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2019年7月 6日 (土)

時代閉塞的断章 《 白い花 》 秋山清

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 YOUTUBEで土取利行が朗読している秋山清の《 白い花 》、詩は特に好きという訳じゃないけどこの作品は結構気に入っていて、時々視聴したりする。
 土取の朗読の仕方もあるんだろうが、戦時中という前提もあって一語一語がシリアスに心底に沁み入ってくる。
 ところが、秋山の著作にその《 白い花 》を彼自身解説した《 わが解説 》(文治堂書店 )があると知り、早速Amazonで取り寄せてみた。
 奥付をみると“ 2004年発行 ”とある。
 あれ、確か秋山って昭和に亡くなっていたはず、と思ってると、果たして解題に昭和63年( 1988年 )で84歳で死去とあり、《 わが解説 》自体は昭和52年から文芸誌《 幻野 》に連載したものという。
 そもそも《 白い花 》って、同じタイトルの《 白い花 》という昭和10年~21年の主に戦時下に書き溜めた作品をまとめたタイプ印刷の小詩集で、発行所はコスモス社。
 タイプ印刷といえば、手書きのガリ版刷りよりワン・ランク上の印刷ってことだけど、どちらも簡素なことこの上ない。それ故にシンプルな妙味もある。

 “ わが解説 7 《 白い花 》前後 ”の冒頭。

 


 「 薄っぺらな詩集『 白い花 』には短い詩が三十数篇集められ、それは一九三五年( 昭和一〇)から一九四六年に至る戦争の十年間の私の詩のすべてである。未発表のものも多く、『 反対 』『 文化組織 』『 詩作 』等の他『 林業新聞 』という方角のちがったところにも掲載してもらった。何といっても寡作であった、ということを併せて、その理由は私の非力と未弱、それ故に戦争というはげしい現実が詩に耐え切れなかった、ということがもっと大きい。」

 

 

 「 ・・・戦後何かが華々しく見えた時代にも、その作品はひたすらに見すぼらしかった。しかし本当に見すぼらしかったのは、この本の中味である。戦時下の人民的抵抗の一つであったといわれることがあったとしても、質量ともに貧弱きわまることは私自身が証明する。この小っぽけな詩集の中の詩を二つか三つか、とり出して、秋山清の詩的レジスタンスは、なにと語るとすれば、そのように見えるかもしれない。が一冊の詩集としての貧しさは、到底語るに及ぶものではない。それに値する作品があるかと問わるれば一も二もない。」

 

 

 上記の“ 人民的抵抗の一つ ”とは、吉本隆明の《 抵抗詩 》の中のでの言葉であろう。

 

 “ ・・・この三篇(「 白い花 」「 国葬 」「 拍手 」)の詩にひどく感銘をうけた。当時は、わたしなどの戦争期の記憶などからすると、ちゃきちゃきの戦争謳歌の詩をかいていた詩人が、いっぱしの抵抗詩人であったかが如き言辞をロウし、・・・わたしは決定的にニヒリステイクであった。そなんとき、秋山の詩をよんだのである。
 わたしの当時の感じは、「 これならほんとうだ 」というものであった。これを抵抗詩と呼び、これを抵抗詩人と呼ぶなら、わたしも承認してもよいという感じであった。”

 

 

 

 「 支那事変のはじまるより以前に私たちは、現実について書くための表現方法を求めようとして、それで以って検閲の目をくぐろうとの思惑を併せ持とうとした・・・その全くささやかな視点をわがものにすることの実践は矢張りむずかしかった・・・
 私らの詩法「現実に語らせる」というのは、目に見たものを描写することから発し、事実( 現実 )を先ず捉え、それによって真実を表現しようとすることであった。そこには省略も拡大も必要であるが、存在の現実を描いて真実を語らせるまでの力は私にはなかった。」 

 


 「 詩集『 白い花 』のなかに「 白い花 」という短い詩がある。昭和十九年( 一九四四 )の秋、私はある若い友人がアッツ島で戦死して、近く区民葬として大勢の戦死者といっしょの葬儀があるという話を聞いた。彼の父と妻と子供たちは東京の世田ヶ谷区のどこかに住んでいた。そのことによって私はこの詩をかいた。」

 

 

