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2021年7月31日 (土)

30℃的灼熱の盂蘭盆会 田野浦遊女たちの集墓

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 新盆はもう過ぎたけど、遅ればせってことで余り誰も顧みそうにもない田野浦の遊女達の集墓に詣でてみた。
 そもそも盂蘭盆会とは、祖先の霊を迎えるってことらしい。
 自分の親族でもなく、どころか遙か江戸後期から幕末・明治維新の頃の、馬関=下関の北前船的繁栄の一端を担いその利を得ての小さな漁村に過ぎなかったこの田野浦にも数件存在した遊廓、《 鍛冶屋 》、《 蛭子屋 》、《 永文字屋 》等で働いていた遊女達の墓なんだけど、北前船がメインの対岸の下関側じゃなく、田野浦側に寄港するのを、裏山・聖山の頂から認めると、我先に遊女たちは鉦・太鼓を打ち鳴らしながら駈け下り、やがて接岸する男達を出迎えたという。小さな小山に過ぎない聖山(ひじりやま)だけど、確かに見晴らしは好い。源平合戦の後、敗れた皇族・平氏方の侍女が庵を開いていたとかいう説話もある聖山。
 尤も、そもそもそれは、対岸の下関の遊女達の伝説的出自でもあるが、その伝だと、田野浦・聖山の侍女も、遊女を生業にしていたってことになる。
 門司・田野浦も、源平の乱以降幾百年もの間、数多の戦乱の舞台になりつづけてきたのであったが、一寒魚村にしか過ぎなかったであろう田野浦に、北前船的繁栄に至るまで、果たして娼館の類が存在し得たろうか。
 てんでそんな説話目にしたことはまずないけれど、史実とは容易に記述的歴史の範疇からするりと滑り落ちてしまう態のもの故に、無意味な断定は控え、落ち葉重なる螺旋路の果ての雑草繁茂した平地の只中の碑石の前で、想像力を逞しくしてみると意外と目から鱗的な見解も生ずるものかも知れない。

 

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 おりからの高野山地蔵寺の境内は、30℃的灼熱燦爛。
 眩いくらいに白光を浴びながらの手向け。
 ずらり並び纏められた遊女達の集墓の真ん前の両横には既に青松の枝が添えられていて、まん中のぽつり窪んだ水鉢に、途中自販機で買った無数の露も滴る缶珈琲二種を供え、その手前わずかなスペースに、幾年も前に買ったインドのインセンス・コーン二種を置き、火を点ける。たちまち独特の紫雲があたりに漂い始めた。
 今回こそは、きっちり墓標に刻まれた名=戒名を確かめてみようという企みも、コンクリ境内であってみればの焦熱地獄の予感すら覚えさせる照り返り・焼け返り、頭上からの灼熱に、知らず熱中症的に退嬰。確かに墓石と墓石の間の隙間が余りに狭すぎて容易に確かめようもないけれど。
 これってやっぱし、“齢”のせい?

 

 
 本当は、田野浦からこの玄界灘に面した表側山裾の地蔵寺に移される際に、必ずそれが可能だったら一基一基戒名と日付が何処かに認められているはずなのだが、ネットの何処捜しても不詳のまま。
 田野浦の元の墓所らしい真楽寺か地蔵寺に尋ねるしかないのだろうか。
 過去帳に彼女達の出身地等記載されていれば色々時代の相も明らかとなって一層彼女たちの実相もより詳らかになってくるのだろうが、学者でもない一市井人に紐解いてくれるとは到底思えない。

 

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  遊女・娼婦って、遙か紀元前からの、それこそ女性特有の特権的“職業”とも謂いえる。
 その原基的ボランティア性は、将来ロボットやクローン、あるいは3Dバーチャルが担うようになったとしても、容易に揺らぐものではあるまい。
 そのボランティア性は聖性の二字を冠されても過ぎることはないくらい。
 それを恥ずべきもの、汚らしいものという、どころか“性”そのものから性器すらいかがわしいもの忌むべきものという、本質的に“性”差別に深く根差した発想と観念・感情は、職業差別とも相俟って、声高に自由と平等を連呼しながらも、けんもホロロなぐらいに世界を領導しエスタブリッシュメントとしてふんぞり返っている。
 “性”差別(同時に職業差別)って自明のことを、多くの人間達が、あたかも自分達がそれを告発してやまぬ勢力の最先端あるいは中核とばかり任じながらも、何としても理解すまいと、金輪際的に“性”差別主義者としての妄言・盲動に余念がない。

 

 

 

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 昨今流行りの観すらある自身の性的志向“ LGBT ”の告白=カミングアウト、確かに性差別の甚だしい現実世界で生きていくには、敢えて告白というアドバルーンを高々と揚げ、その勢いに乗ってでないと中々に生きづらいのかも知れない。
 文字通りの背水の陣的パフォーマンスではあろう。
 でも、原則論というよりどうにも誤魔化しようのない事実性において、人間のいわゆる性別って人体の恣意的産物のようなもので、内的器質と外部的性別的特徴とは必ずしも一致あるいは整合性を持たないもののようだし、人間はこの世に生を受けた時から、性的志向においても、異性志向と同性志向の両方向を潜在的可能性としてもっている。意識的であれ無意識的であれ、その人の一生の間に、異性以外の同性と出会(=性的関係)えるか出会えないかは基本普通の男女の出会い同様偶然性に依るものだけれど、但しその場合、社会制度・社会通念的な規制が、その人の意識・無意識・感性に複雑に作用し阻害しているので、果たして十全な関係性を築ける場が前提として存在し得たかどうか。
 

 勿論、答えは明々白々に“否”。

 

 問題は、誰であれ、異性・同性と性的な関係をもつ機会・契機は原則的にもっているということだし、それが結果的に顕現するかどうかは偶然性に過ぎない。だから、一々自分の在り様・志向を決めつけ告白したりするのは、基本ナンセンスな所作といえる。
 下手すると、大島渚の《 マックス、モン・アムール 》(1986年)等で提示されたチンパンジー=動物はじめ、異星人等の異種すらがそこに参画しかねない時節柄ならば尚更。何しろ、遙か何万年も以前からネアンデルタール人は異種たるデニソワ人や現生人類と交配を繰り返していて、我々のDNAにも、しっかりその異種交配の産物たるネアンデルタールの遺伝子が刻まれているのだから。

 

 おまけに、今度のコロナ禍の重症化にも、我々のDNAに刻まれたこのネアンデルタールの遺伝子領域が作用しているらしい。約6万年前に現生人類がネアンデルタール人と交配した産物という。但し、東アジアの我々のDNAには見られなくて、専ら南アジア・中東・欧州の住民達のDNAに刻まれているという。

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