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2018年4月の3件の記事

2018年4月25日 (水)

青桐の陰の白壁の暗い家  黒石的生地

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 ( カトリック教会、その名も八幡町教会。かつては歌舞伎館・八幡座が建っていた。) 


 銅座河の細工場から、鳳雲泰と彼の跡をつけていった牛島秀夫が、寺町を抜け、中川に差し掛かる手前に、「水車場の並木、聖堂」のコースと重なるかどうかはともかく、作者の黒石の生地といわれている《 八幡神社=宮地嶽神社 》がある。
 
 
 「 支那海の波が長崎港へ押し寄せて来る、英彦山がまともに見えるだろう、山麓の蛍茶屋から三つ目の橋際に芝居小屋があるだろう、その隣が八幡宮だ。鳥居をくぐると青桐の陰に白壁の暗い家がある。今でも無論あるはずだ。そこでお袋は俺を生んで直ぐ死んだ。」       『 人間開業 』大泉黒石全集 1 (緑書房)
 

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 ( かつて黒石が生まれたといわれる宮地嶽神社=八幡神社。奥の鳥居が明治に立てられた有田焼製の鳥居。)


 
 路面電車の《 諏訪神社前 》と《 新大工町 》の真ん中あたりから南下し、中川を越えて百メートルぐらいの民家の密集した一角にその神社はあった。
 時節柄、この近辺の中川沿いにはずらり桜が咲き乱れ春の微風に桜花舞い、雰囲気は十分に盛り上がって、いざ黒石の生誕の地の神社の前に立ってみると、果たして、ネットで予め知っていた有田焼製の《 宮地嶽神社 》の鳥居の向こう、人影もまったくない境内の奥に拝殿が一つ真昼の陽光に白々と照らし出されているばかりの、すっかり白日夢世界。
 煤けた感じの拝殿の背後も車が停まっていて、普通あるべきはずの本殿の姿も見えない。何のことはない、最初何か変と思ったのは、道路に面した二つの鳥居と奥の拝殿以外、つまり境内がそまののコンクリート床の駐車場になっていたからだった。駐車場の只中に、ぽつんと、鳥居と拝殿だけが立っている妙な空間のせいであった。
 入口の二つの鳥居は前後しているが共に明治の刻印があり、拝殿両サイドに控えた狛犬は安政の産。


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 ( 前の通りを右に行くと、かつての八幡座、現・カトリック教会の前を通って中川に出る。)


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 ( 鳥居のすぐ隣には奥行の無い民家が連なっていて、確かに時代を経るにしたがってどんどん敷地・境内を浸蝕されてきたような神社ってよく見かけるけど、ここの場合、黒石が生まれた明治の頃に既に現在と同じくらいに間口が狭かったのだろうか。)

 確かに、青桐こそ影も形もなかったけど、石鳥居のすぐ片側隣に、もう民家の、それも玄関が迫っていて、黒石の生まれ育った家もそこら辺だったのだろう。
 神社の中に民家があるってのは余り聞かず、一体如何なるなりゆきで境内に民家が建つ成行きになったのだろうと怪訝に思っていたら、何のことはない、間近かに隣接していたのだった。あるいは、当時は神社の敷地内ってことだったのかも知れない。
 その民家の北側、つまり川側の隣が、現在こそカトリック系教会の敷地になってるが、昭和初期まで《 八幡座 》という芝居小屋が建っていたらしく、移動の余地はない。
 ひょっとして今は駐車場になっている方に建っていた可能性も捨てきれない。それだと青桐の立っていられる空間も確保されるのだけど、すると殆ど間口が鳥居分しかないいよいよ狭苦しい神社ってことになってしまう。ここも、明治維新の際の廃仏毀釈で、仏教寺院が廃されて八幡神社が残った由。だとすると、本来はもっと広かったはず。明治維新政府権力の仏閣を廃してまでの天皇=神道至上化政策も、それほど現実で゛は効力もなく、通りのふとした狭間の鳥居分だけの小祠堂並みに凋落してしまったという訳か。
 ともかく、当時は如何なる状況にあったか不明なので、所詮推測・推論の域を出ない。


