一億総玉砕的故事 異説 大泉黒石『ひな鷲わか鷲 』
大泉黒石の昭和19年初頭の作品。
昭和19年といえば、終戦( 敗戦 )の前年、又、同年の11月には腐縁的畏友・辻潤が都内・上落合のアパートで餓死したいよいよ末期戦時体制の閉塞性がすべてを覆い尽くさんばかりの時節。
前年の昭和18年の1月そうそうニューギニアのブナで日本軍全滅、ガダルカナル島から日本軍撤退、春には、山本五十六大将戦死、アッツ島玉砕、夏には本土北辺への米軍B-25による爆撃開始。そして秋には、枢軸国イタリアの無条件降伏。
そんな如何にも拭いようもない敗色濃くなった戦時体制下にあって、家族を見捨て何処かに隠棲していた黒石。圧倒的産業大国・米国に帝国主義的争覇を企んだ開戦の盲挙に腰抜かさんばかりに唖然とし、皇国日本の敗北必至をあっちこっちに吹聴して廻った尺八片手の‘国内放浪’で有名な辻潤と同じくらいには海外事情にそれなりに通じていたはずで、敗戦間近を逐一の報道でひしひしと感じ取っていたであろう。
《 ひな鷲わか鷲 》は、昭和18年3月に封切り上映された桃太郎と子分のサル・キジ・犬たちが海軍航空兵となって敵・鬼ヶ島=英・米軍と戦う30分ちょっとの少年向け戦意高揚アニメ映画《 桃太郎の海鷲 》( 海軍省製作協力・文部省推薦 )が全国的にヒットしたのと、その翌月搭乗の一式陸上攻撃機が米軍機の攻撃を受けて死亡した連合艦隊司令長官・山本五十六がそもそも海軍航空隊の代名詞のような存在だったのを踏まえての創作だったのだろう。
ある長閑な日曜の朝、国民学校( 小学校 )の裏手に住む老校長夫婦の軍国主義もいよいよ末期総力戦の色濃くなった世相も顕わな会話から物語は始まる。
「 夾竹桃の紅い花が、寒竹格子の窓から、座敷の中を覗いている。禿げ頭のお爺さんが、眼鏡ごしに新聞を見ている。静かな日曜の朝である。お婆さんがお茶を持って来た。お爺さんは新聞をおいて、お茶を取上げた。
『 えらいもんじゃな。横浜の西大口という国民学校では、飛行兵志望の生徒を集めて、《 兵隊学級 》 が出来ておる。体格も学業も優秀な生徒を選抜して、学科も体育も、総て軍隊式に鍛えておるが、大空への志願者百名を突破し、全部合格請け合いの好成績という。』 ( 5p )
「 ・・・・新聞に拠ると、この学校の生徒は、先ず第一に立派な兵隊になるべし。兵隊になれぬ生徒は、立派な産業戦士になるべし、という、国家奉公の精神をもって、ヨイコドモたちを『 よき兵士 』、『 よき産業戦士 』に育てようという趣意方針じゃ。国民学校の教育としては、行き過ぎている、という非難もあるらしい様子じゃが、学校としては、決戦下の今日、すぐお役に立つ少年らを、最も必要とする場所に送るために、努力することを使命として、生徒の錬成に、特別意を注いでいるというのじゃ。」 ( 6p )
「 ・・・・生徒らの心を大空に向けるためには、人に知れない苦労もあろうて。生徒らをして、戦線に活躍している先輩荒鷲へ、せっせと慰問文を書いて送らせる。それを受け取る先輩荒鷲達も、嬉しいからのう。軍務の寸暇をみては、後輩たる生徒らに、激励の手紙を書いてよこす。のみならず、賜暇を得て帰るたびに、母校を訪れ、戦いの話をしてきかせて、生徒たちを鞭撻する。
その結果として、先輩荒鷲の後に続く者があらわれて、こんどは此の連中が新先輩になって、更に生徒らを鞭撻する。それで海軍当局を感激させるような、多くの海鷲志願者を、一時に出すことも出来るわけじゃな。
男の子が戦線で働くなら、女の子は銃後で御奉公しようと、女生徒らも奮起して、ヒマの栽培に力をあげているという。ヒマからは飛行機に必要な潤滑油が採れる。」
「 それだからこそ、日本は強いのでござんすのう。」
「 そうじゃとも!陸海軍は空の挺身隊を、大量に求めている。・・・・」
(10~11p)
対米開戦ゴリ押しの軍上層に迫られ、じゃ二年くらいは暴れて見せると山本五十六の仕掛けた真珠湾攻撃( 元々の山本の対米戦争論的戦術 )=闇討ち開戦も、二年過ぎると、絵に描いたように鬱勃と敗走・敗色が濃くなって、国民には隠蔽・詐瞞を決め込んでの総力戦決戦のプロパガンダ一色。この本の裏表紙に、同じような少年兵志願をテーマにしたような新刊なのか、同系列作品故なのか定かじゃない二冊の宣伝が載せられている。
《 君も僕も少年兵 》 著者・田中正夫
軍神部隊長に続けと、同じ学校から続々と少年兵志願者が出る!
