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2018年9月 8日 (土)

  テロリスムの超克    《 テロルと映画 》 四方田犬彦

Terrorism_1  


  
 七月初めの西日本集中豪雨の際、自民党幹部や若手が夜宴に浮かれていた事件って、なんのことはない翌早朝のオウム真理教・教祖=麻原彰晃はじめ幹部たちの処刑が控えていて、極秘裏にそのカウント・ダウンが既に始まっていたってことの、かつて明治末のいわゆる《 大逆事件・幸徳事件 》( 大半は明治権力のでっち上げ )での幸徳秋水たち計十二名が処刑になった前夜も山形有朋等明治権力の面々もこうだったかと想わせるくらいに、得意の絶頂の祝宴、つまり有頂天ってことだったようだ。
 これって、普通に考えると異常極まりない所作なのだが、そのことに言及・批判したマスコミって居たんだろうか ?
 そもそもがいわゆる《 オウム真理教・サリン事件 》自体が甚だ不明瞭で、平成って時代を特徴づけるように底なしに胡散臭くいかがわしい代物。おまけに、多くの者が再審請求中にもかかわらず、この国のなけなしの民主主義国家の体(てい)すらかなぐり捨てての強引な執行だったという。
 結局、すべては五里霧中の白闇に隠滅されてしまった・・・


 「 もし歴史が個人の悲嘆を乗り越え、社会全体が服すべき哀悼をなしとげることであるとするならば、映画はテロリズムの廃棄を目的として、哀悼的想起としの相のもとに世界を認識するメディアでなければならない。」


 「 それは具体的にいうならば映像を事後性、つまり重要な事件が過ぎ去ってしまって自分たちが残響の中にいるという認識のもとに提示し、寛容と和解の物語を演出することである。だが、最終的にはテロリスムの根底に横たわるスペクタクル的な要素を映画の内側から完璧に排除することにある。」


 「 スペクタクルとは、匿名の観客を前にして演じられる〈 見せ物 〉であり、非日常的な突発事件が音と映像を介して表象される事態を意味している。
 テロリスムとは、現実的な破壊や殺人である以上に、その演劇的表象として世界中に恐るべき速度のもとに伝播されることで、目的を果たすのである。」


 「 もう一つ忘れてはならないのは、後になってテロ事件を想起する場合に起きる障害である。テロリスムの印象がつねに映像によって大きく影響され、固定されてしまうため、人は現実に生起した事件と映像との間に境界線をひくことができなきなり、虚構の映像をしばしば事件の真実だと記憶はてしまうのだ。」


 つまり、

 「 ・・・それは現実に起こったテロリズムの記録映像と、テロリスムを主題とした虚構物語による映画的映像とが、一人の人間のなかでいとも簡単に混ざり合い、溶け合い、ステレオタイプの映像の混合物(アマルガム)を作り上げてしまうという事実である。
 こうした混合の結果、きわめてアイロニカルな状況がしばしば生じる。現実にある場所で時限爆弾が炸裂したり、要人が暗殺されるという事件が起きたとして、その現場を報道する映像を前にわれわれが感じるのが既視感であるという事実である。
 われわれはすでに過去に充分に蓄積された映画体験に基づき、無意識的にそれを基準として現実の事件の光景を受け入れる習慣に馴れきってしまっていた。」


Terrorism_a


 十九世紀的な、古典的ともいうべきロシアのナロード・ニキ(人民の意志)的なテロリズムとは些か様相を異にする、映画が登場し世界的普遍性を持つようになり更にテレビの登場によって伝播的加速性によって同時性をも獲得するようになった現代というすぐれて視覚映像的世界におけるテロリズムの、映画評論家・四方田犬彦の映画論的試論。
 
古典的、ナロード・ニキ的テロリズムとは、例えば明治末、時代閉塞の只中での啄木のこの情念的一擲。


われは知る、テロリストの 
かなしき心を
言葉とおこなひとを分ちがたき 
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり
 
   
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

~ ココアのひと匙《 呼子と口笛 》(6.15 1911)


 そして、

 「 地上のどこに住もうと、われわれは潜在的に犠牲者であり服喪者であることを、あらかじめ宣告されている」
 
という。 
 しかし、それは偏にテロリズムに限らず、交通事故やかつて冷戦時代にさんざん喧伝されていた頭上の脅威=核兵器、昨今ならいよいよ身近なものになって来たオスプレイはじめ日米の軍事航空兵器の落下、更に間欠的に発露する所謂通り魔事件等も並べてしまうと、もう権力構造から派生した悉皆テロルの観を呈してしまいかねない。
 それはともかく、テロリズムをテーマにした映画を幾片かあげていて、当方が観たことがあるのは、このブログでも以前紹介したハニ・アブ・アサド監督の《 パラダイス・ナウ 》(2005年)と若松孝二監督の《 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 》(2007年)の二作のみ。( ブルース・ウイルスの主演した《 ダイ・ハード 》(1988年)も観たけど、しかし・・・確かに9.11の頃はそれすら上映が憚られたとかいう記憶がある )


