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2019年12月の3件の記事

2019年12月25日 (水)

1989年の中国初旅

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 1989年8月といえば、その2ヵ月前に北京で起きた《天安門事件》の余韻まだ冷めやらぬ頃で、ソ連圏崩壊の時節でもあって、些かの緊張と初めての海外個人旅行という少なからずの蠱惑的期待感をもって、空路で上海に入った。
 尤も、当時西安やなんかで日本人旅行者が相次いで殺害された事件なんかが報じられてて、すっかり夜の闇に閉ざされ虹橋空港のターミナの外にチカチカ仄暗い灯に照らし出されてびっしり群がったタクシー運転手たちの顔々が一層雲助風味をかきたて、何とも禍々しいばかり。あっちこっちに突っ立った首からIDカードをさげた民警ならぬガイドのおばさん達が、運転手が差し出した免許証か証書を見て確認し、「この運転手は大丈夫 !」とばかりに相槌をうってはじめて不案内な客が彼のタクシー( 出租車 )に乗るようになっていて、僕もさっそくそのやり方に倣って無事ホテルに辿りつけた。

 

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 ( 青い羊に乗った老子が現れて教えを説いたという伝説にのっとった道観 )

 

 その初回の海外旅行では日記もつけず、途中の新疆ウイグル自治区の州都・ウルムチ( 烏魯木斉 )の《 新疆崑崙賓館 》備え付けの薄い便箋に認めた日程表だけが手元に残っているだけで、一ヶ月余りの旅の詳細は殆ど忘れてしまった。
 そもそも本来の目的はチベットだった。
 が、《天安門事件》の影響なのか、チベットには入れないという旅行代理店の話で、とりあえず麓近くの四川省・成都へ飛んで少し様子を見ることにしたのだが、どうも駄目のようで、結局シルク・ロード行=新疆・敦煌ルートを巡ることに変更した。列車でウルムチへ行くつもりが、折からの雨で宝鶏baojiあたりで線路が流され鉄道は不通ってことで空路にした。宝鶏周辺は難所らしく景観もなかなかのものらしかったので残念だった。
 
 ウルムチ→トルファン→敦煌→上海

 8月下旬に上海から四川省は古の都・成都へ空路に入り、1週間近く滞在したけれど、何処を廻ったなんかてんで覚えてない。交通飯店だったかの上階に毎日のように下から中国瑶滾(ロック)曲が響いてきたのだけはよく記憶している。
 それと剥き出しの人民厠(公衆トイレ)。
 朝なんてずらり中国人たちが石段の上にズボンを下ろし横一列に並び、それぞれ思い思いの排便的所作を展開しているのを眼の当りにして、最初は思わず後ずさりしたものだったが、次第に馴れてきた。現在も中国はまだあの“人民厠”方式を堅持しているのだろうか?
 

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 ( 諸葛亮孔明の祠。諸葛亮の諡号が武侯 )

 

 以前何処に留まったかの書付が残ってたはずが分からなく、実際に交通飯店に泊まったのかどうかも曖昧で、否、確か宿を途中で、川を挟んだ向かい側の宿に替えたような記憶もあって、最初は少し高めの錦城賓館だったのが他のパッカーたちに聞いて交通飯店に移ったのだろう。
 当時(おそらく当時以上に現在も)、《 九寨溝 》見学ツアーの看板・ポスターがやたら目に付いた。面倒そうなので僕は行かなかったけど、青羊宮や武侯祠なんかの近場の観光地には赴いた。青羊宮は老子を祀った道観(寺院)で武侯祠は諸葛亮孔明の祠。
 これもはっきりとした記憶は残ってなくて、川沿いにだったかずらり並んだ粗末な造りの土産物屋だけは覚えていて、以前何処かで書いた記憶あるけど、ある広い土間の台の上に土産品を並べた店に入ると、一人の小太りした服務員の小姐が佇み小さな声でずっと唄を口ずさんでいたのだけは覚えている。勿論軽快なポップスじゃなく、ゆったりとした歌謡の類で、日本の街角でもかつては幾らでもいたはずが、潮が引くように時代と共に居なくなってしまった。

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( 国際ハイウェイ・バスと銘うっているところが好い。)

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( ウルムチ→トルファンのバス・チケット。料金は7・3元となっている。最近だと45
元ぐらい。えらく値上がったものだ。)

 

 まだ高層ビルの類は殆どなかったけど成都は大都会(現在人口1600万人)でもあって、信号が変わると、朝の広い道路一杯に自転車の群れが怒涛の如く向かって来る様は一見の価値ありもので、あれには本当に圧倒されてしまった。八億だったか十億だったかの正に人民中国そのものの迫力だった。
 成都といえば四川料理の本場、が体調を崩していて、余り辛いものは遠慮させてもらった。街角の店々に担々麺の看板が並んでいて、見るからに辛そうな汁は別になっていて麺の上にかける方式のようだった。そのやり方は最近になってようやく日本でも定着し始めたようだが、僕はといえばもっぱら湯麺の担々麺ばかりで、未だかけ汁方式の方は喰ったことがない。陳家麻婆豆腐も、当時コックのバイトをしていた日本人留学生によると、あの辛さは“ 意地と面子 ”の産物らしい。現在の辛さ追求も一段落した感のある日本のついこの間までの激辛追及も根は同じなんだろうか。

 

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( 柳園→上海の列車のチケット。当時、敦煌には鉄道駅がなかったので、100キロ以上離れた柳園にバスで向かっていたけど、2000年頃に柳園から敦煌に名前が変わり、2006年に敦煌から10キロ近くに新しい敦煌駅が出来て、再び柳園駅の名に戻った。敦煌市内にはやはりバスで入るしかないようだ。)

