南進女性的故事 『 売店の女 』 森三千代
「 ゆきが、この仏領印度支那ハノイにやってくるまでには、人生のおおかたの辛酸を嘗めてきたものだった。」
行方の知れなくなった夫に会いたいがためにその消息を辿って、ゆきは、東京のデパートの出店の日用品売り場の売子取締役をやりながら、戦乱の余燼くすぶる中支に渡り、更に広東・ハノイまで南下してきた。
「 大手百貨店の出店は、町のなかの大きなコンクリートの民家を改造し、食堂として木のイステーブルが並べてあり、奥の方の壁に、すきやき七〇、おでん二〇、ぞうに二〇、ぜんざい二〇、などと書いた紙切れがはりつけてある」
「兵隊さん達にとって、ここはくつろぐ場所なので、じぶん時でないときでも、戦闘帽に巻きゲートルの人達が、町で買ってきたヴィン地方産の小さなオレンジなどをむいて食べてもいるのを見ることもあった。
食堂の横の広い壁寄りの棚に、封筒、便箋、絵葉書、日の丸扇、タオル、石鹸、歯ブラシなどという日用品を並べて売っているのだった。この日用品売場の売子達も、食堂の女給仕も、台湾生まれの日本娘が多く、なかに、薄い色絹のハンカチーフを首で結んだ安南の娘もまじっていた。台湾の娘達は、食堂の二階の合宿所に寝起きしていた。」
《 新宿に雨降る 》じゃ、愛人の柳剣鳴に逢いたくなって、化粧品会社のツテを使って玄界灘を越え戦雲漂う北支に向かったとあったが、この短編じゃ、中国大陸から浸潤していった日本軍がしだいに南下してゆき仏領インドシナ(ベトナム・カンボジア)に至る南進(同時にフィリピン・インドネシア・マレーシア等にも)のすぐ後列に喰らいつき貪欲に経済的南進を決め込んだ日本の大手百貨店の出店を拠点にしたのは、上首尾な舞台設定というべきか。
只、東南アジアにおいては、あくまで「出店」(でみせ)と明示しているように、侵略的ドサクサに紛れての商業的展開で、堂々と新たに日本本国並みの大きな百貨店を建てることなく既存の二階建て程度の建物に入っての、いわば小店舗の出張所みたいなものだったらしい。
そもそもが国内において、ますます加速してゆく軍国主義的戦時共産主義と拮抗する奢侈的商業主義=百貨店の先細りの故に、むしろ海外侵略の波に乗って海外に活路を見出そうとした苦肉の策でもあったようだし、同時に、国策でもあった。
一般民需というより、専ら軍需的一般生活用品等(=酒保)を扱ってたという。
とりわけハノイはじめ仏領インドシナじゃ大阪の大丸が広範に進出していて、工場経営まで手を染めていたという。
「 故郷を出てから懐郷の情というものを持ち合わせていないのかと思って、彼女は我ながら不思議なくらいだったのに、今日この頃になって可笑しいほど日本のことをいろいろと思い出すのだった。時には、そのために寝つかれない晩が重なることもあった。
えたいの知れない、うすよごれた雑踏にもまれているのがたまらなくなり、彼女は、一つの横路次をまがった。表通りのさわがしさにひきかえ、一歩そんな横路次にはいると、うらびれた、しみったれた生活のにおいが、アンモニアのにおいと一緒に迫ってくる。
道はびしょびしょに濡れて、靴の底が辷りそうで、ひどく歩きにくかった。ところきらわず檳榔の真赤な唾が吐き散らして、アスファルトの上にそれがしみになっていた。横路次伝いに、彼女の泊まっている古茶碗通りに道がつづいていた。家のうしろ側や側面の壁ばかりで、そのへんは人通りがごく少なかった。」
もう二十年も前からハノイで店を商っていたN洋行の老夫婦主人やスタッフ達の寝室のあるそこの二階に、ゆきは厄介になっていた。