 “ テロリスムをスペクタクルの相のもとに描こうとしていない作品”としてあげられてた《 パラダイス・ナウ 》は、二人のパレスチナ青年が自爆テロを志願し、組織によって差配されお膳立てされて目的地に向かうプロセスのすったもんだを淡々と描いていた作品だけど、この四方田の本によると、パレスチナ人監督・ハニ・アブ・アサドは、この映画を構想した際、オランダ時代に読んだことのある神風特攻隊員の手紙に感銘を受けたのが誘因になったという。あの淡々さとは、正に、神風特攻隊員のそれであったのだろう。勿論あくまで一見の淡々さに過ぎないけれど。
 一人は途中で放棄、もう一人はテルアビブから様々な地元のユダヤ人たちの乗ったバスに乗り込む。が、やがて市内に入った頃、乗り合わせていた兵士が彼に不審な眼差しを向け近づいてきて・・・画面は真っ白。身体に巻いた爆弾を炸裂させたのか、それとも彼の意識が真っ白になって兵士たちに取り押さえられてしまったのか・・・
 

 先年亡くなった若松孝二の作品は、この手の映画にしては結構騒がれてて、一度隣町の名画座で観たことあったけど、結構長かった記憶がある。
 昔、何処でだったか忘れたが、彼の政治&性(ポルノ)系列の作品を一度観た記憶があって、決して悪くはなかったものの、当方的には今一つ、もうちょっと気の利いたやり方があったんじゃないかという残念感だけを妙に覚えている。
 件の《 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 》の方は、のっけから長々と'60年代左翼運動の変遷の映像が延々とつづき、この本を見ると一時間と記してあって、さすがに閉口してしまった由縁であった。
 “ 総括 ”という名のもとに12人ものメンバーをリンチ殺害したという所謂連合赤軍リンチ殺人事件のプロットはさすが実録だけあって執拗に殺伐酸鼻なシーンが展開されるけど、遠山美枝子なる女性活動家が、幹部の永田洋子と森恒夫の指示の下様々な拷問・リンチの暴力の果てに殺害されてしまう。
 実はその女性活動家は日本赤軍派幹部の重信房子の親友で、旦那も赤軍派幹部だったという。そして、この映画の監督・若松孝二の事務所にも頻繁に出入りしていて、若松と親しい存在でもあったらしい。彼にとってこの事件は辛酸苦渋そのもので、断腸の思いでの映画化だったようだ。
 テロリズムということじゃ、赤軍派の《 よど号ハイジャック事件 》や、《 テルアビブ空港事件 》が有名だが、この連合赤軍派の、当時の言葉でいうと“ 内ゲバ ”なる閉塞的な鬱屈と恐怖の退嬰的な暴力衝動的顛末を、テロリズム(組織)的属性として若松は提起したと四方田は言う。
 
 
 「 誰もが他者によって操作され、他者によって映像を収奪、あるいは付加されているのだが、いっこうにその事実に気付いていない。そのためテロリスムの試みはつねに不毛な演技に終始する。テロリストたちを駆り立てているのは、歴史にみずからの名を刻印したいという熾烈な衝動である。彼らは自分たちを報道し、自分たちに代わって、その主張を言明してくれる者、つまり表象=代行者が存在していないという現実認識に苛立ちを感じ、スペクタクルの演出を通して、一気にその閉塞状況を乗り越えようと試みる。」


 「だが、すべてを茶番劇へと還元してやまない今日の社会は、そのスペクタクルをも平然と回収し、あたかも何ごともなかったかのようにテロリストを表象=代行作用が君臨する世界の内側に閉じ込めてしまう。」


 因みに、

 「 ベンヤミンは、悲嘆、と哀悼はことなっていると説いた。悲嘆とはどこまでも個人が個人の次元において体験するものである。だが哀悼は個人を越えて、社会のなかで成立する行為だ。
 同じように、哀悼的想起もまた単なる想起、つまり思い出や回想とは異なっている。それは個人を越え、より広い次元において社会全体が服さなければならない作業であると考えられる。もし歴史家に役割があるとすれば、それは本来は悲嘆であったものを服喪へと変えることではないかと、ベンヤミンは論じている。」


 「 それは哀悼的想起を組織することである。それはテロリスムをめぐって世界に散乱している悲嘆を掬い上げ、纏め上げ、哀悼という視座のもとに世界を認識し直すことにほかならない。」



    《 テロルと映画 》 スペクタクルとしての暴力  四方田犬彦(中公新書) 2015年   


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