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2020年5月の3件の記事

2020年5月23日 (土)

パシュトン的プライド 『 ペシャーワルの猫 』甲斐大策

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( アフガン・バスとよばれていた。アフガンからこのバスで逃げてきたかららしい。)

 

 

 昨年一月にアフガン主義 ( 彼が自称しているわけじゃないが、一番端的と思われるレッテル ) 画家・作家の甲斐大策が急逝して早一年以上過ってしまった。
 五年前には、彼のアトリエが出火し全焼。
 本人は難を逃れ大丈夫だったようだけど、“全焼”ってことでひょっとして彼の作品の大半が消失してしまったのじゃないか、とまだ観ぬ作品多かった故に残念に思ってたら、門司港のカフェ《 グリシェンカフェ 》には普通に展示されてて一安心したものだった。
 その《 グリシェンカフェ 》を自ら訪れた際なのだろう一、二度ほど見かけたことがある。中高年の女性ばかりが徘徊する過疎った町中を、のっそりと一人長身に黒っぽい上下と鍔帽子のいでたちは、やっぱ違和感ハンパなく目立っていた。
 と、その同じ年の暮、今度は同じ福岡在住の《 ペシャワール会 》医師・中村哲が、アフガンの現地・ジャララバードで銃弾に斃れた。可能性は常にある覚悟の上での現地での活動だったろう。
 我が列島上空に紅くあるいは碧く瞬いてきたアフガン星座の双星が相継いで逝ってしまった、正に令和元年。

 

 かつて我々バック・パッカーにとって、ソ連侵攻で閉ざされて久しいアフガン、アラビア海とアラビア沙漠の国=イエメンは、もはや夢幻のヴェールはとっくに剥げ落ち旅行マニュアルまで片手にしながらも、やはり熱望の二大聖地であった。
 アフガンはしかし、隣国パキスタンにも跨ったパシュトン人エリアをはじめ、国境近くの大都市に、大勢のアフガン難民が定住していた。
 その一つが古のガンダーラの聖都ペシャワールであった。
 新市街には、中級だけども有名なグリーン・ホテルがあり、バック・パッカーの定番宿カイバル・ホテルがあった。
 作者の甲斐大策は子供連れってこともあってか、も少し大きなホテルに泊まっていたようだ。旧英国植民地時代の遺物なのかバンガロー・スタイルのホテルだったらしい。そういえば、タイ・バンコクのサイアム・ディスカバリーセンター横あたりにかつて古いバンガロー・スタイルのホテルがあった記憶があるけど、あれも旧英国式じゃなかったか。それとも米国式?
 我々が滞在していた'90年代も、旧市街にロータリーが出来たり、新市街にも若干の変容があったりはしたが、YOU TUBEなんかで近影を確かめてみても、そう思ったほどの変貌を遂げてはいない。因みに最近のペシャワールのYOU TUBE観てるとやたら食物の映像が多く、現在のパキスタンもかつての改革開放の頃の中国の如く、先ずは“食”からという訳なのだろうか。

 

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 ( ペシャワール新市街の路地バザール。店舗を持ってないアフガン難民達は路上で商いするしかない。)

 

 1984年秋、甲斐大策はまだ十二歳の娘を連れ、パキスタンは北西辺境州( 現在はカイバル・パクトゥンクワ州 ) の州都・ペシャワール郊外に住む旧友のアフガン人ハジ・ヌール・ムハンマド・ハーンの娘ザリフに再会させるために訪れた。

 

 「 リキショー( 小型三輪タクシー )がけたたましいエンジン音と猛烈な排気ガスを街中にふりまき、雑踏は街の中空にまで土埃を浮遊させる。牛や羊の生首を満載した手押し車からは血の匂いが漂い、肉を焼く煙が路地の奥まで充満する。ペシャワールは、得体の知れない臭気と喧騒、生と死、善も悪もひっくるめ何千年もかけて混合させてきた古都である。そんな一見混沌きわまったペシャワールではあるが、私達にはうかがい知れない奥深いところで、パシュトンの部族社会が彼等だけのための強力な秩序をめぐらせているのが、時間と共に旅人の眼にも少しづつ見えてくる。そんな時、ペシャワールは旅人にとって、底光りする蠱惑的な都になってくるのである。」

 

