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2018年6月10日 (日)

ハリマオ(谷豊)は南進の輝ける南十字星か ? ( 2 )

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  ( 西鉄・天神大牟田線の井尻駅。南下すると谷豊が通っていた日佐小学校や戦没碑のある横手宝満公園に至るが、北西に向かうと彼の実家のあった五十川に向かう。)

 昭和9年、豊はクアラ=トレンガヌに戻ってきた。
 
 「 兄(豊)がまたやつて来ました、兄は自分さへゐ(い)たらこんな目にはあはさないのにと涙を流してくやみ再び理髪業をはじめましたが、私どもは兄と二カ月ばかりで別れ、トレンガヌを去つてコタバルに移りました 」

                    ( 妹・ユキノ『 朝日新聞』昭和十七年 ) 

 
 豊はマレーやタイで何度も現地の女性と結婚( あるいは同棲 )していたようで、ある女性との間には子供ももうけていたという。イスラム教なら問題ないのだろう。戦後、大部過って叔父・清吉がその事を知って現地に会いに行ったという。実在してれば、日本でこそあのハリマオの遺児ってことになるが、かつての日本軍の悪行の残滓色濃く残っているマレー(シア)の現状じゃ、そっとしておくことにしたのだろうか。
 
 「 ( 私たちがコタ=バルに転居して )その後は殆ど音信不通でしたが、何でも理髪店といふものは看板だけで、マレー人を手下に使つてなんだか知りませんが、大仕事をやつてゐたらしいです、」

 ( 妹・ユキノ『 朝日新聞』昭和十七年 )


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 ( 西鉄・五十川のバス停。博多・天神から井尻方面に伸びている。)

 筆者の山本は、この大仕事を盗賊稼業という。
 それから程なくして、豊は英国人の屋敷での泥棒で初めて逮捕され、クアラルンプールの刑務所に収監された。その際、マレー・タイで商売をしていて両国語に堪能なのをかわれ、取調べ時の通訳をしたのが鈴木退三( 後、陸軍諜報部=藤原機関で働くことになる)で、豊はマレー語で、妹・静子を殺害した犯人が無罪で釈放されたことを英国官庁に抗議しても無視されたことを唾棄して見せたという。
 その豊の言に依拠した定説、妹・静子の悲惨な死と英官憲の煮え切らない態度に怒りと憎悪の念を覚えたための盗賊化と、実は犯人の広西人は逮捕され死刑に処されていたという“事実”性との乖離に山本は困惑し、何ゆえに豊がそんな思慮にとらわれてしまったのか小首を傾げる。当時のマレー=トレンガヌの複雑な事情を反映した産物というべきか。
 

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 ( 井尻よりの線路近くの水路。確かに側溝よりは広めだけど、まさか本当に子供がこんな場所で泳いだりするのだろうか。あくまで危険防止なんだろうが、昨今こんな場所でも多雨の際には容易に氾濫してしまう。)

 それ以降、豊は、マレー北部のコタ=バルとタイ南部ナラティワッを中心に、クアラルンプールやタイのパタニーまで活動の幅を増やしてゆく。彼の親分肌な性向の故にか、両国を股にかけた多くの構成員を抱える盗賊団の首領となっていた。只、ハリマオ英雄伝の子分三千人と称されたその実際の規模の程は定かじゃないようだ。
 そもそも予め組織された一大構成員の組織って、大陸の匪賊や武装強盗団ならいざ知らず、豊の場合は切った張ったとは無縁の夜陰に乗じるタイプの窃盗団なんだから、それは些か非合理に過ぎよう。各地に潜在しているその都度の泥棒仲間ってところで、豊=ハリマオ・マラユの固定された正構成員って訳じゃないだろう。尤も、山本によると、当時、他にも似たような窃盗・強盗グループって色々存在していたらしい。
 タイ南部ってイスラム教エリアで、現在でも分離独立運動が盛んで、仏教徒が銃殺されたり斬首されたりは、ごく最近は定かじゃないけど、以前は日常茶飯。仏教徒側もその報復に走って南部は危険エリア。個人旅行者なんかはそこを通り抜け、コタ=バルやペナンのリゾート地へ向かう。


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 ( 五十川二丁目。この一帯、路地が入り組んでいて迷路状。奥に五十川八幡宮の入口が覗けている。)