ちょうど“マレーの虎”=ハリマオ・谷豊の父親・浦吉が一家を引連れ、博多郊外から英領マレーのクアラ・トレンガヌに移民していったように、皇軍の南進と共に南下してきた企業や出稼ぎ新移民なんかより遙か以前にそこで骨を埋める覚悟の、つまりその国の住民となることを選んだ移民達で、彼らは、ゆき達のような存在を、“南進女性”と呼んだらしい。
その南進女性の一つの軌跡としてのゆきなのだろう。
それでも、日本での生活感的記憶=リアリティーが薄れてゆくにつれ、蒸発した夫に巡り合えるという淡い願望もしだいにリアリティーが薄れ、たとえ再会できたとしても、そもそも彼女から逃げ出した現実を今更に突き付けられるだけと悟り、何とも空しい徒労と寂寞に囚われるようになってしまった。
「 ゆきが階段の方へ暗い家のなかをはいって行くと、裏のたたきで、黒い安南服を着た十四五歳の少女が、膝をはじかるようにしゃがんで、コンクリの四角い水溜めのそばで鯉を料理していた。水溜のふちに、雇人の安南人の食べる青い臭菜が、笊にいっぱい洗い上げられ、水を切って石の上にのせてあった。やせたバナナが二三本一緒においてあった。
少女は、彼女がはいってゆくと、上眼で見上げて、安南人特有のにやりとした微笑をした。
老主人夫妻がひどい境遇にあったこの少女をあわれがって、おいてやっているのであった。
引き上げから帰ってくると、少女はまたすぐやって来て、居ついた。おでこの下できらきら眼の光っている悧巧そうな小娘だった。ものおぼえがよく、片言の日本語を、いまではなんとか不自由なく喋れるくらいになった。」
旧時のベトナムの雇われ娘の典型なのだろうが、アン・ユン監督の《 青いパパイヤの香り 》(1995年)の女主人公の少女時代を彷彿とさせる。映画じゃ、黒ではなく藍色の安南服を纏い、年輩の住み込み奉公人に料理から習っていたけど、何処かこの短編のベトナム少女と似た雰囲気を感じる。
この物語には、もう一人、若い娘が登場する。
もうだいぶ以前からハノイに根を下ろした古手の貿易商の娘・スズ子。
幼少の頃から18歳まで、フランス系の寄宿学校に容れられ、フランス語と安南語(ベトナム語)は自在に操れるものの、こと日本語に関しては甚だあやうい代物。谷豊の父親がそんな結果を危惧し、豊や妹を早いうちから日本に戻して日本の学校教育を受けさせたゆえん。
「 ゆきはスズ子の若い年齢と、はり切った素晴らしい肉体に対して、本能的にある憎しみの感情を抱いていた。
でも、彼女はその感情を表現する時は、
『 あんな出鱈目な、無責任なひとは見たことがない』
そんなふうにいった。
出鱈目とか無責任とかいうことは、スズ子としても、なんとも弁解出来るわけはなかった。その点は、痴呆ではないかと思われるふしさえあった。女らしい魅力というのではなしに、スズ子は、大柄で色が白く、線の強い男人形のような顔立ちをしていた。まなじりの強い、はりのある眼で、食い入るように相手をみつめて一生懸命に話すときは、少しの邪気もいつわりもあるとは思えなかった。勿論その瞬間、出鱈目や無責任はみじんもなかったにちがいないが、次の瞬間には、ほかのことにとらわれて、一瞬間前のことはさらりと心のなかから抜け出ているのだった。」
「 一筋に神経質になったり、憤ったり、憎んだりするゆきの気持には、別れた夫の女に対する余憤が根を持っていた。その女を彼女は見たことがなかった。そのため、どんな女に出会っても、彼女の心に暗鬼が生じ、その女の覆面した姿が感じられるためかもしれなかった。ゆきが監督している台湾の女達に対する態度の中にも、一種の底冷たさとなってそれがあらわれていた。彼女達への心遣いや親切の中にさえ、それはあらわれていた。ゆきが自分の不幸を自覚し、つとめてやさしく反対の態度に出るように努力するためでもあったろう。」
