« 大泉黒石《 黄夫人の手 》Ⅱ  悪しき血の慟哭 | トップページ | 大泉黒石《 黄夫人の手 》Ⅲ  秋瑾の影 »

2020年5月 4日 (月)

辺境州的パンデミック 2020

 5_20200504190001  

 

 五月の雨上がりの陽光の下、連休もあってか、観光エリアの海岸近辺は店舗も殆ど閉鎖され、人影も疎ら。それでもスーパーマーケットだけは、三密爆砕的に人々が蝟集している。買物袋を片手に薄暗いシャッター商店街を通っていると、ふと、戦前にも世界的パンデミック《 スぺイン風邪 》がこの今は小さな港町にも押し寄せ蔓延していたのを思い出した。
 
 ロシア革命の翌年、1918年1月から三年間、世界中に蔓延し、総人口の四割ちかくが罹患。計1700万~5000万人が死亡。 
 この日本列島でも同年8月(流行は秋)から三年間跋扈し、初年次に総人口の四割近くが罹患したものの後の二年は激減。それでも計39万~45万人が死亡。
 当時はそれなりの繁華な港湾都市だったこの街にも、少なからずの死者が出、火葬の白煙が途切れることがなかったというこの街にある小さな漁村で育った詩人・秋山清の記述を思い起こしたのだった。

 

 
 「 大正七年の二学期のある日、七、八人が休んだ。次の日クラスが半分近く空席となった。不時呼集の鐘がなって運動場に全校の生徒が集められ、教頭の松本先生からいい渡された。『 遠くスペインからはじまって世界中にはやっている流行性感冒が日本にも来て、本校も今日は欠席者が多い、今から一週間休校する。』
 一週間の休みか、いいなあ、とおもって飛んでかえった。」

 

 

 「 スペイン風邪はほんとうにひどかった。私の村でも、まだ土葬が多かったころだのに火葬場に煙がたえないといわれた。門司や大里あたりは、もう火葬場で死体がさばけきらず、山積になっているなどとうわさが流れてきたぐらいだった。スペイン風邪という私は白いけむりが峠の向こうの火葬場から朝も夕方も昇りつづけた記憶がすぐよびおこされる。白いけむりが山裾から稲の刈あとかの水田の方へたなびいている光景とともに、ほとんどの家に病人が出ていた。その中で、祖父も母も私もついに罹ることがなくてすんだ。」

 

 

 「 一週間がすぎて、学校に出てみると、大方元気でやってきた。そしてカゼのはげしい話ばかりだった。中には一家八人のうち、彼一人が生きのこって、父母きょうだいが死んでしまったという同級生もいた。妹が死んだ、母が死んだ、というのも幾人かいた。」   

 

 

 「 マスクをかけるということをやかましくいわれて、それが行きわたったのもこのころからだったであろう。白い布製の、顔の下半分をかくすほどのものに左右のひもをつけて、それを耳にかけて鼻と口をおおう、あのマスクというやつはほんとうにいやなものであるが、スペイン風邪以来日本中にそれがひろまったようである。」

 

秋山清“ 米騒動とスペイン風邪 ”《 眼の記憶 》( ぱる出版 )

 

2_20200504185101

 

 当時は、前年のロシア革命に干渉する欧米列強それに追従した日本のシベリア出兵、それから派生した全国的米騒動、第一次世界大戦の終焉等揺れ動く内外情勢の只中で、そんな騒擾的どさくさに紛れての世界的パンデミック・スペイン風邪の日本列島縦断であった。
 海外と同様、二派とも三派ともいわれてるらしいが、三年間の蔓延で、それでも段々免疫的抵抗力もついてきてか勢力は弱まっていったようだ。
 つまり、現在のコロナ禍も今年夏か秋頃一旦勢力が衰えても、再び来年第二派がやってくる可能性もあるって訳だ。
  
 

 

 そういえば大泉黒石、このスペイン風邪跋扈の真っ只中の1919年(大正8年)に《 中央公論 》誌上で《 俺の自叙伝 》を、その翌年にも《 黄夫人の手 》を発表しているけど、この世界的パンデミックの影ってどのあたりに刻印されているのだろうか。
 そして、その数年後には、秋山や大泉黒石の住んでいた帝都・東京で大震災が襲う。

 

4_20200504185401

|

« 大泉黒石《 黄夫人の手 》Ⅱ  悪しき血の慟哭 | トップページ | 大泉黒石《 黄夫人の手 》Ⅲ  秋瑾の影 »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事