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2018年10月20日 (土)

深夜の北京路的哀愁  昆明( 2001年11月 )

Kunming
 


 今早朝、まだ陽の出前の闇空を見上げると、一面雲っぽく濁っていて、南の中空45度の角度あたりに微かに青色の滲んだシリウスがこれ見よがしに輝いていた。
 それにしても、この一、二年、クリアーな夜空ってこの南西辺境州じゃ余りお目にかかることもなくなって、ひんやりとした冷気の中、ふと立ち止まり、辛うじて見慣れたオリオン座や大犬座、双子座、一向に形が把握できないアルデバランやプレアデス(昴)の瞬く牡牛座なんかを辿ることができたぐらい。
 やがて、雲の間に、微細な光点が移動するのが見えた。
 西から東に向かって定速で走る人工衛星だった。
 何処の国の衛星なのかと詮索することもなく、街燈の下、とぼとぼと歩き続けている内、デ・ジャヴにも似た既視感を覚えた。
 

 ・・・街燈に明るく照らし出された深夜の広い歩道・・・場所は、昆明だった。
 旧い木造の建物が延々連なっていた旧市街が市当局によって完膚なきまでに一掃されそのあとにずらり白っぽい中国独特の中層マンションが建てられてしまった年。
 日記を確かめると、2001年11月。
 
 以前は上海や北京から鉄路で向かっていたのが、やがてバンコクからの直行航空便ができてからはダイレクトに飛ぶようになった。
 同じバンコク発のもっと西方を飛ぶバンコク→ネパール便は相も変わらず頻くトラブっていて怖いけど、2時間弱(当時)で中国の辺境・雲南の省都に行けるのは確かに時間的余裕がない旅程の場合は便利なものであった。
 

 バンコクの中国大使館で貰ったのは、スタンプ式じゃなくまだ新しく変わったばかりの貼り込み式のビザだった。時代が少しづつ変わってきているのが実感できた。
 
 
 着いてみると、以前陸路から辿って行った頃と街の様相が一変していた。
 とりわけ中心部はすっかり高層化されいっぱしの大都市の景観を呈していて驚いてしまった。人口六百万の大都市であってみれば当たり前といえば当たり前なんだろうけど。今じゃ地下鉄も走っているという。
 それでも当時(2001年)はまだまだ旧いレンガ造りの褪せた建物が一般的で、潰された旧市街に到底及ばないにしてもそこそこ古都・省都としての佇まいは残っていた。現在は一体どんな風なんだろう。


Kunming_1

 北京路に面した定宿の《 昆湖飯店 》の五階の三人部屋ドミトリー( 20元 )に入る。
 窓側のTVを挟んで右側のベッドに日本人青年、その手前に当方、向かい側のベッドにスウェーデン人の老爺、そして中国のホテルの定番の一列に並んだソファーと小卓、
卓の上の魔法瓶と大きめのカップ、そしてなかなか濃くならない茉莉花茶のティーバッグ。
 前回泊った際は、大通りの北京路に面したベランダが備わってて、下の大通りを眺められ、夜なんか街娼たちが通る男たちに言い寄る光景なんかが覗き見え飽きることもなかったのが、今回の部屋には窓だけ。
 大きなカップでインスタント・ラーメンばかり食べていたスウェーデン人の老爺が体調の関係か常に窓を少しだけ開けていて、夜なんか冷風が入り込りこみ寒くてしょうがなかった。昼間こそ陽光があればそこそこ凌げたものの、陰ったりすると忽ち肌寒くなってフィールド・ジャケットのジッパーを首まで引き上げねばならかった。  
 そのおかげなのか、前から泊っていた日本人青年は、時々咳き込んでいて、やがてバンコクに去って行った。入れ替わりに、広州を廻っていたらしい茶葉の研究家の日本人青年が入って来た。あっちこっちで茶葉を収集しながら旅をしてるという。収集した茶葉で彼のリュックはパンパン。
 名茶栽培農家まで足を運んで専ら筆談で会話し、奥に隠している良茶葉を出させたという。発酵させてないプーアル茶は30年くらい寝かせて置いたりして、良質なものはかなり高価で取引されるとか、土瓶は、茶の香りを吸い香りを薄くしてしまうので、陶器の急須の方が良いんだけど、土瓶も永く使っていると土瓶自体が今まで吸い込んできた香りを独特に発するようになって、これはこれで又味わい深いとか蘊蓄を延々と披歴してくれた。数日後、シーサパンナ(西双版納)に去っていった。


 当方も、昆明の後は、南方の暖かいシーサパンナに向かう予定だった。
 想定外の寒々とした気候のせいか、段々と咳がひどくなってきて、北京路にいっぱい並んでいる薬局の一つで感冒の薬を買った。
 バッファリンであった。
 漢方薬の宝庫=雲南昆明にあって、バッファリンとは。
 高山病の時にバッファリンを服用すると死ぬ場合があるという記事を以前読んだ記憶があって、些かたじろいでしまった。尤も幾ら昆明の標高が高いといっても、高山病になるような高さじゃなく、何日か服用してみた。それでも一向に咳は止まらなかった。
 深夜、これはやばいと森閑と静まり返ったホテルの階段を降り、ガードマンに玄関の扉を開けてもらい、街燈とネオンばかりが寒々と灯った人気の絶えた通りに出た。
 潮騒の如く遠くの人声が微かに響く大通りを、時折車が足早に走り去ってゆくばかり。
 それでもガードマンに教えられた方角にトボトボと歩き続けると、何とか件のこじんまりとした医院かと決めつけていたらそれなりに大きかった病院に行きつけた。

 受付でさっそく4・5元取られ、ガランとした無人の診察室に通された。
 初めての中国の病院だった。
 やがて現れた江青に似た感じの当直女医は、机を挟んで、病状を表現できるような中国語会話能力なんてあるはずもない当方と筆談での問診。
 しかし、何時果てることもない問診ばかりで、一向に実際に脈をすら診ようとはしない。埒もあかず、結局、蹴るようにそこを後にした。
 外の冷気に燻った興奮も忽ちに消え去って、深夜の昆明も珍しく、妙にゆったりした気分で大通りや横丁の、とっくに営業を終えた食物屋の店先で食器を女達が洗ったりしている光景なんかを眺めながらの彷徨は、熱っぽさもあってか、冷んやりとした一種独特に捨てがたい雰囲気に満ちていて、つい夜の果てまでの彷徨って想念が脳裏を過ぎった。

 結局、翌日(正確には当日)早々、バンコクに戻る羽目に。

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