  アッツの酷寒は
  私らの想像のむこうにある。
  アッツの悪天候は
  私らの想像のさらにむこうにある。
  ツンドラに
  みじかい春が来て
  草が萌え
  ヒメエゾコザクラの花がさき
  その五弁の白に見入って
  妻と子や
  故郷の思いを
  君はひそめていた。
  やがて十倍の敵に突入し
  兵として
  心のこりなく戦いつくしたと
  私はかたくそう思う。
  君の名を誰もしらない。
  私は十一日になって君のことを知った。
  君の区民葬の日であった。

 

 

 「 全軍が死んだアッツ島の戦争は想像の及び難いことであった。だが、当時日本兵がそこの山陰に休んでいる光景や白いアッツザクラなどがうつくしく新聞には出ていた。僅かな夏期に茎みじかく咲く白い花に見入っている兵の姿もあった。悪天候ということや日本では思いもつかぬ寒気、そんなことは皆新聞で知った。そこでは野草の花のヒメエゾコザクラを兵たちがアッツザクラと呼んだこともあったという。」

 

 

 「 すでに太平洋を制圧していたアメリカ軍が、十数倍の兵と武器とを投入してアッツ島に迫り、のしかかって来れば、逸早く白旗をかかげぬ限り、全滅は必死である。全軍が死んでから幾日か幾月かが過ぎてから、戦死の友人もまじった合同の区民葬ときいたのであった。私は、知るかぎりのアッツへの思いを駆使して一篇の「 白い花 」を書いた。そらの珍しく晴れた晩秋の一日が記憶に残ったのである。」

 

 

 「 この詩のなかに「 心のこりなくたたかいつくした 」という一行がある。あれはじつに不安定な、無責任な言葉であったかもしれない。たたかいつくすとはどういうことか。全軍が一人のこらず死なねばならぬということか。跡方もなく壊滅し、一人の生きた者もなく、討たれ果てたということか。多分そうであろう。だが、死にたくない思いを故郷の妻子に傾けて、おののき死んだ者の上に、たたかいつくしたという言葉が使用できるだろうか。私が説明したような意味がそこから発生して読者に伝わるであろうか。少なくとも作者はこの言葉には不満である。だから、「 たたかいつくしたと私はかたくそう思う。」となったのである。私は心やさしかりし友人が、君国のためわが命を捨てることを我と我が身に悲しんだであろうことを信じたかったが、十分にそのようにはかけなかった。たたかいつくしたという表現に、いくらか、わずかに、その無念の思いが表現できたらとあせりながら、こんな詩になってしまった。」

 

 

 「 自己の思いによって何ものも充たされることなく、死に向かうことだけしかなかった、といったことを、時と所とを隔てて思い返して見れば遺憾のみがあって、心の開かれるところはどこにも、何一つもなかったであろうことが思われ、そのような人の思いに届くことはこの詩には描かれなかった、そのことをつくづく悟らされるのである。」

 

 

 本当は、白い花、つまり秋山のいっていたヒメエゾコザクラ=アッツ桜の写真でも乗っけておこうと思ったんだけど、いざネットで探してみると、まあ、これがてんで埒もない。あるのは、濃いピンクの“アッツ桜”ばかり。
 これは秋山の零していた、" 近頃東京の花屋でも売っている花弁が一枚多い、しかしどう見ても桜には見えない "白い花の類。おまけに、かつて白だったらしいのが、昨今じゃ紅い花ばかり。おまけに、この現在流布している“アッツ桜”は、そもそもが北方・寒冷地体とは真逆の南アメリカ原産( ロードヒポキシス )という。
 で、“ ヒメエゾコザクラ ”の方はといえば、これは五弁だけど、まずアッツ桜と同様濃いピンクあるいは紫色ばかり。稀に白い花もあるようだ。花弁の形は桜より細長い。でも、このエゾコザクラ(蝦夷小桜)、オホーツク・ベーリング沿岸エリアの寒冷な草原に咲く多年草というから、こっちの方が可能性が高い。
 恐らく、【 アッツ島占領 】の記事の写真にヒメエゾコザクラ=エゾコザクラにロードヒポキシス花が似ていたからアッツ桜として売り出したのだろうが、秋山が新聞で見たらしいヒメエゾコザクラ自体がどんなものなのかはっきりしない。

 

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