長崎・伴天連物語 女人面( ワントウ ) Ⅱ 台湾出兵
前回、この《 女人面( ワントウ )》 の大まかな概要に触れたけど、一番気になった箇所には触れなかった。
この時代に疎かったので、ネットであれこれ検索してみたら、やたら目に付いたのが、“ 台湾 ”(=高砂国=フォルモサ〈 美麗島 〉)への侵略的野心であった。
それまで、てんで無知だったので脳裏にも浮かばなかった。
秀吉は、もともと朝鮮出兵で有名過ぎ、さもあろうだけど、家康の時代に入ってからも、長崎は何ともきなくさい対外的野心が澎湃としていたようだ。
それでも、家康・徳川幕府は、秀吉の朝鮮出兵でうんざりしたのもあってか、あくまで中国(明)との交易のための中継地(港)の確保が目的だったようだ。ところが、有馬晴信と長崎代官・等安のこの二人が遣(く)り出した船団は、ともかく、海賊・倭寇以外の何ものでもない悪質さ剥き出し。等安を陥れ刑死させて空いた長崎代官の椅子にちゃっかり就いた二代目長崎代官・末次平蔵も少々じゃない悪辣さ。
「 ・・・奉行の長谷川が倉皇として駿府へ戻ったのは、家康が阿媽港の伽羅を手に入れたいと言うので長谷川に才覚を命じたのだ。随分馬鹿げた話だが、呼びつけられた長谷川は何事が起ったのかと思って行ったのだろうと思うね。そうして再びこの町へ戻って来ると、伽羅の買い入れを友人の有馬修理大夫という近在の大名に頼んだ。修理大夫は家康の為に、一番槍でも勤める気でか唐船を仕立てるやら、水路師を探すやら、大した騒ぎで、どうやら支度が出来ると、順風を待って阿媽港へ出帆した。阿媽港と言うのは今の台湾のことだろうと思う。」
(注) 有馬の“修理太夫”は、肥前国・日野江( 島原 )藩の藩主・有馬晴信の官位。
有馬晴信の朱印船一行がマカオ( 阿媽港 )で殺傷事件を起こし、マカオ当局によって掃討された事件は既に触れたが、そのマカオ行が、そもそも家康に命じられたチャンパ(占城=ベトナム )での伽羅の獲得が目的であった。その途次、マカオ港に寄ったに過ぎなかった。ところが、伽羅獲得行は、晴信以前に、家康の側近であった長崎奉行・長谷川左兵衛にも命じられていたものの長谷川は果たせず、それを晴信がマカオ事件で頓挫したとはいえ任されたことに業腹で、以降その沸々とした怨恨の念があらゆる場面で滾り出し晴信を陥れてゆく機縁となったという。何しろ長谷川は、オランダ人達からすら、“ 将軍の買物掛り ”と揶揄されたほど家康の信任厚く、そのプライドが強かったに違いない。
そんな腹に一つも二つも隠し蔵(も)った長谷川が、当の“ 友人 ”=晴信に伽羅買い入れを依頼するというこれまた歴史的常識を覆したシニカルな関係性を、黒石は設定してみせる。
秀吉の時代に既に、長崎商人・原田孫七郎(切支丹)を、高山国(=台湾 )に秀吉に対する朝貢を求めて、使者として派遣していたものの失敗に終っていた。
1609年(慶長14年)、徳川幕府は、有馬晴信に対して、明との出会貿易の拠点確保のための台湾の偵察を命じた。不首尾の場合は、台湾の住民の拉致も織り込まれていたという。住民から台湾の情報を得ようとしたのか、あるいは人質にしようと謀んだのか。戦国時代の感覚そのままって言えなくもないし、秀吉の朝鮮出兵が作り出した自国内の権力支配的都合による対外侵略の手管の常習化も考えられる。
晴信の配下の千々岩采女が台湾に派遣されたが、早い話、当時台湾には、彼等が想定したような統一的な支配権力がまだ存在していなかったようで、結局、秀吉の時と同様に失敗。只、中国(明)やキリスト教国のポルトガルやオランダ等の植民地主義列強も、既に、中国や日本との交易のための中継地として台湾を利用していて、やがて台湾.南部をオランダが、北部をスペインが占拠し、占領地支配を決め込んでみせるのだが、半世紀もしない内に、鄭成功に駆逐されてしまう。