 ともかくこの“ ペシャワール ”という響きが好い。
 かつてガンダーラの都だったという重層した歴史的重みと相俟って、一種独特に蠱惑的な魅力を漂わせている。
ちょっと郊外に出ると、早速公権力の威光の及ばぬいわゆるトライバル・テリトリー( 少数民族自治区 )が遠くアフガニスタンまで続く。カイバル・ホテルに滞在していた頃、旧市街のパターン人(パシュトン)宿に住んでいた日本人がよく遊びに来ていて、そこはパキスタンの官憲も容易に介入することができないパターン人だけの小世界を形作っているという話だった。勿論カラシニコフやそれ以上の武装もしていたのだろう。
 このパターン人=パシュトンに、アフガニスタン~パキスタンに渡って分布する男達に、甲斐大策は惚れ込んでしまったようだ。

 

 “ ペシャワールの通りを胸を張って大股に歩くパシュトン達は、古代ギリシャ彫刻の男達をよりたくましく、風と埃と陽光にさらした風貌をもち、沙漠の往来に生きてきた者達の自信に溢れている”

 

 要するにダンディズムって奴なのだろう。
 確かに、大陸生まれの大陸育ちって甲斐大策の出自からしてさもあろう。
 そして又、ご多分に漏れず甲斐大策も、もはや取り返すことの出来ぬ故郷喪失者として、己が原郷を探し求め曠野を歩きつづけてきたのだろうか。
 
 甲斐大策の娘より二つ年上のザリフとの再会は、しかし、容易ならざる事態が遅々としてその実現を妨げた。それが正に、隣国ペシャワールにおけるアフガン難民たるハジ・ヌール・ムハンマド・ハーンとその娘の置かれた境遇であった。
 ザリフは既に同郷の青年と婚約を済ましていたのだった。
 

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 ( 屋台の台車を引いての商売はこのエリアじゃうるさいようで、ポリスに見つかると蹴飛ばされたり棒で叩かれたりする。で、自分の身体一つで商売。)

 

 「 パシュトン社会では、婚約成立後の娘の身柄を婚家の者と考える。父親をはじめ娘の家族は全員、式当日まで娘を徹底的に外界からへだてて守る警護の義務をおっている。たとえ父親が兄弟と呼び合う仲の旧友であろうと・・・会わせるわけにはいかないのだった」

 

 それと同時に真逆な事態がハジを追い詰めた。

 

 「 兄弟と呼ぶ旧友の遠路の来訪に応えられないパシュトンの苦しみは私達の想像を絶する。人間であることが成り立たない苦しみなのである。」

 

 つまり、甲斐大策と娘の方から、ペシャワール郊外の、つまりトライバル・テリトリー内のコハトまで赴きハジの家に行くしか手はないという訳だ。ならばさっさとハジと共に向かえばいいのだけど、そこが北西辺境州たる由縁のややこしさ。
 コハトに向かうには、例のハンドメイド銃の町ダッラを通らねばならず、そもそもそのダッラが阿片・ハシシのブローカーの町でもあり、米国の圧力もあってナーヴァスになっている中央政府の眼が光っていた。我々の頃はパーミッションが必要で、けっこう無視して訪れる者もいたけど問題があったって余り聞かなかった。が、この1984年は、宗主国・米国の圧力もあって、基本、外国人立入禁止となっていたらしい。
 そこで、ハジと私( 甲斐 )の二人は、ペシャワールの州政府事務所とダラー・アダム・ヘル(=ダッラ)出張所にパーミッション( トライバル・テリトリー通行許可証 )申請に日参するようになったという次第。インド譲りなのか英国譲りというべきなのかパキスタン的官僚主義の真骨頂とばかりに何時果てることもなく事務所の前庭に他のペシャワーリ達に混じって待ち続けさせられることになる。

 

 「 ペシャワール周辺の、アフリディやハタックの見るからに長老クラスの上品な老人達が地面に坐り、それぞれを守るように屈強な若者達が銃を膝に横たえ老人達の周囲にあぐらをかいている。在ペシャワールの者達でないことは、上下の衣裳のゆとりでわかる。都ぶりというのか、ペシャワール出身者の着る上下は、三割方細身である。ハジの上下は、そのいずれでもなく、泥色に染まってしまっているが、太い筒状につくった白色のバクティア風を頑固に守っている。」

