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2018年3月の4件の記事

2018年3月31日 (土)

排外主義的残穢

Harumafuji
 

 昨年末から驚くほどに、散々マスコミ総動員して、戦前もかくの如くだったかと瞠目させた排外主義的キャンペーンたる所謂[ 日馬富士暴行事件 ]、最近になって些か風向きが変わって来たかのような様相を呈しているけど、この手の挙国一致的キャンペーンって、国民の脳裏に刷り込みをし、感性化させれば、目的は十分に果たせたいう代物。
 

 そもそもが貴乃花部屋自体が“札付き”「暴力部屋」でしかなかったようで、それが埒が明かないと原告の元・貴乃花部屋力士に見切られたのか相撲協会への訴訟問題にまで発展し、且つ貴乃花とつるんでいたといういかがわしい顧問までもが協会に訴えられ、窮鼠猫を噛む的な、元横綱の品位もプライドも糞喰らえとばかりのさもしい手段、否むしろ手口というべきか、に走ったに過ぎない。それが、貴乃花の背後にいる黒幕と時の権力サイドの都合と一致したのだろう。相撲バカの貴乃花が一人で、あれだけの用意周到な計画的組織的な一連の行動なんてやれようもないし、思い至りようもなかったろう。

 実際のところ、八角理事長=相撲協会が、貴乃花部屋内部での貴ノ岩の常習的暴力(他部屋のモンゴル力士に対する暴力行為も含まれる)事件とでさっさと貴乃花と貴ノ岩に処分を下していれば、白鵬も日馬富士も貴ノ岩に忠告や叱咤なんてする理由もなくなっていたのだろうから、そもそもが、[ 日馬富士暴行事件 ]なんて起きなかった事件というのが本当のところだろう。
 つまり、本当の被害者は、誰でもない、貴ノ岩の将来をおもんばかった日馬富士だったという訳だ。
 現役の、それも事件の直前場所で、身体の負傷を押して一人横綱として頑張り優勝し相撲人気を保ってくれた横綱を、愚弄し罵り追放までしたのだから、貴乃花・貴ノ岩は、さっさと相撲界から、自ら去るのが筋だろう。
 日馬富士に対して一体いかなる謝罪を、協会と、この国はするつもりなんだろう。

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2018年3月21日 (水)

春三月、木陰にひっそり佇む権藤成卿墓

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 先だって、ハリマオ=谷豊の墓ならぬ、彼の名もその一部として刻まれた戦没者の碑が彼の博多・南区の生家近くにあるってことで、南区に向かう西鉄・天神大牟田線に乗ろうと始発駅たる天神駅に赴いた際、天神大牟田線の行先駅の名がづらり連なって明記されたボードを、皆目見当もつかないエリアであることもあってしげしげと眺めていると、意外と近い位置に「久留米」の名があり、思わず目を疑ってしまった。
 てっきりかなりな遠方と決めつけていたからだけど、駅数から、その上、急行・特急まであるので、結構すんなりいけそうで、うまくいけば三十分ぐらいで行けるかも知れないと胸算用。
 何よりも、久留米といえば、かの岩佐作太郎に[ 国家論大綱 ]執筆の論理的根拠を与えた農本主義思想家・権藤成卿の生地。
 全く未踏のエリアだったのもあって、一度足を延ばしてみようと思い立っての今回の久留米行。


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 ( 左側の肌色の建物がバスターミナル )


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 ( 奥の駅と連結したバス・ターミナル )


 天神駅から久留米まで運賃は520円。
 ところが、驚いたことに、この西鉄・天神大牟田線って、各駅以外の急行・特急とも各駅と同じ料金なのだ。つまり、同一料金で各駅・急行・特急に乗れるってことで、つまり客の用途に応じて選べるのだ。勿論、特急の電車両もいかにも特急って仕様。
 当然、最近博多のベッド・タウン化しつつあるらしい人口30万の久留米には、特急で直行。
 平日だったにもかかわらず、行きも帰りも、乗客が多い。
 30分以上かけ着いた西鉄・久留米駅は、駅ビルにつながっていて、一階西側にはバスターミナルがある。見ると、普通の路線バスに「佐賀」の文字があって、佐賀にも近接した町なのが分かった。長崎に行く折、外縁を通過したことがあるだけで、佐賀も未知のエリア。
 駅の表側には岩田屋という本拠が博多にあるデパートなんかが立ち並んでいて、それなりに都市的景観を呈しているものの、バスターミナルのある側に、時代に取り残されたような旧い褪せた建物が佇んでいたのが印象的。


