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2018年10月の2件の記事

2018年10月29日 (月)

長崎港 枯れ木も山の賑わいの平成末的異聞

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 十六世紀後半、それまで海外貿易の拠点だった平戸(松浦藩)から、ポルトガルと日本側の商人たちのトラブル、それに武士までが加わって殺傷騒動にまで発展したため撤退し、南隣の大村藩主・大村純忠がその後を受け、横瀬浦(平戸と長崎の中間の入江)に開港した。が、他藩に焼き討ちに会ったため、現在の長崎・出島に移ることになったという。
 横瀬浦なる地名今回初めて知ったけど、横瀬浦焼き討ちの騒動の顛末なんて正に戦国時代といわんばかりの欺き裏切りの織りなす業火の転輪図さながら。その後の、切支丹弾圧模様なんかを合わせて観ると、大泉黒石の短編、たとえば《 血と霊 》のおどろおどろしい紅血の世界の縁因を辿れてしまいそう。


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 ( フェリー・ターミナルのチケット売り場のフロア。停泊している大型クルーズ《 處女星號 》からの客も居るのか混んでいた。島民用のフェリーは勿論、世界文化遺産がらみの五島クルーズを各社が出しているようだけど、長崎県に付属しているはずの壱岐・対馬の便が見当たらなかった。博多港からフェリーや高速船が出ているのは知っているが。)

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 長崎市には現在、国際港なるものは二つあるらしい。
 以前は上海=長崎の定期航路があって、当方も( 十何年も前 )上海からの帰路、その定期便を使おうとしたら、直前に停止になってしまい定番の鑑真号( ひょっとして蘇州号だったか )に乗る羽目になってしまったけど、どうもそれっきりのようで、現在、国際定期便航路はないようだ。
 それでも、門司港同様、大型の国際クルーズ船が、松が枝国際ターミナルと少し下った郊外のコンテナ基地でもあるらしい小ヶ倉柳国際ターミナルに入ってくるみたいで、当方が訪れた時も、長崎駅近くの長崎港から、その松が枝国際ターミナルに停泊している白亜の大型クルーズ客船の姿が望めていた。


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 路面電車の大波止( おおはと )駅で降りてすぐのところに長崎港の岸壁があり、右手にフェリー・ターミナルの如何にも風の建物が佇んでいた。
 その日は、何かの催事でもあるのか桟橋の一つに大きな黒い帆船が一艘泊っていて眼を惹いたけど、人影はなかった。岸壁の下にいくつもの魚群(ハゼのようだった)の影が覗け、大きな魚も悠々と泳いでいて、大きな魚が小さな魚をくわえる光景まで見させられ、総じて関門近辺の魚よりも一回り大ぶり。
 ネット見ると比較的最近参入した業者もいるみたいだけど、港の桟橋に何艘も水中翼船風の高速船や客船が連なっているのが、何よりも目を見張った。
 門司港や下関港と相違して、路線も多く、本格的な正にドメスティック・ターミナルで、当方が訪れたのが日曜というのもあってか、決して狭くはないターミナルが、折からの五島の世界文化遺産がらみの観光客や地元住民客でごった返していた。( 軍艦島行きのクルーズって何社もが競合しているようで、ここから少し離れた場所に専用発着場もある。 )
 確かに、関門港程には凋落の影は窺えなかった。 


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 ( 松が枝国際ターミナルの第二ターミナル入口。クルーズ船が停泊する際は基本閉館となり一般客は入れず、それ以外の日は市民たちが活用しているようだ。)


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 埋立て地の広場で何かイベントでもやっているようで家族連れを含めた人群の間を岸壁沿いにどんどん南下してゆくと、白亜の大型クルーズ船の停泊した松が枝国際ターミナルに着いてしまった。
 船尾に《 Virgo 處女星號 》とあった。
 クルーズ船が着く日はここの国際ターミナルは閉館になるようで、岸壁に並んで立っているターミナルの上が展望回廊になっていて、一人ゆっくりと白塗りの船体を眺めながら歩いて行った。船首あたりに、如何にも中国風の飛仙ならぬ人魚、否、麦穂( スピカ )を手にした“ おとめ座 ”の女神が描かれているのが淡い異国情緒を醸し出していたが、後部の船体に何と“ Genting 雲頂世界 ”と記されていて、すぐにカンボジアは首都・プノンペンにある時を境に急に見るようになったそのネームの記されたバスやタイからマレーシアに向かう時にも長距離バス・ターミナルで目にしたネームを思い出した。
 マレーシアのギャンブル王・王国泰の会社、スタークルーズのクルーズ船だった。