 

 「 朝夕、私達はホテル前庭の芝生で茶を飲みながら猫の一家をただ眺めているしかなかった。仔猫達はいつも芥子や百日草の花の下でトカゲやバッタを追っていた。
 私達父娘は、そんな自分を情なく思うほどに猫好きなのである。猫に無視され冷たくされればされるほどいとおしくなって眺める。相手から屈辱感をあたえられてさえも歓びを感じるのはマゾヒズム以外の何物ででもない。被虐的な愛情を支える唯一の条件は、相手のもつ誇りや気品の高さである。その点、ペシャワールの猫は充分に条件を満たしていた。」

 

 アフガンの猫はかなり小型の猫で家猫の原種ともいわれるリビア山猫に似ていたのが、国境を越えたペシャワールのは日本の猫と同じくらいのサイズという。只、ペシャワールじゃ、あっちこっちに徘徊してても誰も気にも留めることもなく、甲斐父娘だけが執拗なくらいに執着していた。 

 

 「 夜にはいると、昼間の荷役やタクシーの仕事を終えたアフガン難民の若者達が私の部屋を訪れるのだった。船上から戻ったばかりの者もいた。ハジが所属する派とは別の、蒙古系ハザラのムジャヒディン( イスラム戦士 )もいた。彼等の大半が、平和な頃のアフガニスタンを共に旅したり、カーブルのチャイハナでの友人知己だった。懐かしそうに両手をひろげて抱擁を求めてくる若者が何者か判らず、広くぶ厚い胸と背中を抱えた腕にちゅうちょする気持が伝わると、敏感にさとって若者は身を引き、白い歯を見せて笑う 」

 

 そんなある日、いつもホテルの前庭に屯していた一団の地元の男達から、ホテルのボーイを介してパスポートの提示を求められた。
 小太りした男が公安関係の捜査官と名乗り、自身を警部と称した。
 けれども、その中の誰一人として、決して自らの身分証明書の類を提示することはなかった。只、ホテルの従業員等の彼等に対する態度でそれを察するだけ。
 当方も、かつてペシャワールの新市街の少し人気の余りないエリアをほっつき歩いていると、二度ほど、警察じゃなくて、情報機関の者と称する自転車に乗った男達にパスポートの提示を求められたことがあった。
 元々情報機関員を称しての詐欺みたいなのがあるって話は聞いていたので余り相手にしていなかったけど、二度目のは、甲斐父娘が遭遇したのと同じようなシャルワーズ・カミーズ姿の多数のグループで、一応はパスポートを見せたが、今度は当方が彼等にも身分証明書の提示を求めると、その内のひょろんとしたリーダーらしき男が無表情に見せてくれた。が、それは如何にも程度の悪いコピーを何度も繰り返したような複製品で、思わず苦笑してしまった。タイあたりじゃ先ず通用しない。まあ、パキスタンならこんなものなのかな、と自分に言い聞かせ、恐らく中国製だろう黒塗りの自転車に乗って、何事もなかったかのように去って行く男達の後ろ姿を見送った。
 甲斐がペルシャ語やそれに近いダーリー語を喋っていたのを見ていたのもあるのだろう、イランの原理主義勢力との関係を疑われたらしい。
 一瞬、甲斐の頭に当時流行っていた映画《 ミッドナイト・エキスプレス》の、異郷の地での出口なしのおどろおどろしい光景が閃いたという。甲斐よりも少し後のパッカー世代である我々の間でも、唐突な現地の権力・官憲からの不合理なクレームなんかを押し付けられた時なんか、往々にして生起する心理作用であり得たろう。

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 ( サダル・バザールのロータリー広場。'90年に来た時は、湾岸戦争時で、サダム・フセイン支持のポスターや貼紙が並んでいた。)

 

 常にそのホテルに常駐し泊り客の動静に眼を光らせている公安関係の捜査官達にとって、一応の確認作業といった程度のことに過ぎなかったようで、難なきを得、翌朝、甲斐父娘がホテルの前庭で朝食を終えた頃、その小太りした警部が段ボールの小箱を手にして現れた。テーブルの上に置かれたそれは出来立てのツァプリ・カバーブが一杯詰まった彼からの前日の気分直しの一品。

 

