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2019年2月の2件の記事

2019年2月25日 (月)

 大泉黒石 仮構的燦爛世界

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 ( 黒石一家。まだ。後の映画俳優・大泉滉は生まれてない頃のよう。)

 

 大正八年、編集長の瀧田樗陰(ちょいん)に認められ《 中央公論 》に《 私の自叙伝 》、《 俺の自叙伝 》の連載をはじめ、瞬く間に作家として時代の寵児となってゆく大泉黒石。そんな黒石の軌跡を追い黒石の人物像に迫ろうとした志村有弘 の《 近代作家と古典 》( 笠間書院 )の中の一章、《 大泉黒石の文学と周辺 》は小編の割にはけっこう力作で面白い。

 

 「 今日の『 朝日新聞 』に大泉黒石の記事が写真入りで出ていた。二、三日前に『 中央公論 』が出たばかりなのに、早くも、キョスキー・大泉がクローズ・アップされて、彼の経歴が彼自身の口で語られている。自分の故郷はトルストイの住んでいたヤスヤナポリアナに近いので、トルストイはよく知っているなどとも言っていた。『 俺の自叙伝 』に出ていたフランス時代の話や、これからの仕事に対する抱負らしいことも、謙遜しながら語っていた。新聞に出るのが早いのにも感心したが、黒石氏もどうやら『 俺の自叙伝』で一躍、世に出たという感じだ。」

 

                          大正八年九月十日の件 《 木佐木日記 》

 
 当時《 中央公論 》の編集員の一人だった木佐木勝は、樗陰の黒石に対する過剰な賞賛に危惧の念を抱いていたようだ。

 

 「 とにかくこの人は眼の色が変わっているばかりではない。『 俺の自叙伝 』も変わっているが、この人自身が変わっているという印象だ。自叙伝を読み、実物を見て正体がつかめないところがあると思った。十二ヶ国語に通じているという田中(貢太郎)氏の話もにわかに信用できないと思った。」

                           ( 同 上 )

 

と、端から黒石に対して胡散臭げな印象を隠そうともしない。 
 石を投げつけたら怒って投げ返そうとしたトルストイの話や、意地の悪いドオデェのことなどを小説=創作世界の中だけにとどまらず、《 朝日新聞 》で自身の口で同様の経歴を披歴したらしく、彼の言説の悉くが如何様にも変容する不確定性にゆらいでいたようだ。
 かつての江戸の絵師や戯作者達の一部なんかがそうだったように、長崎育ちの割には「 江戸弁の饒舌体 」を自家薬籠中の如く駆使する黒石も自身を韜晦する傾向性が見られ、煙に巻かれた周辺人たちの歯ぎしりと憤懣が絶えることがなかったようだ。
 面白いのは、“江戸戯作”の開祖的存在と称されていた平賀源内( =風来山人 )、上方から江戸にやって来ての江戸詞(ことば)の駆使三昧ってところで、長崎育ちの黒石と何か通底するものが窺えるところ。

 

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( 黒石の父。天津・漢口のロシア領事館領事・アレキサンドレ・S・ワホヴィッチ )

 

 明治二十六年十月二十一日、長崎は中川沿いの幕末以来の歌舞伎興行館・八幡座と隣り合わせた宮地嶽八幡神社の境内の脇の民家で、天津のロシア領事館員の父親と長崎娘の母の間の第一子として生まれ、幼少時に早々とその両親とも亡くしてしまって、母方の祖母のもとで育てられたいう。
  
