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2018年2月10日 (土)

ジャワ少女的動乱史 《 諦め 》

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 例によって、図書館の払い下げ書籍の一冊、《 インドネシア短編小説集 》(1983年)の中に面白い作品を見つけた。
 プラムディア・アナンタ・トゥル《 諦め 》(1950年6月)という、日本軍がジャワに侵攻してきた頃から、独立、内戦、オランダの再占領と果てしない戦乱・内乱に否応なく巻き込まれてゆく少女スリとその姉妹を中心にした物語。
 最初、日本軍のフレーズが目に入ったので、インドネシアにおける日本軍って、現地の人達から視たらどんなのだろうとページを繰り始めたのだけど、読んでみると、古さをまったく感じさせない読み応えのあるスリリングな激動史的翻弄流転譚だった。


 大東亜戦争・太平洋戦争において旧日本軍は、石油の確保のため、《対英米戦争》開戦後二週間ほど過った1941年12月20日に、先ず在留邦人保護の名目でオランダ統治下のインドネシアのダバオに上陸、翌1942年1月11日にタラカンとメナドに上陸し本格的に《 蘭印作戦 》(H作戦)を展開、3月1日には最終目標地といわれたジャワ(島)に上陸。
 この小説の舞台となった中央ジャワ県の中心地ブロラは、現在でも人口五万人の小都市だけど、沿岸と内陸を結ぶ交通の要衝らしく、侵攻してきた日本軍も押し寄せて来たようだ。


 「 日本は、地理学さえ忘れていた町も見逃さなかった。・・・
 私は、いまでもよく憶えている。
 あの時日本軍は、完全武装の兵士を乗せたトラック二台でやって来た。その後に、死体を鮨詰めにしたトラックが四台続いた。死体の上には幌が掛けてあった。幌をきっちりかけすぎたせいか、死体は痙攣した口を天に向って喘がせていた。しかし、そんなことはどうでもいい。大事なのは、日本軍が来たことだ。役人たちは、臆病風に吹かれた鶏のように為すすべを知らなかった。悪人と善人とに充ちた、貧しく小さな町は、大騒動だった。」

 
 この“ 悪人と善人とに充ちた、貧しく小さな町”ってさり気ないフレーズが好い。やがてこの小さな町=ブロラを襲う運命を暗示するフレーズでもある。


 「 侵攻後の一週間、略奪がまかり行われた。町は、近郷近在からの人びとで溢れた。自分たちの土地で暴威をふるったオランダの最期を見届けようと押しかけたのだ。
 ・・・・・・
 しかし、それも束の間、その政治の空白を軍政が埋めた。全ゆる貼紙に日の丸が描かれ、刑罰による威嚇がどうにか二十四時間治安を維持するようになった。
 ・・・・・・
 自由経済における流通の中核たる商店には、略奪されつくして、もはや商品は何も残っていなかった。商業活動は全く停止してしまっていた。しばらくして略奪品が市場に溢れたが、三週間もすると、もうそれも底をついた。小さな町は、陸に投げ出された魚のようにじたばたするだけで、日用品の流通は途絶えたままだった。
 物心両面の混乱が続けざまに起こり、人々は、一人また一人、悲しみと空腹で死んでいった。
 スリの母親が亡くなったのもそんな時だった。」

 
 「 スリはまだ小さかった。少し泣いただけだった。すぐ泣き止んだ。家計の苦しさなど、彼女にはまだ分からなかった。それが一九四二年五月、彼女が私立小学校の五年生になったばかりの時だった。
 日本は、オランダの遺習や民族主義傾向のある私立学校を無くそうと真剣だった。」


 「 大日本帝国陸軍の上陸は、若者たちに活気を与えた。彼らは、日本人に瞠目した。日本人は、アジア大陸においても、アジアの島々においても、白人帝国の威望を瓦解させたのだ。・・・・・・
 あれこれの即成教育が始まった。まず日本語の即成教育だった。若者たちは大和魂に触れたいと願った。」