1616年(元和2年)、村山等安は、次男の秋安に13隻の船(乗員数千人)を率いらせ、台湾に向かわせた。正に艦隊。
ネット見てみると、家康に命じられたとか、自発的に等安が自費で決行したとか余りその辺が定かでない。禁教令等でいよいよ切支丹的弾圧が本格化し始めたのに等安が危機感を抱き、痴情沙汰やらの身辺整理を含めて、幕府の疑念と見切りを払拭しようと、台湾を武力制圧し、良港を確保して、中国や南方諸国との交易の一大拠点を作って幕府の覚えめでたくって皮算用だったのだろうが、琉球の沖でさっそく暴風雨に見舞われ、船団は総崩れ。
一隻のみが台湾に何とか辿り着いたものの多勢に無勢で、詳細は定かじゃないけど全員割腹自殺して全滅したという。このことからして、等安(秋安)配下の乗員達って、到底普通の民間人の商人ではなく、武士系統の水軍・倭寇=海賊の類ってことが窺える。それを証かすように、はぐれた別の三隻が、何をとち狂ったか、中国・浙江省の沿岸部一帯を襲撃し、1200人以上の住民を殺害。正に倭寇的跳梁そのもの。
更に明石道友指揮する別の二隻が福建沿岸に辿り着くと、浙江省での海賊行為が既に知れ渡っていたのかえらい騒ぎ(上陸して荒し廻ったからという説あり)になり、董伯起が明石と交渉し、彼を人質としてそのまま長崎に戻るという事態になってしまい、翌年、等安自身が董伯起を伴い幕府の親書を携えて中国(明)との交易再開を試みる運びとなるも、台湾進攻や海賊行為等を指弾され撥ねつけられてしまう。
それにしても、等安以下明石道友までおよそ碌な輩じゃない。
よくもマァぬけぬけと等安、前年に何をやらかした十二分に分かっていながら、中国(明)の責任者の前で、交易再開なんて持ち出せたものだ。
で、結局悉くものにならず、ライバル( 長崎外町・等安 « 長崎内町・平蔵 )・末次平蔵政直に、ここぞとばかり、等安が犯した痴情沙汰殺人から大坂の陣での豊臣側への加担、切支丹信仰とその擁護等々を告発され、徳川幕府に見切られてしまい、とうとう甲斐に流された後、江戸で斬首。一族も悉く、斬首・火刑の憂き目にあった。
やがて、台湾南部に拠点を確保したオランダが勢力を増してきて、長崎商人達と諍うようになった1620年代( 寛永 )後半、同じ切支丹商人どうしの等安を陥れ二代目長崎代官の座に就いた末次平蔵( 配下の浜田弥兵衛 )は、台湾を舞台に、オランダと数度にわたって諍いを起こす。
オランダは、支配下の台湾南部・安平に寄港する外国船から関税を取り始め、中国船は元々中国(明)が台湾本土に要塞を作るのを許していた関係でか払っていたらしいのが、寄港した浜田弥兵衛の率いる二隻はこれを拒否した。
長崎代官・平蔵の二隻は正規の朱印船だから、オランダ本国ですらない台湾に勝手に要塞を築き占領しているに過ぎないオランダ東インド会社の類に、関税なんぞを支払う筋合いはないと。その上、何をはき違えたのか、台湾は日本の領有だと詭弁まで弄した。が、相手にもされず、積荷の生糸を没収(関税分という説も)され、帰国して平蔵に報告すると、早速平蔵幕府に訴え出て外交問題になった由。