 黒石自身の言によると、小学校は“ 桜馬場の小学校 ”となっているけど、この小学校《 桜馬場小学校 》は当初は現在も観光地になっている《 シーボルト宅跡 》に《 鳴滝小学校 》として創られたのが、明治十一年に馬場郷の《 桜馬場天満神社 》の一角に移って《 桜馬場小学校 》となったものらしい。
 ところが、明治二十六年、つまり黒石が生まれた年に、更に西山郷鴉谷( 現在の西山町三丁目 )に移転し、《 村立上長崎尋常小学校 》となり、二年後には手狭になって片淵町(二丁目)に新築校舎に移った由。現在の《 市立上長崎小学校》に至っているとのこと。
 問題は、黒石が生まれた頃には、既に《 桜馬場小学校 》ではなく、《 上長崎尋常小学校 》となっていたってことで、これってあきらかに黒石の韜晦的変容ってやつだろう。
ひょっとして実際に通っていたのは別の小学校だった可能性も考えられなくはないものの、《 上長崎尋常小学校 》の前身の名前を冠したってのが如何にも黒石らしい韜晦的手法じゃあるまいか。
 ( 因みに、この桜馬場エリアって、そもそもが長崎の町のオリジンの場所という。又、後に黒石の嫁になる美代の実家があった春徳寺山にも近い少年期の記憶的刻印色濃いエリアでもあるようだ。この辺りを舞台にした黒石や美代の少年期を題材にした《 代官屋敷 》(《 中央公論 》大正九年二月 )って作品もある。) 

 

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 ( 長崎・鎮西学院中学生の頃の黒石。)

 

 黒石が十歳の頃、中国・漢口の中国領事だった父親が亡くなって、モスクワ郊外の父親の兄弟の所に引き取られ、二年ほどして、伯母の居たフランスに渡り、サンジェルマン・リセ―の寄宿舎に入るが、途中曾祖母が亡くなって帰国し、地元のミッション系の鎮西学院中学に編入して貰い入学したという。後、京都の南禅寺に起居しながら《三高》に通っているうち、偶然にも長崎の幼馴染(許嫁だったともいう)だった美代と邂逅する。 やがて結婚するが美代の親族の反対にあい、東京に駆け落ちする。
 黒石二十五歳の大正六年六月のことという。
 ところが、最初に就いた工場の書記の仕事がすぐに駄目になりさっぱり仕事の口が見つからず、出産したばかりの美代にさんざん愚痴られて、背に腹はかえられずと実入りの良い牛屠殺の仕事や皮革工場に勤めたりしてるうち、ひょんなことから《中央公論》に作品を執筆する運びとなる。
 初めての東京で、さすがの黒石も、喰わんがため、夫婦二人と生まれたばかりの第一子を養っていくため、それこそ断末魔の牛達の叫びと真っ赤な血飛沫に塗れながら、底辺的日々を送り続けたのであろう。《 俺の自叙伝 》にはその辺のところが彼の独特の饒舌体で面目躍如として描かれている。

 

 「 昔、尾上松之助の芝居を、一日百枚書いて十円貰って、ほんとうに、みっともないほどお辞儀をしていた時分や、三日三晩――と云えば何だかお伽話の定り日のようだが――かゝって、女房に蚊を追って貰って、焼酎の元気で「中央公論」へ百五十枚ばかりの自叙伝を書いた( 実際ヘマをやればその百五十枚で壁でも貼らなければならなかったのだが )時代は殆んど文壇と云うものゝ存在も知らないし、そこに何の野心も目的もなかった。従って其文壇と云うものに如何に多くの小姑が巣喰ってゐて、いかに偏見と野暮と嫉妬は俺だ ! と云ふ風な面がまへをして散々私と云う孤立の一文士の、貧弱な立ち場の損な一文士の城塁に切り込んで来ることか ?」

 

                    《 刺笑の世界から 》大泉黒石( 大正九年七月)

 

 ようやく何とか作家として立ち、生活の目鼻が立ち始めた頃、同じ《 中央公論 》誌上で活躍していた芥川龍之介や佐藤春夫なんかが、黒石や田中貢太郎、松村梢風等いわゆる大衆作家の作品が掲載されていた“説苑”欄を越境して、彼等純文学の“創作”欄に掲載しようとした編集側の動きに断固反対の挙に出たらしい。

 

 「 われわれはあのような徒輩と同席するのをいさぎよしとしない。即刻掲載を中止せよ。」

 

 高名作家たちの執筆拒否まで持ち出してのけんもホロロの最後通牒に、さすが名編集者の樗陰も屈服せざるを得なかったエピソードは有名だったようで、両者は互いに反目し合っていたという。 

