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2021年11月27日 (土)

『 露西亞水郷印象記 』大泉黒石 【 2 】

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 ( この『 解放 』には、少なくともこの号は、口絵の類がまだないようで、カット画があるのみ。只、この南枝知一の挿絵『 労作 』だけが、独立した一枚の作品として掲載されている。グラフィック関係のスタッフは大体決まっているようだ。)

 

 

 「 露西亜人は 『 小さき母ヴォルガ 』 と呼んで居る。ペトログラードから裏海 ( カスピ海 )まで一千里。
 モスクワからニジ二、ノヴォゴロドへ出ると、其処から汽船で南へ南へと流されるま ゝに偉大なる風光に接することが出来る。私もこの水路を取った。それは水量の一番多い七月下旬から八月の初め迄で、ヴォルガ下るにはこの季節が最もい ゝと思われる。同行者は主人公の叔父夫婦とトルストイ爺さんの家から出奔したイエドロフと私であった。」

 

 

この 《 露西亞水郷印象記 》、ロシア革命以前に、思春の大泉黒石が、彼の父親のモスクワ郊外にあった実家を訪れた際の、母なる河ボルガを下って行った四日間の旅のスケッチといったところ。只、気になるのは、冒頭部分の、

 

 

 「 同行者は主人公の叔父夫婦とトルストイ爺さんの家から出奔したイエドロフと私であった。」

 

 

 なる一文。
 黒石以外の叔父夫婦とイエドロフって、単に同行者を列挙しただけと了解してしまいかねないが、しかし、“ トルストイ爺さんの家から出奔したイエドロフ ”って言及の仕方って些か唐突な感を否めない。
 前提となるべき部分を、つまり、トルストイ爺さんの家から出奔したプロセスの説明を端折って、周知の事柄といわんばかり。勿論この後、この短編の何処かでフォローすることもなく。それだと、 《 露西亞水郷印象記 》 の前に、この 《 解放 》 の前号にも同じメンバーが登場していた作品が前提となる。
 このまだ創刊されたばかりの月刊誌 《 解放 》 は、しかし、この八月特別号でようやく3号目、ネットで確かめてみたら、案の定、この号が黒石の初登場。 
 て、ことは、別の雑誌 《 中央公論 》 の、この時点じゃまだ発表されてない 《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》 の内容 ( 叔父夫婦とトルストイ爺さんの家から出奔したイエドロフ) が、あたかも雑誌は違っても総ては融通無碍な同じ黒石ワールド内的ループって寸法なのだろう。制作的には同時進行なのか、むしろ 《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》 の方が先に書かれていた可能性も高い。
勿論、この部分は、物語性的言及じゃなくて、単なる事実性的言及に過ぎない、あるいは、同じ登場人物だけど、それぞれ別の独立した作品の登場人物として記述されているだけ、と云えばそれまでなのだけど。
 因みに、イエドロフ、《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》 じゃ、モスクワの最初の件から登場してくる、木賃宿兼御者を生業にしている男で、キョスキー ( = 少年黒石 ) とかなり近しい間柄。

 

 

 も一つ拘るならば、“主人公”の叔父夫婦ってのも、ボルガ下り行の“ 主催者 ”としての主人公なのであろうが、間違っても、この短編の主人公なんかでは全くない。そもそも、この叔父夫婦、その冒頭での叔父夫婦としての名の提示があっただけで、セリフの一片だにある訳でもない、単にその夫婦という名だけがその冒頭に提示されただけ。大正の頃の言葉使いと現在のとは随分と相違する部分が少なくないその典型だろうか。
 何とも、正に、黒石ワールド。
 融通無碍・傍若無人 !
 