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 拝殿の石段に坐ってペット茶をちびりちびり飲みながら気づいたのは、拝殿の側の床は、コンクリートじゃなく石畳になっていることだった。コンクリの所は、以前は土剥き出しの地面か玉砂利だったのだろう。経営上の問題でか駐車場にする際にコンクリで覆ったのか。これもアベノミクス的産物って訳だろうか。
 それにしても、真昼の陽光に照らし出された《 宮地嶽神社 》とその周辺世界の、静謐とまではいかないけれど、静けさは、キリコの絵以上にシュールなものにちがいない。
 

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 ( 一見普通の神社の拝殿然とした裏に廻ってみれば、本来あるべき本殿が消え、コンクリの駐車場的回廊って趣きに、かなり厳しい経済事情の諸々が妙にミニマニズム的に随分とすっきりした景観を呈させているってのが分かってきそう。

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 ( 拝殿前の石段から望んだ景観。鳥居が随分と端っこに追いやられて感が強い。それが神社の面前で覚えた違和感だったのだろう。)

 けれど、黒石が生まれた頃はもっと喧騒に満ちバイタリティーに溢れていた界隈だったはず。
 と云うのも、黒石の生まれた家があったらしいこの八幡宮のすぐ隣が、現在こそカトリック系の教会の敷地になってすっかり長崎情緒然としているものの、黒石の頃は、彼が単に芝居小屋とだけ記している建物があった。それが実は長崎で一番古い文政11年(1828)創立の歌舞伎興行館で、終戦直後火災で消失するまで建っていたという。当然それに応じた店々も、周辺に立ち並んでたろうから、結構賑やかだったことは想像できる。
 長崎関係のブログを見ると、「 長崎で起きた史実を元に歌舞伎の題目となったものも多い。」( 長崎Webマガジン「ナガジン」)とあって、戦前、市川猿之助が《 長崎土産唐人話 》なんかを上演したという。
 そんな雰囲気の只中で黒石も子供の頃から育ち、ちょこちょこ観劇すらしていた可能性もあって、彼の作品の異国情緒性も、そんなところから培われていたのかも知れない。


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2018年4月18日 (水)

旅先の現地本

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 海外を旅していると、ついその国の文化、とりわけ音楽出版物なんかについ惹かれてしまう。
 最初の頃だとカセット・テープがまだ大陸や東南アジアで余命を保っていた頃で、それでも中国・最南部の雲南省の小さな町、たとえば大理なんかの間口の狭い小さなカセット屋の店先にも段ボールに放り込まれた音楽CDや愛国戦争物VCD(低画質のビデオCD)等が売られ、感心したものだった。タイのバンコクで、VCD専門プレーヤーを見つけたのもその少し後だったか。DVDは、まだ、ワンランク上の高嶺ってあつかいだった。
 例によって、バンコクのお手軽ソフトの殿堂MBKマーブンクロンでも、オリジナル・カセット・テープからCD、ゲームCDまでコピーし売りまくっていた。時折、あの二百万本売れたといわれるボー(スニター・リティックル)のデビューアルバムも、二回店舗を変えて買ってみても音の全く出ないブランクを渡されるようなこともあったけど。


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 けれど、印刷出版物も、やはり、異国情緒そのままなので、文字が分からぬままでも、つい、どんなものか手にしてしまう。そんな中でも、バンコクはアジア旅の基点として頻繁に行き来し、本屋や書籍コーナーに通う回数も多かった。タイ文字が珍しくて、とりわけ詩の本(大抵は薄い冊子型。サイズは色々小さなものも多かった。)は、挿絵なんかが入っていたりして視覚的に興味を惹いた。
 またタイは元々映画量産国の一つでもあって、映画コンプレックスもあっちこっちにあり、TTゲストハウスに常備の英語新聞[ バンコク・ポスト ]でチェックしたりしてサイアム周辺の映画コンプレックスに日本より三カ月~半年早い封切りの洋画やタイ映画を観に通った。
 タイは隣国カンボジアと同様、今でも霊媒師や霊能者たちが活躍している土俗的オカルティズムの跋扈する社会で、ホラー映画が断然人気があったようだ。そんなホラー・オカルト映画にも、時代の要請で、新しい波がおこり、その金字塔的作品が、ノンシィー・ニミブット監督のタイの伝説的ホラーの映画化[ ナン・ナ―ク ](1999年)だった。空前のヒットだったらしいが、同様に二年後の十六世紀アユタヤを舞台にした宮廷王権争奪物語たるチャートリー・チャルーム監督[ スリヨタイ ](2001年)も大ヒット。この[ スリヨタイ ]のDVD持ってるけど、劇場じゃ三時間だったのが、DVDセットじゃ、三枚組で五時間という長時間物で観終わるのに一苦労。
 
