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2021年2月 6日 (土)

長崎・伴天連物語 女人面( ワントウ )  自由都市・長崎の終焉

 A

 ( 大泉黒石と縁の深い春徳寺。前身は、トードス・オス・サントス教会。長崎甚左衛門がルイス・デ・アルメイダに寄贈した土地に立てれらた教会。セミナリオ(中等教育)設備も備わっていて、家康の禁教令まで存続したらしい。)

 

 

 関東大震災直前に同名の日活映画とタイアップした短編集《 血と霊 》の一編で、黒石の得意とするらしい伴天連(バテレン)物《 女人面 》。
 苦々しい想いに塗れていたであろう故郷・長崎故の、複雑に重層した黒石の内面が投影され結晶化したような小品。但し、生活優先で一気呵成に書き飛ばした感は否めない。

 

 

 大正9年( 1920年 )春、東京で一緒に生活していた祖母が亡くなり、その遺骨を携えて帰郷し、菩提寺たる寺町の晧台( こうたい )寺に葬った黒石、親戚の図書館勤めの鳳之進の家に戻ることに。( この鳳之進って、恐らく当時の長崎の郷土史家・永見徳太郎を形象化したものだろう。)
 諏訪神社から立山・西坂の細路をトボトボ辿る道すがら、道々に刻まれた嘗ての消息・伝説奇譚を鳳之進は延々と一人語りつづけた。土地に沁みついた幽魂・怨霊に憑かれた巫術師の如く。
 諏訪神社の丘の上の楼門に置かれた唐船の模型と石火箭が伏線となってやがて長崎の正に長崎たる由縁の伴天連物語に連なってゆく。

 

  
 長崎・伴天連物語といえば、イエズス会( 神父ジョアン・ロドリゲス )と村山等安。
 最初は蜜月だった二者の関係が、やがて利潤的齟齬から角逐的相克へと向かう中での《 マドレ・デ・ディアス号事件 》( 1,610年 慶長15年 )を扱っているのだけど、かなりな変容・再構成を付されての黒石・長崎伴天連(バテレン)物語となっている。
 その村山等安、伊藤小七郎といい、天正年間に長崎に流れて来た人物で、既に長崎で権勢を誇っていた博多商人・末次興善の許に世話になり、切支丹に改宗しアントニオなる洗礼名も頂き、切支丹となった。
 後、豪商に成りあがり、朝鮮出兵のため肥前・名護屋城(佐賀県)に滞在していた太閤秀吉の下を訪れ、長崎の外町領の代官職を貰い、“ 等安 ”の名も貰う。以前は洗礼名からアントン( ワントウ )と呼ばれていたのを、秀吉が逆倒して命名。
 因みに、『女人面』とは、オランダ船の船首にある“ 海魔除け舳飾 ”フィギュアヘッドの守護女神像に、普段等安が纏っていた赤い天鵞絨のオランダ服と蒼白い相貌が似ていたからつけられた綽名とあるが、黒石の創作なのか、永見徳太郎あたりから得た伝承を素にしたものなのか定かじゃない。

 

 

 秀吉没後、家康の天下となり、イエズス会神父ロドリゲスに伴われ家康の下を訪れ、長崎代官の職を引き続く承諾を得た。
 等安とイエズス会は、それぞれの利害の上に相手を利用していたに過ぎず、やがてそれが矛盾相克として顕在化することになる。

 

 

 《 マドレ・デ・ディアス号事件 》の後、権力者の常として、次第に等安も嗜欲的妄執の陥穽に滑り落ち堕落三昧な日々を送るようになった。
 幕府より【 禁教令 】が発布された慶長17年(1,612年)、囲っていた女の問題で、その愛人らしい青年を等安は殺め、更にその青年の家族・一族10人以上をも殺害。その後、今度は、等安の殺害を策謀したとして家来達を殺害しあるいは宮刑( 去勢 )に処してしまう。
 これらの凄惨な事件で、等安は直ちに逮捕・処罰されることもなかったが、後年、商売敵となった末次平蔵( 世話になった末次興善の息子 : 二代目長崎代官 )が、幕府に訴えて初めて司直の俎上に乗ることとなる。

 

E

 

