東アジア的邂逅 新宿に雨降る / 森三千代
この森三千代の 《 新宿に雨降る 》 (1953年)は、当時リウマチに罹り、手が不自由になっていた三千代に代わって光晴が口述筆記したという。
実在の人物との不倫を題材とした物語で、秘められた恋愛的なりそめを夫の面前でとくとくと暴露しつづける愉悦に浸りながらの三千代と、長年培ってきた屈折した被虐的煩悶を充分に堪能しながら原稿用紙にその一語一語を刻印してゆく光晴との幾重にも錯綜した被虐的産物たる草稿が、何らかの事由で紛失し長い間行方知れずのままになっていたのが、半世紀過った2003年に、何処かで発見されたという。
話は戦前まで遡り、日本に来ていた上海の新聞記者の歳晩秀の紹介ってことで、20年前( 1953年を起点として)、三千代が5年に渡るヨーロッパの旅から戻って来たばかりの、新宿2丁目の安アパートに、妻・荘錦翼を連れて訪れたのが柳剣鳴との初めての出遭いであったという。
柳剣鳴はあくまで仮名だけど、元々は戦前中国の国民党系の中国軍軍人で、この小説では少尉とある。
実名は、鈕先銘。
鈕は日本語でも中国語でもチュウ。
鈕先銘は日本陸軍士官学校出の外交官志望の軍人であり文学者でもあった。
彼は南京事件の折、南京でその一端を実際に目撃した中国・国民党軍の将校で、中国共産党勢力に敗れ、敗走した蒋介石・国民党勢力とともに台湾に渡り、後、《 南京大虐殺事件 》 の生き証人として証言したり目撃録を著した。
そもそも、《 柳剣鳴 》なる彼の名をそのままタイトルにした三千代の短編が既に戦前あったらしい。 「 金近一子のやっていた《 女人文芸 》という雑誌 」つまり、神近市子の《 女人芸術 》に掲載されたようだけど、実際の主宰は長谷川時雨。この《 女人芸術 》が新宿を根拠地にした作家が多かったらしいってのも、偶然なのか面白い。
戦前の前作《 柳剣鳴 》を前提として省いているのか、戦後のこの作品では二人の具体的ななりそめの詳細は認められてなく、 戦後もだいぶ過ってからの1953年(昭和28年)に中華民国(=台湾)政府・軍幹部(少将)として来日した際に約20年ぶりに再会するため、新宿駅に向かう所から物語ははじまる。
そぼ降る雨の中を、がっしりとした体つきの中老紳士となった柳剣鳴と並んで新宿の明るみの方へ向かって歩きながら、ふと三千代は、まだまだ若さの片鱗を互いに漂わしていた20年前の記憶が蘇って来た。
新宿の裏通りにあった中華屋裏の陽当たり悪い薄暗いアパートの六畳間に、剣鳴が萌黄色の中国服を纏った妻の大銀行家の娘・荘錦翼を伴って、三千代を尋ねて来た。
上海の大新聞の記者の紹介とだけしか記されてない。
突然の訪問だったのかどうか、更には剣鳴とは既知の関係だったのかどうかすら曖昧で、初対面にしては、「少し急き込んだ、熱情的な調子で」語る剣鳴ってのがひっかかる。尤も、光晴と三千代が上海に長居を決め込んだ折にも、確かに魯迅はじめ様々な現地の人物達と臆することもなく闊達に接し関係性を打ち立てていったし、剣鳴も外交官志望のオープンな性格の持主であったらしいけれど。
若き留学中国青年・柳剣鳴は、
「 巴里オペラ座の桟敷などで見かける外国の貴公子のような、情熱で燃え上がったような大きな目と、わきまえのある、憂鬱なおもざしとかが、私の心に、かつて今まで感じたことがなかったある感情を湧き出たせた。」
妻を本国に先に返し、フロリダ(赤坂溜池にあった当時一番有名なダンス・ホール)でタンゴを踊ってから三千代の部屋に戻り、早速その妻との離婚を持ち出してきた。三千代にも光晴との離別を。その余りの性急さをたしなめ、このままで良いのよという三千代を絶対に翻意させようと出発を延長し、逢瀬を繰り返しながらその後一週間も居続けた剣鳴。
