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2021年6月の2件の記事

2021年6月19日 (土)

 東アジア的邂逅  新宿に雨降る / 森三千代

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 この森三千代の 《 新宿に雨降る 》 (1953年)は、当時リウマチに罹り、手が不自由になっていた三千代に代わって光晴が口述筆記したという。
 実在の人物との不倫を題材とした物語で、秘められた恋愛的なりそめを夫の面前でとくとくと暴露しつづける愉悦に浸りながらの三千代と、長年培ってきた屈折した被虐的煩悶を充分に堪能しながら原稿用紙にその一語一語を刻印してゆく光晴との幾重にも錯綜した被虐的産物たる草稿が、何らかの事由で紛失し長い間行方知れずのままになっていたのが、半世紀過った2003年に、何処かで発見されたという。
 

 

 話は戦前まで遡り、日本に来ていた上海の新聞記者の歳晩秀の紹介ってことで、20年前( 1953年を起点として)、三千代が5年に渡るヨーロッパの旅から戻って来たばかりの、新宿2丁目の安アパートに、妻・荘錦翼を連れて訪れたのが柳剣鳴との初めての出遭いであったという。
 柳剣鳴はあくまで仮名だけど、元々は戦前中国の国民党系の中国軍軍人で、この小説では少尉とある。
 実名は、鈕先銘。
 鈕は日本語でも中国語でもチュウ。
 鈕先銘は日本陸軍士官学校出の外交官志望の軍人であり文学者でもあった。
 彼は南京事件の折、南京でその一端を実際に目撃した中国・国民党軍の将校で、中国共産党勢力に敗れ、敗走した蒋介石・国民党勢力とともに台湾に渡り、後、《 南京大虐殺事件 》 の生き証人として証言したり目撃録を著した。

 

 そもそも、《 柳剣鳴 》なる彼の名をそのままタイトルにした三千代の短編が既に戦前あったらしい。 「 金近一子のやっていた《 女人文芸 》という雑誌 」つまり、神近市子の《 女人芸術 》に掲載されたようだけど、実際の主宰は長谷川時雨。この《 女人芸術 》が新宿を根拠地にした作家が多かったらしいってのも、偶然なのか面白い。
 戦前の前作《 柳剣鳴 》を前提として省いているのか、戦後のこの作品では二人の具体的ななりそめの詳細は認められてなく、 戦後もだいぶ過ってからの1953年(昭和28年)に中華民国(=台湾)政府・軍幹部(少将)として来日した際に約20年ぶりに再会するため、新宿駅に向かう所から物語ははじまる。

 

 

 そぼ降る雨の中を、がっしりとした体つきの中老紳士となった柳剣鳴と並んで新宿の明るみの方へ向かって歩きながら、ふと三千代は、まだまだ若さの片鱗を互いに漂わしていた20年前の記憶が蘇って来た。
 新宿の裏通りにあった中華屋裏の陽当たり悪い薄暗いアパートの六畳間に、剣鳴が萌黄色の中国服を纏った妻の大銀行家の娘・荘錦翼を伴って、三千代を尋ねて来た。
 上海の大新聞の記者の紹介とだけしか記されてない。
 突然の訪問だったのかどうか、更には剣鳴とは既知の関係だったのかどうかすら曖昧で、初対面にしては、「少し急き込んだ、熱情的な調子で」語る剣鳴ってのがひっかかる。尤も、光晴と三千代が上海に長居を決め込んだ折にも、確かに魯迅はじめ様々な現地の人物達と臆することもなく闊達に接し関係性を打ち立てていったし、剣鳴も外交官志望のオープンな性格の持主であったらしいけれど。
 

 

 若き留学中国青年・柳剣鳴は、

 

 「 巴里オペラ座の桟敷などで見かける外国の貴公子のような、情熱で燃え上がったような大きな目と、わきまえのある、憂鬱なおもざしとかが、私の心に、かつて今まで感じたことがなかったある感情を湧き出たせた。」

