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2019年7月の2件の記事

2019年7月20日 (土)

 映画『 血と霊 』への仮構的アプローチ 《 1923 溝口健二『 血と霊 』 》佐伯勉

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 以前、四方田犬彦が《 大泉黒石と表現主義の見果てぬ夢 ――幻の溝口健二『 血と霊 』の挫折――》(月刊新潮 2015年9月号 )で言及した、映画《 血と霊 》のフイルムが現存しない故の当時のあれこれの記事・写真から再現してみようとするパルテノン多摩でのプロジェクト、その監修を務めた溝口の研究家らしい映画評論家・佐伯勉の1991年に著した《 1923 溝口健二『 血と霊 』 》。

 

 映画関係のシリーズ“ リュミエール叢書 ”の第11巻。
 タイトルから一冊全部、映画《 血と霊 》に言及したものかと決めつけていたら、その前史としての当時の演劇・映画界の状況の概括からはじまってて、映画《 血と霊 》の再現的アプローチは実質半分にも満たなかった。
 そもそもフィルムが当時、関東大震災で焼失し、そんな遠く平成・昭和・大正という三時代も前の事柄ゆえに、当時観た人達の情報も僅少・曖昧、残存する写真・評論の類に依拠するほかないのだからそんなものなんだろう。
 ただ、前史たる当時の映画・演劇界的事情を見ていると、黒石を中心とした例えば辻潤、そのかかわりとしての舞踊家・石井漠、あるいはむしろ《 浅草オペラ 》なんかの名なんかが出てきて、興味を惹かれた。
 
 
 「 この人( 辻潤 )も浅草で活躍した一人である。むしろ高田保( 浅草・新国劇の劇作家 )をリードする立場にあり、自分で原稿を書いたり、下手な芝居に出演したり、それなりの浅草では有名な存在であった。」
   
                                                                                       《 ダダイズム 》石井立夫

 

 

 元々辻潤が演劇関係に係わっていたのは知ってはいた。
 けど、てっきりちょっと舞台に出てみるだけのお遊び程度と決めつけていたら、そんな浮薄な質のもじゃなくて、けっこうそれなりに演劇に入れあげていたのには驚いてしまった。そんな辻と、黒石、盟友なのか腐縁なのか。

 

 

 「 彼(=黒石)がまだ浅草の山平社時代に、公園でバットの屑を拾い歩いたり、草担ぎをやったり、一山百文のドラマを書いて五九郎に売りつけたりしていた時代からの知己で 」 ( 曾我廼家五九郎 : 浅草演劇の雄でもあり喜劇映画の売れっ子でもあったらしい。)

 

                                                                          陀々羅行脚《 絶望の書 》辻潤                             
             
 そして自らも、

 

「 昔、尾上松之助の芝居を、一日百枚書いて十円貰って、ほんとうに、みっともなへいほどお辞儀をしていた時分 」

 

    《 刺笑の世界から 》大泉黒石

 

 大正末に黒石が、《 中央公論 》でセンセーショナルな作家デビューする以前に、尾上松之助や喜劇の曾我廼家五九郎の脚本を書いていたとはつい最近まで知らなかった。
 映画《 血と霊 》に至るまでの、とりわけ映画《 カリガリ博士 》以降、当時の一大現象だった“ 表現主義 ”をめぐるこの国における映画・演劇界はたまた舞踊界までの様々な試行錯誤ではあるが、唐突に黒石にそのお鉢が廻って来たという訳じゃない細い糸でのつながりってものが、むしろ了解できてしまう。

 

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 大正の映画雑誌《 活動雑誌 》( 1923年九月号 ) の“ 映画物語《 血と霊 》”という6ページにわたる特集記事や当時の映画雑誌や新聞・雑誌の映画評、現存するスチール写真、あるいは関係者の記憶的断片を元にしての筆者・佐伯なりのイメージ的再現。

 

そもそも黒石はあくまで原作者で、それもこの映画のためにホフマンの《 スキュデリー嬢 》を基にした翻案物。監督の溝口健二が脚色し、《 カリガリ博士 》での意表を突いた不安神経症的な怪異な表現主義派的舞台装置を美術の亀原嘉明・久保一雄・渡辺造酒らが担当し、撮影が青島順一郎。
 制作は、1923年6月~7月。大正12年8月15日葵館で試写。9月1日関東大震災。