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 ( 筑後街道沿いの旧民家。同じ左側沿に旧い建物が点々と佇んでいた。時間の関係で傍で観察はできなかったのが残念。)


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 ( 右奥に[ JR久留米大学前 ]の駅舎が覗けている。大学町らしい看板のかかったこの民家も旧い。)
 
 
 [ 信愛女学院 ]行のバスに乗り、メインストリートらしい文化センター通り( 筑後街道 )を走って、[ 千本杉 ]で降りる。
 筑後街道から右側に伸びた県道(800号線)に入ってすぐの踏切を渡って最初の路地を右折し、真っすぐ行くと、民家の奥の突き当りに石垣の上に佇むコンクリートりの御堂らしきものが望めた。
 果たして、そこが目的地、権藤成卿が眠る上隈山墓地だった。
 実際は、ネットを捜しても曖昧模糊としてはっきり明示されてなくて、最初は[ 千本杉 ]で降りてからそのまま筑後街道をまっすぐ進行方向にしばらく歩いて行って、右側に如何にもそれらしく、隠れるように薄暗く佇んだ[ 味水(うまみず)御井神社 ]の境内に紛れ込んでしまった。奥に急で細い階段を上ってゆくとそのままJ久大線の線路に跨った陸橋になっていて、[ 久留米大学前 ]駅の脇に出れる。
 
 
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 ( 色とりどりの梅花咲きほころぶ季節、この民家、写ってない部分にも庭いっぱいに同じくらい梅花が咲き乱れていた。細路の右向うに件の墓地が見える。)


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 ( 空家然とした民家の珍しいベンガラ色の褪せたトタンと白塗り土塀が時代を感じさせる。以前は板塀だったのを上にトタンを張ったのだろう。よく旧い農家で茅葺き屋根をトタンで覆ったりするのと同じ。)


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 ( 周辺には新旧の民家が混在していて、この屋は旧農家のスタイル。)


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 新・旧の民家が立ち並ぶ狭い一角の向こうに、石垣の上にコンクリ造りの納骨堂らしき堂宇と墓標が薄曇りの空の下静かに端座していた。かつてこの辺り一帯、隈( くま )山と呼ばれる丘陵は、墓石立ち並ぶ広大な墓地だったという。地元でも代々続いたそれも独特に異彩を放つ旧家だったらしい権藤成卿一族の墓地も、久留米大学の学部移転建設のため、当時50基ぐらいあったのを15基位いに整理して移し現在の姿に至ったとのこと。
 実際来てみると、権藤家の墓って、この墓地の後側の狭い一角だけで、他は別家の墓のようだった。
 整然と並べられた墓石群は、それでも、他に人影もない静寂に包まれ、長年の暑熱と雨風に晒され苔むしてびっしり刻まれた文字も判別し辛いのが一層情緒を醸し出し、ふっと時間からすべり落ちた消息的異界って趣きだろうか。
 一族の墓所といえば、以前小倉の、巌流島の決戦の場が望める宮本武蔵と佐々木小次郎の碑がある手向山の麓の薄暗い一角に、ひっそりと佇んだ武蔵の養子・宮本伊織の一族の墓所を思い出す。伊織は、剣術指南というより、名家老として高名だったらしいのもあってか、藩主にそれなりの配慮を払われていたのだろう。


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 ( おそらくこのコンクリ納骨堂に、以前あった墓石の遺骨等が収められているのだろう。)


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 ( 丘陵ゆえの傾斜地に建てられているのが分かる。錆びた鉄柵の背後に久留米大学の敷地が広がり、細路の奥には、静かに権藤家の墓所が佇んでいる。)


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 ( 奥の植え込みの陰に覗ける権藤成卿の墓標。)


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 ( 権藤家墓所の入口。門柱には、「 宕陽之郷学 」「 志在明漸化 」とある。成卿の祖先・栄政(江戸時代後期)が近辺にある愛宕山に因んで宕山(とうざん)と号した由。)


