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2022年1月の2件の記事

2022年1月29日 (土)

水島流吉の覚書 ─ 或は「 來去白雲抄」 ─ 密室死三カ月前の辻潤

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 昭和十九年(1944年)、つまり敗戦( 終戦 ) の前年、11月24日金曜日昼過ぎ、マリアナ諸島からのB29による初東京空襲、主目標=航空機メーカー中島飛行機武蔵の工場群の爆撃で死者57人の被害が出た数時間前、淀橋区上落合一丁目三〇八番地の殆んど無人の静怡寮の一室で、漂泊のダダイスト・辻潤が、無数の虱の集った状態で、死んでいるのが発見された。
 
 
 111機のB29が東京空襲に飛び立ったものの、折からのジェット気流によって阻まれ、目標の中島飛行機武蔵製作所上空に到れたのはたった26機。当時米国(軍)は、そもそも、ジェット気流自体に対する認識がなく、日本(軍)がジェット気流に乗せて風船爆弾を米国本土迄飛来させたのも、戦後になる迄理解できなかったという。世界にその物量を誇った米国も、物事に対する認識能力においては、基本そう大差なかったってことだろう。
 このB29初東京爆撃、ジェット気流とレーダーの不調で、中々に爆撃目標に着弾させることがでず、中島飛行機上空に至れなかった他のB29は、東京のあっちこっちに爆撃を加えたようで、静怡寮(アパート)の管理人の女性が、辻の死体を見つけて、慌てて関係者に連絡し慌ただしくしていたその最中か、一段落した直後に、空襲警報のサイレンや少しして爆撃音が轟き渡り地面を震わせたのだろう。

 

 

 
 昭和19年といえば、7月のサイパンに続き、翌8月もグァムで日本軍の全滅、八幡製鉄のある北九州・八幡等が米軍・B29による初めての本土空襲にあったり、いよいよ敗戦色濃くなり始めた時節。 
 真珠湾攻撃=開戦時に、米国・米軍の物量(力)を余りに過小評価し過ぎた自滅的無謀に驚倒した辻潤が、あっちこっちに大日本帝国の敗北の必至を吹聴して廻ったのは有名だけど、さすがに、帝国皇軍が、遠い遠方諸国に対する侵攻( =侵略 ) 作戦を展開する際には必須の“ 兵站 ”を軽視し、見切り発車すらが上等に思えるほど、兵士を殆んど使い捨て状態のまま強行したものだったとは想像だにしてなかったのかも知れない。
 その皇軍的力学・論理によっての帰結的惨状が当然に来たし続けたに過ぎない。
 その顛末を予め、大泉黒石やなんかと共有しつつも、その底無しに救いようのない現実を日々面前にしつづけた心の内は、一体、如何なるものであったろう。
 そして、大日本帝国自滅=潰滅へのファンファーレともいうべきB29による東京空襲。
 正に辻の死に対する歴史的レクイエム
 中々に劇的であり、あまりに寓意的に過ぎている。

 

 

 その年の1月末、知人・桑原国治の営っているアパート静怡(せいたい)寮に入り、それでもあちこち彷徨・漂泊し、7月頃戻って来てそのまま居ついてしまったようだ。4ヶ月後の朝、桑原の嫁さんに発見され、虱に集られたままの孤独死ってところだが、警察医は狭心症と診断。一般には、時節柄か、餓死として流布している。
 もう一人の息子の若松流二は、前日の朝、朝食を採った可能性を言っているようだ。つまり、辻の周辺の人々から何らかの援助があったってことなのだろう。だとすると、餓死説は些か潤色に過ぎたファン心理ってことで、やはり狭心症が本当のところかも知れぬ。でも、虱が前身を覆っていたなんて、たった1日かそこらで起きえる状況だろうか。さすが辻潤、その死すら奇態に包まれている。

 

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 「ねながらタバコを吹かして、自分はこんなことをノートの端に書き散らしてい たのだ。
  辻潤が巴里のモンマルトル辺の陋巷で餓死でもすればはなはだ理想的で至極お 誂い向きだったかも知れない。しかし、彼は僅か一年たらずでオメオメとまい 戻ってきてしまった。恐らく、

 

  巴里寒燈独不眠  苦心何事転凄然
  故郷今夜思千里  霜鬢明朝又一年
                                                    」

