市場の乞食の『 バクシーシ(お恵みを)』という言葉をきわめてはっきりと聞き取ることができる。このラマの口から聞かれる『 バクシーシ』という言葉には、何ともがっかりさせられる。こういった大勢の役立たずやろくでなしは、いったいどこからやって来るのだろうか?」


 「 というわけで、すべての有害で無知な条件を排除したときに、チベットにおいてはより高い教えへの意識ある崇敬は、その多くが人里離れた場所で隠遁生活を送る、少数の人びとによってなされいることがわかる。チベット人たち自身が、仏陀の光明の教えは、チベットでは浄化される必要があると言っている。
 ・・・・・ダライ・ラマの命令が、ラマの城壁を越えても大いに価値があるのだと考えるなら、それは間違っている。私たちはこれ見よがしな、何もかもひっくるめた、ダライ・ラマの政府が発行した旅券を持っていたが、まさに私たちの目の前で、人びとは自分たちの支配者の命令を実行することを拒絶した。『 私たちはデワシュン(政府)のことは知らないのですよ』と長老は言った。そして各地のゾン(注:チベットの行政的宗教的及び軍事的拠点ともいうべき城砦 : シガツェのが有名らしいが最近再建されたもので、むしろブータンに本来の姿で残っているという)の官史たちは、自分たちが恥ずかしげもなく要求した袖の下がどれだけ気前よく払われたかに応じて、それぞれがその旅券の内容を勝手に解釈する方法を編み出しているにすぎない。」


 「 ・・・・・・チベット高地の部族ホル人は、自分たちをラサのチベット人といっしょにしないでほしいと私たちに頼んだものだった。アムド出身の人びとやカムに住む人たちは、つねに自分たちはラサの人間と違うのだと強調する。
 ・・・・・ラサ以外の、これらすべての人たちは、きわめてあからさまにラサの官史に対立したことを語る。シャンバラからの新たな支配者が、数えきれないほどの兵士を引き連れてやって来て、ラサを打ち破り、その城塞の内部に正義を確立するという予言を、彼らは引き合いに出す。これも同じ人々から聞かされたことだが、タンジェリンの僧院に端を発する予言によれば、現在のダライ・ラマは十三世にして最後の支配者と呼ばれているということだ。また、ほかのいくつかの僧院から流された予言では、真の教えはチベットを離れて、その発祥の地であるボーディガヤに再び戻るということだ。」


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 首都ラサはあたかも頽落した伏魔殿の様相すら呈していたかの如く。けれど、更にレーリッヒの癇に障ったのが、チベットに仏教以前からあった土着の宗教といわれていた《 ボン教 》であった。


 「 しかし、民衆のかなりの部分が、仏陀をまったく拒絶し、完全に独自な守護者と導き手を主張するボン・ポ、『 黒教 』に属していることを忘れてはならない。彼らは公然とすべての仏教徒たちを敵とみなし、ダライ・ラマを宗教的な力を持たないたんなる世俗の支配者としてしか認めていない。これらの人びとはきわめて強情であり、仏教徒もラマ教徒も自分たちの寺院に入ることを許さない。彼らの儀式では、あらゆるものが逆向きにされる。
 ・・・・・・彼らの間では、もっとも低いたぐいのシャーマン教、黒魔術などが実践されている。まるで中世にいるような錯覚に陥る。」


 当方も以前、ダライ・ラマと亡命政府の居地ダラムサラに滞在した折、ボン教徒を自認する学生に遭ったことがあった。他のチベット仏教徒の学生たちと一緒に、これからのチベットのありようを模索していた普通に明るい人見知りしないタイプの学生で、ボン教はチベット仏教と共存している口吻だったけど、後にも先にも当方が実際に接した唯一のボン教徒であった。
 レーリッヒが訪れた当時は、まだ、チベット文化一般、いわんやチベットの宗教の研究レベルなんて低く、時代的制約というべきレーリッヒのボン教観であって、ボン教自体は結構その始原は古く、古代中央アジアってことらしく、チベット仏教の最古二ンマ派とも互いに影響し合っていたともいい、幾年も滞在していた訳でもない所詮一外人旅行者に過ぎないレーリッヒたちが、アニミズム的所作の毒々しさに幻惑させられ、チベット僧=役人たちの低劣な行状に辟易し、あげくレーリッヒ一行は彼等のために幾人もの犠牲者すら出さされてしまっていたという状況故に、勢い厭わしいものに観えてしまったのだろう。そんな悪しきアニミズム的産物を一刀両断に一蹴し、創造的進化=シャンバラの御旗を高々と掲げてみせる。


 「 仏陀の誓約を守ることには高い責任が課せられる。迫りくる啓発されしマイトレーヤ( 弥勒菩薩 )の再来の予言のなかに、創造的進化に向けた足がかりを見ることができる。シャンバラの偉大な概念は、人に間断ない知識の蓄積を求め、啓発された労働、そして広範な理解力を求める。この気高い理解のどこに、最下位のシャーマニズムや呪物崇拝が入り込む余地があるだろうか? 」


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 シャンバラ自体に触れているのは、「 ラマよ、シャンバラについて教えてください!」から始まる表題作の第一章《 輝きを放つシャンバラ 》だけど、もはや流布したシャンバラを語る上での定番と化したエピソード・言説のオリジナルの出所がここなので、逆倒した表現をすれば、特に目新しさはない。
 

 「 私は高き魂が、すでに準備が整えられているならば、シャンバラへと呼び招く声である『 カリギヤ 』の叫びを聞くことを知っています。私たちはどのタシ・ラマ( パンチェン・ラマ =ダライ・ラマと並ぶチベット仏教指導者 : この時代に既に中国権力との係わりが強かったようだ )がシャンバラを訪れたのかを知っています。私たちは大僧正タイシャンの『 シャンバラへの赤き道』という本のことを知っています。・・・・・・」