 昭和12年に豊は強盗容疑で逮捕され数ヶ月留置されて後、トレンガヌ州から追放される。マレーの日本人会でも評判悪くなっていたという。又、時期は不詳だけど、コタ=バルの日本の企業《 南洋鉄鋼 》( 日本鋼管の子会社しい )の金庫を盗み、彼地の日本人たちの間じゃ結構知られた逸話だった。特別な私的怨恨があった風でもないようで、何故敢えて日本企業を狙ったのか。豊は目標対象を俎上にのぼらせるにあたって、基本、英国人と裕福華僑の屋敷・企業の二つに絞っていたので、この異例さは背後に何かあったのか思わず猜疑の念を掻き立てられてしまう。
 その後も盗賊稼業を続け、マレー政府に巨額の懸賞金まで懸けられることとなり、とうとう昭和15年頃タイ南部、パタニー近郊の海辺の村バンプーに移った。 
 
「 母の話じゃ、一年ほど前のある朝、ユタカはマレー系のド=ローという若者と一緒にバンプーの村に現れたんだ。そして食事かお茶を飲んだあと、すぐに警察に捕まってしまった。パスポートなしということで、ヤーリンの警察に二週間か三週間か分からないけど、けっこう長い間警察に入れられたんだ。・・・」

                ( 豊と共に藤原機関で活動したタイ人チェ=カデ) 

 豊は、しかし、チェ=カデの遠縁にあたる当時豊の倍近い年齢の女・チェ=ミノに一目惚れされ、彼女が父親に頼み込み、金を払って貰って釈放されることになったものの、強引に彼女と結婚させられたという。只、その後、豊は別の若い愛人を作ってチェ=カデの家に住まわせるという女出入りの頻繁さ。余談だけど、この頃豊は、後年のテレビドラマ《 ハリマオ 》と同様に黒いサングラスをかけていたらしい。
 バンプーには、開戦の昭和16年末までの一年半ぐらいの滞在だったようだ。

 「 バンプーでチェ=マが盗みをしたことはない。彼が警察に捕まったのは、パスポートを持っていなかったからだ。チェ=マはマレーの警察に追われて、クアラ=トレンガヌからコタ=バル、コタ=バルからクランタン、クランタンからパタニーへ逃げて来た。探偵はナラテッワッで生まれたパテ=ママッという男だったが、チェ=マは事件を起こさないから捕まえようがなくて帰った。・・・」

                      ( チェ=カデの筆者への談 )


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 ( 長崎の大泉黒石の生地たる宮地嶽神社の境内同様、ここも間口が狭い。が、奥行は結構ある。)


 探偵ってのが興味を惹くけど、開拓時代の米国でも、銀行強盗や列車強盗なんかを雇われた探偵(団)が追跡し捕縛したり射殺したりは有名。豊も武装していた訳でもなかったようで、マレー警察の探偵パテ=ママッを恐れていたという。
 昭和11年頃、在タイの日本人実業家に、豊は日本人社会の面汚しと唾棄され、
「 それなら捕まえてバンコクによこせ。日本に送り返してやるから 」と応じた当時在バンコクの日本大使館武官・田村浩大佐( 陸軍一の東南アジア事情通と称されていた)が、それから数年後、前述の医師兼特務工作員・ドクター瀬戸から、今度はマレーの広域を荒らしまわる窃盗団の首領としての豊の情報を得、マレー侵攻作戦に使えると顧慮してか、瀬戸に豊との連絡を依頼し、やがて陸軍諜報特務組織“ F機関 ”こと《 藤原機関 》の構成員となる神本利男に豊へのアプローチと教育を一任することとなった。 
 
 当時、豊はタイ南部の大都市・ハジャイの刑務所に収監されていて、そこに事前に豊の履歴を知悉した神本が赴き裏金を払って釈放させ、大日本帝国=天皇の威光を持ち出し、権威主義的心性を搦め手で豊を容易に篭絡し取り込んでしまった。

 「 神本さん、このような私でも、天皇陛下のお役に立つことができるでしょうか」

(《 マライのハリマオ(虎) 》『週刊読売』)