 

 

 昭和3年読売新聞の特派員として、息子の一 (まこと) を連れ、フランスに赴いた際の、モンマルトルはホテル・ビュフハロオの五階の29号室に、殆んど閉じ籠りっきりでもっぱら中里介山の 《 大菩薩峠 》 等を読み耽っていた辻の自虐的述懐。中学生くらいだった一 (まこと) の方は、スケッチ・ブック片手に、一人パリ中の美術館巡りを満喫していたという。 
 ここで、辻は、モンマルトルの陋巷での餓死を理想的とまで自嘲してみせるが、まだまだ切迫したものではない。 

 

 

「 なにも食べもののない時代で、配給もなにもない彼はどうしているのかとき くと、ファンがいると言った。
  ・・・・・・白い木の橋のかかった川のふちをあるきながら彼は黒石の話を した。オンマー・ハイアムと、北氷洋のほら穴の話をした。それがまた、い つかしおらしい愛人の話になった。辻の女性は、どれがどの女なのか、それ こそ分裂症状的に話がごたついて、現在と過去のけじめがつかない。ぶなの 木の下の木椅子に腰をかけると彼は、ふと息をついて言う。
 『 死ぬときはね。死ぬときはうなぎを食って死にてえ 』」

                                                                     金子光晴 《 江戸っ子潤さん 》

 

 

 辻が金子と親しく往来したのは、辻変死の前年、昭和18年。その当時の回想。 いよいよ時代の傾斜が大きくなってきた只中で、ふとした刹那、辻は自ずからの死を垣間見、死刑囚が最後の晩餐宜しく己が好物を仄暗い獄房の小さなテーブルの上の一皿に臨むが如くに遠望したのだろうか。
 時節柄、うなぎは喰えなかったろうが、ガラーンとして他に誰の人影もないアパートの一室で、最後に食したものは、一体、何であったろう。

 

 

 
 《 書物展望 》  会報第二冊 第157号
 発行 昭和19年8月10日
 発行人 斎藤昌三
 印刷所 理想社
 発行所 書物展望社
52頁。印刷実費金80銭( 送料6銭 )

 

 《 書物展望 》 は、昭和6年7月に創刊された国書研究同人誌で、時折、表紙に蔵票を張りつけたまま販売してたようで、この号の表紙にも貼り付けていた蔵票を剥がした跡がある。編者の斎藤昌三が蔵票の蒐集家だった故の私家本風味。
 因みに、統制時代故に、紙は仙花紙。

 

 

 目次に連ねられた名を見ると、辻や大泉黒石なんかの繋がりが垣間見えてくる。
 作家の坂本石創は、そもそもが、ダダイズムを辻に教えたのが彼らしく、同時に、辻が序文を書いて世に知らしめたダダイスト詩人・高橋新吉の学校での先輩でもあった。
 斎藤 昌三(号・少雨叟)は、古書学者・発禁本の研究者であり、雑誌 《 グロテスク 》 の梅原北明と親しく、同誌の関連出版物 《 変態十二史 》 の中の二冊を執筆。
 千家元麿は些か変わった出自で、出雲国造家当主の家系( 庶子 )という。詩人・作家であり、武者小路実篤にも心酔していた時期があったようだ。 

 

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  《 水島流吉の覚書  ── 或は「 來去白雲抄」 ── 》

 

 

  〈 水島流吉の覚書 〉 は、シリーズ化していて何篇かあるようだけど、これはシリーズの最終篇でということになる。サブタイトルの 「 來去白雲抄」 は、 《 禅林句集 》の一句で、

 

  青山元不動 白雲自去来

 

 

 他だと、

 

 

  青山元不動 浮雲任去來

 

  
 「任」を「飛」に作るものもある。
 白雲・浮雲は、人間の心に去来する煩悩・雑念の類の意で、青山は厳として泰然自若って境涯らしい。敢えて、その煩悩執着の徒を意として一貫の尺八と風呂敷包みをのみ携えて浮雲的流浪の路を歩んだ辻らしい銘なのであろう。
 但し、白雲・浮雲を“ 執着のない融通無礙 ”と読む解釈もあるようで、むしろ禅には門外漢の当方も、この句は初見だけど、唐詩なんかの白雲・浮雲を正にその如く解釈していた口だった。この解釈だと、泰然自若の融通無碍な有様(ありよう)ってことになるのだろうか。そして、その上での、辻の煩悩・雑念って境涯なんだろうか。
 否、辻潤は、そんな境涯にむしろ背反して、もっと人間臭いところで淡々として藻掻いている風味であろう。