 

 「 しかし、私の大嫌いな、私共の生活に一体どれほどの味方や貢献を与えてくれるのかさっぱり解らない作者先生輩等のペダンチカル・アリストクラチック・ムード・・・」

 

 と、そんな高名作家たちを指弾した後、黒石は、自らをこう位置づける。

 

 「 俺の芸術は苦笑の世界から生れて来るのだ。刺笑の世界に限られているのだ。」

 

 「 私が云うとすることは、ほんとうに人間だけが賦与されている笑いと云う自己忘却で、( 自己忘却の方法としては其他に失神や睡眠や、酩酊、陶酔などがあるけれども )積極的に幸福と云うものゝない人間の、開闢以来私どもの生活に必然的に伴って来る、そして、その中から脱却することの出来ない不幸を、一時休止させる一種の発狂状態が私の主張する私の芸術だと云うのである。陶酔も笑いも結果は同じことである。生よりの忘却手段である。芸術に最高の目的があるとすれば、それは陶酔であり笑いであるに違いない。」

                       《 刺笑の世界から 》大泉黒石

 

 

 そもそもが、黒石が京都三高時代の頃に《 大阪朝日 》の某国太郎の処に原稿を持って訪れた際、国太郎が小説の書き方を簡単に教示してくれたことがあったという。 

 

「 ・・・小説は、国太郎のように、心を酔わせて、神経を麻痺して、不安や焦燥から、まわりくどく遁れて綺麗に白粉を塗って胡魔化さなけりゃ駄目だ。」

 

 “心を酔わせ”が、正に上記の黒石の作品論と同様の没頭的陶酔であり、“白粉を塗る”とは、正に虚構的糊塗のことであろう。つまり、没頭的陶酔のうちに糊塗し上首尾に仕上げるって寸法、想像の翅を大きくはばたかせる、それが小説=フィクションって基本の教示。( まだ、高校生だった黒石に分かりやすく教えてくれたに違いない。)
 黒石にとって要はそこなんだろう。
 そして作家としてそこが基準になり“真実”となって、“作家活動”自体もそれに準ずるものとなってくる。勢い、舞台裏のプライバシーの方が“虚構”、黒石の家庭の事情誰も知らずって構図。
 それにしても、黒石、根が生真面目なのか、大阪朝日の編集者の言葉をよくも後生大事に信奉してきたものだ。一見、彼の“キャラ”からすると反撥しそうなものだけど、やはり納得できるものがあったのだろう。
 因みに、《 俺の自叙伝 》で一躍有名になって後、《 恋を賭くる女 》をその《 大阪朝日 》に連載することになった。

 

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 ( 漢口のロシア領事館での黒石の父・伯母・祖母 )

 

 滞米期間も長かった米国帰りの作家で大正十五年( 1926年 )から《 週刊朝日 》の編集長をやっていた翁(おきな)久允は、米国での経験から黒石に比較的同情的であった。

 

 「 ・・・私と大泉黒石との出会は昭和の初めであったが、その前に私はアメリカにいたので( 明治四十年から大正十三年まで )その間に黒石の小説を読み彼の存在を認識していた。帰ると間もなく朝日に入り、週刊朝日の編集をやることになった。ある特集をやったとき、黒石に手紙を出して寄稿を依頼したらもって来てくれたのが初会見だったと思う。このアイの子はその多年在米していた私にはなつかしいものであった。彼のアイの子文学はその頃一種の特長をもっていたが、文壇人はアイの子である彼に対しては薄い幕を張っていた。孤独な彼に私は同情の念をもった。そこで私は遊びに来ないかと誘って、よく私宅で酒を呑み合った。無邪気なところが私は好きであった。彼は磊落に見えたが、原稿の一字一字は実に正確な字画であった。」

                              ( 翁久充の志村有弘宛の書簡 )

 