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( 石鳥居の手前に並んだ低い平成になっての石灯篭の後ろに、左右一組四角い作りの高い石灯篭が立っている。昭和五年の刻印があるのだけど、向かって右側の一番左に、何と、豊の父、浦吉の名があった。博多やマレーのクアラ=トレンガヌで開いた理髪店・クリーニング屋で儲かったらしく、それくらいの寄進は喜んでしたろう。ともかく、実家の情報は、プライバシーの問題もあるからか全くなく、行き当たりばったりでせめて雰囲気だけでもと写真を撮りに来たに過ぎなかったのが、思わぬ消息に出会えた。因みに、「進藤」姓も少なくなく、豊の五十川の青年時代に付き合っていた二人が進藤姓だった。)

 

 筆者の山本はこのセリフを必ずしも首肯してはいないようだけど。
 前の箇所と重複するが、従来説と相違して、この本じゃ豊は日本本土で受けた兵隊検査に不合格だったのをそれほど気にもしていなかった旨、当時の豊の周辺的な人物の言をもとに表しているけど、やっぱり、お山の大将的心性と祖母や父親にすりこまれた国家(権威)主義的な愛国主義的心性からして、些細な屈辱として払いのけ平然としていたとは思われない。
 むしろ、平静を装った心理の下でじわじわと豊の深奥を蝕んでゆき挫折と屈辱が澱のように蓄積していき、妹・静子の死およびクアラ=トレンガヌに戻ってからの静子の死にまつわる豊にとって不如意な事態の成行きが更に一層自身の無力と屈辱を完膚なきまで思い知らさせられてしまったろう。叱咤してくれるはずの父親ももはやこの世に居ずって訳での窃盗稼業、そして豊の気性・性向が幸いしての大集団化とその頭目として君臨って次第の方がしっくりくる。手練の神本からすれば、“殉国”の一言で以て、そんな不条理の只中に翻弄され抗おうとする(単)純な豊を落とし引き込むなんぞ造作もなかったろう。


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 ( 「農地改良碑」。こんなものが立てられているってのはこの五十川にあって、この神社が、やはり産土神的な存在だったのだろう。五十川も、かつて谷親子の頃は一時的に日佐村五十川という行政区画であったらしいけど、元々は五十川村。起源は五十構とも五十溝とも。最近も遺構が発見されたとか。数キロ先には福岡空港がある。ともかく、この周辺広い一帯田園が拡がっていたらしい。かつては稲作的には芳しくない湿田ばかりだったのを、大正の頃一大プロジェクトで乾田地帯に整備したという。豊の祖父が農業技官だったのも、そんな環境の故かも知れない。この八幡宮はそんな五十川の産土神らしい。)


 てっきり、南タイのパタニー近郊の小さな海沿いの集落バンプーに豊が現れたのは、既にF機関=神本配下の軍属としてマレー侵攻作戦の任務のためと思っていたら、バンプーに居を定めながらも、他の地で窃盗・盗賊稼業を働いていて、へまをしたのかハジャイの警察に逮捕され投獄までされていた。
 そもそもが、バンプー住民には、パタニー経由でか、とっくに“盗賊”として知られていて警戒された存在でもあったという。この集落で豊に声を掛けられ後に一緒に活動することになるチェ=カデも、最初家族や近隣の者達に、豊と近しくなることに強く警告を受けていたぐらいだった。
 一体何ゆえに、配下三千人の盗賊団と別れ、一人忽然とバンプーにやってきて、あれこれ付け焼刃的な零細商売に身をやつす様に貧窮生活に甘んじたのかと、山本はこのバンプー行に疑問を呈している。
 F機関の一員となってからならこそ、身をやつすってのが意味を成すけれど、おまけに住民たちにはのっけから正体バレバレで、その豊の内心での算段はいざ知らずもっぱら一人で悦に入っていた偽装ってのも些かハズい代物ではあった。探偵パテ=ママッの監視の眼にとまらないための、これ見よがしな正業的粉飾であったってことなのか。
 只、土生良樹の書《 神本利男とマレーのハリマオ 》に触れた個所で、マレーでの盗賊団の配下の主だった者は一緒に南タイに入り、散らばって隠れていたらしく、神本にも彼等を紹介したとも述べている。
 
 
 「 ・・・ここでハリマオを説得しました。ハリマオはハジャイで表向き雑貨商をやっていて、あちこちに部下を置いてました。」  


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( 入口の鳥居。奥にも石鳥居が静かに佇んでいる。神社の脇の一般道に人影がかすかにあるくらい。その側には旧い民家が連なり、反対側には比較的最近の民家が迫っている。)