 

 

 この雑誌の終わり頃、46ページ~48ページ、わずか3ページの短文。
 のっけから 《 歎異抄 》 のエッセンスらしい一句から始まる。

 

 

 「 『 念仏は無義をもって義とする。』自分の生活や、文章も無義をもって義と する。『 文体は人なり』個性のない文章は文章に非ず。学者の文章は総じて 面白くない。なぜか ? 強烈な個性が殺されているからだ、プロフェッサアと云う 世間的地位、人格とか、体面とか、名誉心とか等々によって自縄自縛されているから だ。 」

 

 

 その後の断章じゃ、辻が好んでいたという吉田兼好の 《 徒然草 》 の句が続く。

 

 

  「 『 諸縁を放下せよ !  じんだ瓶一つも持つな 』『 信仰とは神を棄てることだ 』   ── 兼好、 エックハルト、ディオゲネス、スピノザ、プロチノス・・・」

 

 

  〈 諸縁を放下せよ 〉 は、

 

 

  日暮れ、塗( =道 )遠し。吾が生既に蹉蛇たり。諸縁を放下すべき時なり。

 

 

 〈 じんだ瓶一つも持つな 〉は、《 徒然草 》第98段、

 

 

  後世を思はん者は、糂汰瓶一つも持つまじきことなり。

 

 

 糂汰瓶 ( じんだかめ ) =ぬか味噌を容れる瓶あるいは壺。
 芭蕉にも、それを踏まえてだろうこんな一句がある。

 

 

 「 秋の色糠味噌壺も無かりけり 」

 

 

 ネットに、種田山頭火と並ぶ自由律俳句の第一人者らしい尾崎放哉の 《 海 》 中に、次のような一節があった。

 

 

 「 徒然草の中に、世捨人は浮世の妄愚を払ひ捨てゝ、糂汰瓶ひとつも持つまじく 」

 

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次には、中世ドイツの托鉢修道会ドミニコ会士・異端的神秘学者エックハルトの出典は定かじゃない“ エックハルトの五種の貧乏 ”、1=魔的貧、2=黄金的貧乏、3=喜びの貧者、4=霊的貧者、5=神的貧者を列挙し、

 

 

 「 第二種の貧乏人になりたいが、あいにく自分には財産がない。せめて第四の 貧者にでもなりたいものだ。」

 

 

 と呟いて見せる。

 

 

 「 2、財産を山のように積んで、その中へ空手で自由自在に出入する、自分の 財産が全部焼けても平然としている。これを黄金的貧者と名付ける。天国行 の人である。」 

 

 

 「 4、霊的貧者。この人には友達も親類もない。財産や、名誉や、身命などは 勿論とうの昔に棄てている。善根功徳を積む心さえない。『 永遠の道 』をし てそのなすがままに任せる。自分は手を束ねた無為の行者である。『 道 』 には善も悪もないから、その人は徹底的に空々だ。」

 

 

 「 なにもかにも面白くない。文学も、音楽も絵画も特に自分を惹き付けるうな ものがなくなってしまった。年はとりたくないものだ。いくら暇があっても 習字などする気になれず囲碁、将棋、盆栽、釣 ── つまり、普通の老年の 楽しみとするものにはまるで興味がない。芝居、キネマ一向に見たいと思わ ず。やはりタバコと酒位なものだ。しかし、書物は惰性でどんな物でも手あ たり次第にあればよんでみる。」

 

 

 「 金閣寺にいるО君が僕のつれづれを慰めるために“ The Praise of Ale ”と云う本を送ってくれた。その本の序文にこんな句がある。
  『 こんな本は先づ頭も尻尾もない歌のようなもので ── 気紛れにどの頁を 開いてよんでもいいと云うようなもの。別段、読者が気を詰めたり、肩を張 らす必要のない本 ── 』
   自分の書くものもこんな風なものでありたい。そうして、時代とはなんの関 係もなく、いつ読んでも差支いのないと云うようなものを書きたい。故事来歴がわからねばわからぬような言葉や、風俗習慣がわからなければわからないと云うなものでは、時代の経つ程、だれも省みなくなるだろう。」