 「『 さあ、さあ、熱いうちに。ハジ、あんたも。それからババ(爺さま)もやらないか。』・・・肉汁と品格と力のある 風味が口一杯にひろがったが、一瞬の後、あまりの辛さに味覚はほぼすべてけしとんでしまった。その激しさもペシャワール有数のものである。顔を赤らめて食べる私達を警部は嬉しそうに眺めているようだ。・・・」

 

 身体中から汗が噴き出し、横隔膜が痙攣を起こしながらも、次の二枚目に手を伸ばしてゆくのも、ペシャワールやアフガンに限らぬ正に旅先の流儀。
 ペシャワールの出身らしい肥えた警部はパシュトン的流儀でもって応じ、甲斐大策も旅人の流儀でそれに応えたのだけど、我がアフガン難民ハジ・ヌール・ムハンマド・ハーンはといえば、未だバクティアのパシュトンとしての流儀に応えるにはもう少しダッラ出張所に通わねばならないようだった。

 

しかし、現実と言うのは中々にそんなかっこ好くはいかないようで、ふとネット・ニュースの見出しに眼がいった。
 ペシャワールの南西にあるワジリスタンで、ソーシャル・メディア上に十代の娘が男友達にキスされている動画を流しているのを発見され、家族に“ 家族の名誉 ”を穢したと銃殺された事件であった。ワジリスタンは元々パキスタンの中でもかなり保守的なエリアのようだけど、それでも他のエリア(隣国アフガンでも)と相違して、一応殺害犯は逮捕されたらしい。ネット上で踊っている場面をアップしただけでも、家族や周辺の男達に当たり前の如く殺害される口実がやっぱり“ 家族の名誉 ”なのだ。
 名誉=プライド。
 閉鎖的な家父長的封建主義、唯一神教的全体主義のべっとり血糊に塗れた仇花。

 

 ペシャーワルの猫 甲斐大策(トレヴィル) 1990年発行

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2020年5月10日 (日)

大泉黒石《 黄夫人の手 》Ⅲ  秋瑾の影

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 この短編を読んだ時、真っ先に想い至ったのが、ひょっとして黒石が芥川龍之介の《 湖南の扇 》( 大正15年《 中央公論 》)を念頭に置いての、以前からくすぶっていた黒石・大衆小説派と龍之介・文学派の反目の延長線上での意趣返し的産物じゃないのかという疑いで、ところが、調べてみたら出版時期が逆で黒石のこの作品の方が先( 大正9年《 中央公論 》)だったので、当方の単なる勘違いに過ぎなかった。
 《 湖南の扇 》じゃ、長沙で斬首されたのは匪賊の頭目・黄六一で、盗みという行為で黄夫人と共通し、そもそもこの匪賊の頭目・黄六一も斬首され生首を晒されていて、その血を浸したビスケットがこの作品の狂言回し的媒体なのだけど、それはまた単なる盗賊と異なる革命派とも一脈を通じた趣きの複数の頭目をミックスした造形的キャラクターという説(《「湖南の扇」論 Liu Gengyu 》)等によって大きく反転し、盗賊(窃盗)=革命=秋瑾という図式が蒼白い炎の如く揺らめきはじめるというのが、勘違いだった当方の目論見だった。

 

 

 物語に出てくる湘潭の二人の娼妓(中国的には妓女)、玉蘭と含芳、秋瑾の瑾が美玉を意味し、彼女の幼名が玉姑でもあることに因んでの玉蘭、そして扇を手にし、その若さを強調した含芳ともども秋瑾の分身ではなかったか。
 とりわけ、物語の中じゃ含芳の十代中頃なのかその若さに言及し、僕=龍之介が好んでいた風でもあって、玉蘭が体現した秋瑾の新思想=革命の“ 反清復漢 ”的な旧風さを更に乗り越えた人民革命的な新思潮の黎明性の象徴的存在としてみるべきなのだろう。
 因みに、《 湖南の扇 》の“扇”は、秋瑾(しゅうきん :チウチン)が横浜の天地会に在籍していた折就いていた文職軍師=「白扇」に因んだのではないか。つまり、本意は“湖南の革命女史・秋瑾”というタイトルだった可能性も高い。
 

 