 そんな映画関係の出版物も増えて来たのか、[ ナン・ナ―ク ]や[ スリヨタイ ]なんてビッグ・ヒット作に関する気の利いた出版物も店頭に並ぶようになって、[ ナン・ナ―ク ]はモノクロだけど[ スリヨタイ ]は国策映画でもあるからかカラー写真口絵が豊富。でも、映画自体[ ナン・ナ―ク ]の方が気に入ってるのもあるが、作り的にも二百ページもある[ ナン・ナ―ク ]の方がやる気まんまん、映画全体の流れを項目立てて懇切丁寧に作ってて好感が持てる。両方とも定価は130バーツ前後。
 

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 1992年に三十才で亡くなったタイのルークトゥンの歌姫プンプアン・ドゥアンチャンに関する本。
 [ 去っていったドゥアンチャン ]185バーツ。B5版より一回り小さなサイズだけど三百ページ以上あって読み応えありそう。タイ語辞典片手じゃちょっとしんどそうなので未だ手付かず。
 ルークトゥンって余り聴かないけど、プンプアンは嫌いじゃない。


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 どこで買ったのか、「上海戸籍出版社」とあるので、恐らく上海の福州路のその店で買ったのだろう。
 この辺りは確か古書店が並んでいた記憶があるけど、現在はどうだろう。最初の頃は、地方から出稼ぎやって来た小姐たちが大して広くもない店の中に何人も居て、昼飯なんかそこら辺に座り込み、ホーロー製の丼や大コップに盛ったぶっかけ風を箸でかき込んでいたのが印象的だったけど、時代が経過するにつれて、小奇麗な店員然としてきてそんな"人民"風味的服務員なんかすっかり姿を消してしまった。
 昔の印刷物のままの写植印刷・・・まさか板版画で刷ったものじゃあるまい。組活字じゃ難し過ぎよう。
 [ 老子 ]上下巻が原文のまま(?)で、勿論解説文などなく、本文のみ。1.6元は安いのかむしろ高いのか。
 道可道非常道名可名非常名・・・


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 イランの首都テヘランの本屋で見つけた冊子型の書籍で、いかにも中国趣味的異国情緒感を醸し出した表紙が好い。

 老舎[ 茶館 ]1957年

 中華民国成立前後の長い時代的変遷を見続け又翻弄されてきた北京の老舗茶館の物語。
 戯曲として発表された時から文化大革命の終息するまで、中国国内ではさまざまな難題難儀をこうむってきた典型的作品。老舎自身も文革中に、紅衛兵たちに殺害されたとか、入水自殺したとか死因も定かならぬまま死亡。開高健の[ 玉、散る ]でも有名。
 イラン=ペルシャと中国とは、随分と古くから往来し因縁浅からぬ関係にあるのだろうから、互いにどんな意識と感情を持っているのか興味あるところだ。
 漢字茶館の下にペルシャ文字で「チャーイ・ハーネ」、つまりチャイ屋=茶館と認めてある。
 巻末には、中国の演劇舞台での[ 茶館 ]のモノクロ写真が八ページにも渡って掲示してある。ホメイニーのイスラム革命の初期においては社会主義的要素も強かったらしく、イスラム原理主義体制の中でも問題なく書店の棚に並べられていたのだろう。
 当方も、まさかイスラム原理主義の総本山イランのテヘランで老舎の作品が並べられているとは思いもしかったけど、他にフランスの小説家・思想家のカミュの作品もあった。大きなカミュの顔写真が表紙を飾っていた。
 その割には、音楽の方は中々厳しかったようだ。
 日本の喜太郎のカセット・テープは、器楽演奏だけだからかあっちこっちで見かけた。
 イラン映画が世界でそれなりにヒットし、インターネットで簡単に海外の音楽・ニュースが見られるようになった昨今、イラン国内音楽事情は少しは変わったのだろうか。