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 ( 奥の三基の真ん中が、戦国時代後、この地に移り住んできた(府中)権藤氏の初代・権藤種茂の墓。
 手前右の墓は、天明二年(一七八二)生まれの権藤直( 延陵 )。花岡青洲の春林軒で麻酔術を、長崎でオランダ医学を学んだりして当時名医として誉れ高かったようだ。平戸藩主から藩医に請われたのを辞退し、地元府中にもどっても藩医に請われたのも辞退し、府中の地で開業し、地元民で盛況をきたしたという。また、地元青年を相手に、学問や医術の塾も開いたりし、『救飢論』、『防疫論』なんて著書もあるという。)


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 ( 木陰にひっそりと佇む権藤成卿の墓。)

 
 門から入ってすぐ正面奥の植込みの陰に、隠れるようにひっそりと権藤成卿の墓石が覗けていた。
 木影でうっかりすると見逃してしまいかねない。
 「 成卿先生墓 」と記されている。
 家族というより、弟子や後援者が立てた趣き。
 代々医術・医学あるいは学問の師匠・教授を生業としてきた家系だからか、他のもっと旧い先祖の墓石にも同様の「先生墓」が見られる。

 権藤氏は鎌倉・室町からの豪族・武将の家柄だったのが、関ヶ原の戦で豊臣側についてしまい、父・種盛と兄たちを黒田官兵衛(如水)に殺害され若干18歳だった権藤伊右衛門種茂が、久留米・府中の地に逃げ延び、武士を捨て、医術の途に進んでから代々の医家として名声を馳せてきたようだ。
 明治初年生まれの権藤成卿は、しかし、名医だったらしい父親の士強(松門)が、明治になって漢方が廃され西洋医術が基準となって、代々守って来た医家の看板を放棄し、阿志岐(現・山川村本村)の松門寺跡に起居し、農園をつくり農学的探求にいそしむ様になっていて、もう一方の国学的方途へ進み、宕山秘蔵の南淵請安が記したといわれる[ 南淵書 ]を典拠に、農本主義的世界の構築に邁進したということらしい。 
 成卿の著作は未読で詳らかにしないけど、岩佐が援用した「自然而治」なんか、老子にも通じるものがあって、その東洋的理想社会思想は、戦前、農本主義的な志向をもった人々に、左右を問わず影響を与えたという。
 
 
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 ( 栄政(宕山)の長子、権藤種栄の墓。 )


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2018年3月10日 (土)

眼下の海峡的騒擾を見続けてきた 厳島神社(伊崎) [ 下 ]

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 ここの厳島、鈴ヶ森稲荷の両神社、一通り見て廻って気づいたのは、荒廃とまではいかないものの、些か朽ちた観は否めない。もう一つの新地の長門國厳島神社の方は数百の騎兵隊員の墓標が整列し祀られているのからして如何にもオフィシャル的格式って趣きなのに較べて、この伊崎厳島神社の方はこじんまりとしている。そもそもが、地元漁師町・伊崎の人々の、機縁は源平合戦の時の平家船からの遺物ってこらしいけど、「航海安全」祈願などが主眼なのだろうから、村の鎮守的存在ってところだろうか。
 神社の拝殿の屋根瓦こそまだ葺き替えて間がないのか黒々として艶やかだけど、朱塗装の剥落は昨今のトロピカル的焦熱故ってこともあろうが蔽うべくもなく、境内のあっちこっちに破損・倒壊したまま放置された石柱や石灯篭が転がっていて、中には相当年月も過っているのか土を被って久しいものもある。
 アベノミクス的凋落と言ってしまえば簡単だけど、列島中年々の漁獲量の減少と高齢化で、地元の氏子たちのそれを支える財政的物理的力量も減衰してゆくばかり。かつかつの維持が精いっぱいってとろなんだろう。
 ふと、以前直接眼にして驚いた瓦解と遺棄の完膚なきまでの廃墟と化してしまっていた小倉・頂吉の高倉神社や門司・田野浦の春日神社の惨状を思い出した。ここの神社も、いづれ下界の伊崎の漁師町の活性的崩落によって同じ運命を辿らないとも限らないという一抹の危惧を覚えてしまった。 

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 ( 腐食して倒壊した鳥居もそのままの、人一人がやっと通れる幅の恐らく旧い祠堂。ブログの写真見ると、この鳥居まだ立っていたので、倒壊したのは比較的最近のことのようだ・・・)


