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2022年4月の3件の記事

2022年4月27日 (水)

濁流のメコン パクベン ( ラオス )

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 ミャンマー同様ラオスには一回しか訪れたことがない。
 1996年の11月の上旬、タイのチェンコンから、老爺の運転するモーター付きの小舟でたった一人、紅いメコンを渡って、対岸のラオス・フエサイに入った。
 当時は、まだ第四タイ・ラオス友好橋は出来てなく、もっぱら数分間のモーター・ボート渡河。

 

 

 細い階段を昇ってイミグレに赴き、窓口で出入国カードを貰って、入国の方に記入し、パスポートと一緒に提出。切り取られた残りの出国カードとスタンプを押したパスポートが返される。
 トゥクトゥクでボート乗場に着くと、傍のポリス・チェック・ポイントで、出国カードの裏にスタンプを2つ押される。と、ポリスが、いきなり、1500バーツと言って来た。
 何なんだ?
 訝し気に確認をとると、パクベンまでのスピード・ボート代という。
 チェンコンのゲストハウスの青年に500バーツと聞いてたのを思い出し、紙に書いて見せた。
 「オーッ!」
 と、側にいたスピード・ボートの運転手が素っ頓狂な越えをあげた。
 何だ、知ってるのかよと言わんばかりのニュアンス。
 それでも、ポリスは中々諦めず、“ 1000バーツ ”と書いて見せる。
 当方も10バーツ、20バーツ程度の事ならいざ知らず、500バーツはけっこう大きい。肯わずにいると、とうとう断念し、行く先々のチェック・ポイントでちゃんとスタンプを貰うようにとだけ申し渡された。

 

 

 バンコクのチャオプラヤー川を走っているスピード・ボートほど長くはない6、7人乗りのボートは、それでも白波を蹴立てて、物凄い爆音を独特の緑濃い稜線の間を蛇行するメコンの濁流に轟かせ疾駆していった。
 小舟なので、浅瀬の奥まで入ってゆけ、小さな集落から集落へと住民達を乗せては降ろしするので、メコン川沿の人々・こども達の生な姿が視れ、乗り心地悪く退屈なばかりのスロー・ボートより遙かに面白い。
 前の乗客が降り空白ができると、強風でいやでも備えてあった顔全面シールドのゴーグルを被らざるを得なくなる。畑仕事を途中で放りだして走って来た女性もしっかりゴーグルってところが、当時のラオスの改革開放的状況の端的な象徴のよう。
 どの集落の子供達も決まったように素っ裸になって汀で遊び興じていて、そうでなけりゃ、ボートの爆音を聞きつけてか、奥の方から浜辺にゾロゾロ集まって来る。小さな娘子たちにカメラを向けるとあわてて逃げ出したりするのが笑えた。

 

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 ( 静謐なメコン流域。細長いロングボートもけっこう多い。スピード・ボートの爆音が一人その神話的なまでの静けさを破っていたが、改革開放的近代化で、現在はどな佇まいなんだろう。)

 

 

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 ( 川沿いの小さな集落の子供達。女性は一様にシンと呼ばれる腰巻を身に着けていて、紺色のシンは学校の制服ではなかろうか。隣国カンボジアじゃ、小学生からの制服だったはず。)

 

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 ( パクベンの船着場。小型舟に比してけっこう大き目のスロー・ボート。荷物と人間を運ぶ。)

 

 

 2時間半位いでパクベンの船着場に到着。
 運転手に500バーツ払って、イミグレの場所が分からないので、とりあえずホテルへ。いかにもラオスって感じの簡素な商店街を抜け、ガランとした《 Market 》の看板のある建物の前を通った先のちょっと小高い位置にある《 PHUVIENG HOTEL 》に投宿。
 板張りの簡素な二階建てで、そこのレストランに、地元のおばさんや子供達が集まってテレビを観ていた。この頃、隣国のカンボジアでも、大き目のテレビで映画ビデオやテレビ番組を料金を取って観せる店があっちこっちで流行っていて、この周辺の山岳少数民族の住民を集め、映画館の代用、あるいはもっとナウい情報媒体たるテレビ観戦ビジネスってわけで、幼児を抱えた小娘はじめ子供達からも、その家の小娘が料金を徴収して廻っていた。僅かな額なんだろうが。
 昔の日本だと、テレビのある家に近隣の子供や親達すらが参集して観戦してたものらしいが、近所のよしみってのが基本なので、金を取るなんて観念ゼロだったろう。下手すると、その家の家族がテレビの前で晩飯を食っている姿をすら、参集した住民達に鑑賞されてしまうって事態も少なくなかったようだ。