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2018年4月 8日 (日)

長崎パノラマ綺談 大泉黒石《 血と霊 》のカルマ的痕跡を巡って ( 2 )

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 昨年末以来二度目の長崎行、平日にもかかわらず路面電車も、《 長崎駅前 》の狭いホームこそ、そこそこ空いていたものの、乗車するとさっそく満員になってしまった。折からの観光的時節ってことだろう。アジア系の観光客も多い。
 帰りしななんか、ホームで待ち客の間にふと美形の娘が眼に留まって、つい視遣っていると、同じ数人のグループだろう三、四十代の女性が何か話しかけていた。典型的な、タイ人( あるいはラオス )だった。件の美形娘、何処かで覚えのある独特のひっつめ黒髪をポニーテールにした瓜実貌だと思ってたら、タイで頻く見かけた風貌だった。疲労の中の一陣の春の爽風ってところか。


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 早速、長崎電鉄路面電車《 正覚寺下 》行に乗り込む。
 満員だった電車内も、下車した《 思案橋 》頃にはそこそこ空いていて押し合いへし合いすることもなく降りれた。今回、四回ほど乗り降りしたけど、最後になって、別路線に乗り換える際は、下車時に運賃の120円を運転手に払って“乗り換え”を伝えると、小さな乗り換え用のチケットを無料で呉れるってことを知った。( JR長崎駅の観光案内所で一日券を売ってはいるけれど。)


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 宝石商・鳳雲泰殺しの嫌疑で逮捕された弟子・牛島秀夫が、万才町の石垣上にある裁判所の獄屋に面会に訪れた画家・杉貞子に、鳳雲泰の夜な夜なの殺人行と数奇な運命を訥々と語り始めるのだけど、銅座河に面した細工場から、「 銅座河に沿って寺町に向 」う経路に、この思案橋が位置している。
 嘗ては、銅座河が流れ、その上に架かった思案橋だったのが、被爆以降に暗渠化されて現在の姿になったらしい。銅座市場やハモニカ横丁なんかも銅座河の暗渠の上に建てられていて、比較的最近になって長崎の観光エリアの暗渠化された地域を再び元の河川に戻す政策が施行され、やがてその銅座市場やハモニカ横丁も無くなってしまう由。その思案橋から、こっち側と真逆の北側に進むと寺院の並んだ寺町に至る。


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 ( ハモニカ横丁。両サイドの商店街の裏側。裏口と営っているのかないのか定かでない構えの店もあって、狭いながらも雑然としている。終戦直後的どさくさ風味の残滓ってやつだろうが、平成末になってもまだしぶとく残っているのが一味。)

 《 思案橋 》から篭町に面した周辺一帯は、いわゆる“歓楽街”の様相を呈し、東側にちょっと足を延ばすともうそこは、嘗ての日本三大遊廓の一つとも謳われた丸山 ( 遊廓街 ) がひっそりと横たわっている。
 目的地のシーボルト邸跡に向かう前に、前回も訪れた電車から降りてすぐの本石灰 ( しっくい) 町から、カステラの《 福砂屋 》本店の横を通り、船大工町の細い通りの先の大徳寺下の小路、そしてくねった大楠が覆いかかった石段を登って、老舗焼餅屋《 菊水 》の佇む楠稲荷神社に至る。
 案の定、大楠の周りの桜が満開に咲きほころんでいた。
 それを確かめたかったのだ。
 若き黒石もその桜を眺めたろうか?
 その日は、《 菊水 》には客の姿はなく、仄暗い店先にも老婦一人。
 当然、買ってはみたが、何しろ、思案橋を出てすぐ脇にある思案橋横丁の有名らしい中華屋《 天天有 》でチャンポンを食べてしまっていたので、さすがに普通の饅頭より一回り大きな焼餅は食指が動かず帰路バスの中で食べることにした。


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 ( 二枚とも中川の支流・清滝川。上の写真の方が若干上流で、シーボルト通りの下に百メートルばかり暗渠化された出口辺り。 )