「 今から三年後に必ず迎えに来ます。中日の戦争は、きっと避けられない。僕はその時、攻めて来て、この東京で城下の誓いをさせてみせる。その条件として、君を出せと言う」
城下の誓い=《 春秋左伝 》。 敵に首都まで攻め込まれた挙句の、屈辱的な降伏条約。
その青年的な気負い・粋がりを三千代は微笑んだ。
雨の篠つく生あったかい春の宵、最後の夜をなりゆきで新宿ホテルで過ごす運びとなって、雨に滲んだ原色のネオンがいつまでも三千代の脳裏に明滅するのだった。
( 東京パンの右奥に新宿ホテルの広告塔が覗けている。左奥正面に三越が聳えている。)
そんな二十年越しの剣鳴との再会にためらいと当惑を覚えているうちに、もう最後の別れの日となり、どんな別れかたをすればいいのか、とあらためて迷ってしまう三千代。
降りしきる雨の中、二人は伊勢丹デパートの交差点で立ち止り、
「 あなたの想う通り」
と言った剣鳴の言葉が、三千代の身体の芯奥で、じいんと蠱惑的波紋となって絡め捕ろうとする・・・嘗てと同じ新宿のホテル。
「 『 御用がありましたら、卓上お電話がございますから 』
扉を閉めてボーイは引退った。
解放された二人。きれいに別れようと思っていた抑制や、周囲へのこだわりから自由になった二人が、そこに向かいあって坐っていた。
ひっぱったゴム紐の手を放したように、二人は、一つになる。
死にいそぐ人のように心忙しく,相手にじぶんを与えることをいそいでいる。相手を自分にとり戻すことに心忙しい。互いにおろそかにし過ぎ、忘れ過ぎていた肉体である。ただ一夜を、永遠にまで運びつづけれるさだめと意識した愛撫。それは、二十年前の、今夜とおなじように目の前に別離をひかえたそれと、まったく似ていた。そっくり繰返しだといってもよかった。」
急に思い出したように、剣鳴がホテルの便箋に万年筆で何かを書きはじめた。
「 蜀山花開いて燕帰ること遅し
寥落竣功おのずから知らず
顛沛嘗て三歳の約にそむく
相思聊か寄す一心の痴
惟比翼を収めて来世を盟う
曾て幾ばくの留連好夢の時
夜永く客窓明月止る
湛々たる縁債今に至ってきよし」
( 四 《 無題 》)
戦火の只中、暫し三千代を想い、民家の藁の塹壕の中で記めた七言律詩という。一句一句の意味を三千代に説き明かし、時には中国語で抑揚をつけ唱したりもして、三千代は、嘗て旅した中国で見て来た支那芝居のセリフを思い出していた。
「 むせび泣くような胡弓の音や、人間の懊悩や執着を寸断にするような、歯切れのよい拍子木まできこえる。すると、舞台の上の、銀色で塗った、盾のような形の木の首枷をはめられ、ただ一人、愛するものや親しい人々とも別れて、冤の罪で流謫されてゆく、尚小雲の演ずる悲劇の女主人公の姿が、まざまざと見えてくる。」
「 夢来ることの遅いのを慨く若い将軍が、征衣に落ちた涙の汚点をしきりに拭おうとするけれども、それがしみついてしまって、なかなかとれないで、丁度、口紅の痕に似てのこっているという、そんな日々を剣鳴が過ごした南彊といい、蜀山という名でよばれる土地は、尚小雲の演じた、あの女主人公が流謫されたと同じような、中国奥地の、いわゆる荊蛮の地なのではあるまいか。ひからびて、亀の甲のように割れた灰色の土の上には、痩せこけた楊柳が白っぽけた葉を震わせ、行けども行けども果てしない広野のその道には、土でかためた、ひしゃげたような家々が、思い出したように、ゆく手の果てに寄りかたまっていたりする。」
尚小雲=梅蘭芳とならぶ「四大名旦」の一人。
本名・尚德泉。父親の尚元照は漢人系の旗人。
文革中、紅衛兵の吊るし上げに遭う。
征衣=戦装束。
しかし日華事変の起きた昭和12年(1937年 )の暮れ、三千代は、いよいよ戦火が激しくなってくる最中、剣鳴への想いが勝ったのか、一度だけ、玄界灘を越えて中国大陸・北支に剣鳴の姿を求めて探索行に向かった。