その志願者達の美しき物語。
《 富士に羽搏く 》 著者・泰賢助
二人の親友が、母と、恩師に励まされ東京陸軍少年飛行兵学校に入学した。
その二人の学校生活を書いた感激篇。
宣伝文から、この黒石の《 ひな鷲わか鷲 》と似たり寄ったりのテーマなのが分かる。二人ともまるで未知の作家で、ネットで調べても掠りもしない。一応少年向けってところだが、黒石のこの作品は、同じ国民学校生でも、初等科(6年)より上級の高等科(2年)から上の世代を対象にしているように思える。戦後教育システムだと、中学生。
この三冊からして、時代の雰囲気が了解される。
しゃにむに子供達を、領土拡張・外国資源略奪の侵略の先兵たらせんと、それも敗北の暗雲いよいよ色濃くなった前線に、天皇の赤子=二束三文の捨駒として駆り立てようと権力と大人達の画策のあれこれ。
少年兵といえば、少年石井部隊ってのもあった。正確には、731関東軍防疫給水部隊・少年隊。こっちは昭和13年ぐらいから募集していたという。
先に挙げたアニメ映画《 桃太郎の海鷲 》の、しかしこっちはいよいよ切羽詰まった敗戦(=終戦)の年に封切られた続編【 海軍省後援!】《 桃太郎 海の神兵 》じゃ、桃太郎の鬼退治にかけた南方オランダ領への実際の降下作戦をテーマにした上映時間も前作の倍近い75分のモノクロ作品だけど、冒頭、一時休暇を貰って前線から故郷の山村に戻って来たサル・犬・雉・熊達が、やはり、郷里の子供達に、皇軍兵士=英雄として尊敬され慕われ集まって来て、子供達に皇軍的イデオロギー=プロパガンダをやってのける。
正に、この《 ひな鷲わか鷲 》の登場人物たちと同様のイデオロギー・プロパガンダ的展開。件の山本五十六も、郷里の新潟・長岡に戻ると、出身中学校で講演等をやっていたという。もう、時代の定番だったのだ。( 現在でも、有名人になると同様に郷里の学校から講演等を求められるようだけど、これって明治維新以来のこの国の立身出世物語的一環から出ない質のものであって、それを戦前権力が体制維持・戦意高揚にも不可分的に構造化したってところ。)
尤も、子供向けアニメなので作品自体はかつて手塚治虫も言及していたらしくそれなりの完成度にはあって、冒頭の郷里の描写なんかはかなり抒情的過ぎていて、むしろ、“ 撃ちてし已まん!”、“ 進め一億 火の玉だ!”的覇気的躍如と乖離してしまいかねないけれど、“ 一億玉砕!”から“ 一億総玉砕!”への末期的状況であってみれば、旧態依然とした白々しい南進の皇国英雄譚の連綿は、むしろ終末論的悲壮というべきか。
かつて詩人・秋山清は、戦前・戦時中の詩作の方法についてこう語った。
「『 現実に語らせる 』というのは、目に見たものを描写することから発し、事実( 現実 )を先ず捉え、それによって真実を表現しようとすることであった。そこには省略も拡大も必要である・・・」
一見、連合艦隊司令長官・山本五十六以来の海軍航空隊の英雄的プロパガンダ、それも山本五十六の郷里を向こうに望む山間の村の国民学校卒業生=大学生・衣川欽吾を中心にした挙国一致・一億総力戦物語といった情報省指定的産物の態ではある。
卒業間近の大学生・衣川欽吾の帰省と出身国民学校の校長・生徒達との交流、霞ヶ浦海軍航空隊飛行予科練習部( 通称予科練 )に家族や生徒達の慰問品を携えてわざわざ欽吾を訪ねて来た校長と練習部関係者との交流と練習部の紹介、最前線たるソロモン諸島のとある海軍航空基地に配属された少尉・欽吾が作戦中に被弾、不時着した小さな島で、彼の後輩、同じ村の国民学校を出た青井嘉介・飛曹と再会そして救出。