 それにしても、この黄夫人、如何見ても、湖南の革命女史・秋瑾を念頭にしているとしか思えない。
 秋瑾の来日・留学、革命活動家・秋瑾を役人に密告したのも彼女の同郷( 魯迅の《薬》だと秋瑾の親戚の三爺ってことで甚だ理にかなっているのだけど、果たして黒石、《 黄夫人の手 》の前年の1919年発行の《新青年》誌上に発表された魯迅の《薬》を読んでいたろうか。実際は、折奏師爺〈郷紳〉きょうしん=章介眉を指しているらしく、血は繋がっていないに違いない。)の者だったし、秋瑾の実家( 浙江省紹興 )もそこそこの地元の旧家で、嫁いだ先も湖南の豪商、最後に刑死(斬首)したのも、黄夫人のそれぞれのエピソードで対応している。
 但し、秋瑾は、事前に役人の李宗嶽が梟首( きょうしゅ )はやらない旨約していて生首を晒しものにされることは免れ、黄夫人の刑死が斬首だったのか絞首だったのか不詳だけど、手首はその美しさと湘潭中を騒がせた罪深さ故に歴史的記念物として切り落とされ役人に保管されたというエピソードとは若干齟齬がある。
 
 つまり、表面的には窃盗癖的妄念に駆られた湘潭美人・添嬿=黄夫人の刑死後の怨霊と化した切断された右手首の凌辱・密告者への復讐譚であっても、その実、革命・蜂起への妄執=革命熱的業火に駆られた秋瑾の刑死の後を受けて、秋瑾や安慶起義(蜂起)を密告し頓挫させた密告者への復讐というアナロジックな蒼白い火焔・業火の転輪譚。

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 秋瑾を密告したといわれる胡道南と章介眉、胡道南は報復として殺害されたものの、郷紳・章介眉の方は生き延び、彼の一命を革命の名において許した王金発は、後、袁世凱の配下となった章介眉に殺害された。「フェアプレーは早過ぎる」と魯迅の憤った所以。
 この両者のどちらが、黄隆泰の原像となったのであろうか。
 胡道南は日本留学中、同じ湘潭からの留学生であった秋瑾の女性解放の演説中に、封建主義剥き出しで女性解放は時期早尚と喰ってかかったけど、彼女に論駁され恨みを抱いたといわれている。
 一方、秋瑾の実家のある紹興の大地主でもある郷紳・章介眉はといえば、その後、袁世凱死後も生き延び天寿を全うしたという。この黒石の短編の頃は、まだ紹興で生きていたってことになる。

 

 
 要するに、湘潭一の美人・添嬿=若き黄夫人とは秋瑾のアナロジー的形象で、美しい黄夫人の手とは、斬首された秋瑾の、安慶起義を頓挫させた密告者への怨念=革命的業火そのもの。黄夫人の窃盗癖的妄執とは、同様に、秋瑾の安慶起義=革命的妄執のアナロジー。
 当時、日本や中国でも流布していたロシアの無政府主義者クロポトキンの《 パンの略取 》でも周知の、権力・資本に略奪されたものを民衆が取り返すという意味での略奪→盗奪からと、《「湖南の扇」論 》Liu Gengyuでも触れている当時の匪賊の中には革命派に繋がるものも少なくなく、また清朝に敵対した存在でもありえたという社会情勢的ダイナミズム的要素からの形象化。

 

 《 黄夫人の手 》発表の前年の1919年には、大日本帝国統治下の朝鮮で《 三・一独立運動 》や中国での反日運動《 五・四 》運動が起こっていて、更にその前年には一大民衆叛乱とも謂うべき《 米騒動 》が日本全土を席巻していた時代の只中で、
秋瑾の無念を黒石が怪奇的装いをとって晴らしたって寸法なのだが、果たして実のところは如何。

 

 時間的に、龍之介の“ 湖南旅 ”は黒石のこの作品の翌年で、同じ《 中央公論 》に既に発表されているこの作品をもし読んでいたとしたら、その基底に秋瑾を据えた構造も了解し得たかも知れない。そこに隠された逐一の造形的デティールが龍之介の脳裏にいやでも植えこまれたろう。
 それ故に、既に帰国直後あたりに龍之介が《 湖南の扇 》を構想していたとしたら、さすがに、にっくき大衆小説派の、それも忌み嫌っている感のある黒石の絵に描いたような後塵を拝す挙にだけは出る訳に行かなかったろうから、5年後という時間は何としても必要だったに違いない。
 この視点から、《中央公論》上で対立していた純文学派と大衆小説派のそれぞれの雄の、清末・湖南の革命女史・秋瑾を基軸に据えた両作品を読み較べるってのも、一興かも。

