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2019年3月の2件の記事

2019年3月24日 (日)

ボリウッド的愛国帰郷譚 デリー6 ( 2009年 )

 以前MVが気に入ってて頻くMVだけをyoutubeで視聴していたものだったインド( ボリウッド )映画《 Dehli 6 》、今回その同じyoutubeで漸く映画自体を見せてもらった。
 2009年制作ってことで改めて時間の経過に驚いた。
 もう十年も過ってる。
 当方の感覚じゃまだ数年前・・・
 “ masakali masakali~ mataakali mataakali~・・・ ”
 と、モーチット・チョーハンの唄うmasakaliの乗りのいい曲にあわせて、すらりとした美形女優ソナム・カプールが父親の飼っている純白のハト・マサッカリを頭にのっけて踊ったり、主人公ローシャン( アビシェーク・バッチャン )がインドの首都デリーの旧市街の路地を巡ってゆく《 masakali 》をはじめ、旧市街の大きなモスク、ジャーマー・マスジッドの中庭や回廊、否、その周辺にもびっしり溢れひしめいた信者たちが正座し一斉に礼拝する姿からはじまる敬虔さとやがて映画の中で展開されるヒンドゥーとのコミュナル( インド的な主にヒンドゥー=モスレムを中心とした宗教的紛争・軋轢 )な争闘的悲哀を孕んで朗朗とjaved Ali, とKailash Kherが唄い上げる《 Arziyan 》、オールド・デリーから突如ニューヨークのタイムズ・スクエア―に分け入って溶融した主人公の白昼夢的世界《 Dil Gira Dafatan 》、このタイムズ・スクエア―にオールド・デリー的世界が浸潤した場面はなかなか面白く、最初観た時は随分と大掛かりなニューヨーク・ロケをしたのかだと呆れたほどで、実際はデジタル画像処理によって作られた光景で、パソコン・ソフトでも使ったかのような画像処理シーンもあって遊び心満点。


 物語は、米国から死地として母国を選んだ母親と一緒にインドに帰国し、郷里のオールド・デリー=チャンドニー・チョークの久しく空家になっていた自宅に戻って来た主人公・ローシャン(アビシェーク・バッチャン)と、その界隈に昔から住んでいて母親・アンナプルナ( ワヒーダ・レフマン )と旧知の人々とその周辺人たちとの親愛・葛藤を経て、彼ローシャンも母親と一緒に旧市街の路地裏の住民となることを選択するに至るという愛国的帰郷譚ってところ。

 このアビシェーク・バッチャン主演の《 Dehli 6 》じゃ、住民のイスラム=ヒンドゥーの宗教的対立を媒介にして予定調和的宥和に落ち着いてしまうのだけど、ちょっと前の

《 Swades 》(2004年)じゃ、主人公モーハン( シャールーク・カーン )は米国のNASAに勤めていて、両親に先立たれていて唯一の肉親のような乳母が高齢で気にかかり、インドに戻って来て、彼女が学校教師の一人娘と住んでいるウッタル・プラデッシュ州の片田舎の村を訪ねそこに滞在している内、その時代から取り残されたような余りに旧弊な村の有様に、何とかせねば、と改革的方途に着手し、一旦米国に戻ったものの、村人たちの顔々が浮かび上がって来てやもたてもたまらず、NASAでの仕事を放りだし、チャランブール村に戻ってしまう同系列の愛国的帰郷譚だったけど、この作品の場合も、この

《 Dehli 6 》と同じA.R.ラフマンの名曲が情景を盛り上げることしきり。

 当時、確かインドじゃ、先進国に移住している成功したインド人たちの帰国的援助を国策的に求めるキャンペーンをしていたような記憶があるけど如何だったろう。

 《 Swades 》じゃ、貧困と無知という何とも前時代的な題目の克服という文部省推薦的な匂いすら漂ってきかねないきらいもあったものの、この首都・デリーの旧市街の物語《 Dehli 6 》は後半から展開されるヒンドゥー=モスレムのコミュナルな紛争の宥和ってことで多少の相違はある。