真珠湾攻撃の英雄であり、その死も悲壮なる殉国死ということで国葬でなければ収まらなかった、そんな山本五十六の生地=新潟・長岡から8里( 約32キロ )の、信濃川に注ぐ魚野川沿の山間の小さな村とあり、且つ越南の霊峯三岳=八海山・中岳・駒ヶ岳の雄大な山容の望める地といえば魚沼郊外、南魚沼辺りの舞台設定だったろうか。
校長の家に出入りしている生徒に椋下一郎という高等科二年の生徒がいた。
父親・韓鎮渙が朝鮮から渡って来て、清水トンネル掘削工事(大正11~昭和6年)に雇われ、完成後、そのままこの村に定住し、一本の椋(むく)木の下に自力でトタン屋根の家を立てた。そこで生まれたのに因んで校長が名付けた日本名であった。
一郎少年も、七つボタンの予科練志望だったけど、「椋」には倉(くら)の意味もあり、中国には見られない用法で、さりとて日本独自の訓みでもなく、古代朝鮮に由来するという。つまり朝鮮ルートで伝えられた用法。これって、黒石がその古い由来を了解していての布石と見れなくもない。
“ 進め一億 火の玉だ!”、“ 一億玉砕!”の一億って、現在じゃ日本人口一億数千万人だけど、当時はそこまで多くなく、植民地の台湾・朝鮮・満州等を含めてのもので、天皇の赤子として天皇のために生命を投げ出せってことだ。植民地国住民も本土住民も皆平等、五族協和って訳で、植民地住民達にとっては、何とも迷惑通り越して苛斂誅求の極みってところ。
清水トンネルの新潟側の出口・土樽から、魚野川・上越線沿に沿って下ってゆくと湯沢→南魚沼に到る。
二年前の昭和17年に同じ大新社から出版された《 山の人生 》の中に、上越・三国街道沿の石打駅近辺や湯沢温泉・湯宿温泉なんかを訪れた際の探報記が掲載されていて、黒石がそれなりの地域性把握の上で形象化したものに違いない。
群馬・新潟に跨って聳える谷川岳を貫いたこの清水トンネルは、1922年(大正11年)~1931年(昭和6年)9月1日の工期を了え、やっと開通した。当時は、職を求めて玄界灘を越えてやってきた出稼労働者がそのままその地域に定住するってのはけっこうあったようで、椋木一郎の父親・韓鎮渙も、帰国することも別の地域に職を求めて移動することもなく、山奥の工事現場・飯場から少し下った比較的生活し易い場所としての南魚沼の山間だったのだろう。
しかし、何故、そもそも情報局・海軍省指定の国粋主義的愛国主義を謳っていたはずの皇国史観的論理の只中に、異民族=朝鮮半島からの移民労働者親子の登場なのか。
勿論大日本帝国の膨張主義・侵略支配の方便としての五族協和・八紘一宇的イデオロギーも翳していたが、所詮国粋主義と矛盾し、その実際はもっと明瞭に破綻的現実の連綿であったことは言を俟たな過ぎ。
そこに黒石が、秀吉の朝鮮出兵時代の平壌(ピョンヤン)を舞台にした《 不死身 》( 大正末年 )以来の被侵略的朝鮮的モチーフを持ち出した。
南魚沼・一大工事・朝鮮人労働者を繋ぐと、そのもっと以前に起きたこの地域一帯を震撼させた事件が想起される。
【 信濃川水力発電所虐殺事件 】
信濃川を頻々流れ下る
鮮人の虐殺死体
「北越の地獄谷」と呼ばれて、
附近の村民恐ぢ気を顫ふ
信越電力大工事中の怪聞
鮮人=朝鮮人 顫ふ=ふるう