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 昼尚仄暗いを絵にかいたような鈴ヶ森稲荷神社の奥。
 如何にも的な怪しげな雰囲気に満ちていて気に入ってしまった。
 尤も、逢魔ヶ時以降は一人居座ろうなんて気は毛頭なく、さっさと退散するに限る。
 いくら本拠地=阿弥陀寺から離れているとはいえ、何しろ[ 耳なし芳一 ]はじめ、平家怨霊の跋扈するエリアでもあるのだから。

 右の小さな祠堂は、[ 稲荷大明神 ]とある。
 その奥の神社の裏口とおぼしき境界に佇む緑蔦繁茂した廃屋と仏像三体。
 戦前昭和の年号が刻印されていた。
 右端の火焔の燃え立っているのが航海安全の[ 波切不動明王 ]。

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 廃屋の横を通る鎮守の森ならぬ裏山に続く裏参道。
 裏山といっても神社自体がその丘の頂上近くに位置しているので、すぐ枯れた草原と雑木林に竹藪の意外と開けた頂きに至る。何か独特の雰囲気の場所で、そこを越え、反対側に行くと、今度は関門海峡から響灘につづく小瀬戸の海に面した伊崎の海岸奥に下る道になる。右手向うに、彦島に向かう高架の彦島大橋が覗けている。
 この神社の一角は廃墟や空家と覚しき旧い建物が多く、全体沈んだ佇まい。
 それだけに、そんなうらぶれたというより、静かな境界世界めいたのが好きな御人には興味深いスポットかも知れない。

 そこで興味深い因縁を紹介すると、この伊崎厳島神社って、戦後間もない1950年に火災に遭って延焼したらしいのだけど、それから42年後、1992年に今度はもう一つの長門國厳島神社の方が、浮浪者の放火によって燃え落ちていたという。
 つけ火といえば、すぐにJR下関駅の放火炎上が思い浮かぶ。
 それが、ちょうど、その長門國厳島神社の燃えた年から14年後の2006年。
 つまり、皆「7」年の倍数(間隔)。
 そして、その「7」年にこじつければ、これは火災とは少し離れてしまうけど、下関の事件として一番有名になったのが、1999年の下関駅無差別殺人事件。
 正に世紀末ミレニアム的因縁の年。
 そして、もう少しこじつければ、2013年周南市金峰で起きた所謂「山口連続殺人放火事件」もあった。
 ラッキーナンバーのはずが、アベノミクス本拠地じゃ、凶数となってしまったって訳だけど、高杉晋作たちが命をかけた維新革命も、戦後半世紀自民党支配およびアベノミクスですっかり息の根を止められてしまって、新地の地下で眠る晋作も浮かばれず、あるいは悲惨な末路を辿ることとなった奇兵隊員たちが怨霊となって警鐘を鳴らしてでもいるのだろうか。
 ついそんな仄暗い想念に捉われてしまう2018年の伊崎・厳島神社の初春であった。  
 


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2018年3月 3日 (土)

眼下の海峡的騒擾を見続けてきた 厳島神社(伊崎) [ 上 ]

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 かつて高杉晋作が長州=幕府の所謂[ 四境戦争 ]の際、下関の厳島神社に戦勝祈願に赴いた由の記事があったのをふと思い出し、二月下旬の、ほんのちょっぴり春の気配が感じられるようになってきたある日、別に何の祈願があるわけでもない専らの好奇心で訪れることにした。
 ここは、下関駅からも近いってこともあって簡単に行けるのだけど、駅前から山陰方面に向かう幹線道路沿いの
両側に早速すっかり燻(く)すみ淀んだ空ビルや廃墟と覚しき建物が続いていて、幕末の晋作の頃には、日本中の大店の支店が軒を連ね繁華を極めていたはずが、アベノミクスの本拠地にもかかわらず専らなる凋落の一途って趣きには来る毎にむしろ白日夢的境界感に陥ってしまう。


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 大通りから一歩奥に踏み入るともうそこは民家とかつての商店の蝟集した一角で、その仄暗い廃残的気配がどんよりと色濃く漂っている。細路・路地裏は普通に無人で稀に老いた人影がも一つ覚束ない足取りでゆっくりと通り過ぎてゆくばかり。晋作所縁(ゆかり)のスポットも隠れていたりするそんな狭い路地の向こう上方に、ふっと件(くだん)の厳島神社の朱塗りが覗け見える。と、ある路地の角に、[ 鈴ヶ森稲荷神社 ]の表示。鈴ヶ森・・・あの刑場で名高い鈴ヶ森? けど、あれは関東の方だったはず・・・それにあれって神社だった? その路地奥から狭い石段がずっと厳島神社と同じ方角に伸びていて、・・・訝しい想念を燻らせながら好奇心に駆られ、崖に沿った狭い石段をトボトボ登ってゆくと、本来の参道に出、朽ちた民家と樹枝のしなだれかかる石垣に挟まれた薄暗い参道の途中から朱色の鳥居の列が続いていた。