 「 ・・・本当の友達らしい友達をもっていなかったところに私は黒石を見ている。アイの子というものに対するその頃の日本人の偏狭な感情が彼に対してほの見えた。それが私の彼への愛情になった。彼は酒飲みだけの友達しか持っていなかったのでなかろうか。家庭のことは何もきかなかったが子供が沢山あったらしく、生活は苦しかったそうだ。原稿も余りよく売れなかった。どうして生活しているのかと私は内心心配していた。だから、やってくると彼の欲するだけの酒を飲ました。
 ・・・文壇人とは殆ど交遊を絶ったが黒石はちょいちょい訪ねて来た。その頃はボロ着に笠を冠り、下駄などと粗末なものであった。貧乏も底をついているようであった。彼は何も欲していない。ただ酒であった。そして飲むと飄々として去った。」

                                      ( 同 上 )

 

 恐らく《 中央公論 》デビュー前のことだと思うが、日本で作家として名をなせないのなら、アメリカやフランスで作家としてデビューしようと企んでいたという話もあって、最近こそ海外でそこの現地語で著作活動をする日本人作家って必ずしも珍しい存在ではなくなったものの、大正の頃だと殆ど稀有だったろうし、黒石なら本当にやらかしそうそうにも思える。フランスだとデビューが黒石よりちょっと遅いけれど同世代の《 世の果てへの旅 》のセリーヌなんかが活躍し始めた頃だったろうか。

 

 「 ・・・逆を言えば、黒石にとって創作は単に世渡りの手段であり、文壇など眼中になかったのではなかろうか。」                            

 

 と、この著者・有村は述懐する。
 しかし、喰わんがため・世渡りの手段ってことを前提とすると、上記のアメリカやフランスでもデビューしようと企んでいたというエピソードは、“出稼ぎ( 移民 )”的イメージも帯びてくる。
 当時も、喰わんがためあるいは一山当てようと海外に出稼ぎ・移民に飛び出していった者は少なくない。ハリマオ=谷豊の家族も、そんな中の一家族に過ぎなかった。戦後も大部過ってからは、いわゆる低開発国から盛んにやって来られる側の国になったものの。
 この本で知った面白いエピソードがある。

 

「 ・・・三月大泉黒石が来て図書館で講演した。ががたる鼻柱の下からロシアなまりの巻き舌で繰り出すので、『 エスペラントのごたる』と評した人がいた。」
     
                            島内八郎(長崎の歌人)《 長崎新聞 》


 テレビやなんかでアジアや欧米からやってきた外人たちの繰り出す日本語が総じてそれぞれの母国語の発音からくる“なまり”を帯びているのと同じだけど、それってやはり黒石がロシアやら国外での生活が短くはなかったってのを証してもいるってことになるし、それ以上にそんな口調の金髪碧眼の身長もそれなりにある、つまりロシア人然とした男が突然自分たちの面前に立ち現れたら、いくら大正デモクラシー華やかし当時にあっても文化エリートたちは、アカデミズム的徴象の一片だに掲げることもないむしろ貧民窟の血腥い牛血の異臭すら漂ってきかねないその異貌に、忽ち違和感、あるいは本能的な嫌悪感すら覚えたのかも知れない。当時、ロシアから亡命してきた盲目の詩人・エロシェンコにはいかにも舶来ものに触れるような対応だったらしいのが。
 所詮東の果ての島国の閉鎖的な性根のなせる業ってことに尽きてしまうことだったのだろうか。  

 

         《 近代作家と古典 》志村有弘 ( 笠間書院 )1977年

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年2月16日 (土)