〔新潟特電〕 信越電力株式会社では昨年から向う8カ年計画で信濃川の水力を利用して、遠く関東地方まで送電し、東洋第一の発電所とする空前の大工事をその水源の新潟県下に起したが最近工事に使用されている鮮人の溺死体が下流各所に発見され次第に工夫虐待致死という奇怪至極の風聞を伝えられて来た。然も命知らずの工夫頭の多い事とてうっかり口を滑らすと直ぐ襲撃を受ける恐れがあるため附近の町村民は悉く秘密裡に葬り去っているがこの人道を無視した虐殺問題は今や「北越の地獄谷」として喧伝され、所轄十日町警察署では工事地である大割野巡査出張所を駐在所と変更して警官の増派方を請い徹底的取締りをなすべく現に県警察本部に申請中である。
・・・・地獄谷というのは妻育秋成村大字穴藤という作業地でここには1200名の工夫がいて内600名は鮮人です。・・・・
《 読売新聞 》(大正11年7月29日)
1922年(大正11年)7月、信越電力株式会社は信濃川の支流である中津川で中津川第一発電所の建設を始めた。この工事は大倉組( =大成建設 )が担当し、朝鮮人労働者達の屍体は上流の中津川で発見された。
読売新聞に掲載され一躍世間の耳目を集めたものの、大倉組のヤクザ・警察(権力)の画策により杳として事件の核心が白闇に閉ざされたままで、日・朝の社会主義者や朝鮮の新聞《 東亜日報 》の記者までが現地に潜入して真相を探ろうとした。
あのギロチン社の浜鉄こと中浜哲( 同じくペンネーム )もその一人で、大杉栄主宰の『労働運動』( 第7号 1922年9月10日発行 )に現地報告をした。
・・・・大請負師大林組が前倉、切明間を請負ってゐる。更にその又下に沢山の頭連があって、総数二十余りの飯場小屋をおッ建てゝゐる。その奴隷供給地は、主として不景気でアブレてゐる九州、朝鮮だ。近傍の信越の地方だ。失業者、自由労働者、小作人などの群れが、百人、二百人とまとめて貨物同様に部屋へ連れ込まれて来るんだ。・・・・
一億・五族協和とは五族皆一様に平等って理念=イデオロギーのはずが、国粋主義剥き出しにあくまで中心・支配層は大和民族=日本人に過ぎなかった。
その信濃川( 中津川 )朝鮮人虐殺事件より以前からでも、例えば、大正7年( 1918年 )の日本列島中を席巻した《 米騒動 》事件の際、門司港でも、沖仲士(港湾労働者)達が騒ぎ出し、日本人より二割も少ない賃金で働いていた多くの朝鮮人労働者も参加していて、アサノセメントじゃ、朝鮮人臨時工たちがむしろ先頭に立って賃上げ要求のストライキにうって出たという。
この黒石の物語の頃にも、沖縄に軍属として配された約3万人の朝鮮人労働者達も、日本軍に牛馬の如く使役されていたという。
つまり、虚偽に満ち満ちた一億・五族協和的イデオロギーに粉飾された権力御用達物語の虚構性を突くには、渡航朝鮮人労働者は最も端的なモチーフだったろう。
信濃川の上流・中津川って、魚野川の流れる南魚沼とは狭い山岳エリアを挟んだ反対側に位置し、長野~秋山郷~十日町へと流れ下っている。つまり、南魚沼とは直に繋がっている訳じゃないからこそ、韜晦にはもってこいなのだろう。
が、しかし、そもそも大泉黒石って、とりわけ空間的位置関係をかなり切り張りし韜晦してしまうのが常套でもあって、余りその正確性に拘っても意味がない。けれど、やっぱし、所詮通俗的凡愚煩悩の輩の当方としては、その裏に隠された意味を手繰ろうとついつい拘泥してしまう。