 

 

 「  春の夕ぐれのメランコリヤ。うそ寒い風がひやりとして花が散る。かえるべき家なし、宿なし、金はなし、シラフでは空山にも眠られぬ。
 ・・・略・・・
   これが俺の病気のシムトム(=症状)だ。春さきは危ない。アッタンシヨン ! みはぐるまいぞや合点だ。」

 

 

 

 巻末の【 展覧室 】 で、斎藤昌三か誰か編集子が当時の市井的状況に触れた箇所が興味深い。

 

 「 戦争も長期になってなって来たゞけに、闇の流行もタコ耳になったが、比較的ヤミの少ないのは書物が第一であろう。然し横流れの慣習は大差なしである。
  昨今の新聞紙上に書物に関する記事が極めて多くなったのは、心の休息として現在のところ書籍以上のものが無いからで、新刊雑誌の購入に古誌との交換に至っては愚策も甚だしい。」

 

 
 〈 古誌との交換 〉 → 同年6月21日、紙の払底緩和のために新刊雑誌の購入の際、古い雑誌等との交換販売を実施。
 因みに、同年7月10日には、《 中央公論 》、《 改造 》 に廃刊命令、8月4日には国民総武装を閣議決定で銃後の竹槍訓練等が始まる。
 

 

 

2022年1月15日 (土)

 トルストイ翁との遭遇  杜翁の周囲 ( 大泉黒石 ) 

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 大正6年(1917年)は第一次世界大戦真っ只中、長引く戦争に対する厭戦からロシア革命の勃発した年でもあり、いやでもロシアに対する関心が高まる状況にあって、この 《 トルストイ研究 》( 新潮社 )も結構人気があったようだ。
 本屋の店頭で無料( 昨今は有料 ? )で置かれている 《 図書 》やなんかと同様の、70ページぐらいの薄い小冊子 ( 型は欧米のペーパー・バック風の縦長 ) だけど、表紙にも、本文にもトルストイのモノクロの挿絵や写真が数点掲載されている。
  〈 杜翁作品号 〉 と題されたこの 《 トルストイ研究 》 第二巻第十二号 は、ロシア十月 ( ロシア歴 : 西暦だと十一月 ) 革命の直後ってことで、かなり関心が高まった時でもあったろう。

 

 【 注 】 杜翁=トルストイ

 

 

 表紙裏に目次があって、大泉黒石じゃなく、本名の大泉清の名で並んでいる。表紙刷りの方が早かったのだろう。本文には、《 杜翁の周囲 ( 2 ) 》 のタイトルの下にしっかりと大泉黒石と刻印されている。“ クリミヤ海岸に於けるトルストイ ”なる挿絵が前ページいっぱいに掲載されていて、冒頭に 〈 三、 別荘の旦那 〉 の章タイトルが冠され、 〈 四、 氷柱に打たれて死んだ農夫 〉 との二章構成。
 前号からの続きらしく、前号=第十一号は未見だけど、これも黒石の常套の、悪く言うと使い廻し、良く言うと発展的洗練ともいうべき、《 俺の自叙伝 》 の 〈 少年時代 〉の章に対応したオリジナル作品だった。つまり、二年後に月刊 《 中央公論 》 に発表された 《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》 の原型なのだ。

 

 

 二年の歳月を経て、同じエピソードが如何様に変貌したのであろうか。
 この 《 杜翁の周囲 2 》 は、文字通りのトルストイとの出逢いをテーマとしたもので、《 俺の自叙伝 》 じゃ、それはあくまで一部でしかない。黒石はこの作品以降、あっちこっちの雑誌に結構書きまくっていたようで、その中に、《 俺の自叙伝 》 の他の部分に対応した単独作品、つまりオリジナルが発表されていた可能性もあるが定かでない。
 三章のっけからトルストイの風貌を些かシニカルに描いて見せる。
 これって、既に黒石の持ち前のシニカルな筆致がその当初からのものだったのが了解できる。

 

 