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 ( 扉にあたるページ。この薄い青緑色の紙は、専ら広告用に使われている。右の表紙裏は、東芝の前身の東京電気の広告。マツダ電球は、米国のゼネラル・エレクトロニクス社からのライセンス製作だったようだ。)

 

 

 モスクワからニジ二・ノヴゴロドまで列車で赴き、そこから汽船でボルガを、カザン~サマラまで下り、再び列車でモスクワに戻るという旅程。

 

 ニジニ・ノヴゴロドは、ヴォルガ河とオカ川とが合流するところにあるロシア連邦ニジニ・ノヴゴロド州の州都で、現在人口120万人以上の、ロシアじゃ有数の大都市。

 

 

 「 涼しい微風が高さ五十尺余りのクレムリの廓壁の中に雲のように盛り上っている緑樹の葉を渡って来る。丘から街へだらだらと伝って居る木埋めの道路の隅を真白な布を纏った女が静かに往来した。けれども往来する人々は男も女も靴の底に綿でも附けて居ると思われる程静かに歩いて居る。音も響きもない街は緑と白と黄色だけが呼吸を続けて人間も旧式な馬車を挽く馬も犬も何だか唖のように思われた。それだけ静寂な空気に包まれている。この無声の街の岸をヴォルガがひたひたと洗って行く。」

 

 (注) クレムリ→クレムリン=城砦

 

 

 「 カザンは露西亜の旧都だ。『 露西亜の奈良』 だ。河流から少し凹んだ場所に建てられた街。私はどうしても忘るゝ事が出来ない。露西亜人の家で聖画像 ( イコン ) を奉 ( まつ ) らぬ処はない。その尊い露西亜の心を支配する聖画像の傑作を最も多く産するのは此街である。
 カン・ウル・マフメットが建てたクレムリ城 ! 救主門 ! スパソブレオブラゼンスキー城 ! 二百尺のヅイウンべカの斜塔 ! 赤々と見ゆる七階塔からヅイウンべカ姫が飛び下りて死んだ跡は今青い草に蔽われて、時を置いて白壁塔から響き渡るカザンの鐘に思い出される。ボゴロヂツキ―修道院に秘められてある有名な 『 カザンの処女 』 の原画も見た。露西亜古器を蔵してるゴスチニー・ヅヴォルも見た。」

 

 

 (注) スパソブレオブラゼンスキー城 = スパソプレオブラジェンスキー修道院

 

 (注) ボゴロヂツキ―修道院 = ブラゴヴェシェンスキー大聖堂

 

 (注) ヅイウンべカの斜塔=スュユンビケSuyumbike7層の斜塔。現在でも、約2メートル傾いているらしい。カザンを征服したイワン雷帝から求婚されたタタールのスュユンビケ姫(王妃の説もある)が、塔の完成時に、飛び下りて死んだという伝説。

 

 (注) クレムリ城 : エカテリーナ二世治政下、前年に“ 農奴解放 ”を旗印に蜂起した、コサック出身のプガチョフ率いる農民や辺境守備隊の反乱軍25000人が、1774年7月、ヴォルガ沿岸のこの町のこのカザン・クレムリに押し寄せ、制圧した。 露西亜史ではプガチョフの叛乱の帰趨を決したカザン・クレムリの戦いとして有名らしい。ところが、後、皇帝軍に逆襲され、敗退。(翌1775年1月21日に、プガチョフは捕縛され、モスクワで公開処刑に付された。)

 

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 ( 大正の後半に、既に旅行案内書、つまりガイド・ブックの類が出版されていたようだ。まだまだ蒸気機関車の鉄路の旅なので、旅の風情ってものが感じられた鉄路旅。この時代、朝鮮半島への民間人の旅行も盛んだったはずで、金剛山の探勝記等の本格的なものすら出ていた。)

 

 

 「 サマラの街 ! それはヴォルガに沿うて建てられたロシアの気分を充分に漲らせた典型的小都会だ。サマラの街は小高い丘の上にあって、その丘の足は直ちにヴォルガへ浸って居る。ニジェ、ノヴォゴロドやカザンから比べて余程活気に溢れて賑やかな、又一面から云えば小汚いがちゃがちゃした街だ。街は丘からその次に控えている更に高い丘へと勾配をなして続いているから、街の間を縫って走る幾百条の敷石と埋木の道路が船の上から一目に見渡せる。  」

 

 