 


  丘の斜面に茅葺屋根の簡素な家が連なってて、物質的豊かさとはほど遠いのが分かってしまうけれど、それを即貧窮と短絡するには資本主義的豊穣の底無しの虚偽性をいやというほど見させられつづけてきてしまった。
 ラオスやカンボジアって、当時、中国と同様、改革開放に踏み込んだばかりで、誰もがやがて成金・万元戸夢見て資本主義的利潤追求に狂奔する亡者世界になだれこんでゆくことになる。
 その流れでだろうパクベンも、最近は、小奇麗なホテルが林立し町の様相も近代的なものに変貌しているようだけど、相変わらず、スローボートやスピード・ボートは健在らしい。スローボートは願い下げ、スピード・ボートならもう一度、今度はルアンパバンまで疾走したいものだ。

 

 
 部屋は二階の小さなベッドが二つ並んだ9号室。
 トイレ・シャワーは中庭。
 本当に粗い板張り造りで、やがて白人達の団体が到着し中年カップルが両隣に入ったのはいいが、ともかく話す言葉が全部筒抜け。夜になって、そのホテルの従業員かオーナー家族なのか定かじゃないけど、三十歳前後のラオス美人が部屋代を各部屋を廻って徴収していった後、中年白人親爺達のはしゃぎようったら、中学生の修学旅行そこのけ。同じ部屋にそれぞれ嫁さんがいるにも拘わらず。声筒抜けをいいことに、互いに大声で談笑し合うこと一頻り。

 

 

 陽が落ち電灯が灯って暫くすると、外で小娘達の哄笑がし、窓から下を覗き込むと、部屋の薄明りにぼんやり照らし出されて、シン( ラオスの腰布 )にTシャツの小娘達がゴム跳びに興じていた。よく見ると、男の子も参加していて、小娘達は皆一様にシンをからげて横回転の要領で足先をゴム紐にひっかけるやり方で、薄闇の中の遊びに余念がなかった。何処の子供達も、夕闇や薄灯りの中での遊びには、昼間とは又違う独特の蠱惑を覚え堪能しようとするようだ。で、親達がそこに立ちはだかるように、呼びにやって来るって寸法。

 

 

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 ( パクベンの街並み。1996年当時はまだまだ旧態な質素な生活ぶり。藁葺きや茅葺き、そしてトタン屋根がその象徴。)

 

 

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 翌朝はオーベロティン( 300キップ )だけの朝食。
 フランス・パンも売り切れ、食べれるものがなかったのだ。
 ラオスのフランス・パンは美味いと聞いてたので期待してたのが、白人達が去って行ったレストランのテーブルの上には、そのフランス・パンが何本も手つかずのまま残されていた。
 そういえば前日、スピード・ボートで一緒だったドイツ青年が、
 「まずい」
 「美味しくない」
と、日本語で断じていたっけ。

 

 

 朝食(?)後、通りを散歩してると、前に山岳少数民族そのままの三人組の女達が歩いて居た。前日フエサイで見かけたのとは別様の絵葉書にあるようないでたちで、どうも母娘のようだった。母親が片手に、何か円形上になった肉( 干肉? )を持ってて、通りの住民達も珍し気にその肉片を眺めていた。傍で見ると、皆チャーミングなのには驚いた。
 やがてボート屋がやって来て、本来の目的地、古都ルアン・パバン行のボート乗場へ向かった。前にあるチェック・ポストで出境のスタンプを押して貰らう。が、スピード・ボートのつもりだったのが、何とスロー・ボートだった。

 

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2022年4月13日 (水)

殺身成仁,是革命党的本色 炎の女・秋瑾

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 “ 秋風秋雨愁殺人 ”

 

 清末の女性革命家・秋瑾の辞世といわれている。
 殺は、オリジナルは当用漢字になく、中国語でシャー、殺の異体字。真綿で絞める如くじわじわと殺すの意。
 彼女の《 秋風曲 》に、

 

 昨夜風風雨雨秋 秋霜秋露盡含愁

 

 なる一節がある。
 その末には、

 

 痛飮黄龍自由酒

とあって、清=胡狗・胡奴を撃破して自由の酒を痛飲せんと締め括っている。
つまり、冒頭の有名句は、如何とでも解釈出来るのだけど、つまるところ、反清復光に尽きている。
 そもそも、この秋瑾が認めたといわれるこの一節、実は、清代の詩人・陶澹人の《 秋暮遣懐 》からの引用で、