 

 

 妻を本国に先に返し、フロリダ(赤坂溜池にあった当時一番有名なダンス・ホール)でタンゴを踊ってから三千代の部屋に戻り、早速その妻との離婚を持ち出してきた。三千代にも光晴との離別を。その余りの性急さをたしなめ、このままで良いのよという三千代を絶対に翻意させようと出発を延長し、逢瀬を繰り返しながらその後一週間も居続けた剣鳴。
 
 
 「 今から三年後に必ず迎えに来ます。中日の戦争は、きっと避けられない。僕はその時、攻めて来て、この東京で城下の誓いをさせてみせる。その条件として、君を出せと言う」

 

  城下の誓い=《 春秋左伝 》。 敵に首都まで攻め込まれた挙句の、屈辱的な降伏条約。

 

 その青年的な気負い・粋がりを三千代は微笑んだ。
 雨の篠つく生あったかい春の宵、最後の夜をなりゆきで新宿ホテルで過ごす運びとなって、雨に滲んだ原色のネオンがいつまでも三千代の脳裏に明滅するのだった。

 

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 ( 東京パンの右奥に新宿ホテルの広告塔が覗けている。左奥正面に三越が聳えている。)

 

 そんな二十年越しの剣鳴との再会にためらいと当惑を覚えているうちに、もう最後の別れの日となり、どんな別れかたをすればいいのか、とあらためて迷ってしまう三千代。
 降りしきる雨の中、二人は伊勢丹デパートの交差点で立ち止り、

 

 「 あなたの想う通り」

 

 と言った剣鳴の言葉が、三千代の身体の芯奥で、じいんと蠱惑的波紋となって絡め捕ろうとする・・・嘗てと同じ新宿のホテル。

 

 「 『 御用がありましたら、卓上お電話がございますから 』
 扉を閉めてボーイは引退った。
 解放された二人。きれいに別れようと思っていた抑制や、周囲へのこだわりから自由になった二人が、そこに向かいあって坐っていた。
 ひっぱったゴム紐の手を放したように、二人は、一つになる。
 死にいそぐ人のように心忙しく,相手にじぶんを与えることをいそいでいる。相手を自分にとり戻すことに心忙しい。互いにおろそかにし過ぎ、忘れ過ぎていた肉体である。ただ一夜を、永遠にまで運びつづけれるさだめと意識した愛撫。それは、二十年前の、今夜とおなじように目の前に別離をひかえたそれと、まったく似ていた。そっくり繰返しだといってもよかった。」

 

 

 

 急に思い出したように、剣鳴がホテルの便箋に万年筆で何かを書きはじめた。

 

 

 「 蜀山花開いて燕帰ること遅し
   寥落竣功おのずから知らず
   顛沛嘗て三歳の約にそむく
   相思聊か寄す一心の痴
   惟比翼を収めて来世を盟う
   曾て幾ばくの留連好夢の時
   夜永く客窓明月止る
   湛々たる縁債今に至ってきよし」

 

( 四 《 無題 》)

 

 

 戦火の只中、暫し三千代を想い、民家の藁の塹壕の中で記めた七言律詩という。一句一句の意味を三千代に説き明かし、時には中国語で抑揚をつけ唱したりもして、三千代は、嘗て旅した中国で見て来た支那芝居のセリフを思い出していた。


 「 むせび泣くような胡弓の音や、人間の懊悩や執着を寸断にするような、歯切れのよい拍子木まできこえる。すると、舞台の上の、銀色で塗った、盾のような形の木の首枷をはめられ、ただ一人、愛するものや親しい人々とも別れて、冤の罪で流謫されてゆく、尚小雲の演ずる悲劇の女主人公の姿が、まざまざと見えてくる。」