因みに、中津川上流にも同名の支流・魚野川が流れ込んでいて、南魚沼を流れている魚野川とは全然別の川だけど、これも脈絡的符号と読んで好いのか。
この物語を企図した時、黒石の念頭には、この信濃川・中津川朝鮮人虐殺事件があったに違いない。
南魚沼=十日市から信濃川下流8里( 約32キロ )の長岡には、山本五十六の生地があり、現在でも記念館が建てられていて、それと並ぶように、長岡のもう一人の英傑・河井継之助の記念館( 平成になって漸く建てられた )があり、この物語にも蒼龍窟としてその消息が背景に刻印されている。
校長宅の座敷の正面に『 自彊不息 』( じきょうやまず )なる雄渾な蒼龍窟の筆跡の掛軸がある。
蒼龍窟とは、幕末の長岡藩の旧幕派の首魁・河井継之助の号。
幕末の、藩主に気に入られ長岡藩上席家老まで出世し、軍事総監も務め、藩の軍備の近代化をやり遂げた。奥羽越列藩同盟軍の一翼を担い、( 維新 )新政府軍と互角に戦ったものの、敗走。負傷が因で会津藩領で死去。
新政府軍によって長岡城が落城すると、米の払下や藩による人夫徴用に抗する一揆が勃発、瞬く間に領内前域に拡がった。長岡藩・同盟軍はこれを武力鎮圧し、新政府軍に協力した一揆衆を斬首した。この一揆鎮圧で勢力を削がれ、結果、長岡城下は焼野ヶ原と化してしまい、挙句の会津藩への敗走。
藩の命運を傾け城下を焼土と化した張本人、一揆衆弾圧・斬首の元凶として河井継之助は、英傑として持ち上げる人々も居るものの、怨嗟の的として誹る勢力が現在でも尚指弾し続けているという。平成になって建てられた記念館を訪れるのは、その大半が他県から来た人々らしい。
これを、長岡藩=日本のアナロジーと観ると、“焼土”というイメージが俄然きな臭く色めき立ってくる。昭和19年初頭といえば、まだまだ米軍による本土爆撃は本格化してなかった頃だし、そもそも河井継之助の揮毫した『 自彊不息 』は、オリジンは《 易経 》だけど、儒学者・佐藤一斎の《 言志後録 》の一句。
佐藤一斎といえば、河井の師事した洋学者・佐久間象山の師。
その象山には、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰等も師事していた。西郷隆盛も佐藤一斎の書を座右の銘にしていたという。さながら、維新派・旧幕派の英傑一大集結の観すらある。
欽吾が魚野川沿いで争っている子供達の仲裁に入った際、子供達が争う犬猿の仲の二人を揶揄って使った言葉が“ 榎峠 ”。
「 榎峠はこの附近にある明治維新の古戦場である。この界隈では、敵味方の衝突場所を、俗に榎峠といふてゐる。」
南魚沼辺りからはちょっと距離があるが、長岡郊外にある榎峠は、長岡藩・同盟軍と新政府軍との熾烈な戦いが展開された古戦場。
更に、海軍航空隊志願の欽吾青年は、喧嘩している当の二人とそれを遠巻きにし眺めヤジまで飛ばしていた少年達をこう諭す。
兄弟、垣( かき )に鬩( せめ )ぐとも、外、侮( あなどり )を防( ふせ )ぐ、と大昔の支那の偉い人は言った。兄弟喧嘩はすることはあるけれども、他人から侮辱されることがある時には、その仲の悪い兄弟が、力を協せて、他人からの侮りを防ごうとする、ということだが日本人は皆兄弟だ。今は兄弟同志でも、喧嘩をしてはいけない、大事な時なんだ。兄弟喧嘩なんかしていると、他人につけ込まれるからね。君たち。わかったかい?