 それともう一つ、この映画の始めの方で、ローシャン母息子がチャンドニー・チョークの旧居に戻って来た際、近隣住民に歓迎され門を開けるシーンがあるけど、《 Chak De! India 》( 2007年 )じゃ、イスラム系のプロのクリケット選手だった主人公( シャールーク・カーン )が国際試合でパキスタン側に有利なプレイをしたという疑いをもたれ、世間・周辺住民から“ 売国奴 ! ”と罵られ、老いた母親と一緒に長年住み慣れた旧市街の家を後にする際の門を閉めるシーンが同じアングルだった。こっちは石持て追われる流れで、幾年か後、女子クリケット・チームを率いて紆余曲折を経ながらも優勝街道へ直走ってゆくのだけど、これも一種のコミュナルなニュアンスが漂い、“ 愛国統一戦線 ”的なスローガン、“ Chak De! India ”( 行け! インド )という訳だ。
 因みに、シャールーク自身も、本来は隣国パキスタン・ペシャワールの出身のイスラム系俳優だったのもあって、いやでもリアルな様相に。


 ローシャンの母親役のワヒーダ・レフマン、'50~'60年代に活躍した男優&監督のグル・ダッドと彼と結婚した当時の人気プレイバック・シンガーのギータ・ロイとの三角関係にあって、グル・ダッドは自殺し、幾年か後にギータも酒に溺れて死んでしまったという悲劇的結末で有名な、以前にも紹介したことのあるグル・ダッド主演・監督の《紙の花》Kaagaz Ke Phool(1959年)でもヒロインを演じ、以降もナンバーワン美人女優として第一線で活躍していたようだ。

 当時の美麗さの記憶しかないので、最初この映画で観た際も余りの変貌に、あのワヒーダ・レフマンとは思いもかけなかった。

  《 Dehli 6 》(2009年) 監督・ラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ
( 制作・ショーマン・ピクチャー )
 追記 :  ココログ=ニフティーのリニューアルとやら、3月20日でもう大丈夫って配信してたけど、4日過っても不具合のまま。
    この記事に画像つけようにも小さすぎて使いものにならず断念。以前にもこんなリニューアル的不具合の滞留状態があって、まともな  
    状態に戻るのにけっこう時間がかかった記憶がある。そもそもこの記事も、こんなに早くアップする予定はなかったのだけど・・・
               

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2019年3月12日 (火)

  1932年の夜逃げは水路をひっそりと 林家舗子

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 久し振りに旧い中国映画を観た。
 以前紹介した魯迅すら観に来たという《 春蚕 》(1933年)と同じ、原作・茅盾=脚本・夏衍だけど、こっちはそれから二十数年後の1959年に水華監督で撮られた《 林家舗子 》( 邦題『 林商店 』)。
 養蚕農家を扱った《 春蚕 》もそうだったが、この《 林家舗子 》も一地方都市の小さな商店の“上海事変”的ゆらぎを描出した悲惨故事。原作はともに1932年で、茅盾が故郷・浙江省桐郷県烏鎮に一時帰郷した折に想を得たという。

 先ず、“1931年”と、時代を告知する。
そして、淀んだ運河を船頭の漕ぐ舟がゆっくりと進んでゆく長閑な光景から始まり、やがて両側にくすんだ昔ながらの民家・商家が連なる入り組んだ細い水路に分け入ってゆき、運河が網羅された水郷の町であることが分かる。
 と、終業の鐘が鳴らされる。
 授業の終わった生徒たちが次から次へと校舎から溢れだす下校時、林家の一人娘・明秀と仲良しの小李が手をつないで校庭の外に向かっていると、小李の友人が背後から声をかけ二人にその夜に催される“日本製品ボイコット( 抵制日貨 )”集会の案内状を手渡される。
 二人の背後で別の女子生徒二人、訝しそうな眼差しで聞こえよがしに嘯(うそぶ)く。

 
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 「 あの娘( 明秀 )、着てるのいつも日本製( 東洋貨 )よ ! あの娘の家の店の品も、皆日本製 ! 」

