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2018年5月12日 (土)

ハリマオ(谷豊)は南進の輝ける南十字星か ? ( 1 )

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 最近の《 日馬富士事件 》なんかで列島中を席巻した排外主義。
 戦前、排外主義=大陸侵略のその底なしさ加減に、呆れ、怒り、絶望し、それでも己の置かれた立場を全うしようとした金子光晴や辻潤の抱懐した哀切に、つい想い至ってしまう今日この頃、ふと、戦前のそんな救いようの無い状況の只中で、挙国一致的な不滅の金字塔として喧伝された救国英雄="マレーの虎"ハリマオが改めて思い出された。
 
 以前触れた土生良樹《 神本利男とマレーのハリマオ 》1996年 ( 展転社 )は、基本、中心が神本であってハリマオは副次的な扱いに過ぎなかった。
 今回一読させて貰った山本節《 ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実 》2002年( 大修館書店 )は、“戦時中”という隠蔽・隠滅・歪曲をモットーとする時代的制約の下での歴史過程、“真実”=ハリマオ的消息を意欲的にを渉猟し追及しようとしたようで、結構勉強になった。  
 

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( 福岡天神・大牟田線 井尻駅から南に下り、かつて谷豊が通ったという日佐小学校に向かう井尻商店街の入口。井尻六っ角。)


 ハリマオ=谷豊の実像に迫ろうと、彼の家族=血の“組成”から、山本はアプローチする。豊の父親、谷浦吉( 明治11年生れ )を基準に、その父親(谷からは祖父)茂三から兄弟・姉妹まで神話学的触手が向けられる。
 浦吉は福岡県筑紫郡日佐村大字五十川( 現・福岡市南区五十川 )で、農業専門家の父茂三と母ユキとの四男として生まれ、青年時に単身でアメリカに渡り、理髪業的技術を習得して帰国したという。
 「 浦吉は生来血の気の多い、進取の気性に富む 」( 7頁 )人物だったようで、明治40年に近郷のトミと結婚し、明治44年に長男・豊をもうける。その翌年には、シンガポールに渡り、1年後、マレー東岸トレンガヌ州の州都クアラ=トレンガヌに移って、そこの中国人街のはずれで理髪店とクリーニング屋を営むことになったという。山本の言によると、同じ界隈に「 娘子軍の店も五、六軒あった 」らしく、娘子軍って、いわゆる“ 唐ゆきさん ”のことであっても場所柄違和感はない。只、そのままの娼館なのか、娼婦業から離れて別の商売を始めたのかどうかは定かじゃない。勿論単純に現地の女性たちの娼館であった可能性もそれ以上に言及してないので排除はできないが。当時の門司港にも、唐ゆきさん船から逃げ出したりしたものの故郷にも戻れない唐ゆきさんたちが門司港で沖仲仕なんかのハードな仕事を余儀なくされたという挿話もある。


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 ( かつて谷豊が通学した日佐小学校の近辺の街並。御多分に漏れず、空家・廃屋の類が諸所かしこ。)
 
 
 「 浦吉は生来固い国粋的な人物で、郷土愛が強く、故郷の方言を笑われると本気で怒った。家内でいつも博多弁で話していたから、通説のように豊が日本語をまるきり忘れ、話せなかったというような事実はない。浦吉は人の面倒見もよかった。同郷の五十川から移民してきた人もあったが、心構えが十分でないので彼が叱り、銭を与えて帰国させた。
 浦吉は帰国すると・・・マレーで儲けた金を資金にして金貸しをも行ったが、この方面には不向きであった。取り立てに行った先の窮状を見ると、返済を促すどころか見るに見兼ねて逆に金を置いてくる、という按配であった。繁樹( 谷の実弟 )によれば、後年箪笥の中いっぱいに詰まった未返済の借金の証文が発見されたという。」

浦吉の兄・清吉談( 大阪毎日新聞・福岡版昭和17年 )


 浦吉の母、豊には祖母にあたるユキの影響も指摘されている。

 「 あれ(豊)の祖母が負けん気の強い曲ったことの嫌ひな人でした、私が、“ 税金が高くなった”とこぼしたら、えらう叱りましてなあ、日清戦争に私は召されて出征したが、赤紙が来た時“死んだ覚悟で征けるか、迷ふ心があるなら出る前に親子の縁は切る”母は一事が万事で、この調子でした、」
                       浦吉の兄・清吉談( 同上紙 )
 