 「 爺さんの大きな横平な鼻の頭は蕪の根のように赤くなって、灰色の口髭にぶら下っている鼻汁が、口をもくもく動かす度に落ちそうであったが、爺さんは何時(いっ)かなそれを啜り上げようともしない。
 先登(頭)に此(この)爺さんが痩せた犬を引っ張って行くと、その後から神父と伯父の医者が行く。次に僕とイエドロフが附随(くっつ)いているのである。揃いも揃って皆薄汚い外套を引っ被って、一様に鼻柱を赤くしているけれども、僕の伯父だけは比較的洒落ていた。」  

 

                           《 杜翁の周囲 2 》

 

 

 「 爺さんの大きな鼻の尖(さき)が赤蕪のように赤くなって、灰色の口髭にぶら下った鼻汁と鬚とが、申し合せて白く凍っていた。
 口をモグモグ動かすと崩れて落ちそうだが、爺さんは平気で歩いている。
 先登に此爺さんが痩せ犬を引張って行く。その後ろからアキモフ神父と伯父が行く。次に俺とイエドロフが神妙にくっついて、ぼそぼそ歩いた。イエドロフは一体何処へ行くんだろう。
 揃いも揃ってみんな薄汚いシュバ(外套)を引っ被って、一様に鼻っ柱を赤くしているが、俺の伯父だけは洒落ていた。」
                    
                                  20P 少年時代 《 俺の自叙伝 》 ( 玄文社 ) 大正8年12月

 

 

 その外套も、《 俺の自叙伝 》 じゃ、

 

 「 伯父の外套の襟は大野猫の毛皮だ。」

 

 となってるけど、《 杜翁の周囲 2 》 だと、

 

 「 此獣の茶色の毛皮は、多分臘虎(ラッコ)であったらしい。」

 

となっている。ラッコはともかく、大野猫って山猫のことなのか。大陸で時々毛皮を見かけたことがある。中国じゃ狸の意味もあるという。

 

 

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  ( 表紙裏の目次。著者名が本名の大泉清になっている。パステルナークの描いたトルストイの挿絵もある。)

 

 

 「 こうして、神父と伯父とを相手に、腰をかゞめ乍ら、口を動かしている爺さんの、恰も高麗(こま)犬のような格好の顔を見詰めていると、死んだ親爺の顔を思い出した。僕の親爺は此労働者じみた薄汚い爺さんよりは十位い若くもあった故(せい)だろうが、何しろ、もっと顔立ちが立派であると思った。同じ露西亜人でも、如何しても僕の親爺の方が、小柄ではあったが、容貌(きりょう)が上等だと思っていると・・・」

 

                                                                            61P 《 杜翁の周囲 2 》

 

 

 「 こうして神父と伯父とを相手に腰をかがめ乍ら口を動かしている爺さんの、恰も高麗犬のような格好の顔を見詰めていると死んだ親爺の顔を思い出した。俺の親爺は此労働者じみた薄汚い爺さんよりは幾倍若くもあったがもっと顔立ちが立派だと思った。同じ露西亜人でも如何しても俺の親爺の方が小柄ではあるが容貌が上等と思っていると・・・」

 

                                                                     30P 少年時代 《 俺の自叙伝 》

 

 

 

「 『伯父さん。僕が掘る』と、いきなり、両手を捲って僕が雪を掘ろうとすると、
 『 キョスキー、へえ、へえ。』
 と、爺さんは僕の肩を捕まえて、伯父の薪を引ったくるようにして取ると、僕に握らせた。それで、黒い物を掻き出そうと力むと、爺さんは『 お待ち。お待ち。』と云い乍ら、僕に手を引かせて、薪を雪の中へ一突きにして置いて、大きな靴の踵で、ごつごつ、踏み始めた。それを今度は僕が横合から、ぽんと三遍蹴ると、ざくりと抜けて、穴が穿(あ)いたから、両手を突込んで、大きな雪氷の塊を持ち上げると、黒い物の影は十分に現れて来たのである。
 『 鉄砲だ。』とごりごり引っ張り出してみると、矢っ張り、鉄砲であった。」

 

                                                                                  杜翁の周囲 2 》

 

 

 「 『お爺さん。俺が掘る』
 俺が、いきなり、両手を捲って雪を掘ろうとすると、 
 『 キョスキー、へえ、へえ。危ない、危ない 』と云い乍ら、俺の手を靴の先で払いのけた。すると側から木の枝を拾って来た百姓が、ごりごり探し始めた。掘り出して行くうちに黒い物は段々、はっきりと形を現した。最後に出て来たのは一挺のマキシム銃だった。」