 「 夢来ることの遅いのを慨く若い将軍が、征衣に落ちた涙の汚点をしきりに拭おうとするけれども、それがしみついてしまって、なかなかとれないで、丁度、口紅の痕に似てのこっているという、そんな日々を剣鳴が過ごした南彊といい、蜀山という名でよばれる土地は、尚小雲の演じた、あの女主人公が流謫されたと同じような、中国奥地の、いわゆる荊蛮の地なのではあるまいか。ひからびて、亀の甲のように割れた灰色の土の上には、痩せこけた楊柳が白っぽけた葉を震わせ、行けども行けども果てしない広野のその道には、土でかためた、ひしゃげたような家々が、思い出したように、ゆく手の果てに寄りかたまっていたりする。」

 

 尚小雲=梅蘭芳とならぶ「四大名旦」の一人。
  本名・尚德泉。父親の尚元照は漢人系の旗人。
 文革中、紅衛兵の吊るし上げに遭う。
  
 征衣=戦装束。

 

 

 しかし日華事変の起きた昭和12年(1937年 )の暮れ、三千代は、いよいよ戦火が激しくなってくる最中、剣鳴への想いが勝ったのか、一度だけ、玄界灘を越えて中国大陸・北支に剣鳴の姿を求めて探索行に向かった。
 玄界灘の船上で南京陥落の報を聞きながら、天津の港に上陸。
 鉄条網が張り巡らされ銃剣の兵士が警備する中を、人力車に乗って一路、須磨街にあった剣鳴の父の邸に向かった。通りに人の気配もなく、門環を幾ら叩いても誰も姿を現すことはなかった。
 北京にも剣鳴の父の邸があった。
 彼の父は、清朝以来の名門で、大蔵大臣を務めていたこともあったという。

 

 

 「 私が北京に着いて泊まった、交民巷に面した中国飯店は、一夜泊って翌日目をさましてみると、いつの間にか日本軍に接取されて、あわただしく追い立てられた。正陽門に近い、金扇ダンスホールの階上の華安飯店に移った。芝居の子役の様に可愛いい部屋ボーイに、北京にいる筈の剣鳴の弟のもとへ、せっせと電話をかけさせた。何度かけさせても、いつも彼の弟は不在だった。・・・・・・北京で正月を越し、八達嶺まで行き、長城の城壁から首を出して、赤禿げの山襞の無限のつづきを見渡しながら、=== 剣鳴よ、どこにいる、と、心のなかで力いっぱい呼び求めた。」

 

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 ( 鈕先銘 )

 

 当時、剣鳴率いる一個大隊は、南京城光華門の守備に就いていて、七日間続いた日本軍の猛攻に散り散りになり、軍の広報でも戦死扱いになっていた。剣鳴の弟や妻の荘錦翼もその報を知っていて、例え三千代が弟に出会えたとしても剣鳴の死を伝えられただけだった。
 軍命に従って撤退したものの散り散りになって最後にはたった数名。乗り込んだ揚子江を北に渡る満杯の汽帆船から剣鳴は滑り落ち、十キロ以上も流され、たまたま入り込んだ焼け残った仏教寺院・永清寺の老僧にかくまわれた。剃髪され僧になりすまして、やがて現れた日本軍の掃討から免れた。
 翌年、南京城内にある老僧の拠点・鶏鳴寺に移り、占領日本軍人相手に、日丸旗や千人針のさらしに、古鶏鳴寺の印を押し、古詩を達筆で揮ってやってその礼金を取って困窮した寺僧たちの生活を賄ったりしながら、夏頃、上海の北站(上海駅)にようやく辿り着いたという。

 

 死亡広報が伝えられたために妻の荘錦翼がフランス留学中に関係をもっていた軍人の雷と一緒になっていて、姉のすすめる通り、パリ時代の戦死した友人の妹を新妻に貰う運びに。
 その後、子供ももうけ、嫁ともどもに、蒋介石国民党勢とともに台湾に逃げ、現在、台湾国軍幹部となって活躍している剣鳴。その妻を帯同しての二十年ぶりの三千代との再会だった。

 