 
 山本は祖母を「 明治の“軍国の母”」と評しているけど、単純化していえば明治維新以来の国権主義的な権威主義の本道、昭和だと“国防婦人会”ってところだろうか。
 農業技官だったらしい祖父の方は不詳だけど、父・浦吉と相まって、当時の一般的なというより些か主導的な気風ってものの一端が了解される。
 クアラ=トレンガヌじゃ豊は現地の小学校に入っていたものの、浦吉がイギリスの影響が強い授業が気に入らなかったのか、十歳の時、突然日本の小学校(故郷博多の日佐小学校)に妹と一緒に転入させた。そこを卒業し、つづけて日佐高等小学校で一年学んだ昭和2年、妹と共に再びクアラ=トレンガヌに戻らさせられる。
 侠気のある、しかし、勉強はさっぱりの喧嘩ばかりの腕白大将だったようだ。
 昭和6年兵隊検査のため、再度帰国するまで、家業の理髪店を手伝っていた。豊は手先が器用だったようで小学生の頃から手伝っていたという。

  「 豊の学業成績(比佐小学校)はお恥ずかしいことながら余り芳しくなかった、ただ手工だけは神技の出来ばえと先生がいつも舌をまかれた、母方に美術学校出の彫刻家や大工職がゐる、やっぱり手筋ですなー。」
                      
 浦吉の兄・清吉談( 同上紙 )


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 ( 右奥に日佐小学校と隣り合わせた宝満神社の暗い森が覗けている。)
 

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 ( 人気の感じられない宝満神社。低い塀の隣の公園には親子づれの姿もあるのだけど。)
               
 
  当時の国民皆兵制度下じゃ20才になると男は兵隊検査を受ける義務があり、豊もわざわざマレー半島から帰国して受けたものの、結果は実質不合格の“丙種合格”。
 豊は1メートル50センチちょっとぐらいの身長だったらしく、基準の155センチに満たなかったのだろう。それでも、巷間いわれているいるように不合格がトラウマになったという訳でもなかったようだ。  
 昭和9年にクアラ=トレンガヌに戻るまで、豊は博多で何度か仕事に就いていたらしい。 給料を貰うと仲間を連れて歓楽街に赴き喧嘩も多かったという。
 当時の豊を山本は、「 精悍で直情径行、多血質の親分肌、心の陰や暗さはあまり見られず、言葉や思想よりもまずすばしこく手足が動く、といった性格が思い描かれる。すでに後年の『ハリマオ』の姿が彷彿とする」と評する。
 そして当時の豊の心の内奥にゆらめいていたものを明かす次のようなエピソードがあった。

 「 豊さんはマレーに帰りたくてたまらない様子じゃった。門司港で密航ば試みて二度失敗しよりました。乗ろうとしたのは外国船でしょう。見つけられれて、清吉さんが引き受け人になって保護しました。」
           ( 谷英雄=豊のいとこ。平成六年福岡市での筆者への談 )      

 末妹・静子が殺害された故にクアラ=トレンガヌに舞い戻ったという俗説とは相違して、それ以前からの望郷の念だったらしい。
 一家の主・浦吉を亡くし、今度は幼子・静子すら惨殺され失意して帰国したトミが、豊にも静子の死を( 親戚の者は皆とっくに手紙で知っていたが豊には何をしでかすかわからない危惧から教えなかった )知らせたら、案の定、豊は仇を取るんだと日本刀を片手に門司港から乗船しようと謀らみ、清吉が門司港に連絡して捕って戻された由。それでも、結局、ちゃんとパスポートもとって、マレーに戻ることになった。


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 ( 宝満神社と日佐小学校に隣接した宝満公園。奥角に豊の名が刻まれた戦没者碑がある。)

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 ( 日佐小学校。井尻の駅の北西約1キロ辺りに豊の父の弟・清吉の家があった五十川から、同じく井尻の駅から南西約1キロにあるこの日佐小学校に通っていた。当時はこの辺り一帯は田畑の拡がった田園地帯だったようだ。)