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 処女星号=13階建の75000トンで、935室を備え、1,870名の乗客を乗せる香港拠点のスタークルーズ( 麗星郵輪 )のクルーズ船で、他にも何艘も所有しそれぞれのエリアで就航しているという。短期のクルーズ船で、今回は五泊六日の天津発、博多経由らしい。
 会社は違うが、乗客四千人というロイヤル・カリビアン・インターナショナル(マイアミ)の“ クァンタム・オブ・ザ・シーズ ”も、どっちかの国際ターミナルに、その16万トン、348メートルの巨影を聳えさせたという。


《 血と霊 》の冒頭、長崎育ちの黒石は、長崎の港と海の光景を異国情緒風味を醸し出していたけれど、確かに高台のグラバー通りあたりからの眺望はミレニアム=平成末的にくすんではいるもののまだまだ想像力を駆使すれば異国の微かな芳香ぐらいは感得できそうだ。


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 ( 松が枝国際ターミナルの通りを隔てた真ん前に、現在は記念館になった旧[ 香港上海銀行長崎支店 ]が燻すんだまま佇んでいて、この辺りが嘗ての目抜きだったことを窺わせる。左奥にチャンポン元祖といわれる中国餐庁・四海楼が大きく聳え、右側にはカステラの本場長崎ということであっちこっちに聞き覚えのあるカステラ屋の本店が散在している中の一つらしいのがひっそりと佇んでいる。)


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 ( グラバー通りから下方に拡がる景観を望む。造船ドックのクレーンが如何にも港湾都市然とした趣きを呈している。黒石が住んでいた明治・大正の頃とは随分と変貌してしまっていようが、昨今のトロピカル化で眩しいぐらいの自然の照り返りで、少しは南国情緒は取り戻せているってことはあるのだろうか。長崎湾を左に進み西にどんどん海原を突っ切ってゆくと、百キロ先の五島列島に到る。)

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2018年10月20日 (土)

深夜の北京路的哀愁  昆明( 2001年11月 )

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 今早朝、まだ陽の出前の闇空を見上げると、一面雲っぽく濁っていて、南の中空45度の角度あたりに微かに青色の滲んだシリウスがこれ見よがしに輝いていた。
 それにしても、この一、二年、クリアーな夜空ってこの南西辺境州じゃ余りお目にかかることもなくなって、ひんやりとした冷気の中、ふと立ち止まり、辛うじて見慣れたオリオン座や大犬座、双子座、一向に形が把握できないアルデバランやプレアデス(昴)の瞬く牡牛座なんかを辿ることができたぐらい。
 やがて、雲の間に、微細な光点が移動するのが見えた。
 西から東に向かって定速で走る人工衛星だった。
 何処の国の衛星なのかと詮索することもなく、街燈の下、とぼとぼと歩き続けている内、デ・ジャヴにも似た既視感を覚えた。
 

 ・・・街燈に明るく照らし出された深夜の広い歩道・・・場所は、昆明だった。
 旧い木造の建物が延々連なっていた旧市街が市当局によって完膚なきまでに一掃されそのあとにずらり白っぽい中国独特の中層マンションが建てられてしまった年。
 日記を確かめると、2001年11月。
 
 以前は上海や北京から鉄路で向かっていたのが、やがてバンコクからの直行航空便ができてからはダイレクトに飛ぶようになった。
 同じバンコク発のもっと西方を飛ぶバンコク→ネパール便は相も変わらず頻くトラブっていて怖いけど、2時間弱(当時)で中国の辺境・雲南の省都に行けるのは確かに時間的余裕がない旅程の場合は便利なものであった。
 

 バンコクの中国大使館で貰ったのは、スタンプ式じゃなくまだ新しく変わったばかりの貼り込み式のビザだった。時代が少しづつ変わってきているのが実感できた。
 
 
 着いてみると、以前陸路から辿って行った頃と街の様相が一変していた。
 とりわけ中心部はすっかり高層化されいっぱしの大都市の景観を呈していて驚いてしまった。人口六百万の大都市であってみれば当たり前といえば当たり前なんだろうけど。今じゃ地下鉄も走っているという。
 それでも当時(2001年)はまだまだ旧いレンガ造りの褪せた建物が一般的で、潰された旧市街に到底及ばないにしてもそこそこ古都・省都としての佇まいは残っていた。現在は一体どんな風なんだろう。