 そのレーリッヒの問に、ラマはこう答える。


 「 大シャンバラは海を越えたはるか彼方にある。それは広大なる天上的な領域だ。私たちのいる地上とはまったくかかわっていない。何ゆえに、どうしてこの世の人びとがそれに興味を持たねばならないのか?・・・・・・」


 「 ラマ、私たちは偉大なるシャンバラのことを知っています。私たちはそれが実際には言葉にできない領域であることを知っています。が、私たちはまた実在する地上のシャンバラについても知っているのです。身分の高いラマがシャンバラに行った話や、その途中では、まさしくこの世の風景を目にしたという話も聞いています。
 ・・・・・それどころか、私たち自身が、シャンバラの三つの前哨地のひとつである白い国境哨所を見たのです。ですから、どうか私に天なるシャンバラについてだけでなく、地上のそれについてもお聞かせください。」
 
 更に、

 「 ラマよ、いまだに地上のシャンバラが、旅人たちによって発見されないでいるのはどうしてなんでしょうか ? 地図の上にはすでに多くの探検家の足跡がしるされています。すべての高みはすでに征服されて、すべての渓谷や川は踏査されてしまったように思われます。」


 「 まことに、地中には多くの黄金があり、山々には多くのダイヤモンドやルビーがあり、あらゆる者がそれらを喉から手が出るほど欲しがっている ! じつに多くの人びとが、それらを見つけようとしている !
 ・・・・・・多くの者たちが、呼ばれてもいないのに、シャンバラに至達しようとした。彼らのうちの多くが永遠にこの世から消えてしまった。ごくわずかな者だけが、神聖な土地に到着したが、それはほかならぬ彼らにカルマの用意ができていたからだ 」


 「 法を侮ってはいけない ! 熱烈な労働のなかで、シャンバラの使者があなたのもとを訪れるのを待つがよい。彼が絶えざる達成のただ中に現れるのを。力強い声が『 カリギヤ ! 』と叫ぶのを待つことだ。そのときは安全に、このすばらしい事柄のなかへと入ってゆけるだろう。むなしい好奇心は誠実な学習へと、高き原理を日々の生活に適用してゆくことへと変容されなければならない」


 「 カーラチャクラに明らかにされているものとは何か ? そこには禁忌というものがあるのだろうか ? いいや、高雅な教えは建設的なことしか示さない。そういったものなのだ。この高き力がすべての人類に差し出されている。元素の自然力を人類のために使う方法が、きわめて科学的に説き明かされている。『 最短の道はシャンバラにある、カーラチャクラにある』と言われているが、それは勝ち取られるものが達成不可能な理想なのではなく、誠実で勤勉な努力によって、ここで、このまさに地上で、このまさに生において達成されうるものであることを意味している。これがシャンバラの教えだ。まことに、だれもがそれを達成しうる。まことに、だれもが『 カリギヤ ! 』の叫びを耳にすることができる。」


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 もはや、現ダライ・ラマ14世ですら、シャンバラってこの世に実在するものではなく、あくまで方便と公言する時代であってみれば、残るのは我が内なるシャンバラ探求あるいは嘗てのもはや失われた理想郷跡の考古学的探求ってところだろうか。そもそも、このレーリッヒもそうだけど既存のシャンバラ志向って、基本賢人政治。その本質はファッシズム=全体主義。そんなものは御免こうむりたいものだ。
 むしろいっそ樹立されるべき人類的理想郷として探求・建設してゆくものとしてのシャンバラ、それこそが今日的な在りようではなかろうか。 
 かつて尊師・麻原彰晃率いる《 オーム真理教 》もシャンバラに言及していたけれど、如何なる現実的力学によってか、インドからチベットに仏教をもたらしたといわれる蓮華生パドマ・サンバヴァの“ ボア ”の概念やミラレパ的カルマを援用したような所謂《 ハルマゲドン 》( 世界最終戦争 )の果てに幻視した彼らの王国とは、果たして、七彩に輝くものだったろうか。

共にダライ・ラマ十三世( 現在のは十四世 )と係りがあったらしい同時代人の同じロシア(アルメニア)出身の神秘主義的思想家グルジエフとは、神秘主義的思想活動の他に、グルジエフが舞踏・作曲、レーリッヒが絵画・音楽舞台美術に特異性を発揮してて、随分と肌合いが違う。只、レーリッヒの方が、ノーベル平和賞候補に挙げられたり、ソ連からロシアに変転する頃活躍した大統領ゴルバチョフにも高く評価されたりの紛う方ないエスタブリッシュメント的存在だったのは意外。でも、考えてみれば、既に1913年、ニジンスキーが振付けをしたストラビンスキーの《 春の祭典 》のパリ初演の際、舞台美術を任されるほどの著名人だったのだから、別に不思議なことではないだろう。 


 学研版の田中真知の《 理想郷シャンバラ 》(1984年)のリファレンス的ポジションは、尚も不動のままってところのようだけど、30年以上も過ぎているのに中々これを越える《 シャンバラ 》論の決定版って出てこないってのも残念。そもそも学研の、ジュニア世代を対象とした“ ムー・シリーズ ”の一冊なんだから、いくら田中真知がかっちり作った労作であったしても、こうも越えるものが出現しないってのも情けない情況には違いない。


 《 シャンバラの道 》ニコライ・レーリッヒ
           訳 : 澤西康史 ( 中央アート出版 )1996年

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