春三月、木陰にひっそり佇む権藤成卿墓
先だって、ハリマオ=谷豊の墓ならぬ、彼の名もその一部として刻まれた戦没者の碑が彼の博多・南区の生家近くにあるってことで、南区に向かう西鉄・天神大牟田線に乗ろうと始発駅たる天神駅に赴いた際、天神大牟田線の行先駅の名がづらり連なって明記されたボードを、皆目見当もつかないエリアであることもあってしげしげと眺めていると、意外と近い位置に「久留米」の名があり、思わず目を疑ってしまった。
てっきりかなりな遠方と決めつけていたからだけど、駅数から、その上、急行・特急まであるので、結構すんなりいけそうで、うまくいけば三十分ぐらいで行けるかも知れないと胸算用。
何よりも、久留米といえば、かの岩佐作太郎に[ 国家論大綱 ]執筆の論理的根拠を与えた農本主義思想家・権藤成卿の生地。
全く未踏のエリアだったのもあって、一度足を延ばしてみようと思い立っての今回の久留米行。
( 左側の肌色の建物がバスターミナル )
( 奥の駅と連結したバス・ターミナル )
天神駅から久留米まで運賃は520円。
ところが、驚いたことに、この西鉄・天神大牟田線って、各駅以外の急行・特急とも各駅と同じ料金なのだ。つまり、同一料金で各駅・急行・特急に乗れるってことで、つまり客の用途に応じて選べるのだ。勿論、特急の電車両もいかにも特急って仕様。
当然、最近博多のベッド・タウン化しつつあるらしい人口30万の久留米には、特急で直行。
平日だったにもかかわらず、行きも帰りも、乗客が多い。
30分以上かけ着いた西鉄・久留米駅は、駅ビルにつながっていて、一階西側にはバスターミナルがある。見ると、普通の路線バスに「佐賀」の文字があって、佐賀にも近接した町なのが分かった。長崎に行く折、外縁を通過したことがあるだけで、佐賀も未知のエリア。
駅の表側には岩田屋という本拠が博多にあるデパートなんかが立ち並んでいて、それなりに都市的景観を呈しているものの、バスターミナルのある側に、時代に取り残されたような旧い褪せた建物が佇んでいたのが印象的。
( 筑後街道沿いの旧民家。同じ左側沿に旧い建物が点々と佇んでいた。時間の関係で傍で観察はできなかったのが残念。)
( 右奥に[ JR久留米大学前 ]の駅舎が覗けている。大学町らしい看板のかかったこの民家も旧い。)
[ 信愛女学院 ]行のバスに乗り、メインストリートらしい文化センター通り( 筑後街道 )を走って、[ 千本杉 ]で降りる。
筑後街道から右側に伸びた県道(800号線)に入ってすぐの踏切を渡って最初の路地を右折し、真っすぐ行くと、民家の奥の突き当りに石垣の上に佇むコンクリートりの御堂らしきものが望めた。
果たして、そこが目的地、権藤成卿が眠る上隈山墓地だった。
実際は、ネットを捜しても曖昧模糊としてはっきり明示されてなくて、最初は[ 千本杉 ]で降りてからそのまま筑後街道をまっすぐ進行方向にしばらく歩いて行って、右側に如何にもそれらしく、隠れるように薄暗く佇んだ[ 味水(うまみず)御井神社 ]の境内に紛れ込んでしまった。奥に急で細い階段を上ってゆくとそのままJR久大線の線路に跨った陸橋になっていて、[ 久留米大学前 ]駅の脇に出れる。

( 色とりどりの梅花咲きほころぶ季節、この民家、写ってない部分にも庭いっぱいに同じくらい梅花が咲き乱れていた。細路の右向うに件の墓地が見える。)
( 空家然とした民家の珍しいベンガラ色の褪せたトタンと白塗り土塀が時代を感じさせる。以前は板塀だったのを上にトタンを張ったのだろう。よく旧い農家で茅葺き屋根をトタンで覆ったりするのと同じ。)
( 周辺には新旧の民家が混在していて、この屋は旧農家のスタイル。)