 明秀が一人運河沿いの自分の商家に戻ると、家の前に人垣ができていた。
 余会長の一行が、店頭での日本製品の有無を確かめに来ていたのだ。
 明秀の父である店主は怪訝な表情を隠すこともなく反論した。

「 うちにゃ日本製品なんて極くわずかしか置いてませんよ !」

 袖の下を求めにやって来ているのだった。
 向かいの商売敵《 裕昌祥 》は五百元も会長に袖の下を払ってるので、店主の店《 林源記 》の何十倍も日本製品を売っていても一切お咎めなし。彼の妻が、強盗の方がまだ増しよ ! と吐き捨てる所以であった。
 この時期、“世界恐慌”や“満州事変”ですっかり低迷していた景気に呻吟し不安を募らせていた人々を喰いものにする蒋介石支配の国民党政権下の腐敗横行は、一層鬱々とした更なる社会不安を蔓延させた。
 抗日を煽り、その裏では利権を貪(むさぼ)る蒋介石=国民党の露骨な腐敗的体質は、かつて一時的に蒋介石の保護下にあったらしいあのMr.皇軍=参謀・辻正信すらが直に見聞きした彼らの余りの腐敗性に言及していたほど。
 結局、泣く子と地頭には勝てぬ、とばかり店主は袖の下の工面に向かう。


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 師走( 旧正月 )も押し迫ってくると、この店に預金していた朱三の老妻が店に現れ、節季( 歳末。その年の支払い関係の期限。)というのにもう利息三月分も滞っていると三か月分=9元の支払いを求めて来る。後のない切羽詰まった彼女の気配に、やむなく店中の現金をかき集めて支払う始末。それなりの店舗のようなのが、たった9元の現金支払いにすら窮するぎりぎりの経営状態。

 その後、今度はうちつづく景気不振に上海の金融機関( おそらく伝統的 )からやって来た代理人にまとまった額の支払いを求められ、地元の両替商《 恒源銭荘 》へ赴くもあの手この手で断られてしまい店の金をかき集め何とか難を乗り切った。
 起死回生の策として、折から戦火を追われこの遠い水郷の小さな町にも上海から船に溢れんばかりになってやって来た避難民たちが、皆着の身着のまま状態で逃れて来たのに商機を見出し、最低必要用品一式を洗面器に収めて一元という難民たち向け特別大売り出しをうった。“ 林源記 大廉価 優待避難同胞 ”のプラカードまで掲げさせ町中で宣伝させたかいあってか、避難民たちが殺到。
 が、そもそもその売り出しの製品をそろえる資金の不足したところを、金を貸している零細商店から借金のかたとして“それだけは ! ”と必死に泣きついてきたのを振り払い強引にその店の品物を根こそぎ近く奪い取って来たものでもあった。
 あるいは、以前“ 15パーセント値引き( 八五折 ) ”バーゲンをやろうとした向かいの店《 裕昌祥 》の裏をかいて“ 大減価 20パーセント値引き( 八折 ) ”で対抗し、今回も一方的に避難民客を取ってしまった形の《 林家舗子 》に業腹な《 裕昌祥 》の店主が、薄利多売を繰り返す《 林源記 》の資金繰りの悪さを見透かし、腹いせに界隈に《 林源記 》の店主一家が夜逃げしようとしているというデマを流す奸策を謀る事態をも招来させてしまった。早速噂にのせられて朱三の老妻と寡婦の張家嫂嫂(嫁)が乳飲み子を抱えて店に押しかけて来た。
 “ 店主が逃げようとしている”と噂されているじゃないの、ともかく預けている元金を全部返してくれ、と。
 当惑した店主は、当店はちゃんと店舗を構えた店ですよ、と一笑に付して見せ、一応はなだめすかして帰らせる。