 
 ここでも、森三千代の奔放さの象徴の様にいわれてきた美術評論家・土方定一が、剣鳴とのからみで戦前・戦後の二回登場する。
 有楽座で《 風と共に去りぬ 》を息子と観に行こうと、時間待ちに入った喫茶店で、偶然、戦前からの腐れ縁ともいうべき、松谷信武(= 土方定一 )に声をかけられる。
 三千代の若き燕・松谷信武もすっかり高名な美術評論家となっていた。

 

 

 「 これから私たち、映画へ行くのよ」
 言ってから、彼の耳のそばで、
 「 柳剣鳴が日本に来たのよ。いま、会って来たばっかりよ」
 と、ささやいた。
 「 ふうん。それは、グランド・ニュースだな」
 彼は、柳剣鳴の名を忘れていなかった。
 「 心配しなくってもいいよ。そんなに老けて見えないから」
 私の心配をずばりと言いあてたような言葉を、彼一流の思いやりと皮肉のまじった調子で言った。

 

 

 それにしても、金子光晴は、そんな三千代の虚実ない混ぜに紡ぎ出す一言一句に、コキュの被虐性剥き出して、それこそ身悶えするように刻印していったのだろうか。
 それとも、初老の男が若い愛人を距離を保って見るような恬淡な作業であったろうか。あるいは互いに作家としての矜持の上でのもっと淡々とした口述筆記に過ぎなかったのだろうか。

 


  
  新宿に雨降る 《 森三千代 鈔 》 森三千代 ( 濤書房 ) 1977年

※ ヤフオクや〈日本の古本屋〉等で簡単に入手できる。

 

 

2021年6月 5日 (土)

怪奇小説 一體二心物語  大泉黒石

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 《 中央公論 》以外のあれこれの雑誌に書いた大泉黒石の小説( 著述類 )って一体どのくらいあるのだろう ?
 北明のエロ・グロ系の雑誌の大まかは分かってるけど、婦人雑誌・少女雑誌・探偵推理系あるいは経済系にすら及んでいて、今回の《 雄弁 》って読んで字のごとし、弁論・演説が基本なんだろうが、さすがそれだけじゃ味気なさ過ぎってことで絵画の色刷りの織り込みや小説等の文化系要素も含んでいて、一般総合雑誌の態。
 この号は、“ 新年特大号 ”と銘うっているので、普段はもっと薄いのだろうが、山川均や平林初之輔、白柳秀湖等のプロレタリア系や元プロレタリア系、当時の大衆小説の御三家の一人・中村武羅夫、もっともそれらしい北一輝の実弟・北昤吉の名も連なっている。
 大泉黒石の名は小説陣のトップに、

 

 《 怪奇小説 一体二心物語 》 (丹羽黙仙・画) 

 

 とある。
 大正15年といえば昭和元年でもある。
 束の間の大正デモクラシーも終焉し、暗い軍国主義の時代と謂われる昭和の始まり。碧眼の黒石、いよいよ逼迫の傾斜も度を増しはじめる時節のとば口に屹立していたのだろう。
 挿絵つきで本格的な短編なのか、と幾分の期待を胸に読み始めると、ふと、デ・ジャ・ヴに似た既視感に囚われてしまった。

 

 

 「 深い緑の丘
   真っ白い壁
   瓦や木葺や茅の家
   みんな一緒に塊っている。」

 

 

 この出だしの頃はまだよかったけれど、

 

 

 「 それは、九州の西の果に夏が来ると、いつも、目の醒める様なピンクの三角帆に、風を孕ませて走るヨットや独木舟(カヌー)や、白いスカートをまくり上げ、足の先で水を嬲りながら、舵をとっている西洋婦人の姿が、あの若い孔雀が翼をひろげた様に、・・・」

 

 

 足先で水を嬲るというフレーズ、これはボクの記憶に明瞭に《 血と霊 》の出だしのシーンとして刻印されていた。あれれ、《 血と霊 》は大正12年の関東大震災直前の7月に発刊されていたはず。何ゆえに、この大正末年新年号《 雄弁 》誌上に相似したシーンが・・・
 