新・旧の民家が立ち並ぶ狭い一角の向こうに、石垣の上にコンクリ造りの納骨堂らしき堂宇と墓標が薄曇りの空の下静かに端座していた。かつてこの辺り一帯、隈( くま )山と呼ばれる丘陵は、墓石立ち並ぶ広大な墓地だったという。地元でも代々続いたそれも独特に異彩を放つ旧家だったらしい権藤成卿一族の墓地も、久留米大学の学部移転建設のため、当時50基ぐらいあったのを15基位いに整理して移し現在の姿に至ったとのこと。
実際来てみると、権藤家の墓って、この墓地の後側の狭い一角だけで、他は別家の墓のようだった。
整然と並べられた墓石群は、それでも、他に人影もない静寂に包まれ、長年の暑熱と雨風に晒され苔むしてびっしり刻まれた文字も判別し辛いのが一層情緒を醸し出し、ふっと時間からすべり落ちた消息的異界って趣きだろうか。
一族の墓所といえば、以前小倉の、巌流島の決戦の場が望める宮本武蔵と佐々木小次郎の碑がある手向山の麓の薄暗い一角に、ひっそりと佇んだ武蔵の養子・宮本伊織の一族の墓所を思い出す。伊織は、剣術指南というより、名家老として高名だったらしいのもあってか、藩主にそれなりの配慮を払われていたのだろう。
( おそらくこのコンクリ納骨堂に、以前あった墓石の遺骨等が収められているのだろう。)
( 丘陵ゆえの傾斜地に建てられているのが分かる。錆びた鉄柵の背後に久留米大学の敷地が広がり、細路の奥には、静かに権藤家の墓所が佇んでいる。)
( 奥の植え込みの陰に覗ける権藤成卿の墓標。)
( 権藤家墓所の入口。門柱には、「 宕陽之郷学 」「 志在明漸化 」とある。成卿の祖先・栄政(江戸時代後期)が近辺にある愛宕山に因んで宕山(とうざん)と号した由。)
( 奥の三基の真ん中が、戦国時代後、この地に移り住んできた(府中)権藤氏の初代・権藤種茂の墓。
手前右の墓は、天明二年(一七八二)生まれの権藤直( 延陵 )。花岡青洲の春林軒で麻酔術を、長崎でオランダ医学を学んだりして当時名医として誉れ高かったようだ。平戸藩主から藩医に請われたのを辞退し、地元府中にもどっても藩医に請われたのも辞退し、府中の地で開業し、地元民で盛況をきたしたという。また、地元青年を相手に、学問や医術の塾も開いたりし、『救飢論』、『防疫論』なんて著書もあるという。)
( 木陰にひっそりと佇む権藤成卿の墓。)
門から入ってすぐ正面奥の植込みの陰に、隠れるようにひっそりと権藤成卿の墓石が覗けていた。
木影でうっかりすると見逃してしまいかねない。
「 成卿先生墓 」と記されている。
家族というより、弟子や後援者が立てた趣き。
代々医術・医学あるいは学問の師匠・教授を生業としてきた家系だからか、他のもっと旧い先祖の墓石にも同様の「先生墓」が見られる。
権藤氏は鎌倉・室町からの豪族・武将の家柄だったのが、関ヶ原の戦で豊臣側についてしまい、父・種盛と兄たちを黒田官兵衛(如水)に殺害され若干18歳だった権藤伊右衛門種茂が、久留米・府中の地に逃げ延び、武士を捨て、医術の途に進んでから代々の医家として名声を馳せてきたようだ。
明治初年生まれの権藤成卿は、しかし、名医だったらしい父親の士強(松門)が、明治になって漢方が廃され西洋医術が基準となって、代々守って来た医家の看板を放棄し、阿志岐(現・山川村本村)の松門寺跡に起居し、農園をつくり農学的探求にいそしむ様になっていて、もう一方の国学的方途へ進み、宕山秘蔵の南淵請安が記したといわれる[ 南淵書 ]を典拠に、農本主義的世界の構築に邁進したということらしい。
成卿の著作は未読で詳らかにしないけど、岩佐が援用した「自然而治」なんか、老子にも通じるものがあって、その東洋的理想社会思想は、戦前、農本主義的な志向をもった人々に、左右を問わず影響を与えたという。

( 栄政(宕山)の長子、権藤種栄の墓。 )
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