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2020年5月 4日 (月)

辺境州的パンデミック 2020

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 五月の雨上がりの陽光の下、連休もあってか、観光エリアの海岸近辺は店舗も殆ど閉鎖され、人影も疎ら。それでもスーパーマーケットだけは、三密爆砕的に人々が蝟集している。買物袋を片手に薄暗いシャッター商店街を通っていると、ふと、戦前にも世界的パンデミック《 スぺイン風邪 》がこの今は小さな港町にも押し寄せ蔓延していたのを思い出した。
 
 ロシア革命の翌年、1918年1月から三年間、世界中に蔓延し、総人口の四割ちかくが罹患。計1700万~5000万人が死亡。 
 この日本列島でも同年8月(流行は秋)から三年間跋扈し、初年次に総人口の四割近くが罹患したものの後の二年は激減。それでも計39万~45万人が死亡。
 当時はそれなりの繁華な港湾都市だったこの街にも、少なからずの死者が出、火葬の白煙が途切れることがなかったというこの街にある小さな漁村で育った詩人・秋山清の記述を思い起こしたのだった。

 

 
 「 大正七年の二学期のある日、七、八人が休んだ。次の日クラスが半分近く空席となった。不時呼集の鐘がなって運動場に全校の生徒が集められ、教頭の松本先生からいい渡された。『 遠くスペインからはじまって世界中にはやっている流行性感冒が日本にも来て、本校も今日は欠席者が多い、今から一週間休校する。』
 一週間の休みか、いいなあ、とおもって飛んでかえった。」

 

 

 「 スペイン風邪はほんとうにひどかった。私の村でも、まだ土葬が多かったころだのに火葬場に煙がたえないといわれた。門司や大里あたりは、もう火葬場で死体がさばけきらず、山積になっているなどとうわさが流れてきたぐらいだった。スペイン風邪という私は白いけむりが峠の向こうの火葬場から朝も夕方も昇りつづけた記憶がすぐよびおこされる。白いけむりが山裾から稲の刈あとかの水田の方へたなびいている光景とともに、ほとんどの家に病人が出ていた。その中で、祖父も母も私もついに罹ることがなくてすんだ。」

 

 

 「 一週間がすぎて、学校に出てみると、大方元気でやってきた。そしてカゼのはげしい話ばかりだった。中には一家八人のうち、彼一人が生きのこって、父母きょうだいが死んでしまったという同級生もいた。妹が死んだ、母が死んだ、というのも幾人かいた。」   

 

 

 「 マスクをかけるということをやかましくいわれて、それが行きわたったのもこのころからだったであろう。白い布製の、顔の下半分をかくすほどのものに左右のひもをつけて、それを耳にかけて鼻と口をおおう、あのマスクというやつはほんとうにいやなものであるが、スペイン風邪以来日本中にそれがひろまったようである。」

 

秋山清“ 米騒動とスペイン風邪 ”《 眼の記憶 》( ぱる出版 )

 

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 当時は、前年のロシア革命に干渉する欧米列強それに追従した日本のシベリア出兵、それから派生した全国的米騒動、第一次世界大戦の終焉等揺れ動く内外情勢の只中で、そんな騒擾的どさくさに紛れての世界的パンデミック・スペイン風邪の日本列島縦断であった。
 海外と同様、二派とも三派ともいわれてるらしいが、三年間の蔓延で、それでも段々免疫的抵抗力もついてきてか勢力は弱まっていったようだ。
 つまり、現在のコロナ禍も今年夏か秋頃一旦勢力が衰えても、再び来年第二派がやってくる可能性もあるって訳だ。
  
 

 

 そういえば大泉黒石、このスペイン風邪跋扈の真っ只中の1919年(大正8年)に《 中央公論 》誌上で《 俺の自叙伝 》を、その翌年にも《 黄夫人の手 》を発表しているけど、この世界的パンデミックの影ってどのあたりに刻印されているのだろうか。
 そして、その数年後には、秋山や大泉黒石の住んでいた帝都・東京で大震災が襲う。

 

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