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2020年7月27日 (月)

シーウィー 貧窮的陥穽からの名誉回復

2020

 

 

 

 

 

数日前、ブログで一斉に、タイ・バンコクのチャオプラヤ川沿にあるタイで最も旧いシリラート病院敷地内に建てられた六つの博物館の中で〈 死体博物館 〉として有名な〈 法医学博物館 〉に半世紀以上もガラス張り筐体(ボックス)に封じ込まれ、訪れた人々に“ 稀代の猟奇殺人犯 ”や“ 小児喰い殺人鬼 ”の剥き出しの猟奇的眼差しを向けられ続けてきたシーウィーSi Queyこと黄利輝の黒々と防腐処理された遺体が、長い幽閉から解放されて荼毘に附された事を報じていた。
 既に昨年に決定されていた事柄で、今夏になってようやく実現の運びとなったらしい。
 そんな動きになっているなんてさっぱり知らなかったので、些か驚いてしまった。
 あの、赤い濁流のチャオプラヤー川の対岸に聳える前国王プミンポンが亡くなる際にも入っていた大病院・マヒドン大学付属シリラート病院の敷地内の奥深く、煌々とした照明に照らし出されいやでも黒光りしたその裸形は、戦後タイの人々を最も猟奇的に震撼させた事件の主役の生身を越えた恒久的シンボルとしてタイじゃ知らぬ者とてないいわば都市伝説的存在であったにもかかわらず。

 

 それにしても、戦慄すべき戦後タイ最大の“ 凶悪犯 ”ってレッテルは、しかし、代々一連のタイ軍部的凶行に勝るものはないのだから彼らに返上すべきなんだろうが、子供たちの臓腑を調理して"食べた"のは、もっぱら単純に孤絶的貧窮の只中に、彼の故郷・中国広州で培われた、魯迅の小説《 薬 》をあげるまでもないいわば民間療法的共同幻想的意識が相乗してしまった悲惨というべき。
 つまりすぐれて社会構造的産物に過ぎない。
 食材というより薬材として捕獲された子供たちこそいい迷惑なのだが、それから半世紀以上も過ぎた現在のタイ、否、中東や日本・米国の子供たちの置かれた位置ってそれほど隔たってはいないし、むしろ相対的に悪くなっている救いようのなさ。

 

 

 1921年中国・広州で生まれ、元々肺・気管支系の病を得ていたようで、そういえば、映画《 シーウィー 》(2004年)じゃ、その広州の郷里でか、公開処刑される死刑囚の前にずらり待ち構えたそれぞれの目的とする臓腑に狙いをつけた彼の母親や住民たちが手にした鋭利な刃物を眼にした死刑囚がゾッとのけぞるシーンがあった。
 銃声一発、切先鋭く我先駈けに死刑囚めがけて突進してゆく住民たち。自身の病んだ家族・親族のための乾坤の一閃。銃弾一発で仕留められていたら良いが・・・
 これは第二次大戦前後の光景ではあるが、日本とて、幕末・明治初頭の頃までは似たり寄ったり。幕末まで名を馳せた" 首斬り浅 "こと山田 浅右衛門の家は、浪人の身分でありながら公儀の御様御用( おためしごよう)、つまり刀剣の試し切りのための死刑囚斬首も代々司っていて、死骸から抉り出した肝臓等の臓腑を高値で売ったりしてかなりの富を得ていたという。
 因みに、9代目・山田吉亮は、明治の初め“一代毒婦”として悪名を轟かせた高橋お伝を斬首したという。尤も、実際は、毒婦なんかじゃなく、殺した男に騙されての女のプライド的報復って趣きのようで、当時のマスコミが売らんかなと勝手に毒婦と騒ぎ立て、果ては小説・芝居・歌舞伎にまでなって一世を風靡してしまった。今回指弾されたシーウィー事件のなりゆきと相似。
 

 

 戦前、侵略日本軍に抗する戦争に、駆り出されたのか自ら志願したのか定かじゃないけど、兵士として戦場に赴いたらしいけれど、そこで死んだ同僚の内臓を煎じたか喫食したという。自身の病的強迫観念からなのか、もっと普通に、屠った動物の内臓をそうするように既に亡骸になって転がっている屍体から薬材を取り出しただけなのか。
 確かに、戦場で日常的感覚が麻痺するとは、多分に御都合主義的口実のニュアンス濃い代物として頻用されてきた感があるものの、やはり当然に起こりえる状態でもあるのも確か。それが、やがて、タイに出稼ぎ労働者( イミグラント )としてやって来たのはいいが、なかなかに意に沿った様に物事が推移せず、各地を転々とする中、貧窮に喘ぎ、帰国すらままならなくなって失意の底。

 

 彼の前に、映画《 ドラゴン危機一発 》でブルース・リーが演じた頼れる我らが唐山大兄=鄭朝安(タン・チャオ・アン)が颯爽と現れてくれることはなかったようだ。

 

 貧窮的回復としての薬材確保だったのか、否、実際にシーウィーが犯したのは一件だけというものから、総てが勢力者・官憲のフレーム・アップという説までが出回っている状況を鑑みると、都合の悪いもの全部を中国からの移民、それも互助組織=幇とも没交渉の風采の上がらない出稼ぎ労働者・シーウィーになすりつけたという頻(よ)くある汎世界的パターンも疑われてくる。
 それ故の、シーウィー=黄利輝の屍体のシリラート病院・博物館での陳列に"否"を言い指弾し、名誉回復・まともな葬儀の実行を求める一万人以上の署名を集めての今回の一連のなりゆきって次第。
 

 

 1959年9月16日、タイで唯一死刑場施設のあるノンタブリーのバーンクワン刑務所で銃殺刑に処された。当時32歳。写真見ると40~50歳の相貌だ。
 シリラート病院・博物館で60年もの長きにわたって梟首(きょうしゅ)ならぬ蝋塗りの裸形のまま晒し物になり、今夏2020年7月23日、ノンタブリーの、処刑になった同じ刑務所に隣接したバーンプレークタイ寺院に舞い戻り、葬儀の後、付設の火葬場でシーウィーの遺体はようやく荼毘にふされた。
 この寺は、元々銃殺刑に処された死刑囚の葬儀を行うところで、多数の子供の生命を奪いその内臓を喰らったというので、葬儀をする価値なしとしてそのままバンコクのシリラート病院の法医学博物館のガラスの筐体にその裸形を晒されることとなってしまった。

 

 タイのメディア・ネットのニュース映像を見ると、ガラスの筐体から、黒光りした彼の屍体を取り出すところから、白地に金の装飾のある柩に収められ、コロナ・ウイルス禍の真っ只中にあっても、少なからずの人々が参列し、オレンジ色の袈裟をまとった僧の読経の下に火葬されたちゃんとした葬儀であった。
 中には、遠くシーウィーがタイで初期の頃居たタイ南部の最近はすっかり海岸リゾー地帯と化したらしいプラチュワップキーリーカン県タップ・サケ―からやって来た人も参列したという。タップ・サケ―の住民たちが彼の遺灰を彼等の寺院に収めたい旨表明しているらしいけど、その帰趨は詳らかにしない。
 タップ・サケ―の住民たちの間では、シーウィーは大人しい真面目な人物としてむしろ好感を持たれていたという。

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