 昭和8年(1933年)11月6日、満州事変に怒った一部華僑(他所からやって来た)が、クアラ=トレンガヌの中国人街を襲う事件が起こった。
 当時のトレガンヌの中国人って人口の一割程度で、その中国人街の中に、30人程度の移民・出稼ぎの日本人たちが住んでいたに過ぎなかったらしい。トレンガヌ以外の町からやってきた日本の満州侵略に激怒した勢力だったようで、それでも近隣のマレー人たちに危急を知らされたり日本人歯科の家に隠れたりして大半は難を免れたのだけど、よりによって理髪店の二階で風邪で寝ていた豊の末妹・静子( 9歳 )が犠牲になってしまった。事件当日、地元の華僑たちも恐怖し、学校から生徒たちを帰さなかったというけれど、今一つ事件の根幹とも謂うべき肝心の抗議集団の数が曖昧。中国本土で全国的に起き、遙か南洋マレーの華僑社会でも呼応して沸き起こった抗議運動なんだろうが、タイ国境にも近い小さな町のクアラ=トレンガヌじゃ基本発生していなかったようだ。
 トレンガヌ以外のどの都市から波及してきた運動なのか詳らかでない上、そもそもがトレンガヌで荒れ狂った凶行の当事者、実は広西出身の一華僑青年でしかなかったという。てっきり他の町から押し寄せてきた反日抗議の集団とばかり思ってたらとんでもなかった。様々なハリマオ関係の既存の記述じゃ正に反日集団って趣きだったのが、この山本の本を読んで腰砕けになってしまった。
 トレンガヌの華僑たちも、片手に血塗られた青龍刀を握り、もう一方の手にはこれ見よがしに血の滴る9歳の少女の生首を引っ提げた“ 一人の頭の狂った青年が暴れている ”と日本人たち同様凍てついていたという。
 尤も、犯人の広西青年は、国産" 反英 "映画《 マライの虎 ハリマオ 》(1940年)のように英国統治官憲が逃がした説とは相違して、逮捕され、コタ=バル近辺で死刑になっていたともいう。
 只、その青年が本当に日本の満州事変に怒って起こした行動だったのかどうか、あるいは彼の遠戚・知人が満州事変で殺害されたり被害を受けたのかどうか、その肝心の詳細が不明なままになっていて残念。筆者の山本氏に後続を期待したいが、この本の発表後に亡くなったらしい・・・。 
 ともあれ、豊が如何なる私憤・義憤にかられてみても、日本の満州侵略の反動が、遠いマレーの移民・出稼ぎの日本人街の住民・幼い静子を生贄にしてしまったってことにかわりはない。


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 ( 少子化著しい時節柄、子供の姿が見られない。夏日なんてシュールなまでに真昼の陽光に照らし出され熱気にゆらぐ無人の公園って図が容易に想像できてしまう。公演の隅に佇む石碑群。右の円柱が件の碑。)

 
 実は、博多・五十川の谷清吉のところには、不憫に思った同じトレンガヌの住民・歯科医・浦野軍之助が斬首された静子の生首を縫合してやったその写真も送られて来ていた。むろん間違っても豊かには見せられず隠したままであった。
 その歯科医師・浦野は若くしてマレーにやってきて、クアラ=トレンガヌに落ち着き、谷家の人々とも近しくしていたという。トレンガヌには、歯科医は彼一人しか居ず、土地のスルタン(王)すら歯の治療を受けに来たほど貴重な存在だったようだ。後、日本軍のマレー・シンガポール侵攻作戦中に、徴用されたのかどうか定かじゃないが、憲兵隊通訳となり、陸軍病院でも働いたという。
 
 この歯科医の行(くだり)に接して、かつてバンコクで観たユッタナー・ムクダーサニット監督《 少年義勇兵 》(2000年)を思い出した。
 1941年(昭和16年)、マレー侵攻作戦の一環として日本軍が上陸して来たタイ湾に面したホアヒンの南200キロぐらいのマレー半島東岸の町チュムポンを舞台にした青春群像物語だったけど、タイ軍の手薄を補完するための志願兵募集に参加した高校生たちの中に、姉婿の日本人の写真家の営っている写真館で同居していた主人公が居た。
 ところがその写真家、実は陰で日本軍上陸を手引きするための工作員の仕事をしていて、魚釣りをしているように見せかけて海の深度なんかを調査し日本軍に情報を送っていたのだった。そして、12月8日未明、日本軍が上陸し、件の少年義勇兵たちは少数のタイ国軍と一緒に果敢に日本侵略軍と戦うことになったものの、多勢に無勢、おまけに同日深夜には首相ピブンソンクラームによって日本軍通過の協定が締結され即終戦。勝ち誇った日本軍車上に軍服をまとったその日本人写真家の姿があった。
 つまりその姉婿の写真家は諜報工作員だったという訳だけど、この脚本は、ある在タイ日本人の父親が正にその如く働いていたという回顧をそのまま踏襲していたようで、その父親ってのが、写真家ならぬ医者だったという。  

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 ( かつては日佐村だったらしい。幕末の戊辰戦争や西南の役から太平洋戦争までの日佐村の戦没者の碑。上段左から二番目に谷豊の名が刻印されている。軍属扱い故に公死なんだろう。)