玄界灘の船上で南京陥落の報を聞きながら、天津の港に上陸。
鉄条網が張り巡らされ銃剣の兵士が警備する中を、人力車に乗って一路、須磨街にあった剣鳴の父の邸に向かった。通りに人の気配もなく、門環を幾ら叩いても誰も姿を現すことはなかった。
北京にも剣鳴の父の邸があった。
彼の父は、清朝以来の名門で、大蔵大臣を務めていたこともあったという。
「 私が北京に着いて泊まった、交民巷に面した中国飯店は、一夜泊って翌日目をさましてみると、いつの間にか日本軍に接取されて、あわただしく追い立てられた。正陽門に近い、金扇ダンスホールの階上の華安飯店に移った。芝居の子役の様に可愛いい部屋ボーイに、北京にいる筈の剣鳴の弟のもとへ、せっせと電話をかけさせた。何度かけさせても、いつも彼の弟は不在だった。・・・・・・北京で正月を越し、八達嶺まで行き、長城の城壁から首を出して、赤禿げの山襞の無限のつづきを見渡しながら、=== 剣鳴よ、どこにいる、と、心のなかで力いっぱい呼び求めた。」
( 鈕先銘 )
当時、剣鳴率いる一個大隊は、南京城光華門の守備に就いていて、七日間続いた日本軍の猛攻に散り散りになり、軍の広報でも戦死扱いになっていた。剣鳴の弟や妻の荘錦翼もその報を知っていて、例え三千代が弟に出会えたとしても剣鳴の死を伝えられただけだった。
軍命に従って撤退したものの散り散りになって最後にはたった数名。乗り込んだ揚子江を北に渡る満杯の汽帆船から剣鳴は滑り落ち、十キロ以上も流され、たまたま入り込んだ焼け残った仏教寺院・永清寺の老僧にかくまわれた。剃髪され僧になりすまして、やがて現れた日本軍の掃討から免れた。
翌年、南京城内にある老僧の拠点・鶏鳴寺に移り、占領日本軍人相手に、日丸旗や千人針のさらしに、古鶏鳴寺の印を押し、古詩を達筆で揮ってやってその礼金を取って困窮した寺僧たちの生活を賄ったりしながら、夏頃、上海の北站(上海駅)にようやく辿り着いたという。
死亡広報が伝えられたために妻の荘錦翼がフランス留学中に関係をもっていた軍人の雷と一緒になっていて、姉のすすめる通り、パリ時代の戦死した友人の妹を新妻に貰う運びに。
その後、子供ももうけ、嫁ともどもに、蒋介石国民党勢とともに台湾に逃げ、現在、台湾国軍幹部となって活躍している剣鳴。その妻を帯同しての二十年ぶりの三千代との再会だった。
ここでも、森三千代の奔放さの象徴の様にいわれてきた美術評論家・土方定一が、剣鳴とのからみで戦前・戦後の二回登場する。
有楽座で《 風と共に去りぬ 》を息子と観に行こうと、時間待ちに入った喫茶店で、偶然、戦前からの腐れ縁ともいうべき、松谷信武(= 土方定一 )に声をかけられる。
三千代の若き燕・松谷信武もすっかり高名な美術評論家となっていた。
「 これから私たち、映画へ行くのよ」
言ってから、彼の耳のそばで、
「 柳剣鳴が日本に来たのよ。いま、会って来たばっかりよ」
と、ささやいた。
「 ふうん。それは、グランド・ニュースだな」
彼は、柳剣鳴の名を忘れていなかった。
「 心配しなくってもいいよ。そんなに老けて見えないから」
私の心配をずばりと言いあてたような言葉を、彼一流の思いやりと皮肉のまじった調子で言った。
それにしても、金子光晴は、そんな三千代の虚実ない混ぜに紡ぎ出す一言一句に、コキュの被虐性剥き出して、それこそ身悶えするように刻印していったのだろうか。
それとも、初老の男が若い愛人を距離を保って見るような恬淡な作業であったろうか。あるいは互いに作家としての矜持の上でのもっと淡々とした口述筆記に過ぎなかったのだろうか。
新宿に雨降る 《 森三千代 鈔 》 森三千代 ( 濤書房 ) 1977年
※ ヤフオクや〈日本の古本屋〉等で簡単に入手できる。
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