 
 そもそも初期切支丹大名である大村純忠が自領・長崎をイエズス会に寄贈したのだけど、イエズス会と組んで、神社・仏閣を焼き払い、僧侶らを殺害しあるいは追放し、自領民に切支丹信仰を強制、拒む領民達数万人を奴隷として、遠くはポルトガル、近隣諸国・東南アジアに売り払っていたらしい。ポルトガル商人・イエズス会は奴隷売買に手を染めていたのだ。
 それを知った秀吉は、それら一連の動きをポルトガルやスペインの日本侵略的一環と猜疑し怒って切支丹禁教令を発令し、1587年長崎を直轄領とする挙に出た。
 事実、日本を武力によって制圧しようと謀る動きがイエズス会やポルトガルにあったようで、そのために九州の切支丹大名達の結集も画策されていたという。中・南米での侵略支配の常套手段を、この日本でも、長崎を起点に策謀していたということだ。
 

 

 そんな史実に則ることはせず、黒石は、故郷・長崎に対する執着あるいは憧憬たる、当時の長崎の風光明媚さもさることながら、長崎の港の向う、東シナ海の彼方に開けた世界、つまり長崎のもつコスモポリタン性を基軸に歴史的プロセスを粗削りに組み替えた。何よりも、当時の大航海時代の新鮮な息吹を、何ものにも代えがたいエッセンスとして形象化したのであろう。
 

 

 「 色の蒼白い小鼻の尖った彼が、いつも赤い天鵞絨( ビロード )の阿蘭陀服を着て、鈴蘭花( チュウリップ )を伏せたような形の頭巾を被りながら、前かがみに歩いている姿が、その頃しきりにやって来た黒船の舳飾りに彫りつけてある海魔除けの『女人面』にそっくりだから、そういう綽名が付けられた。いかにも気まぐれな顔つき、世界の果てから果てまで渡って歩く『 女人面 』さん! という気分がコスモポリタンな彼の趣味に、しっくり合ったものだ。」

 

 

 コスモポリタン(国際)的自由都市=長崎。
 中世ドイツのフランクフルトやブレーメン等の自由都市を彷彿とさせる賞賛は、当時流行ったクロポトキンの《 相互扶助論 》の影響だろうし、あるいは家康=徳川幕藩体制に潰えさせられたコスモポリタン的自由都市=長崎への挽歌なのだろう。
 

 

 「 君は、あの豊太閤の所謂お声がかりで開かれた当時のこの町が、いかに『 自由 』と『 生気 』と『 信仰 』と平和に充ち充ちて、武力と言うものが町の民衆の夢にも宿らなかったかということや、町の一切は、ただ天帝( =神 )の心のままに導かれていたということを知っているだろう ?」

 

 

 「 奉行はおったが、それは影人形のようなもので、何の力もない。権能を持っていたのは、切支丹の帰依者の町ーーー民衆ーーーそれは皆商人だーーーが、神父のように崇拝している代官だった。代官は奉行の下にいる役人のように思われるが、この町の代官は独立した商人なのだ。そして熱心な切支丹なのだ。」

 

 

「 この町の背景になっている豊太閤の遺力を払いのけるために、家康は自分の腹臣、長谷川左兵衛を送ったのだ。」

 

 

「 評判の武断的専制政治家が奉行として下って来る。」

 

C

( 十六世紀後半、平戸にポルトガル商人として訪れ、日本国内でイエズス会員となって、医師免許を持っていて大友宗麟の領内で日本最初の病院を建てたルイス・デ・アルメイダ。慈善事業等も手掛け、領民からは慕われていたという。)

 

 そもそもが代官・等安と奉行・長谷川左兵衛藤広は、貿易がらみで主導権=権勢を誇っていたイエズス会を煙たく思い、その不利益に甘んじてきていた長崎商人達の不平・不満を解消し、主導権=実権を掌中にしようと協働したその端的な表れが、所謂《 マドレ・デ・ディアス( Madre de Deus )号事件 》であった。
 前年、長崎・日野江藩主=有馬晴信の配下の船がマカオでポルトガル商人とトラブルを起こして殺傷沙汰になり、ポルトガル当局に日本人商人達( 晴信のグループと少し早くマカオに入港していた別の日本人グループとの2グループ )が掃討されてしまった事件が起こっていて、そのポルトガル当局の最高責任者アンドレ・ペソアだった。
 この日本人グループって、マカオ当局に制されたにもかかわらず武装して町に繰り出していたという。この頃の、この関係者たちの派遣した日本船の東南アジアでの行状って、殆ど倭寇、つまり海賊のそれであって、例えば、元和の時代にはいって、等安が台湾に向け繰り出した船隊の内の三隻が中国浙江省沿岸で海賊行為を働きまくり、1200名もの住民を殺害したりで、到底まともな貿易商人達とはいえない。