「 日本を去るにのぞんで夫は、最後の手紙に、女と一度会ってくれ、少しもわるげのない女の性質は、きっとゆきと友達になってもらえるなどと言って来たのを、彼女は一蹴した。
ひとりだちして暮らすことの出来たゆきは、誇りをたてにどこまでも強く出ることが出来た。それすらも、夫に対する未練たっぷりからだということは、その頃の彼女には、気付くはずのないことだった。颯爽とした、雄々しい態度は、結局女々しい心をつぎはぎしているだけにすぎなかったことが思いあわされて、表向きどんなにみじめにうちのめされても、夫にはなれず、ひきずられてゆく女の方が、自然な生きかたが出来るのだと思うのだった。」
「 時が切迫してゆくにしたがって、たまらなく帰りたい気持ちと、この土地にとどまりたい未練とが、相半ばして、その時々の気分で、かわりがわり支配された。
考えてみると、この土地まで来て、なに一つ先の見通しがつかなかった。この土地で会う人達や、日本から新しくやって来た人達と話す機会がある毎に、気魄とでもいうような一種はげしい共通な気分に触れて、その都度、自分の腰がうわついていることを反省させられたものだ。この時期の人たちは、それぞれ仕事に対する計画や夢を、熱情的に持っていた。それは、海を越えて日本本土からあふれ出す熱情がこの人達によって具体化され、火花になっているような気がした。」
「 彼女が日本を去ってから、既に足掛け三年になるが、このあいだの日本の変りかたがなにかおそろしかった。急激に同胞達が南へ南へとはげしい意欲と希望をもってひしめいているありさまが、新しく日本から来た人達の言葉のはしで想像することが出来るのだった。」
資本主義的行き詰まりを他国を侵略し進出・展開してゆくことで打開しようとした当時の日本のなりふりかまわぬ有様に、熱病にうかされた如くに南下=南進に血道をあげた日本人達の氾濫に、不安と恐怖をゆきは覚えざるをえなかった。
帰国の準備に追われている最中、ひょっこりと別れた夫の同郷の知人が現れ、元夫が、漢口あたりで例の女と別れ、既に帰国し以前と同じ家に戻っていると教えてくれた。ついでに、ゆきが中国に向かったのを知った時の元夫の形容しがたい表情のことも。
「 あの話を聞いたときに、ゆきは、彼女の心やからだにみなぎっていたなにかが退いてゆくのをおぼえたのだった。夫に対する愛着だと思っていたものは、やはり夫の女に対するたたかいであって、女が夫からはなれたと知った時には、ぬけがらしか残っていなかったのだ。」
「 幾年振りかで、彼女は、肩が軽々としたのを感じた・・・・・今日までの生活は、すべて休止符になったことを彼女は知った。彼女が日本へ帰ってゆく理由は、もはや、なにもなかった。」
戦後1951年に発表された林芙美子の《 浮雲 》も、仏領インドシナが原郷となっていつまでも主人公二人の心象風景としてゆらぎつづける。尤も、芙美子の原作は未読で、成瀬巳喜男・監督の映画 《 浮雲 》 (1955年)の方での話。
女主人公の名も同じ“ゆき(子)”=高峰秀子。
仏印ダラットの山林事務所でタイピストをしていたゆき子は、そこに派遣されていた農林技師・富岡兼吾と恋愛関係に陥る。終戦後も、腐れ縁宜しく、グダグダと煮え切らぬ関係をつづけ、その惰性的帰結としての横領犯と化したゆき子が、富岡との三昧の逃避行を決め込んだものの、当の富岡は妻も亡くしその葬式代にも事欠く土壇場からの起死回生の一擲とばかりに選んだ列島の南端・屋久島の営林所赴任に便乗し、南進ならぬ南下逃避行。ところが、仏領インドシナを想起させる原生林生い茂る屋久島の粗屋でゆき子は、病に倒れ、淫淫と降りしきる長雨の中であっけなく亡くなってしまう。終始クールだった富岡=森雅之の慟哭・・・