 スリの父親も、日本軍が上陸して来る以前から、支配者オランダ憎しのせいもあってか、日本語を学んでいた日本贔屓(びいき)というより心酔者で、上陸してからは、日本軍=独立のために家庭を顧みることもなく東奔西走の毎日。
 母親が亡くなったためにすスりが一人で、妹ディアと三人の弟フスニ、フトモ、カリアディの面倒を見ざるをえず、あと二ヶ月を残したまま小学校を辞めなくてはならなくなってしまった。けれど、何とか自分も姉のようにちゃんと卒業資格をとって外で働きたいスリは、再三、二つ年上のイスにあと二ヶ月だけ働くのやめて家で兄弟の面倒を見てくれまいかと掛け合うのだけれども、巌として受け付けてくれず、とうとう諦めてしまう。
 姉のイスはタイピストとして働き家計を助けていたものの、出稼ぎに出て行ったまま音信不通の上二人の兄達は、知らない内に日本軍とともにビルマ戦線で戦っていて、ある日突然二人の戦死の報が舞い込む。( 実際に戦死したのは長男のスラディだけで、次男のスチプトは戦後だいぶ過ってからの独立戦争の真っ只中に、よりによってオランダ軍の軍服姿で現れ、それが災いして近所の連中に家を焼かれてしまう。)
 兄二人の戦死の報が届いてからというもの、父親はすっかり落胆し、口数も減り、日本軍政府の支援活動から次第に遠のいていった。


 「 時代も世界も、日本と日本軍とを甘やかしてばかりはおかなかった。栄えるものの常で、日本も日本軍もやがて凋落した。
 ・・・・・・
 変化が始まった。
 ・・・・・
 あちらこちらでも、礼拝所では、新しい国家の平安を祈る礼拝が行われた。
 ・・・・・・
 人びとは導師( 注・イスラム教の )の言葉を鵜呑みにした。
 スリの一家も、大日本帝国の占領による長い闇をぬけて、独立によって息を吹き返した。小都市の私たちの町では、どの家族も希望に輝いた。大体のところインドネシア人は希望が有りさえすれば、それだけで幸福になる。
 ・・・・・・ 
 きらびやかな独立だった。まるで昔物語にある勇者の凱旋だった。その独立も、時がたつにつれて、何時しか苦しい茨の道に変わった。気づいた時には、植民地の方が良かったのか、独立した方が良かったのか、判らないな状態だった。イデオロギーを持った人間と、利権漁りの亡者だけが、勢よく跳ねまわって、口角泡を飛ばしていた。」


 失意の底にあった父親も、さっそく国民委員会の委員となって、再び精力的に活動し始めた。
 通りには、銃こそ少なかったものの山刀や包丁ですら持ち出し武装した青年たちが闊歩し始め、姉のイスもインドネシア社会主義青年同盟に参加し、新生社会のれっきとした一員として活動を開始した。
 スリも既に十八才になり、妹のディアも中学生になっていた。
 そんな折、別の風が東から吹き出した。


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 「 あれは、既に何時間も前に太陽が地平線に沈んでいた時間だった。ふだんはたくさんの兵士が徘徊している道路も静まり返っていた。人々は、まだその変化に気づいていなかった。
 ・・・・・・
 『 赤が来るぞ ? 』
 市場のざわめきが一瞬静かになった。
 『 赤が来たぞ ? 』もう一度叫び声が聞こえた。
 何人かがその叫びを繰り返した。市場のざわめきは完全に死に絶えた。
 静寂だった。
 ・・・・・・
 人々がそれぞれの安全な場所に身を隠す前に、赤軍は私たちの小さな町を占領した。一時間たち、二時間たち、三時間が過ぎた。辺りはひっそりしたままだった。そして世があけた。」


 赤軍がブロラの町を占領して一週間目に、頭に巻いた赤い布をなびかせてイスが馬にまたがってが帰って来た。すっかり、“自覚した”赤軍戦士然として。
 次にはイスが所属しているらしい騎馬伝令隊のイスと同年齢ぐらいの美人の隊長を伴って。その隊長に入隊を求められ、妹のディアが自分が犠牲になろうとして行く事を決意したのをスリは押し止め自身が入隊した。


 「・・・『 お父さんを連れて行ったのは、赤軍警察よ。』と、ディアは、息を荒げて言った。『 それに、お姉ちゃんは、』と、イスを指差して続けた。『 お姉ちゃんは、病気のお父さんを連れて行った赤の手助けをしているのよ。今度は、妹を赤に売った。お姉ちゃんは、自分と妹を売ったのよ。』」