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 ところが事態はそれだけで済まなかった。
 卜( 中国読み : プあるいはブ )警察局長が林家の一人娘・明秀を見染め、妾( =姨太太 )にしようと、一向に肯わない林家店主を逮捕する挙に出た。
 番頭の寿生の奔走のかいあって何とか釈放されるが、店主夫婦も娘を卜警察局長の妾なんぞにする気など毛頭なく、とりわけ母親は心底の怒りを覚えたものの、八方塞がりで万策尽きてしまった。その時、番頭の寿生が机の上に黙したまま“ 走 ”と指先で記して見せた。
 出奔、つまり「夜逃げ」。
 店主の妻が机の上にヘソクリの400元をならべ、憤った彼女は断固として居残りを宣言し、番頭の寿生も一緒に残って残務整理に当たることにし、ともかく旦那の店主と娘の明秀を逃がすことに。
 何のことはない、《 裕昌祥 》が垂れ流した噂が本物になってしまったという訳だ。


 と、噂を聞きつけて飛んできた乳飲み子を抱えた張家の寡婦が激しく閉まった店の戸を叩く音が鳴り響いた。
 店の裏側がそのまま運河に沿った河岸になっていて、店主父娘は待たせてあった小舟にあたふたと乗り移り、暗い細水路をひっそりと逃げ去っていった。
 翌朝、両替屋《 恒源銭荘 》に差し押さえられてしまった《 林源記 》の周囲には、銃を持った警官まで多数配置され、押しかけた小口の預金者や諸々の債権者たちが中に入ろうとするのを押し返した。
 そこに、再び、血相を変え乳飲み子を抱いた張家の寡婦が駆け込んで来て、制止する警官の脇から強引に入り込もうとするが叩き出される。やがて、事態が一層険悪になって来て警官たちが威嚇発砲すると、群衆は一斉に逃げ出した。逃げ惑う群衆にもまれ抱いていたはずの乳飲み子と逸(はぐ)れてしまった張家の寡婦、見やると向うの地面の上に転がった乳飲み子、そしてその上を逃げ惑う群衆が・・・


 官憲に追われ逃げ惑う群衆と乳飲み子って場面、この時期なら当然に、エイゼンシュタインの《 戦艦ポチョムキンの叛乱 》( 1925年 )の広い階段での転がった少年や赤ん坊の乗った乳母車のシーンのアナロジーなんだろうが、ビデオのせいか今一つ迫力に欠ける。


2

 
 因みに、この張家の寡婦を演じたきつい一重瞼の女優、中国第五世代の監督の一人・田荘荘の母親=于藍( ユイ・ラン )で、男優・田方と結婚し、後年の文革期には、この作品が江青たちの批判の対象に挙がったこともあってか、論難され、監督の水華と脚本の夏衍をはじめ彼女たち夫婦も何年も下放されてしまったという。原作者の茅盾は幾年も音信不通に雲隠れしていたらしい。力のある党幹部に匿われていたのだろうか。
 旦那の田方は獄死。
 下放中に顔に損傷を受けていた于藍、釈放後、女優業から遠ざかり、児童映画協会の会長なんかに収まってそれなりの活躍はしていたようで、現在ももう百歳近いにもかかわらず存命中。
   

 当時の国民党政権下の中国社会を、“大魚吃小魚、小魚吃蝦”、大きな魚は小さな魚を食べ、小さな魚はエビを食べる式の弱肉強食的社会として捉え、その論理の行きつく先には、暗澹と破滅しかないという基本的認識の小説的具象化として《 林家舗子 》が構想されたという。
 ブログ見ると、“上海事変”以降、上海じゃ預言書が流行ったという。
 その消極的受動的運命論の蔓延を、一種の麻酔効果として茅盾は批判的で、希望とは己が手で勝ち取るもの、実現するものという積極性を萎えさせるものとして社会主義者としては当然の立場であったろう。悲惨的描出の向こうに読者・観客にどうすべきかの自律的積極性の喚起を想定しての作品化だったようだ。
 先ず理論が先行し、それから作品的肉付けしてゆくタイプらしいけど、公式イデオロギーのステレオタイプ的垂れ流しとはあくまで一線を画す、創造的なアプローチだったようで、同じ作家連盟のむしろ政治的な方面のリーダーだった魯迅と相違して、あくまで作家としてのリーダーシップを発揮していたらしい。
 

  《 林家舗子 》( 邦題『 林商店 』) 1959年制作 ( 北京電影制片庁 )
      監督・水華  原作・茅盾 脚本・夏衍


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