この《 売店の女 》のゆきの方も、ゆき子と同様、敗戦まで仏領インドシナに居続ける可能性も高いが、予定通りの帰国の方途を採ったとすると、敗戦前には帰国しているのだろうから、温暖で開放的なハノイ・仏領インドシナとは真逆な抑鬱世界、その上、東京あたりだと、空爆がいよいよ激しくなる時節。日毎の貧窮と無数の焼夷弾の下、探し求めていたはずの、しかし、すっかり執着も薄れてしまった夫に例え再会したとしても、よりを戻すって事態に至るのだろうか。抑鬱的環境がそれをむしろ強いたりするって事態もありえるだろうし、そうなると、正に腐れ縁的惰性の連綿なのかも知れない。
巻末の著者略歴によると、三千代は、昭和17年1月外務省より文化使節として仏印へ派遣されたとある。南方徴用作家達の海路と相違して、あくまで文化使節ってことで、羽田から二昼夜、空路でハノイに入っという。
如何なる経緯で、息子を徴兵から免らせようとあれこれ画策していた夫婦である三千代が、有名戦争協力作家ですらありつけなかった破格の待遇と謂うべき空の旅と相なったのだろうか。尤も、一、二年後だったら危険この上ない代物と化していたであろうし、そもそも文化使節程度じゃいよいよ貴重となった石油を消費させる発想すらあり得なかったろう。
当時、日本人達って、一体ハノイのどこら辺に住みついていたのだろうか。
旧市街は比較的規模が小さく、後発の日本人なんぞが纏まって住みつく余地なんてなかったろう。前期の移民組ならいざ知らず、皇軍と伴にやってきた南進組の場合、強制接収でもやらかしていたのだろうか。デパートはそうだったらしい。
それにしても、仏領インドシナって、ナチス(ドイツ)のフランス占領・傀儡国家化の関係で、敗戦間近まで、日本軍(民)とフランス植民地主義者たちとが共存していたってことで、随分と珍妙な分布図を展開していたようだ。香港とは、又、別様の。
巻頭の表題作 《 おもかげ 》 はじめ 《 蔓の花 》、《 公園 》 等全9話。
この巻末の 《 売店の女 》 だけ、仏領インドシナを舞台にした作品で、後はすべて日本国内が舞台。
表紙の装丁・秋山寵三。三千代の他の作品や金子なんかの本の装丁も手がけているけど、履歴は不明。この 《 おもかげ 》 の装丁も、如何にも戦前風の淡い感じの色調は悪くない。
戦時中であっても、表紙と同じ意匠のカバーが被せられていて、本文の紙質は戦時中故に薄くこしがない。書籍は、保存の仕方次第で、いつまでも本来の状態を保てるもので、この古書《 おもかげ 》はあまり良くなかったようで、表紙・カバーの状態に比して、茶色く変色した本文の方は端が頁を繰る毎に微細に剥落してしまう。価格に比例したものではあろうが。大正時代のでももっとしっかりした状態のものもあるのだから、やはり、戦時中の産物故の粗悪な紙質なんだろう。当然、戦時統制下故に、配給元は日本出版配給株式会社。
因みに、裏表紙の1枚前の白紙の上隅に《 KYO BUN KWAN GINZA・TOKYO 》
の褪せた薄いラベルが貼り付けたままになっていて、教文館は旧いキリスト教系の出版・書店らしく、この朽ちかけた戦時中に出版された本にふさわしい意匠の一つとなっている。
【 売店の女 】 《 おもかげ 》 森三千代 昭和18年10月発行 ( 大都書房 )
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