 昭和16年10月下旬、ハジャイの大南公司( F機関の拠点 )に起居していた土持大尉の下にハリマオが訪れた際の述懐だけど、同月初めにタイにやってきたばかりの土持大尉がハリマオ関係の担当者に任じられていた。同年4月頃、豊がハジャイの監獄から神本によって釈放されてから半年後のこと。この1ヶ月半後の12月上旬にはマレー侵攻作戦開始。
 そんなギリギリでの担当者・土持大尉との初接触ってことだけど、その直後、今度は総大将・藤原少佐自身も土持の面前で豊と直接会って、豊に協力を仰いでいる。神本以来のこの執拗ともいえる協力説得は、やはり豊に対する心理的な懐柔作戦ってところだろう。次から次へと偉いさんたちが、それも最期には組織のトップが直々に協力要請をしに来てくれるという。F機関的には、もう後には引けぬ絶対的・最終的なものでもあった。結果、その効あっての侵攻作戦成功。


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 ( 拝殿。背後に社務所があるけど人影なし。)

 この本で知ったのだけど、藤原岩市少佐の著《 藤原F機関 》に、次のような前線で初めて豊と邂逅した際の記述があるらしい。

 「 彼の肩に手をかけて呼びかけた。谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。・・・サルタンの前に伺候した土民のように・・・。
『 機関長殿、谷です 』と飛びつくだろうことを期待していた私は、谷君のこの卑屈なほどにへり降った対応に、すつかり拍子抜けた。・・・ 」


 例の戦意高揚反英映画《 マライの虎 》の中のハリマオと藤原との対面シーンで、米つきバッタのような卑屈なハリマオの姿態に、幾ら権威拝跪・権威主義をモットーにした大日本帝国情報局御用達映画だからってここまでやるか、と呆れ返ると同時に、政治的プロパガンダ映画とはそもそもここまで演出してなんぼだった、と妙に納得していたのが、何と実は現実そのままのリアリズムだったとは・・・。
 重畳錯綜する豊のコンプレックスの間隙を衝かれての神本=藤原機関への剥き出しの恭順的意識。日毎のジャングルの中を潜航しながらの対英破壊工作活動の過労とマラリアの発症とで心身とも疲弊の極みにあった頃もあって、気力の衰弱が余計そんな姿態を余儀なくさせたのかも知れない。


X10

 ( 奥の石鳥居を背後から望む。左右に寄進者の名を刻んだ石灯篭が並ぶ。見てみると、「谷」姓がやたら多い。皆、何がしか豊の血統とつながりがあるのだろうか。博多のここら辺一帯は空港があるくらいの広い平地なので、山間の谷って要素はまずありえなく、ここの地形に根差した姓名じゃないのだけは分かる。)

 バンプーで豊は現地人のチェ=カデをメッセンジャー・ボーイとして、タン=ガーデンの神本とナラティッワッの小野某の二人の処に差し向け、情報のやりとりや資金の調達をしていたという。小野という人物は結局正体は不明のままで、山本も把握できなかったようだ。勿論責任者の藤原が知らないはずもなく、謀略組織の協力者ということで明かすことをしなかったのだろう。
 バンブーの豊の家や嫁さんのチェ=ミノの屋敷前の小屋に海から運んできた物資を隠し、神本の家までトラックで運んで貯蔵する兵站活動が当初は主だったようだ。米や缶詰、石鹸なんかの侵攻兵士達の生活物資だけど、他のF機関の構成員や協力者達も同じような兵站活動をやってたらしい。兵士達への態のいいお駄賃代わりにはなるのだろうが、兵站というには所詮微々たる量でしかないと素人考えでも思い至ってしまう。
 ところが、当作戦の兵站物資の本拠地がベトナム南部にあったらしく、これはあくまで、侵攻時にそこからの輸送が間に合わない場合の間に合わせ用だったようだ。兵站といえば皇軍のアキレス腱ってのが定式のように有名過ぎて、つい神本達のが兵站全量なのかと腰抜かしかかったけど、間に合わせ的なものだったと分かってさすが皇軍も精神主義一辺倒だけじゃないのが分かって了解。それでも、その後、東南アジア全域の皇軍兵士達の少なからずが鬼畜的惨状の坩堝に呑み込まれていくのを、豊はともかく、神本や藤原達は考え及んでいたのだろうか。