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 寄進者の名を刻んだ石欄干も長年の雨風に、とりわけこの十年来の列島トロピカル化の強い陽射しに侵食され継ぎはぎしたものも少なくない。さすがに明治以前のものはないようだ。ふと、何処かで覚えのある字面に眼が止まった。暫し記憶を手繰ってみる。
 「籠寅」・・・かごとら。
 ひょっとして戦前、明治・大正・昭和と勇名をはせたらしいあの地元下関の侠客?
 果たして、同じ石の隣面に、本名がちゃんと刻まれてあった。地元の企業家でもあり衆議院議員でもあった大親分で、お決まりの芸能興行なんかも手広くやっていたようだ。それぞれの顔での寄進という訳か。
 も一つ驚いたのは、「馬場遊廓」の刻印。
 対岸の門司港の遊廓で、遠く平安時代までさかのぼるといわれる格式ある稲荷町遊廓や維新以降隆盛となった新地遊廓等、[ 花魁道中 ]とも合わせて遊廓の本場の観のある下関の神社の欄干に名を刻むとは、他にも門司の地名の冠された商店らしき名があっちこっち散見されているのも鑑みると、「商売繁盛」のご利益で知れ渡っていたのだろうか。

 

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 斜面に面した石段を渡り了えると、眼下に手前の漁師町・伊崎から下関駅方面のびっしり連なった街並みが俯瞰でき、その林立するビルの向こうに関門海峡が覗け、その当時(源平)はまだなかったらしいこの神社の高台から、視界を遮えぎる建物とてない海峡で繰り広げられた、源平の戦や欧米四国軍との長州戦争、晋作たちの活躍した長州=小倉・幕府の戦、そして遥か上空から雨あられと落とされてくる米爆撃機の焼夷弾や機雷の異様な軌跡と炸裂の様を、人々は、一体どんな思持ちで眺めてきたのだろう。

 小倉藩=幕府軍との晋作ら長州軍との戦は、長崎から軍艦ユニオン号=乙丑丸(いっちゅうまる)に乗って届けに来た坂本龍馬や海援隊も参戦し、ちょうどこの丘の真ん前辺りで、龍馬の乗った乙丑丸が幕軍軍艦や門司(小倉藩=幕府軍)沿岸に大砲で猛攻撃をしかけていたようで、そんな戦況が手に取るように確かめられたろう。
 この境内、登って来た崖沿いの参道の前にあるのが鈴ヶ森稲荷神社で、奥の、つまり下から真っすぐ伸びた正面の石段が正門で、その突き当り正面に鎮座しているのが厳島神社であった。
 鈴ヶ森神社は末社とあって、あくまでメインは厳島神社らしいけど、どうひいき目に観ても、隣り合わせた末社のはずの鈴ヶ森稲荷に比べて建物が簡素。祠堂にほんのちょっぴり神社らしい粉飾をほどこし朱塗りしただけの観が強い。

 境内に由緒記があるのだが、晋作の一文字もなく、両神社とも専ら源平合戦起縁ばかり。
 実は、この下関には、歩いて幾らもかからない晋作に縁の深い新地界隈に、もう一つ、厳島神社があって、晋作が必勝祈願したのはどうもそっちの方らしい。吉田松陰・晋作はじめ奇兵隊数百人の墓柱まで奥の院に祀られているというのだから先ず間違いない。よく見てみると、こっちは「伊崎」厳島神社となっていて、新地の方は「長門國」厳島神社という。まぎらわしいけど、海峡を渡った門司・小倉のかつての小倉藩の所謂企救半島にも、天疫神社がそれこそあっちこっちに建っている。とんだ勘違いだったという訳だ。
 

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 ( 右の手前を向いている方が鈴ヶ森稲荷神社で左の横向きが厳島神社。その前に正面の石鳥居があって、下方の海岸に面した漁師町・伊崎へ急勾配の石段がまっすぐ伸びている。)

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