 
 その後、シーボルト邸跡にシーンが移って、  
 

 

 「 ・・・ナラヤナの涅槃でも敷きのべたように美しい・・・」

 

 

 このフレーズ・シーンもよく覚えていて、旧作の別バージョンか導入部分だけを流用して新しい物語でも展開してゆくのかと困惑と期待のアンビバレントな想持ちにしばしゆらいでしまった。
 やがて、閨秀画家・杉貞子とその乳母、美麗な小函と、完全に《 血と霊 》と相似な展開に、さすがにこれは違うなと、ネットで国会図書館蔵の《 血と霊 》をチェックしてみると、果たして、一言一句そのまま。只、

 

 

 「 まあ何ていい気持ちだろう !
  想像してごらんなさい。
深い緑の丘・・・ 」

 

 

 と、19世紀のロシア人作家イヴン・ゴンチャロフが長崎を讃えて作った冒頭の唄の2節が排除され、巻頭にある【 プロローグ 】も削除されていている。いわば、本体だけって態。
 迂闊にも直ぐに気付かなかったが、国会図書館蔵の《 血と霊 》は、3~18頁まで欠けていて、その空白の部分が何とこの《 雄弁 》掲載の《 怪奇小説 一體二心物語 》では、ちゃんと活字となって認められているのだった。
 長い間、諦めていたこの空白部分が、ひょんなことからやっと明らかになったという訳だ。 当初は2ページだけ破られるかして欠損( 実際にネット画面上に表示されているのは表・裏の1枚分だけの空白)しているんだろうぐらいにしか思ってなかったのが、今日、改めて確認してみると、10頁以上も欠損していた。自身の迂闊さに驚いてしまった。

 

 

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 ( 草叢に斃れた娘  明治・大正・昭和の挿絵画家・丹羽黙仙=礼介の挿絵。経歴が余りはっきりしない画家のようで、関西から東京に出て来て、明治二十九年に東京美術学校に洋画科が新設された際の一期生という。生活優先なのか画家活動より挿絵の方に重点が置かれていたようで、画壇的消息に乏しく、彼の軌跡を追うのが至難らしい。)

 

 その空白部分において、以前は皆目想像もしていなかった、冒頭のシーボルト邸跡の空地一杯に咲き乱れた花々、花絨毯の花を採りにきていた女中連れの娘が、実は、そこで胸を刺され血塗れになって殺害されるシーンが、早速、展開されていたのだった。

 

 

 「 ナラヤナの涅槃でも敷きのべたように美しい其邸の庭には、・・・・・・此の草叢の中には、そのときに限って、先刻の娘さんと女中のほかに誰もいなかったと云う事で、女中は、娘さんが蹲( しゃが )んでいる場所から少し離れたパラソルの蔭で、これも頻りに花を摘んでいると、不意に少女の悲鳴が聞こえたので、女中はびっくりして立ち上がると、すぐ目に映ったのは、草の中に打ち倒れている娘さんの姿なのです。そこには、昔の阿弥陀塚が立っているきりで、人影はさらにありませんでした。慌てて娘さんの側へ飛んで行った女中は、恐ろしさのあまりに立ちすくんで了ったのです。娘さんの白い浴衣は血に汚れ、ほだけた胸には、何かしら鋭いもので抉られた心臓が、恐ろしく大きな赤い口をパクリとあけていました。」

 

 

 「 其の翌日の夕方。これもまた、ある家の未亡人が墓参に出たきり帰ってこないので、家の者が探しに行くと、未亡人は、夫の石塔の台に腰かけたままいかにも苦痛に堪えきれないと云ったような、冷たい蒼ざめた顔を垂れて死んでいたのでした。抱くようにして胸を押さえている両手ーーー一方の中指には2つの指環が輝いて居り、一方の手首には立派な腕時計をまきつけたその両手をのけると、どろどろに凝った血のりの下から、やはりこれも鋭いものに刺しぬかれた心臓が、砕けた柘榴のように覗いているのでした。彼女は五十に近い夫人で誰に恨みをうけるような性でもなければ、また何一つ盗まれてもいないのでした。」