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 「 ・・・内々非常な注意を払ってゐ(=い)た私は、細工場の部屋を忍び出て主人の跡をつけました。ところが案の定です。鳳雲泰の足は、── 銅座河に沿ふて寺町に向ひました。寺町から水車場の並木 ── 聖堂から中川へ ── そこまで来ると、シイボルト博士の邸跡も間ぢかに見え、眼鏡橋を一つ隔てゝ、貴女のお住居 ── あのアトリエの窓から流れる黄色い電光に、ほかされている広い庭が見えます。」   (p 83)

 大正の頃の「 水車場の並木 」も「 聖堂 」も何処にあるのか、地図の何処さがしても杳として見当もつかない。また、「 ほかされている広い庭」ってのも、これがシーボルト邸跡を指しているのか、それとも杉貞子のアトリエの方なのかも些か曖昧。幅の狭い川であっても、道路もあって、それ越しにアトリエの窓光がシーボルト邸跡の草むらをぼんやりにでも照らし出せるほどの光量を持ち得るとは考えにくいとなると、やはり、杉貞子のアトリエの庭しかあるまい。


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 ( 上図は、幕末頃らしい本来のシーボルト邸=清滝塾の姿。下の写真は、明治初期頃のだろうか。明治後期の名所絵ハガキだと、既に草地となっていて、現在もある石碑が一本立っているだけ。)


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 シーボルト博士って幕末、長崎・鳴滝で《 鳴滝塾 》を作り、日本人相手に蘭学を教えたドイツ人医師・植物学者なのは教科書ものだけど、現在建物らしきものは何もない。隣接した場所に大きな煉瓦風の建物《 シーボルト記念館 》が木陰の向こうに佇むだけ。


「 ・・・この町で、隠れた古跡の一つになっているシイボルト博士の邸跡へ、ある家の娘さんが、女中をつれて花摘みに行きました。町の娘はよく其処に行くのです。邸の跡は、町を貫いて流れている中川の奥にありました。で、ちょっと見るとまるで薔薇油を振りまいた花絨毯の上に、ナラヤナの涅槃でも敷きのべたやうに美しいその邸・・・」   (p2)


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 シーボルト邸といっても、ここはあくまで《 鳴滝塾 》であって、幕末頃は本来は外人の居住は出島内に限られていたので、当時の絵や写真見ても、西洋風とは無縁の日本の普通の民家。それも明治七年頃に大風で破壊され、そのまま打ち捨てられていたのか明治二十七年に解体されて現在の植木と原っぱだけの状態になったようだ。それでも戦前は大きな碑の類が建っていたらしい。
 この物語の頃は、「 花絨毯 」とあって、花々が咲き乱れていたのだろう。
 只、「 美しいその邸 」から先が、この国会図書館蔵の《 血と霊 》の原本のこの頁が破り取られてでもいるのか“ 欠 ”頁になっていて定かじゃなく、「 ナラヤナの涅槃でも敷きのべたように美しい・・・ 」と意味ありげな修辞まで冠され興味のある個所なんだけど、如何ともし難く、ネット見ると昨今はアジサイの花壇が設えられているようでもあった。当方が訪れた三月末がたまたまガラーンとした植木と雑草(?)だけだったのかも知れない。


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 ( シーボルト邸跡。奥の銅像あたりらしい。下の写真は、そこから前に拡がる街並みの景観 。背後に低い山々が迫っている。)


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 「 彼の心にあるものは血腥い殺戮と強奪の微笑 ── 血だらけの笑ひです ── 鳳雲泰は、磧( かわら )の露出した細い河の流れをへだてゝ、まつ暗いところから、アトリエの窓を凝視してゐました。窓硝子には、貴女が耳環をいぢくりながら何か獨り言を云ふてゐる横顔や姿が、ぼんやり映つてゐました。
 ・・・橋を跳び渡るや否や庭へ駈け込んで行かうと身がまへました。そのとき、少し離れた川茨の蔭に蹲ってゐる私の目に映ったものは、アトリエの横丁から一人の酔っ払ひが、鼻唄を唱ひながら橋の袂へやって来る影でした。」