 “ カザンの娘の寺 ”を訪れたその足でモスクワ行の列車に乗り込み、サマラを後にしたと記してるけど、“ カザンの娘の寺 ”= カザンスキー聖母像寺院(1916年)ならば、ネットに2013年当時の写真があって、殆んど廃墟。現在も存在してるのかどうか。ひょっとして改修か再建されている可能性もあるようだが。
 それにしても、黒石、“ 聖母 ”絡みの寺院を好んで廻っているような気もする。生れて直ぐに亡くなった母親の面影を求めての憧憬なのだろうか。

 


 ヴォルガ下りの旅の前に、ペトログラードから、欧州一、二を争うラドガ湖とオネガ湖を巡ったという。 
 ペトログラード(= サンクトペテルブルク )の“夏の庭園”にある遊覧汽船発着所で知り合った大学生と一緒に、700トン位の旧式な汽船に乗り、ネヴァ川を遡ってラドガ湖・オネガ湖巡り。
 六百以上の島々が点在するラドガ湖は欧州一大きな湖。

 

 

 「『 あの島には古城址があるんだが、生憎晩だからよく解からないだろう。そら此の方角だ。』
と熱心に説明して呉れるが、闇と靄に蔽われて、只黄色い漁火が目に入るばかりである、『 スエデンと露西亜とが戦った時に、ノヴォゴロド人があの島へ城砦を築いたんだ。そしてスエデン人を島で食い止めようとしたんだ 』
『 それは何時頃かね』
『 そうだねえ 』
 大学生は考えるらしかった。やがて私の肩へ手を掛け乍ら、
 『 兎に角、一六一七年にはスエデン人に占領された。その約三百年前頃だから一三何何年かね。その後百年ばかり経って。どうだね。露西亜史に一七〇二とあったっけ。何でも三十幾時間の攻撃を受けて漸く奪い返したものだそうだ。 』
『 あ ゝ、ピヨトル大帝の時だろう 』  
『 左様だ。左様だ。然し今日では、露西亜の国事犯人を打ち込む牢屋になって居る。』
 私は何だか『 コント・デ・モンテ・クリスト』(巌窟王 ?)の中に出て来そうな古色蒼然たる孤島を思い浮かべて闇と波との間を見詰めた。」

 

 

 ネヴァ川沿の“夏の庭園”の対岸には、昔から政治犯を幽閉する場所として有名なペトログラード要塞( ペトロパヴロフスク要塞 )があって、ネチャーエフ、ドストエススキー、レーニン等も投獄されていた。
 一方、ペトログラードの北東に少し外れたラドガ湖口の上記の小さな島にあるシュリッセリブルク城砦も、同様に政治犯が監禁された場所として有名だったという。処刑された元皇帝イヴァン6世やレーニンの兄・アレクサンドル・ウリヤノフはじめ、皇帝専制政治(ツァーリズム)打倒と農奴解放を謳って武装蜂起したデカブリストやテロリストの原点ともなった“ 人民の意志党 ”、ペトロパヴロフスク要塞とこのシュリッセリブルク城砦両方に幽閉された無政府主義者バクーニン等。

 

 

(注) ペトログラード : 第一次世界大戦で、敵国ドイツ(語)的ニュアンスを払拭するため、サンクト・ペテルブルクからロシア語風にグラードに変更 )

 

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「 ラドガもオネガも二つ乍ら、露西亜民謡が始めて生まれた場である。露西亜民謡は湖水をめぐる大森林の中に育てられ、次第に南下したものだ。民謡の歴史を繙くと、ラドガやオネガの湖畔に生息していた十世紀前の人間の生活が偲ばれる。要するに二つの湖水は人間に対する偉大なる沈黙の圧迫、無声の威嚇である。涼しいと云う心持ちを忘れて恐ろしいと云う感じがする。殆んど夏であることを覚えない。」

 

ロシア民謡等に対する言及は、後、大正11年発行の《 露西亞文學史 》 ( 大鐙閣 )に結実していったものなんだろう。庶民の基底に流れている精神的文化的水流を、旅游という形で渉猟し感得していった黒石的姿勢の一つといえなくもない。
 

 

 

  《 露西亞水郷印象記 》  【 解放 】 八月号8ページ (147p ~155P)
         発刊 大正8年(1919年)8月Ⅰ日(大鐙閣) 定価80銭 
   

 

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