 

 

 「 その翌る晩のことです。この町の居留地の入口になっている阿弥陀坂と云う湿っぽくて仄暗い切通しを、スタスタと歩いていた西洋婦人がふと立ち停ったきり、夜があけても動かなくなったと云うのです。で、この坂は、その真上にカトリック女学校のある崖を開削したものだから、いつもシトシトと水が垂れ落ちていますが、西洋婦人は赤いリボンのついた盛装のまま、パラソルを仗にしながら、崖壁によりかかり、その前を、ゾロゾロと通りぬける女学生たちをぢっと眺めていました。ところが、滴りおちる水のために靴を辷らして、どかんと倒れたので、びっくりした女学生たちが、寄ってたかって抱き起こし見ると、彼女は生きた人間ではなかったのです。胸からだらりと下がっている、赤いリボンは、傷だらけの心臓から流れる血のために、赤く染められた飾り紐だとわかりました。彼女は殺されていたのです。この三つの物凄い出来事は、あとからあとからと引きつづいて、街の人たちを驚かせた悲劇の前ぶれとなり、穏やかな港町の、明るい空気はだんだんと暗い影に蔽われて来ました。」

 

 

 欠損部分のある国会図書館蔵を前提として《 血と霊 》を解釈してきていたので、多少の修正は不可避となろう。
 とりわけ、四方田犬彦も指摘していた“ 赤 ”が、おどろおどろしくも艶めかしくこの物語の根源的イメージとして圧倒的に迫って来る。
 単なる刺殺として描くのではなく、大きく切り開かれた胸の奥に覗いたまだ鼓動しているかの如く紅蓮に染まった心臓という血塗られた妄執を越えた赤色的結晶、つまり赤い血の根源=心臓を暴くような刺殺それ自体が、紅玉に憑かれた宝石商・鳳雲泰の美それ自体の追及として描出されている。 

 

 赤=血、それは又、死と再生をも意味する。

 

 それに何よりも、元々長崎自体が、赤い玉を意味する瓊(たま・けい)に因んだ【 瓊浪浦 】、【 瓊之浦 】等の古称をもっていた。( 現在も瓊に因んだ地名があちこちに残っている。)

 

 

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 ( 同じ出版社から出されている『 キング 』の広告。前年の一月に創刊。雄弁会って講談社の前身で、社長の野間清治が立ち上げたらしい。)

 

「 人々の心は異様に戦慄が漂って来ました。この不思議な災厄に対するその筋の判断は、迷いに迷い、とりとめのない様な馬鹿気きった風説さえ伝わるのでした。その時のびくびくした心もちをはっきりとお話することはとても出来ませんが、兎に角、これは只の災難ではない。昔噺しかそれとも探偵小説にある様な人間の血を探し廻る狂人か或いは背信教の仕業ではないかと、真面目に考えた人もある位でしたが、幾ら蝙蝠のように昼間は潜み隠れ、夜が近づくと巧みに現れる狂人か背信教にしろ、少し変わった者だと、じきに注目される此の狭い港町だ。」

 

 

 「 その頃、丁度、日本の兵が青島( チンタオ )を攻めていたので、ある人の臆説のように、これはきっと、独逸( ドイツ )の兵が、港の海底潜航艇か何かでもぐり込んでいるが、夜になると、こっそり上陸してやるのかも知れないと云うのも尤もではあります。なるほど悪魔の様に悪智慧があって、仕事にかけてはいつも、素敏( すばし)っこく残忍なのが、独逸兵の持ちまえだとばかり信じている矢先の事ですけれども、独逸の兵が、たとえ海の底に潜んで居様と、人目につかず、岸から街へ、路から路を辿って跳び廻るなどとは、夢にも思われない事です。」