 それ故に、トレンガヌにコタ=バル上陸部隊が南下してきた際、上述の歯科医・浦野も、同様な事前工作に従事していた可能性を捨てきれない。この神話学者・山本節の《 マレーの虎、六十年後の真実 》には、他にも同様な在マレー邦人たちの行動が記されていて、本当に純粋に移民・出稼ぎだったのか、あるいは強制的な軍部徴用ならまだいざ知らず( 否、これとても甚だ問題 )、いとも容易に軍部に協力し、日本軍のマレー( タイやインドネシア )侵略の手先となって働いていたという事実・傾向性は様々な問題を孕むことになる。
 流れ的に前後するが、滝川虎若という在タイの医師の回顧談に触れている個所の、


 「 ハリマオに出会ったのは昭和十五( 一九四〇 )年頃だったと思います。スンガイ=パティの私の医院に、性病を治しに来ました。淋病でした。コタ=バルから私の所にって来たんですが、そんなに多い回数ではありませんでした。一、二度だったと思います。・・・・・・『 谷豊 』と名乗っていたと思います。サロンに帽子のマライ人の服装でしたが、私とはもちろん日本語で、『 普通弁 』で話していました。」


  「 私がタイのバンコクに渡ったのは昭和一〇(一九三五)年五月でした。ここで医者のライセンスをとりました。他に瀬戸さんという医者と、石野さんという歯科医と三人でバンコクの中央病院前で開業して、その後三人で南タイのシンゴラへ行って開業しました。」


 この瀬戸という医師こそが、前述の《 少年義勇兵 》の主人公の義理兄の日本人写真家のモデルになった可能性の高い医師と同名で、先ず同一人物だろう。そして、直前のハリマオの淋病を治療した医師・滝川に、豊を紹介したのが、軍部諜報機関=藤原機関と関係のあった人物であったという。 
 ともかく南方に居着いていた日本人医師( 勿論医師だけじゃなかったろうが )って、戦前・戦後のいわゆる日本の排外主義的論法を逆手にとって逆照射してみると、皆一様に、日本権力=軍の諜報員あるいはそれに準じた協力者、要するに“手先”ってことになってしまう。
 これって、“真珠湾攻撃”で米国との戦争に突入して後、移民・出稼ぎの米国在留日本人たちが丸ごと、正にその“手先”的傾向性を猜疑された故に収容所に隔離された米国政府の政策の正当性すら裏付けることになってしまいかねない。


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 後年、相当時間を経過して、米国に根付いた在米日本人移民たちが抗議し、米国の差別主義的排外主義に反対する勢力の後押しもあって、いわゆる名誉回復=米国政府の謝罪って結果に至ったけどれど、マレー侵攻日本軍はそのまま南端シンガポールに至って、いわゆる“ 抗日分子”の殲滅を企図した《 シンガポール華僑粛清事件 》を、最高責任者・山下奉文司令官の命によって実行し、日本軍側発表5千人~シンガポール総商会の発表5万から10万人もの華僑たちが殺害された現実を前にするともはや言う言葉すらなくしてしまう。ここでも戦前の日本皇軍=権力のこれ以上ない象徴たる参謀・辻正信が顔を出していて、自ら現場を訪れ、

「 シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ 」

 と、例のしたり顔で激を飛ばしたという。
 こんな輩が、自国の多くの将兵を、同時に行く先々のアジアの国々の人々をも幾度も、それも越権の限りを尽くしてまで死地と修羅場に追いやってきて、敗戦後自刃することもなく(他の者には押し付けて平気なのが)、アジア中を逃げ回り、戦後の国会議員選挙で堂々と上位当選して国会議員になれた国って・・・敗戦直後の大陸からの引き上げ時の悲惨や捕虜兵たちのシベリヤ抑留の不当性を声高に騒ぎ立ててきた行為・心情の( 戦後世代からみれば驚愕的 )虚偽性を最初から証しているってことでもあった。
 シンガポールや他の東南アジアや大陸で日本権力=軍部がやらかした侵略主義的蛮行 ( あのマレー侵攻作戦の端緒というべき、タイ上陸・侵攻の際にも既に強姦・略奪が行われていたという話すらあった ) が、在米移民・出稼ぎ日本人たちが収容所に隔離された後に延々と行われていたにもかかわらずの、後年の在米移民日本人や反排外主義的な米国人団体による違法性指弾の運動故の米国権力側の謝罪って事実は、しかし、それだけのことでしかなく、戦後および謝罪以降も内外での米国政府の同様な侵略主義および差別主義的排外主義は止まることもなかった。 


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 ( 日佐小学校の裏の狭い一角には空家が連なっていて、中庭に面して白塗り土蔵もある旧い農家風のこの民家は、かつて豊が五十川から毎日通っていた頃にも同じ佇まいを見せていたのだろう。定番の元は茅葺屋根だった赤いトタン屋根。雰囲気が気に入った。)


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 ( 同上 )

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