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2020年9月の3件の記事

2020年9月19日 (土)

上海の熱く長い夜 《 不夜城 》

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 王兵監督の映画《 無言歌 夾辺溝 》( 2010年 )の背景となった初期人民中国=社会主義化における錯綜・迷走・暴虐の反-右派闘争の時代に、やはりその陥穽に脚をとられ滑り落ちてしまった映画作品に、かの《 不夜城 》( 上海江南電影制片庁 )があった。

 

 1957年5月,新しい中国の文芸雑誌《収穫》が創刊された。
 作家・巴金と章靳以( チャン・ジンイ― )が編集にあたり、魯迅の《 中国小説的歴史的変遷 》や前年に完成したばかりの老舎の《 茶館 》、そして柯霊( カー・リン )の《 不夜城 》( 初稿は前年の夏に完成してて、この掲載分は改修第二稿 )が掲載された。
 柯霊の、中国共産党統戦部・文化部から、当時、革命後の中国に海外に逃亡せずにまだ残っていた資本主義的な企業( いわゆる民族資本 )を、平和裏に社会主義的に改造するためのプロパガンダ的な映画のシナリオを依頼されての執筆であった。
同年、湯暁丹( タン・シャオ・ダン )監督の手によってこの《 不夜城 》が作られる。
 上海の繊維印刷会社の経営者家族の、'30年代から中華人民共和国成立を経て'50年代までの紆余曲折・離合集散、そして最後にやっと"公私合営"という初期人民中国的な折衷制に落ち着いた場面で終わる。
 
 当初、上海映画界と共産党中央との肝いりの国外上映をも射程に入れた中国社会主義的成功をぶち上げるための重要な作品で、映画界でもなかなかの好評だったのが、一転、お蔵入りとなってしまった。
 その上、翌1958年、突如《不夜城》は資本家を美化した“ 大毒草!”として断罪されてしまう。誰もが唖然とするなか、脚本の柯霊の同僚・巴金すら《不夜城》に対する厳しい批判を上層部から強いられたという。
 その後も、度重なる当局の批判と改修を受け、散々に紆余曲折を経、あげくやっぱりお蔵入り。

 

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 後、文革の時節に入ると、この映画《不夜城》の故に、柯霊、今度は当局に連行され、上海のかつてのフランス租界時代の監獄である上海思南路( 第二 )看守所に放り込まれ、何年も幽閉されてしまう。その後も、三年間の下放、更にあれこれ計12年の拘束・幽閉の憂き目に遭う。
 1967年のある上海独特に蒸し暑い夜、人民広場に引きづり出され、【 徹底批判 反動映画《不夜城》】の題目の下、造反派10万人の怒声とドンジャンと響きわたるラッパや銅鑼の轟音、批判者の罵声の只中で、すっかり“吊るし上げ”慣れしてしまっていた柯霊、眼前の凄絶なる光景を、一人中国的インテリジェンスの定番的所作ともいえる七言絶句につくり、呟いていたという。その時の情景が浮かんでくるようだ。
 
 
 此真人間不夜城, 広場電炬独天明。
 卅年一覚銀壇夢, 贏得千秋唾罵名

 

 
 一方、監督の湯暁丹も、文革の頃、やっぱりこの《不夜城》と1964年に制作した《 紅日 》を文革派にやり玉に挙げられ、群衆の前で吊るし上げられて、顔や胸を散々殴られたため、その後生涯、後遺症に苦しみ続けることになった。
 何しろ、反革命=毒草の代表作としてこの《不夜城》が、江青等文革派によって全国的な批判のモデルとしてやり玉に挙げられていたから堪ったものじゃなかったろう。
 そんな文革中の轟々たる非難・論難・暴虐の最中、故・魯迅の夫人=許広平が、柯霊に送った『 ともかく、堪えなさい !』という心底の激励の言葉に、柯霊や関係者達も救われる想いがしたという。
  '80年代( 文革後 )に入って、ようやく、公然と上映される運びとなったという。

 

 尚、映画自体は、"《 不夜城 》 ある経営者一家の"解放"的流転史 "で既に紹介済み。

 

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2020年9月12日 (土)

ガンジスの此岸  旅先の一枚

Vanarasi

 

 

 

 ガンジス川( ガンガー )といえばボク的には専らヴァナラシーだった。
 旅行者によっては、もっと北のリシケシもいれば、淵源のガンゴドリーもいる。
 仏陀の昔、否それ以前から修行者=サドゥー達は、古聖都市・カーシー=ヴァナラシ―の汀で、対岸=彼岸に向かって瞑想してきたという。

 

 巡礼のヒンドゥー教徒たちで日毎溢れ、死に逝き、焼かれあるいは流される永劫回帰的一大景観図。異教徒・無神論者の観光客たちも押し寄せる。
 そんな煩悩・業(カルマ)の只中にあって、ほんの少し離れたガートの早朝、一人孤然として汀に端座したその白髪を乱雑に束ねたサドゥーは、傍らにシヴァ派の定番・小太鼓のついた三叉鉾を立て、マントラを唱えつづけていた。
 汀に繋がれた川向う=彼岸に向けられた小舟が何とも象徴的に意味深で、ボクは後方の石段に腰掛け、興味津々に眺めていたのだけど、ふと、マントラも了ったそのサドゥーが身体をねじって後方を向いた刹那、一瞬、自分の眼を疑った。日焼けでなのか黒々とした相貌の真ん中が一層黒々とし、光線の加減でそう視えているのかと怪訝にじっと凝視すると、果たして、鼻孔であった。