 暫くして情勢はまた変転した。
 今度は、元の植民地支配の再開を目論んだオランダ軍が再上陸してきたのだ。ブロラにも忽ちにオランダ軍が攻め込んで来た。


 「 赤軍の侵攻と、オランダ軍の侵攻とは、少しやり方が違っていた。赤軍の時には、一発の銃声も聞こえなかったが、オランダ軍の場合は、焼土作戦で、砲声が小さな町を包んだ。日本軍の時と、全く同じだった。」


 そんな最中、ボロボロの衣服をまとっていても一目で赤軍の敗残兵と分かってしまう痩せ細った風体の女が、よろよろと現れた。スリだった。シリワギ軍に追われ、乗っていた馬が撃たれ、崖から転落して片腕を骨折していた。イスは全滅したスマラン近郊に本隊とともに向かっていたらしい。兄弟皆が喜びと安堵の涙を流したのも束の間、今度は、とっくに戦死していたはずの次男スチプトが両の眼を赤く充血させオランダ王国軍の軍服姿で戸を叩いた。しかも、これ見よがしに、表に自動車まで停めたまま。
 案の定、自動車は焼かれ、スリたちの家にも火が放たれた。彼女たちの一番恐れた事態。スチプトは慌てて外に出、再び戻ることがなかった。燃え盛る炎に、さすがに兄弟たちも逃げ出し、畑の藪に駆け込んだ。一層夜闇に真っ赤な炎をあげて、スリたちの家が燃え上がってゆくのをいつまでも眺めつづけるのだった。


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 状況も設定もまったく違うのだけど、直(ひた)向きなスリを見ていると、ベトナム戦争の真っ只中で親や姉妹を米軍や南ベトナム政府軍に散々な目にあわされ殺害され、その恨みを晴らさんがため、少年少女たちで組織された拳銃と爆弾を隠し持ってのテロリストの途へ直走っていったベトナム娘クイ(《 ツバメ飛ぶ 》1989年)を想い出してしまう。
 日本軍が持ち込んだ“隣組”のせいばかりじゃあるまいが、中国の文化大革命期を彷彿とさせる悉皆敵といわんばかりの喰うか喰われるかの疑心暗鬼・監視密告の閉塞的極限状況の連綿って、何ともアジアは、否、当時の言葉を借りるなら、“第三世界”は何処も自由と解放への契機を孕むものであったとしても同じ悲惨な時代状況にあったのだな、と改めて思い至らせられてしまった。


 作者のアナンタ・トゥル( 2006年没 )、ネットで調べてみると、嘗てノーベル文学賞候補にもなったインドネシアじゃ高名な作家であり、且つベスト・セラー作家でもあったらしい。
 オランダ支配に抗する運動に連座し2年ほど投獄され、この短編が執筆された15年後の1965年に起きた《9・30事件》( CIAも関与していたらしい )でも逮捕、スハルト政権に政治犯としてブル島に10年以上も幽閉され、その後も10年以上自宅軟禁状態に置かれていたという。
 2000年、福岡アジア文化賞を受賞した際にもスハルト政権が出国を許さず、ジャカルタでインタビュー( 朝日新聞 )をしたという。


 三十二年間のスハルト政権とは何だったのか。

 “ ヒトラーと同じファシズム体制だった。ヒトラーに対しては全欧州が抵抗したが、スハルトには、だれも抵抗しなかった。同時代を生きた知識人があまりにも無力だった。西側諸国もスハルト支援に回った。”


一九六五年の九・三〇事件がスハルト政権を生み出した。事件後の共産党弾圧では、五十万人が殺されたともいわれる。

 ”初代のスカルノ大統領は「反植民地主義、反資本主義、反帝国主義」だった。九・三〇事件は、そのスカルノ政権を倒すために利用された。共産党によるクーデター未遂事件とされ、共産主義者は「人殺し」とののしられた。だが、殺されたのは共産党員だった。”

《 インドネシア短編小説集 》監訳 : 佐々木重次( 井村文化事業社 )1983年

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