 

                                                               51P 少年時代 《 俺の自叙伝 》

 

 

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 ( 作者不明のトルストイの肖像。) 

 

 

 《 俺の自叙伝 》 の方の“ マキシム銃 ”の直後は、

 

 

 「 十五分ばかり、氷柱の下に俺たちは立っていたが、間もなく例の焚火の家に引き上げた。それから三日目にまたモスクワの下宿に戻った。」

 

 

 と、簡潔に“ 氷柱に打たれて死んだ農夫 ”の件は終り、モスクワに帰還してからの伯母ターニャとのエピソードに移っているけれど、オリジナルの《 杜翁の周囲 2 》 じゃ、まだまだ、“ 氷柱(つらら)に打たれて死んだ農夫 ”ことカルジンの件が続いていて、些か煩雑な記述になっている。

 

 

 「 爺さんは其鉄砲をつくづく眺めている。
 鉄砲が落とし忘れてあることは解っていたが、其次に、頭巾が現れて来たのは意外であった。伯父は、立続けに饒舌 (しゃべ) った。爺さんは黙然としてカルジンに致命傷を加えた氷柱の破片を、靴先で蹴っている。・・・」

 

 

 以下、半ページ程続き、

 

 

 「 僕はそれから再びモスコーへ引返した。爺さんとは其後モスコーで逢った。けれども僕は此時の事だけは、如何しても忘るゝことが出来ずにいる。十二三から十三四歳だった当時の僕は、もう一人前の男になっている。イエドロフは如何しているであろうと思う事も偶 (たま) にはある。
 『 君が善き行いの記憶は
  吾等の裏 (うち) に死することなからん 』
 と書いた旗を押し出し立てゝ、爺さんの死骸の後ろから、ぞろぞろと跟(つ)いて行った百姓連中の中に、あの時の百姓も、百姓のお神さんも混じっていたであろう。( 大正六年十一月十八日)」

 

                                                                     50P 《 杜翁の周囲 2 》

 

 
 で、完結。
 些細な変化といえば、どういう訳か、モスコーから、《 俺の自叙伝 》じゃモスクワに変わり、イエドロフの嫁さんの実家が営っている木賃宿 《 アレキス屋 》が 《 アレクセイ屋 》に変わった。英語的発音・表記のモスコーから、よりロシア語的発音に近いモスクワに、あるいは当時(現在でも)の日本で一般的だったモスクワに変更ってのは了解できる。

 

 

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 明治後半から大正にかけて、トルストイの日本での人気・影響は、キリスト教と相俟ってかなりの物だったようだけど、わが大泉黒石は如何だったろう。
 同じロシアの血が流れていて、憧憬するものもあったろうが、何しろ、トルストイにしろドフトエフスキーにしろ、ともかく巻数多過ぎて、中里介山の 《 大菩薩峠 》 同様未だにまともに読んだことなく、そもそも、ツルゲーネフとプーシキン、どっちがどっち程度のおよそロシア文学に無知な当方、精々がロシア革命的黎明の暗い息吹を覚えさせるローブシンの作品ぐらいを読んだ記憶があるぐらいで、四方田犬彦が関心を示しているらしく、いずれ纏まった黒石論を上梓するのだろうから、先ずはそっちに期待したい。

 

 

 この巻の冒頭掲載のトルストイの作品 《 エルマーク 》 の翻訳者・昇曙夢は、当時のロシア文学者らしく、この雑誌にも、同じ新潮社から出した 《 トルストイ十二講 》 の2ページにわたる大きな広告が載っている。
 奄美出身の正教会神学校出でもあるらしい。正教会ってのが凄い。=ロシア正教からのロシア語堪能って訳なんだろう。
 詩人・作家の加藤一夫の翻訳も並んでいて、彼も神学部卒の、この頃はトルストイ心酔者。あの黒石の盟友=ダダイスト辻潤ですら、初期の頃はキリスト教の影響を受けていたようだけど、黒石の場合如何なんだろう。確かに、中・高とキリスト教系の鎮西学院に籍は置いてはいたが。

 

 

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 ( 裏表紙。巻末にも新潮社発刊の「「カラマーゾフ兄弟」や有島武郎著作集「宣言」の広告あり。正に大正。)

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