紅蜆 タイの困惑的商標

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 過日のバックパッカーを決め込んでいた頃に集めたというか、捨てずに後々の資料として貯めこんでいた茶封筒群の一つをまさぐっていると、かつてバンコクの外人御用達カオサンでだろう、当時流行りの、あるいはアフガン行を企み、ひょっとして有用性を発揮するかも知れないと格安で作った“ ジャーナリスト”の身分証がポロリと出て来て、そこに刻印されたもっともらしい登録ナンバーに思わず苦笑してしまった。
 その脇に、もう一枚、些か丈夫そうな幾重にも折りたたんだ跡のある薄い紙片があった。取り出してみると、バンコクで買った鉄観音茶のパッケージ(包み紙)だった。
 如何にも風のタイと中国のドッキングした所謂“華人”世界的産物。
 そのデザインとキィッチュ風味が気に入って敢えてとっておいた奴だった。
 “弐級”(二級)とあるように、庶民御用達って訳でか、箱じゃなく、直接この包装紙で包んでいたと決めつけていたけど、きっちりした折り目からして、たとえ茶葉をビニールで四角く包んだ上での包装紙としても、果たしてそんなにきっちりと折り目がつくものなのかと疑念を抱くと、忽ちにしてあやふやになってきた。
 あれれ・・・二十年近い歳月の向こうの些細な有様は、ネットでちょっと確かめようとしてもまるで浦島太郎。で、如何なる様式のパッケージだったのか不明なまま、それでも何とも味のあるデザインと風趣に一点の陰りもない。
 

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 当時は、何気なくそのまま美味しく頂いただけだったのだろうが、今、まじまじとそのパッケージを眺めてみると、些か妙なことに気付いた。
 否、華人文化に無知なだけに過ぎないのだけかも知れないけれど、
 “ 弐級 鉄観音 ”はともかく、三枚の赤い貝の図案の上に緑のタイ文字で“ ホーイ・デ―ン”と記され、下には赤文字で“ 紅蜆商標 ”とある。
 “ 蜆 ”、しじみ ?
 蜆って、すくなくとも日本列島じゃ、ふつう小さな三角のすべすべした表面の貝だったはず。このごっつい感じの貝の絵姿とはあきらかに異質。日本と中国じゃ、同じ漢字でも意味が随分と違う場合も少なくはない。
 が、ネットで見てもはっきりしない。
 あげく、日本語の俗説の方の、“赤貝”が女性の性器の隠語なのに対して、“蜆”は少女( 色街では禿 )のそれを現わすなんてのがあったぐらい。まさか、少女の割目を商標にするとは到底考えられないけど、華人の高齢者などが少女に回春的効能を期待しようとする風習があるらしいってのを何処かで聞いたことがあり、それだと処女性=初々しさや清々しさをイメージした商標ってことになるのか・・・ ?
 そんなネット検索中に、ふといつの間にか訳の分からないフレーズの中に分け入っているのに気付いた・・・蝶々の世界だった。
 両羽を拡げても3センチぐらいの小さな“ 紅蜆蝶 ”、日本列島の野山に朱色の姿で飛び回っているらしい。
 これは鉄観音とは、如何にも関係ありそうにない。


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 と、その時、タイ文字で記された“ デ―ン”が“赤”という意味だったのを思い出した。かつてタイの栄養ドリンクの定番だった“ クラティン・デ―ン ”(=赤いバッファロー)、今じゃ世界的なエナジー・ドリンクとして有名になった“ レッド・ブル ”のデ―ン( =赤 )だ。
 “ ホーイ・デ―ン”だから“ ホーイ ”を調べてみると、果たして、“貝”とあった。
 何のことはない、“赤貝”のことだった。
 赤貝は日本のでも、グローブみたいな放射肋が伸びて絵のようにごっつい。
 このイメージと少女=処女性とはてんでそぐわない。
 華奢な紅蜆蝶とも。  
 “赤貝”は中国じゃ“血蛤(はまぐり)”とも呼ぶらしいし、琵琶湖水系の瀬田蜆は貝殻が鼈(べっ)甲色をしているので、紅蜆とも呼ばれているようだ。  
 いよいよ錯綜迷走し取り止めがなくなってしまったが、少なくとも、“ 紅蜆商標 ”は“ 赤貝商標 ”という了解性だけは得られた。
 
 因みに、装飾円形の中に認められた“ 倶佳香韻 ”は、“ 香りも余韻もともに素晴らしい ”という意味で定型句のようだ。
 この茶葉屋“ 集友茶行両合公司 ”の所在地、“ 泰京 越三飯大聖仏祖畔門 ”って、泰京=バンコクはすぐ分かるものの、それ以下の住所は全く分からない。大聖仏祖畔門って、恐らくチャオプラヤー川畔のどこかの仏教寺院なのだろうけど

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