 

 

 写真(スチール)は全部で17枚。
 映画とタイアップした黒石の短編小説集《 血と霊 》大正12年(春秋社)の巻頭にもない、ネットでもあまり見たことのない写真が結構あって驚いた。映画関係者だけあって、あっちこっちから掻き集めてきたんだろう。
 “ 映画物語《 血と霊 》”は、映画の流れを簡単に活字化したもののようだけど、その現物が提示されているわけでもなく、佐伯の提示する断片を見るしかない。
 18片のシーンによって構成され、流れ的には黒石の小説と大差ない。
 けど、佐伯は不満をこぼす。

 

 

 「 映画物語を読む限り原作にあった鳳雲泰の内面の分裂の苦悩など何も感じられない。」

 

  「 映画《 血と霊 》の重点が鳳雲泰の内面描写には無かったと結論づけていいのかも知れない。」

 

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 その上で、当時の批評の一つ、《 キネマ旬報 》の批評に触れる。

 

 

  「 むしろ内田岐三彦が『 物語の筋は不思議な殺人事件を中心とした大変面白いもので』( 《 キネマ旬報 》1923年12月1日号『 主要映画批評 』)と書いているように、映画の物語面での面白さは、怪奇的な殺人をめぐる秘密を解き明かしてゆく謎解きの面白さにあったと言えよう。」

 

 

 という“ 怪奇探偵物 ”としての評価。
 総じて期待された“ (国産)表現主義派映画 ”という肝心の面じゃ余り芳しくなかったようだ。当時の異口同音な映画雑誌や新聞の評論やコメントが並べられている。監督・溝口の脚色の拙さと、そもそも出演俳優たちやスタッフ自身が“ 表現主義 ”をまず理解していない点がやり玉にあげられている。
 でも、外来のニュー・ウェーブなんてどの時代でも大差はない。
 その時点でどんなものを創りあげれたかってところが肝心なのだし、未消化であったとしても、種々様々な違和・錯誤があってもその有機的連関・総体のダイナミズムが、やっぱし面白いはず。
 文部省・教科書的な正誤表的価値判断は余り意味を持たない。
 尤も、原作者・黒石自身も、“失敗作”と断じ、何よりも表現主義に対する理解の無さを嘆じつつ、舞台装置にはそれなりの評価をしていたようだし、次作の、《 絨毯商人 》で挽回を期してもいたようだ。
 
 制作側のアプローチの端的な例が次の髪結の回想であろうか。

 

 

  「 昔表現派とでもいうのでしょうか。/ 故人溝口監督が《 血と霊 》という映画を作りました。監督さんの注文が『 おびえた頭 』『 恐怖の頭 』という具合には困りはてました。絵にでも描いてくれるならともかく、言葉だけの注文ですから話のほかです。結局雀の巣のような頭を作ったことを覚えております。」
      
                                               ( 結髪を担当した亀田(伊奈)もとの回想《 髪と女優 》伊奈もと )

 

 

 大泉黒石+溝口健二=映画《 血と霊 》の実像に迫れると思っていたのだけど、何たって関東大震災の直前に作られたせいで、まともに上映すら行われることもなくフィルムが失われてしまったという状況からしたら、まあ、そんなものかも知れない。
 既に大泉黒石の原作を読み、それに関する二、三の論考まで読んでいる者としては、特に目新しい何かがあった訳でもないものの、未見の幾点かの映画スチールが映画の空間的イメージの雰囲気を大体了解させてくれた。

 

 

 

                           1923 溝口健二《 血と霊 》佐伯勉 ( 筑摩書房 ) 1991年

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2019年7月 6日 (土)

時代閉塞的断章 《 白い花 》 秋山清

 Photo_20190701192401

 

 