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( この大正八年の刻印のある石狛犬にも、献じた人々の名前があって、「谷」姓が多い。只、下の名の方が判然としない。)

 昭和16年12月8日、開戦の日の早朝、パタニーに日本軍が上陸したニュースでバンブー集落は大騒ぎ。
 豊は愛人を連れて神本の処へ、チェ=カデはタイ警察に捕まることを恐れ一人山に逃げ込んだのだけど、結局二人ともヤーリンの警察に捕まってしまった。チェ=カデは警官に銃を頭に突き付けられスパイ行為で銃殺されることを示唆されたのが、幾らもしない内に、ピブン=ソンクラーム首相が日泰同盟条約を締結し、二人は釈放された。それも至れり尽くせりの警察の供応ぶりに断ることもできなかったのか、その夜一晩その警察署で過ごす羽目になってしまっという。
 他の地域じゃ、スパイ容疑( 冤罪なのか工作員だったのか詳細不明 )で在タイの日本人達が六人ほど殺害されていたというから、ピブン首相の条約締結がもっと遅かったら、豊もチェ=カデも銃殺されていた可能性高く、とんだ命拾いだった。


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 ( 前の狛犬と反対側の狛犬像に刻まれた名前も風化して名の部分が読みづらく、ためつがめつ確かめようとしたけど不可。残念。)

 その後、藤原機関と合流し、チェ=カデは発病して戦線脱落。
 豊は盗賊団の仲間たちや藤原機関の構成員たちと、ジャングルに隠れながら、反英軍破壊工作といっても、実際は退却する英軍が橋やら鉄道、発電所等の施設を破壊してゆくのを阻止する工作だったらしい。マレー侵攻日本軍の南進をできるだけスムーズに行なわさせる工作で、大半は首尾よく完遂できたようだ。英統治軍の麾下に入っていたマレー兵を帰順・戦線離脱させる工作すらやっていたという。
 一月上旬( 昭和十七年 )頃にマラリアが再発して以来、快方に向かったり悪化したりを繰り返しながら工作活動に専念し、一層悪化の途を辿っていき、重篤化するとあっちこっちの病院を転々としたあげく、三月十七日夕刻、最後に担ぎ込まれたシンガポールの平屋の華僑病院《 丹得仙病院 》で数人に看取られ永眠。
 盗賊団の仲間が遺体を担いで近くのイスラム墓地に葬ったらしいものの、その後、杳として豊の墓と遺骸は見つかず。
 現在に至るも尚谷豊=ハリマオの墓と遺骸発見されず謎のままってのがいよいよ神話的なのだけど、豊本人の内面を吐露したものは本当に乏しく、推量・憶測する他ないようだ。それでも、豊の足跡ってものがこの山本の精力的な著作でだいぶ分かってきた。 やっぱり、谷豊は大日本帝国の南進の輝ける星=ハリマオだったってことだろう。


 問題は、もはや仮定のあるいは論理的帰結としての、もし谷豊がマラリアで死なず生き延びていたとしたら、どうにも逃げられないのっぴきならぬ袋小路に豊が立たされたであろう、皇軍・大日本帝国の占領支配とマレーという拮抗・対立の歴史的現実。タイ人たるチェ=カデが皇軍侵攻でタイ官憲にスパイとして殺害されかかったように、豊もそれを問われることとなるのは必至。彼がマレー人として生きたかったのが真摯なものであればある程、その絶対矛盾から逃げれることはできなかったろうから。

 
X13

 ( 八幡宮の石灯篭だけじゃなく、周辺の路地の裏々を歩いてみても、やっぱり谷姓の家がやたら多い。戦後建てられたのだろう民家の間に、ポツン、ポツンとかつての農家の佇まいを残した建物もあるのだけど、代々の遺風を偲ぶように残された小さな田畑すら見られなかった。この鉄門の、元農家然とした、しかし、鬱蒼とした茂みが何とも独特の情緒を醸し出し、一歩中に入って撮りたい衝動に駆られたけど、車も停めてあるので遠慮せざるをえなかった。)


《 ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実 》(2002年) 山本節 ( 大修館書店 )

X14

 ( 赤レンガ塀が好い。)

X3

 ( ここも朱塗りの鉄門で、前庭に面した建物の配置からして典型的な農家の佇まい。前掲の元農家風屋敷とは又別様の雰囲気。)


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