 

 
1914年(大正3年)第一次世界大戦の一環としてアジアにおけるドイツの拠点・青島を日本軍が攻撃したが、この物語の時代設定が同時代ってことで、黒石の父親の故国ロシアに対するドイツの攻撃、シーボルトの故国であるドイツと日本の戦争等の要因を念頭にすると、のっけからのシーボルト邸跡での殺人事件ってのが、些か牽強付会に過ぎるかも知れないが、了解できてしまう。
 この青島のエピソード、国会図書館蔵の《 血と霊 》には字面になかったので当り前だけど、曖昧な時間性の上で了解してたのが、第一次世界大戦勃発以降と明示され、のっけからのシーボルト邸跡にはじまる連続事件をも併せると、以前より物語の印象が、大部メリハリの利いたものになってきた。

 

 

 因みに、本題とは些かずれるが、黒石の父親アレクサンドル・ S・ワホーヴィチに少し係って来る事柄で、幕末から長崎の中心地と長細い港湾の向かい側の稲佐にロシア海軍の補給基地があって、ロシア士官用の遊廓( ロシアマタロス休息所 )まで設えられていたという。明治36年まで存続していたらしく、黒石は明治26年生れだから10歳頃までちょいと足を延ばし浦上川を越えれば稲佐の基地に赴けた。江戸幕府の時節ならともかく、明治維新後はロシア兵も長崎市内には入れたろうから、黒石少年もロシア水兵や将校の姿を眼にしたりロシア語を耳にしたりしたことはあった可能性が強い。

 

 

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 稲佐じゃ明治前半頃までは、子供たちすら、片言のロシア語を喋れていたほどだったという。丁度太平洋戦争が終わった終戦直後、日本に駐留していた通りすがりの米兵に子供たちが「へイ ! GI ! チョコレート、チューウィンガム」とねだっていたのと同様なのか、それとももっと積極的に踏み込んだ簡単な会話レベルのものだったのか。
 ネットなど見てみると、どうも当時はロシア語の看板の店すらあったらしく、ロシア水兵・士官たちで結構賑わい、住民も好意的で、本当にロシア語会話もそれなりに出来ていたようだ。ロシア士官たちが日本人娼婦=洋妾(ラシャメン)と“ 結婚 ”( 稲佐滞在期間限定らしい )するのが流行ってもいたというのだから、ロシア士官等にとっては、稲佐は、憧れの正にパラダイスだったといっても過言ではない。そんな“ 妻帯 ”ロシア人たちが稲佐の街中を着物に下駄ばきで闊歩していたというから、黒石風の氾濫ってところか。そんな光景、港湾を距てた向かいの欧米人達の瀟洒な居留地じゃ先ず見られなかったろう。
 そんなロシア海軍将兵達と住民(洋妾たちも含めて)たちが共存共栄する“ロシア村”=“オロシャ租界”故に、大浦の欧米の外国人居留地の人間が入って来ようとすると、断固としてロシア人たちは阻止したという。何としても、自分たちロシア人だけの聖域・パラダイスを侵されたくなかったに違いない。
 中国人街に外国人居留地、それにロシア村、正に長崎はコスモポリタン港だった。

 

 

 それにしても、黒石、何故に数年前に一度出版した作品を、今度は文芸誌でもない言論雑誌なんかに分載しようとしたのだろう。
 やっぱし、出版して一月ぐらいで未曽有の関東大震災が勃発し東京及び近辺が焼ヶ原になってしまったからってことか。映画の方も、結局、試写会が一度ッきり葵館で実施されただけで、陽の目を見ることもなかったのだから。

 

 

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 《 雄弁 》 大正15年新年特大号
 《 怪奇小説 一體二心物語 》 大泉黒石

 

 《 血と霊 》 大正12年7月15日発行( 春秋社 )
 映画《 血と霊 》 日活(向島) 制作は、1923年6月~7月。大正12年8月15日葵館で試写。9月1日関東大震災。

 

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