 YOUTUBEで土取利行が朗読している秋山清の《 白い花 》、詩は特に好きという訳じゃないけどこの作品は結構気に入っていて、時々視聴したりする。
 土取の朗読の仕方もあるんだろうが、戦時中という前提もあって一語一語がシリアスに心底に沁み入ってくる。
 ところが、秋山の著作にその《 白い花 》を彼自身解説した《 わが解説 》(文治堂書店 )があると知り、早速Amazonで取り寄せてみた。
 奥付をみると“ 2004年発行 ”とある。
 あれ、確か秋山って昭和に亡くなっていたはず、と思ってると、果たして解題に昭和63年( 1988年 )で84歳で死去とあり、《 わが解説 》自体は昭和52年から文芸誌《 幻野 》に連載したものという。
 そもそも《 白い花 》って、同じタイトルの《 白い花 》という昭和10年~21年の主に戦時下に書き溜めた作品をまとめたタイプ印刷の小詩集で、発行所はコスモス社。
 タイプ印刷といえば、手書きのガリ版刷りよりワン・ランク上の印刷ってことだけど、どちらも簡素なことこの上ない。それ故にシンプルな妙味もある。

 “ わが解説 7 《 白い花 》前後 ”の冒頭。

 


 「 薄っぺらな詩集『 白い花 』には短い詩が三十数篇集められ、それは一九三五年( 昭和一〇)から一九四六年に至る戦争の十年間の私の詩のすべてである。未発表のものも多く、『 反対 』『 文化組織 』『 詩作 』等の他『 林業新聞 』という方角のちがったところにも掲載してもらった。何といっても寡作であった、ということを併せて、その理由は私の非力と未弱、それ故に戦争というはげしい現実が詩に耐え切れなかった、ということがもっと大きい。」

 

 

 「 ・・・戦後何かが華々しく見えた時代にも、その作品はひたすらに見すぼらしかった。しかし本当に見すぼらしかったのは、この本の中味である。戦時下の人民的抵抗の一つであったといわれることがあったとしても、質量ともに貧弱きわまることは私自身が証明する。この小っぽけな詩集の中の詩を二つか三つか、とり出して、秋山清の詩的レジスタンスは、なにと語るとすれば、そのように見えるかもしれない。が一冊の詩集としての貧しさは、到底語るに及ぶものではない。それに値する作品があるかと問わるれば一も二もない。」

 

 

 上記の“ 人民的抵抗の一つ ”とは、吉本隆明の《 抵抗詩 》の中のでの言葉であろう。

 

 “ ・・・この三篇(「 白い花 」「 国葬 」「 拍手 」)の詩にひどく感銘をうけた。当時は、わたしなどの戦争期の記憶などからすると、ちゃきちゃきの戦争謳歌の詩をかいていた詩人が、いっぱしの抵抗詩人であったかが如き言辞をロウし、・・・わたしは決定的にニヒリステイクであった。そなんとき、秋山の詩をよんだのである。
 わたしの当時の感じは、「 これならほんとうだ 」というものであった。これを抵抗詩と呼び、これを抵抗詩人と呼ぶなら、わたしも承認してもよいという感じであった。”

 

 

 

 「 支那事変のはじまるより以前に私たちは、現実について書くための表現方法を求めようとして、それで以って検閲の目をくぐろうとの思惑を併せ持とうとした・・・その全くささやかな視点をわがものにすることの実践は矢張りむずかしかった・・・
 私らの詩法「現実に語らせる」というのは、目に見たものを描写することから発し、事実( 現実 )を先ず捉え、それによって真実を表現しようとすることであった。そこには省略も拡大も必要であるが、存在の現実を描いて真実を語らせるまでの力は私にはなかった。」 

 


 「 詩集『 白い花 』のなかに「 白い花 」という短い詩がある。昭和十九年( 一九四四 )の秋、私はある若い友人がアッツ島で戦死して、近く区民葬として大勢の戦死者といっしょの葬儀があるという話を聞いた。彼の父と妻と子供たちは東京の世田ヶ谷区のどこかに住んでいた。そのことによって私はこの詩をかいた。」

 

 