 

 不治の病に罹った人々も世間を捨て、インド大陸中を巡る修行者の仲間入りをするという話を聴いたことがあった。梅毒や、旧インド大陸やアフガニスタンにも多いと言われる癩病( ハンセン病 )罹患者たち。日本でも、かつては家族と別れ果てしない巡礼の旅に出、放浪癩と呼ばれれていたという。
 亡くなった甲斐大策の《 グリスタン【 花園 】》でもマジュザムと呼ばれる癩病罹患者の女と出会ったカバーブ職人がやがて自分も癩病に冒されていたのを悟り、その女とその女の連れ子と一緒にあてどもない巡礼の旅に出る悲哀に満ちた物語があった。

 

 そのサドゥーがどちらの病に冒された果てのあてどない修行旅なのか知る由もないけれど、あるいはもっと別様の経緯が秘されているにしても、まだまだ中世の残影色濃いインド大陸であってみれば、容易にあてどない流浪の〈 聖者 〉たちの姿が消滅することはないだろう。

 

2020年9月 1日 (火)

砂礫郷の無言歌 《 夾辺溝 》監督・ 王兵

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 1949年、毛沢東の革命は希望だった。
 1956年、毛沢東は自由な批判を歓迎すると言った。
 人々は未来を想い、はつらつと発言したものだ。
 しかし、その数ヶ月後、―――― 彼等を弾圧する「反右派闘争」が始まった。

 


 この映画の冒頭にあるこの簡明なアウトラインにすべてがつきている。
 いわゆる、毛沢東が1956年4月に【 百花斉放百家争鳴 】を提起し、とりわけ知識人たちに再三に渡って要請し、その結果、毛沢東たちの思惑以上に中国共産党およびその政策に辛辣な批判的意見が噴出し、危機感を抱いた毛沢東たちが当の批判的知識人たちを反革命的な“ 右派 ”としてやり玉に挙げ全国的な一大運動として展開していった【 反-右派闘争 】。
 この背信的な流れを、最初から毛沢東たちが企図し仕掛けた罠とする論潮が支配的だったようだけど、必ずしもそうではない毛沢東=中国共産党が、想定外な共産党支配の根幹を揺るがすような批判的論調に、心底危機感を覚えてしまった挙句の、つまりすぐれて(汎)権力主義的な自己保存本能的盲動=弾圧・抹殺的方策と捉える向きも増えてきているという。
 只、1940年代に毛沢東は同じような手口を既に共産党員たちに使って反対派を炙り出し、挙句、少なからずを極刑に処したらしい。

 

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 原作は、楊顕恵( ヤン・シエンホイ )の小説『告別夾辺溝』で、何年も前から準備しての映画化だったようだ。
 撮影場所も、原作と同じ、甘粛省酒泉市境内巴丹吉林沙漠( バダインジャラン砂漠 )=ゴビ砂漠の南端に撮影用に作った労働改造農場。
 正に一面、砂礫・沙漠の黄色い大地。
 その黄色い大地を掘って作った“ 溝 ”が彼等【 反革命的右派 】のレッテルを貼られた人々の放り込まれた棲家・収容所であった。
 1958年には55万人が全土の辺境の労働改造農場に送り込まれた。
 その年に始まった毛沢東主導の悪名高い【 大躍進 】政策の論理的帰結とも謂うべき生産過程の破綻=物資・食糧不足+旱魃で、全中国的に飢餓が蔓延し未曽有の死者を出し、最果ての労働改造農場の惨状推して知るべし。
 1957年~1960年の間、この夾辺溝の労改農場には三千人近く収容されていたのが、その大半の二千五百人以上が餓死したという。
 因みに、1954年《 国営夾辺溝新建労改農場 》であったのが、1957年に【 反-右派闘争 】が始まると拡大され《 酒泉夾辺溝労改労教農場 》となったらしい。

 

 その只中に、上海から送られてきた政治犯が同僚に、やがて上海に居る嫁さんが訪ねて来るから、もう幾らももたない俺の遺体は上海に埋葬してくれと告げてほしいと頼み込む。同僚は本気にしていなかったものの、すぐにその上海の政治犯は死に、暫くして言葉通り彼の嫁さんが差し入れを携えて現れた。
 しかし、同僚は、砂礫の曠野にある形だけの墓場にぞんざいに置かれた政治犯の屍骸の一部が何者かに喰われているのを見ていたのもあって、その無惨な姿を眼にしたらショックを受け取り乱すであろう彼女に決して墓場の在処を教えなかった。ところが、その妻は、やがて旦那が亡くなったのを知って、何としても旦那の遺骸と対面し遺灰を二人が暮らしていた上海に持って帰ろうと、曠野に拡がった無数の墓標の一つ一つを掘り返しては確かめ始めた。
 
 何処までも広がる黄色い砂礫の大地と青い空あるいは鬱々とつづく灰色の雲、その下での政治的虜囚たちの呟きと喘ぎが一種シュールなまでに1960年ゴビ砂漠南端・夾辺溝を垣間見させる。

 

 

 

 《 無言歌 》夾辺溝 監督・ 王兵( 2010年 )  原作・楊顕恵『告別夾辺溝』 ( 香港・フランス・ベルギー合作 )

 

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