1626年( 寛永四年 )、末次平蔵( =浜田弥兵衛 )は大金を用意して台湾に向かった。現地で仕入れた台湾特産の鹿皮( 元々日・中ともども、この台湾特産の鹿製品は貴重な輸入物産品でだったのを、オランダが眼をつけ積極的に介入することになった )を積み込み、中国からの生糸を積み込むだけになったものの、自分達で中国に受取り( 台湾に運び込まれていた物の残り分ということらしい )に行かねばならなくなり、オランダ当局に船の手配や、中国沖で待ち伏せする中国倭寇・鄭芝龍( 鄭成功の父 )率いる海賊船からの警護を求めて拒否された上、中国本土に向かうこと罷りならぬと厳命され、すっかり身動きできなくなり、台湾で年を越すことになってしまった。
中国への船の件は、本来、徳川幕府が日本の商船が直接中国本土で取引するのを禁止していたのを、実際には、台湾・マカオを行き来する日本(中国船も同様)の商船は、国法を無視し、つまり密貿易が状態化されていたらしく、オランダ当局がそれを逆手にとって、日本商船の積荷等を強奪する口実に使っていた常套手段の一つに過ぎなかった。
ところが、オランダ当局は台湾総督のペーテル・ノイツを、齟齬を来たした関係修復のために、江戸幕府に派遣することにしたのを敏感にキャッチした浜田弥兵衛は、新港社( 社=村 )の先住民十数人を引連れ( 定番の拉致なのか、虚言を弄しての引連れなのか定かではない )、いち早く長崎に戻り、主の平蔵に注進し、何としてもノイツを阻止しようと、先住民達を帯同してノイツより一足先に江戸に到着。
平蔵達は、彼等を台湾(高山国)の代表団とし、将軍家光に謁見させ、台湾でのオランダの横暴を訴えさせ、どころか、台湾自体を将軍に“ 献上 ”させようとしたという。
さすがに、幕府側は、胡散臭い台湾献上に応じることもなかったようだけど、平蔵は執拗に台湾領有に拘泥したらしい。それでも、平蔵達の画策が効を奏し、ノイツは将軍に謁見すらかなわず、追い返されてしまう。
因みに、新港社の住民達一行の内5人が天然痘にかかって死亡したという。
又、その一行の代表に理加という人物が居て、後、台湾に戻され、オランダ当局に恨まれ追われ逃亡していたのが、いつの間にか、オランダの台湾支配の変化によるものだろうか、各地域住民の代表者を集めて会議を開いた際に、台湾先住民達の代表として出席していたという。
1628年( 寛永5年 ) 、先年引連れていった台湾先住民( 新港社の住民 )達を乗せ、武器弾薬も載せた平蔵(=浜田弥兵衛 )の朱印船二隻が再び台湾・安平に入港。
しかし、煮え湯を飲まされたばかりの総督ノイツが黙っている訳もなく、理加はじめ新港社の先住民達が真っ先に捕らえられ監禁され、積み込んでいた武器・弾薬や将軍から先住民達が貰い受けた下賜品すら没収し、浜田弥兵衛達は航行の自由まで奪われてしまった。
一月後、にっちもさっちもいかなくなった浜田弥兵衛達は、ノイツと再交渉を求め、事の成り行きでか、予め狙っていたのか刀を振りかざしてノイツ達に襲い掛かり、切先をノイツの喉元に突きつけ人質にとってしまう。( オランダ人何人かを斬り殺したという説も )膠着が続き、結局、先住民達は釈放され、互いが5人づつ人質を出しあって長崎に戻る仕儀に。
長崎に到着するや否や、代官・末次平蔵の手の者も居並ぶ中、浜田弥兵衛達は約束を反故にし、オランダ側の人質を拘束。何ともあっさり、平蔵・浜田弥兵衛の術中にはまってしまって、ノイツ以下5名は牢に放り込まれてしまう。怒った幕府は
平戸オランダ商館を一時的に閉鎖の挙に出た。
この事態に驚いたオランダ東インド会社は、バタヴィア( ジャカルタ )からウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣した。ところが、末次平蔵、又ぞろ介入し、ヤンセンの将軍拝謁の阻止を謀んだ。