  アッツの酷寒は
  私らの想像のむこうにある。
  アッツの悪天候は
  私らの想像のさらにむこうにある。
  ツンドラに
  みじかい春が来て
  草が萌え
  ヒメエゾコザクラの花がさき
  その五弁の白に見入って
  妻と子や
  故郷の思いを
  君はひそめていた。
  やがて十倍の敵に突入し
  兵として
  心のこりなく戦いつくしたと
  私はかたくそう思う。
  君の名を誰もしらない。
  私は十一日になって君のことを知った。
  君の区民葬の日であった。

 

 

 「 全軍が死んだアッツ島の戦争は想像の及び難いことであった。だが、当時日本兵がそこの山陰に休んでいる光景や白いアッツザクラなどがうつくしく新聞には出ていた。僅かな夏期に茎みじかく咲く白い花に見入っている兵の姿もあった。悪天候ということや日本では思いもつかぬ寒気、そんなことは皆新聞で知った。そこでは野草の花のヒメエゾコザクラを兵たちがアッツザクラと呼んだこともあったという。」

 

 

 「 すでに太平洋を制圧していたアメリカ軍が、十数倍の兵と武器とを投入してアッツ島に迫り、のしかかって来れば、逸早く白旗をかかげぬ限り、全滅は必死である。全軍が死んでから幾日か幾月かが過ぎてから、戦死の友人もまじった合同の区民葬ときいたのであった。私は、知るかぎりのアッツへの思いを駆使して一篇の「 白い花 」を書いた。そらの珍しく晴れた晩秋の一日が記憶に残ったのである。」

 

 

 「 この詩のなかに「 心のこりなくたたかいつくした 」という一行がある。あれはじつに不安定な、無責任な言葉であったかもしれない。たたかいつくすとはどういうことか。全軍が一人のこらず死なねばならぬということか。跡方もなく壊滅し、一人の生きた者もなく、討たれ果てたということか。多分そうであろう。だが、死にたくない思いを故郷の妻子に傾けて、おののき死んだ者の上に、たたかいつくしたという言葉が使用できるだろうか。私が説明したような意味がそこから発生して読者に伝わるであろうか。少なくとも作者はこの言葉には不満である。だから、「 たたかいつくしたと私はかたくそう思う。」となったのである。私は心やさしかりし友人が、君国のためわが命を捨てることを我と我が身に悲しんだであろうことを信じたかったが、十分にそのようにはかけなかった。たたかいつくしたという表現に、いくらか、わずかに、その無念の思いが表現できたらとあせりながら、こんな詩になってしまった。」

 

 

 「 自己の思いによって何ものも充たされることなく、死に向かうことだけしかなかった、といったことを、時と所とを隔てて思い返して見れば遺憾のみがあって、心の開かれるところはどこにも、何一つもなかったであろうことが思われ、そのような人の思いに届くことはこの詩には描かれなかった、そのことをつくづく悟らされるのである。」

 

 

 本当は、白い花、つまり秋山のいっていたヒメエゾコザクラ=アッツ桜の写真でも乗っけておこうと思ったんだけど、いざネットで探してみると、まあ、これがてんで埒もない。あるのは、濃いピンクの“アッツ桜”ばかり。
 これは秋山の零していた、" 近頃東京の花屋でも売っている花弁が一枚多い、しかしどう見ても桜には見えない "白い花の類。おまけに、かつて白だったらしいのが、昨今じゃ紅い花ばかり。おまけに、この現在流布している“アッツ桜”は、そもそもが北方・寒冷地体とは真逆の南アメリカ原産( ロードヒポキシス )という。
 で、“ ヒメエゾコザクラ ”の方はといえば、これは五弁だけど、まずアッツ桜と同様濃いピンクあるいは紫色ばかり。稀に白い花もあるようだ。花弁の形は桜より細長い。でも、このエゾコザクラ(蝦夷小桜)、オホーツク・ベーリング沿岸エリアの寒冷な草原に咲く多年草というから、こっちの方が可能性が高い。
 恐らく、【 アッツ島占領 】の記事の写真にヒメエゾコザクラ=エゾコザクラにロードヒポキシス花が似ていたからアッツ桜として売り出したのだろうが、秋山が新聞で見たらしいヒメエゾコザクラ自体がどんなものなのかはっきりしない。

 

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