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 北京路に面した定宿の《 昆湖飯店 》の五階の三人部屋ドミトリー( 20元 )に入る。
 窓側のTVを挟んで右側のベッドに日本人青年、その手前に当方、向かい側のベッドにスウェーデン人の老爺、そして中国のホテルの定番の一列に並んだソファーと小卓、
卓の上の魔法瓶と大きめのカップ、そしてなかなか濃くならない茉莉花茶のティーバッグ。
 前回泊った際は、大通りの北京路に面したベランダが備わってて、下の大通りを眺められ、夜なんか街娼たちが通る男たちに言い寄る光景なんかが覗き見え飽きることもなかったのが、今回の部屋には窓だけ。
 大きなカップでインスタント・ラーメンばかり食べていたスウェーデン人の老爺が体調の関係か常に窓を少しだけ開けていて、夜なんか冷風が入り込りこみ寒くてしょうがなかった。昼間こそ陽光があればそこそこ凌げたものの、陰ったりすると忽ち肌寒くなってフィールド・ジャケットのジッパーを首まで引き上げねばならかった。  
 そのおかげなのか、前から泊っていた日本人青年は、時々咳き込んでいて、やがてバンコクに去って行った。入れ替わりに、広州を廻っていたらしい茶葉の研究家の日本人青年が入って来た。あっちこっちで茶葉を収集しながら旅をしてるという。収集した茶葉で彼のリュックはパンパン。
 名茶栽培農家まで足を運んで専ら筆談で会話し、奥に隠している良茶葉を出させたという。発酵させてないプーアル茶は30年くらい寝かせて置いたりして、良質なものはかなり高価で取引されるとか、土瓶は、茶の香りを吸い香りを薄くしてしまうので、陶器の急須の方が良いんだけど、土瓶も永く使っていると土瓶自体が今まで吸い込んできた香りを独特に発するようになって、これはこれで又味わい深いとか蘊蓄を延々と披歴してくれた。数日後、シーサパンナ(西双版納)に去っていった。


 当方も、昆明の後は、南方の暖かいシーサパンナに向かう予定だった。
 想定外の寒々とした気候のせいか、段々と咳がひどくなってきて、北京路にいっぱい並んでいる薬局の一つで感冒の薬を買った。
 バッファリンであった。
 漢方薬の宝庫=雲南昆明にあって、バッファリンとは。
 高山病の時にバッファリンを服用すると死ぬ場合があるという記事を以前読んだ記憶があって、些かたじろいでしまった。尤も幾ら昆明の標高が高いといっても、高山病になるような高さじゃなく、何日か服用してみた。それでも一向に咳は止まらなかった。
 深夜、これはやばいと森閑と静まり返ったホテルの階段を降り、ガードマンに玄関の扉を開けてもらい、街燈とネオンばかりが寒々と灯った人気の絶えた通りに出た。
 潮騒の如く遠くの人声が微かに響く大通りを、時折車が足早に走り去ってゆくばかり。
 それでもガードマンに教えられた方角にトボトボと歩き続けると、何とか件のこじんまりとした医院かと決めつけていたらそれなりに大きかった病院に行きつけた。

 受付でさっそく4・5元取られ、ガランとした無人の診察室に通された。
 初めての中国の病院だった。
 やがて現れた江青に似た感じの当直女医は、机を挟んで、病状を表現できるような中国語会話能力なんてあるはずもない当方と筆談での問診。
 しかし、何時果てることもない問診ばかりで、一向に実際に脈をすら診ようとはしない。埒もあかず、結局、蹴るようにそこを後にした。
 外の冷気に燻った興奮も忽ちに消え去って、深夜の昆明も珍しく、妙にゆったりした気分で大通りや横丁の、とっくに営業を終えた食物屋の店先で食器を女達が洗ったりしている光景なんかを眺めながらの彷徨は、熱っぽさもあってか、冷んやりとした一種独特に捨てがたい雰囲気に満ちていて、つい夜の果てまでの彷徨って想念が脳裏を過ぎった。

 結局、翌日(正確には当日)早々、バンコクに戻る羽目に。

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