その上、あろうことか、平戸藩主・松浦隆信と共謀し、将軍・家光の名を騙って書状を勝手に捏造したのだった。
派遣され戻ってきた先住民を捕らえたり、将軍からの下賜品を取り上げたり、平蔵の船に積んであった武器・弾薬まで押収したことは許し難く、代償として台南・平安のゼーランディア城の破棄等を求めるものだった。但し、要求を受け入れればオランダの貿易の再開を約した代物で、ヤンセンがバタビアの総督府にこの書状を持って帰ると、知日派の新総督・スペックスに捏造された偽書であると喝破されてしまい、再度、ヤンセンを江戸に派遣することに。
スペックは、徹頭徹尾下手に出て、ノイツを一度解雇した上で、再び人質として幕府に差し出し、幕府側の面目を立てる方策を採った。ノイツは4、5年幽閉されるも、平戸オランダ商館は再開となり、後、長崎・出島に移ることになる。
1630年(寛永7年)6月、二代長崎代官・末次平蔵は江戸で獄死した。
如何なる仕儀で入獄となったのかも定かじゃないけれど、不審死という。
病死( 自死も含む )というより、殺害されたらしい。
確かに、元々は切支丹商人だったのが、棄教し、切支丹弾圧の急先鋒へと成り変わり、多くの切支丹信徒達を塗炭の責苦で厄殺し続けて来た業苦による精神の崩落的変容は了解し易いし、そういう説もあるらしい。
けれど、執拗な台湾領有や自身による支配まで要求し続け、挙句、御法度の朱印船貿易への関与・投資で暴利を貪ってきた幕閣達、土井利勝や酒井忠勝はじめ、“閣老、平戸侯、有馬侯、その他大勢の高官を糾弾しつつ告白をはじめた”とあっては、政治力学的にはもう抹殺されるべき方途へ直走りという事には違いない。
ともかく、台湾領有的画策は、専ら末次平蔵の独断上的産物であって、そもそもが対外的冒険主義を嫌う徳川幕府側にはその意図は希薄だったようだ。
平蔵の企図したものは、自身の支配する台湾なのか、長崎商人達にとっての中国・東南アジアひいては伴天連本国世界へ至る拠点としての台湾なのか、既に台湾では先住民たちが鹿皮をはじめとする交易を、日・中やポルトガル・オランダなんかとも行なっていて、同時に、オランダ東インド会社は、台湾の先住民達が総じて敵対的らしく、支配地での植民地化・殖産のために、中国南部・福建周辺から募集した多数の移民労働者達を住まわせてもいる只中で。
本文中で、黒石が「阿媽港からやって来る黒船」という言葉を使ってて、あれっ、黒船って幕末にやって来たペリーやなんかの欧米の艦船の呼称じゃなかったかと眼を疑ってしまった。が、これは、黒船=外国船 として既に江戸初期に幕府の公文書においてすら使われていた呼称。当然、中国のじゃなく、欧州の伴天連諸国の巨大帆船ガレオン船。
ところが黒石、幕末の黒船と見紛うように、周到にも、
「 僅かに難破を免れてここまで漕ぎつけた黒船は、煙突も歪み、帆柱も折れていた。」
なる一節を忘れない。( 一気呵成のノリで書き続け、自ら混同してしまったって可能性もなくはないけれど、帆柱とわざわざ認めているからには先ずありえない 。)
勿論、整合性を無視しての雰囲気を出すための修辞ってのも、確かに黒石ならありえるかも知れないが、意図的な寓意的表象と観るべきだろうか。
関東大震災直前の大正12年7月発行の短編集《 血と霊 》( 春秋社 ) に所載。
正確な発表年代は不詳。
尚、YOU TUBEで、この短編の朗読を見ることができる。
《 女人面 ワントウ 》怪談風朗読・茗荷谷かぼす
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