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( 上海の老舗・上海古籍書店で何か買った時のレシート。余りに崩し過ぎた字でなんて書いてあるかさっぱり。老子の解説書か神話の連環画だったろうか。外汇とあるのは外匯で、外国為替=兌換券のことで、当時はFECと呼ばれていた外人専用の通貨。1980年から始まり、1996年に廃止。)

 

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2019年12月19日 (木)

令和の蠢動  海底探査船" たんさ "

 

 

 
 今朝ふと思い至ってレトロ岸壁に赴いてみると、果たして、薄っすらと朝靄でもかかっているのか、プレハブ・カスタムの向こうに妙な具合に何本もの黒い煙突を聳えさせた船舶が係留しているのが覗けた。
 近寄って見るにつれて、今まで見たこともない形をした、客船とはあきらかに異なる種類の、つまり作業船の類だとわかりはじめた。
 地上七、八階建てのビルに相当する高さで、先ず前方にその黒く細身の煙突が大小合わせて八基も連なっているのが意表をついた。船首に《 たんさ 》とだけひらがなで記してあって、まさか時節柄、逆読みの“サンタ”じゃあるまいなと訝ってしまった。
 しかし、妙に広く明るい操舵室ではあるものの、ごっつい船体、様々な設備が所せましと積載してあるのをみるにつけ、如何見ても“探査”の“たんさ”なのは了解でき、丁度カスタムのバリケードの向こうの岸壁のところで、何人かが作業をしているところだった。

 

 

 岸壁と船の上、唐突に船体側面から突き出た作業用のウイングにも白いヘルメットに作業着の乗組員たちも船体と岸壁の境目の、吊り下げられたロープの降りた一点に集中していた。後でそれが離岸のための、船体と岸壁の間のクッション材たる真っ黒く大きな俵型の防舷材引き上げ作業だったのが分かったが。
 大きな船の離接岸ってけっこう作業が大変なようで遅々として時間がかかるのは知っていたので、バリケート沿いに全体を眺め、カスタム岸壁の後方端から後部を確かめてみると、思った以上に幅が広かった。その上はヘリポートになっているようだったけど、船体自体は上部にワイヤーかなんかを通すリールがいっぱい横に並んでいた。てっきり、海底ケーブルを敷設する船と決め込んでしまった。以前、そんな、やっぱりごっつい船体の作業船がつい数か月前に停泊していたからだ。そのケーブル敷設船すら、両側に船体をこえて出っ張った作業用のウイングなんてなかったはず。

 

 
 ところが、家に戻ってネットで確かめてみると、海底の地質構造を立体的に調べる三次元物理探査船という何ともいかめしい名の探査船なのがわかった。後尾からエアガンという機器を流しそれが音波を発して、それとは別に、先述した上側に設えられたリールから海に長々と流されたケーブル(ストリーマーケーブル)のセンサーで海底やもっと下の地層にまで達した音波を受振し、そのデータを採取するという。
 要は、政府肝いりの業界と合同で行う海底資源開発の一環ってところのようだ。
 北海道側は近隣国との合同・共同開発なのが、南の沖縄近辺にはいろいろと様々な地下資源が眠っているようで独占的って皮算用らしい。
 本末転倒的な限りなく無駄を輩出し廃棄物の泰山富士山の連綿をごり押しし尽しての昨今の救いようの無い現況にもかかわらず、他惑星から海底の底まで、一向に反省することもなく私利私欲のためにのみ貪りつづけようとするとっくに破綻し尽した資本主義。
 グレタちゃんが唾棄してみせる由縁。

 

 

 残念ながら、手ぶらで偶々見つけたので、写真は撮れなかったが、ネットにはビデオすらアップされている。
 因みに、この《 たんさ 》号、十月に竣工式を終えたばかりで、このプロジェクトには、日立とともに日本郵船も加わっている由。

 

全長102メートル、幅40メートル、13782トン。

 

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2019年12月 7日 (土)

ジャララバードへの道

 数年前に賊に拉致され殺害された<ペシャワール会>の伊藤和也君もそうだが、今回殺害された中村医師もやはり、パキスタン=ペシャワールとアフガンの首都・カブールのちょうど真ん中に位置するジャララバードでのことだった。

 二、三十年前、パキスタン人もアフガン人も、アフガン入国を企むパッカーたちに、カンダハール(南部の要衝)ほどではないにしても、ジャララバードは危険だと警告する者もいた。ペシャワールからけっこう近く、アフガン人がよく、当時の反政府・反ソビエト勢力のムジャヒディーンとは別に連れてってやると軽い気持ちで誘っていたものだが、パキスタン西部のクエッタやカンダハール国境近くの町だと、「絶対危険だから止めとけ!」と厳しい表情で諫めていた。
 ソ連が去った後も、ジャララバード近辺で西側や国連の医師団がよく襲撃されニュースになっていたものだった。

 ペシャワール会=中村医師は、自民党権力とそのエピゴーネンたちになびくことも同調もすることなく、自主独立を堅持してきた。
 それゆえにパキでもアフガンでも現地の人々の信頼を勝ち得てきたのだろう。
 たまたま<ペシャワール会>がジャララバードに活動の拠点を置いていたに過ぎないようだが、前回の伊藤君の事件の後もひるむことなく活動し続けていたのだ。
 
 死を覚悟しての活動とは言え、中村医師は、彼の地で斃れたゆえに本望だっただろうか、それとも道半ばで斃れたのは無念だったろうか。

 <ペシャワール会>のメンバーの人々の健闘を祈るのみ。
  
 

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