《 詩経 》の一節で、「兄弟鬩於牆 外禦其務」。
日本人皆兄弟と権力・エスタブリッシュメント的なイデオロギーを掲げて見せても、国民学校生・椋木一郎なんかは己のアイデンティティ―のアンビバレントに揺らめく立場・感情故の忸怩を通り越し慚愧の念に煩悶せざるを得なくなってしまう類の恨五百年的妄言でしかない。日本人に限定してみても、例えば関東大震災時における大杉栄はじめ社会主義者・労働組合活動家達に対する虫けら同様の扱いの面前で一体何の意味があろうか。
況んや一億玉砕!五族協和をや。
それでも実際には、皇民化教育の故なのか、なし崩し的になのか、内外の朝鮮人皇軍兵士・軍属数十万が日章旗の下、アジア各前線に送られた。
因みに、海軍は戦況が風雲急を告げるようになった昭和18年まで頑なに朝鮮人( 台湾人等も )の採用を‘拒絶’していたという。徴兵は翌年。士官学校の方は最後まで不可。
大陸・東南アジア諸国を次々に侵食してゆく鼠の大群宜しく大日本帝国=皇軍が、底無しの欲望と危機意識から、国内外で画策し培養した有象無象のパイドパイパー達。
所詮デマゴギーでしかない八紘一宇・五族協和のイデオロギーの下、子供達を救いのない戦地に駆り出し、自滅と悪辣の途に誘導してゆく魔笛のいよいよヒステリックな狂躁。そんな不安と暗澹の時代の最中、錦の御旗を打ち振るパイドパイパー達の群れの中に紛れて、一人黒石、密やかに警醒的魔笛を奏でたってところだろうか。
彷徨先の路上で門附けの一管の尺八を奏で続けた畏友・辻潤が戻って来た東京の巷間で一人淋しく餓死したのは、それから半年の後。
敗戦間近を逐一の報道でひしひしと感じ取っていたであろう黒石、しかし、それが何時のことになるのか悪あがきだけは底なしの皇軍=大ニッポン帝国の只中にあって、既に家族を捨てての流離行から戻ることはなかったようだ。
戦果、戦果の大連呼の裏に見え隠れする敗退・敗北に、心の底で"解放"の予兆の確かさを噛みしめ希望の念を新たにしたのか、あるいはそれ以上に喜悦すらを覚えていたのか、はたまたその真底の救いようの無さに暗澹せざるを得なかったのか、何処にもその秘された胸底を著したものがなく、戦後、米進駐軍の通訳をやりながら、時折、新聞やなんかに細々と残されたその消息から辿る他ないのだけど、彼の長崎に生まれ落ちた時から纏わりついた"異質"=孤独の、依然として果てしない格闘的泥濘は続いていたのだろう。
前年の昭和18年に出版された《 草の味 》( 大新社 )と同様、著者名も本名の大泉清、発行部数も初版5,000部がわざわざ巻末奥付に記されている。いよいよの紙不足・インク不足の故の統制的産物なんだろうか。権力サイドの雑誌・出版物が新たに発行される際には既存の、時局性希薄な、例えば趣味的な雑誌なんかが廃刊に追い込まれたりしたという。
その前年の昭和17年の、《 白鬼来 : 阿片戦争はかく戦はれた 》( 大新社 )や《 山の人生 》( 大新社 )等も【 日本出版配給株式会社 】の統制下にあったが、初版5,000部の限定明示は刻されてなく、著者名も、通常のペンネーム大泉黒石のままだった。やはり、事態の深刻化という世相を明かして余りある歴史的刻印ってところだろう。
【 日本出版配給株式会社 】とは、情報局指導の下、1941年5月に言論統制の一環として出版・配給の一元化を図って作られた国策会社。
発行所 大新社
昭和19年2月15日発行
全208p ( 1円55銭 )
初版発行部数五千部
配給元 日本出版配給株式会社
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