 画家・杉貞子のアトリエが、シーボルト邸跡のすぐ前を流れる中川( 実際には、支流の鳴滝川 )を挟んだ向かいという設定なのは分かる。
 尤も、あくまで、この作品はフィクションなので、逐一正確に地理的対応してるのかどうかは判然としない。そもそも、中川に注ぎ込む支流の鳴滝川って川幅が狭いので、アーチ二つの“ 眼鏡橋 ”なんて架かりようがなく、せいぜいが普通の単アーチ型の石橋ってとこだろう。それに、長崎市内でも眼鏡橋って何本もある訳じゃないので黒石が記憶違いをやらかしようもなく、意図的な長崎的異国情緒的変容ってところだろう。
 だから、あまり詳細に拘ってみてもそれこそ木乃伊盗がミイラになってしまう愚を犯しかねない。けど、黒石がどんな風に現実の長崎の風物を基に自分の作品世界を紡ぎあげたのか、百年の時空的変容の向こうに当時の消息を識る縁(よすが)にはなってくれるだろうという試行に他ならない。


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 肝心のシーボルト邸跡って、建物のない低い石垣の上のせいぜいが垣根ぐらいの平地にシーボルトの像が一つだけ立っているだけで、「 間ぢかに見え 」る条件の場所っておのずから限定されてくる。それでも、結構幅があって、実際には対岸の何処が対応しているのか、現在マンションも何軒も立ち当時と様子も変わってしまってるようで容易に推定もし難いけれど、シーボルト記念館の斜め前にあるマンションに架かっている橋から、少し下った二本の橋が架かっている間って設定じゃないかと思える。当時の古地図でもあればともかく、基本は、橋の背後が杉貞子のアトリエの脇か近傍の横丁の路地に連なっているってことだろう。それ以上に下るとちょっと無理があるかも。


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 ( 奥に赤レンガ風のシーボルト記念館が覗ける一角。この周辺ぐらいしか対応した場所は考えられないけど、果たして実際は・・・? )


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 「 窓硝子には、貴女が耳環をいぢくりながら何か獨り言を云ふてゐる横顔や姿が、ぼんやり映つて」いたなら、川の対岸間際に庭のある屋敷ということになる。老いた乳母と二人きりのお嬢様画家って趣きだけど、その貞子をシーボルト邸跡前の川縁の、当時は大々的な観光地でもなかったようで、薄暗い街燈が、思い出したようにポツン、ポツンと散在しているぐらいだったのか、真っ暗闇の中で、じっと黒豹が獲物を見定めるように睨めつける鳳雲泰、そして同じ側の茨の陰に隠れて彼の動向を監視しつづける愛弟子の牛島。
 貞子の手中にある紅ダイヤ《 楊妃の瞳 》を嵌め込んだ耳環を取り戻そうと、名状し難い欲動と意識の坩堝と化し、鋭い刃先の骨刀をしっかり握りしめた鳳雲泰が、正にそれを実行せんと眼鏡橋に向かって血塗られた一歩を踏み出した。敢然、最悪の悲劇を阻止するため牛島は茨陰から飛び出そうと身構えた。
 と、その眼鏡橋の向こう、杉貞子のアトリエのある路地奥から、大きな人影が現れた。そしてフラフラとその酔漢らしき人物が眼鏡橋を渡り始めた。
 牛島はじっと茨陰に身を隠したまま、固唾を飲んだ。
 鳳雲泰は出鼻をくじかれたのか、橋の袂に留まり酔漢をやり過ごそうとした次の瞬間、その巨漢の酔漢が彼の宝石店の客で、買っていった鳳雲泰のお気に入りの黄金の宝飾時計が、その酔漢の手に輝いているのを彼は見逃さなかった。
 一閃、手にした骨刀が、酔漢に襲い掛かった。
 が、酔漢は予想に反し、素早く骨刀を取り上げ、逆に鳳雲泰の胸を一突き。巨漢は酔いも醒めたのか、そそくさとその場から逃げ去った。
 その場に崩れ落ちた鳳雲泰は殆ど即死に近かった。
 正に、その場、鳳雲泰の悪運が尽いた、否、因縁の場所というべきか、それがその眼鏡橋の袂だった。つまり、ニュースにこそならなかったものの、実際は、杉貞子のアトリエの眼と鼻の先で、カルマの赤い糸で雁字搦めになった鳳雲泰が業の紅蓮の炎に焼き尽くされていたのだった。

 


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