 

 

 そのマカオ事件での鎮圧側の最高責任者アンドレ・ペソアが、家康にその事件での事情説明と併せて生糸を満載して長崎港に現れたのだった。
 等安と長谷川が早速マドレ・デ・ディアス号の積荷を押さえ、ペソアが家康に謁見に向かうのをイエズス会を利用して阻止し、有馬晴信に前年の事件の報復を使嗾し煽った。貿易的不都合と生命の危険を悟って出航しようとしたマドレ・デ・ディアス号を、既に家康からの意を受けていたのもあって、晴信の軍勢が阻止しようと多くの死傷者を出して数日間攻防を繰り返し、ペソアの命で自爆し沈没してしまった。
 

 

 つまり、黒石は、《 マドレ・デ・ディアス号事件 》で、実際には代官・等安と奉行・長谷川左兵衛が結託して、アンドレ・ペソア率いるマドレ・デ・ディアス号一行と対峙し武力攻撃した史実を覆して、長崎奉行と代官を敵対拮抗させ、国際的自由貿易都市長崎の町衆=代官・等安とアンドレ・ペソア率いるマドレ・デ・ディアス号一行を伴天連的紐帯の下に同調させる図式に組み替えた。但し、このマカオのポルトガル船長(カピタンモール)アンドレ・ペソアも、ここじゃオランダ人船長・アンドレナールに変えられている。
 
 豊太閤=コスモポリタン的自由貿易都市=長崎=等安( =イエズス会 )
 家康=幕藩体制的中央集権的貿易都市=長崎=長谷川左兵衛

 

 何よりも、長崎の自由自治制、そして、マドレ・デ・ディアス号=オランダ船=国際貿易船→“ この町の自由と生気を慕って来る文明の輸入者、知識の商人”( 135P )、つまり新鮮な新しい息吹を吹き込んでくれるコスポリタン的循環の媒介者であり、「 ・・・無風帯の荘園に、神人交楽の殿堂・・・」とまで黒石に理想化されたこのコスモポリタン的自由都市長崎が、家康=中央集権的全体主義の硬直した管理主義によって途絶し、潰え去ってしまったことへのアンチテーゼ=挽歌と了解して間違いはないだろう。



 秀吉がそれほど自由主義的とは思えないものの、例えば、当時、上記の切支丹大名達の領民奴隷化とは別に、元々当時戦国大名・領主達は、勝ち取った領土の住民達を戦利品として奴隷として連行し売買していたのが常だったらしく、天下を取った秀吉は、各地の大名達に“人身売買無効”の朱印状や【 人身売買禁止令 】を出し続けたという史実も加味されたのかも知れない。 ( 勿論、秀吉が人道主義に目覚めたからって訳じゃなく、専ら領土の労働力確保という支配の技術としてだろうが。 )
 因みに、がレオン船( 遠洋航海用複層甲板大型帆船 ) マドレ・デ・ディアス号の史実のポルトガル人船長が、オランダ人船長に組み替えられたのも、当時両国は互いにかなり険悪な敵対関係にあって、このポルトガル船マドレ・デ・ディアス号を攻撃しようと二隻のオランダ船が長崎まで追いかけてきていたという話まであり、仮に晴信等の襲撃をかわして長崎港から逃れたとしても、件の二隻のオランダ船に襲われ略奪・撃沈の憂き目に遭った可能性も高かった。
 ポルトガル=マカオ
 オランダ=台湾( 当時はまだ基地化されてはいず、ジャワに拠点 )
 って図式で、鳳之進に、
 「・・・阿媽港(マカオ)と言うのは今の台湾の事だろうと思う。・・・」
と、“ マカオ ”を“ 台湾 ”と白々しく嘯かさせている。
 
 
 長谷川左兵衛は、元々が家康の側近で、妹が家康の寵愛を受けていた側室という正に徳川幕藩体制の象徴のような存在だったのは確か。この長崎を舞台にした史実的にも有名な面々って、もう私利私欲悪行三昧のオン・パレードで、全く無知だったのでとりあえずネットであれこれ当たってみたら、その底無しさ加減に辟易してしまった。戦国時代の悉皆権謀術策世界そのまま。
 そんな一切を、偏に徳川幕藩体制=全体主義に封じてしまっての何ともシニカルな長崎伴天連物語だ。 

 

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