 

 秋風秋雨愁殺人,寒宵獨坐心如搗

 

 搗=衝く。

 

 愁殺人って日本人的には凄味のある表現だけど、中国(漢)詩の世界じゃ、常套句のようだ。

 

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 1901年の義和団事変処理のため辛丑(しんちゅう)条約締結後。
 傲然と欧米列強軍が北京・紫禁城前を行軍してゆくシーンから始まる。
 夫・王子芳が捐官( えんかん・金で官職を買うこと )し、北京に一家で赴任。
 一家の乗った馬車の中から、紫禁城近辺の列強に破壊された光景と行軍してゆく列強兵士達の姿に茫然とする秋瑾、彼女のすぐ背後で、もっぱらに微睡(まどろみ)を貪るばかりの、官のはずの夫・王子芳の姿。
 そこに、一睡沈沈の句がオーバーラップする。

 

 一睡沈沈 数百
 年大家不識
 做奴恥

 

 
 亡国的惨状への憂国の念を綴った《 寶刀歌 》(1907)の一節。
 その前の冒頭の句は、 

 

 

 漢家宮闕斜陽裏
 五千餘年古國死

 

 

 宮闕=宮門。天子の居る処。
 斜陽=没落。

 

 
 因みに、その一句前の、冒頭の漢家とは、秋瑾の頃は、清国、つまり漢族ではなく、満州族の支配していた時代で、漢族達にとって、清とは、異民族支配に過ぎず、五千年の歴史を誇る漢族国=中国人達にとって、ひたすら堪えがたい屈辱以外のなにものでもないというニュアンス。
 反清復明ならぬ反清復光が彼等のスローガン。
 復明は清国以前の漢人の明国への復古でしかないが、復光は連綿と続いて来た君主制を排し、平等主義的な民国思想。

 

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 旧弊な安逸官史の夫と相容れず、神州痛哭人こと陳天華の表した《 警世鐘 》(1903年)や、鄒容・著《 革命軍 》(1903年)を読んだ。因みに、《 革命軍 》は、当時百万部も発行したベスト・セラー。序文を、章太炎( 炳麟 )が書いている。
 

 

 突如海辺の景観が拡がり、次の一節が表れる。

 

 

 漫云女子
 不英雄
 万里
 乗風
 獨向
 東

 

 
 「漫云」=…と、云わないでほしい。云うなかれ。

 

 二人のまだ幼い子供を残しての日本行、悲喜こもごも錯綜するなかでの一節なのだろう。その後続けて、白雪を頂いた富士の姿がやがて厚い雲に覆われた下界ともどもに画面いっぱいにズーム・アウトされる。
 東の果ての蓬莱国的象徴ってところなんだろう。

 

 

 この謝晋の《 秋瑾 》(原題)では、秋瑾の思想的転換点として日本留学時代に重点を置いた描写になっていて、日本ロケを敢行。当時孫文等と一緒に中国革命に参与していた宮崎滔天(大和田伸也)の姿も点景的に描かれている。
 秋瑾の着物姿も悪くはない。
 舞拳弄刀と謂われた秋瑾、箱根なんだろう♫箱根の山は天下の剣~っと、陳天華、徐錫麟等と唱和しながら昇って行った先の甘酒茶屋の屋外の酒席で、富士山を背景に、着物姿に鉢巻をし、日本刀を片手に剣舞を舞ってみせる。
 かつてジェット・リーが、《 笑傲江湖之二 東方不敗 》( 1990年 : 監督・程小東 )で長崎に赴いた際、焚火を囲んで「あんたがたどこさ」の童謡を唄いながら踊るシーンだったか、拙い日本語を駆使していたのを思い出した。この曲って、薩長維新軍の幕府軍追撃故事って説もあるらしいとは、最近になって知ったけど、ツイ・ハーク(プロデューサー)はそれを知ってて使ったんだろうか。

 

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 彼女に限らず出演者皆、部分的に日本語を使ったり、着物や学生服を纏ったりのデティールに拘り、当時の日本の庶民生活に融け込んだ革命派の中国留学生たちの姿を、何とか再現しようとする謝晋のアプローチは微笑ましい。
 多少の違和感は否めないものの、昨今ならいざ知らず、文革後まだそれほど時間も過ってない1983年頃なら、まあこんなものだろうと了解はできる。
 飾らない庶民的なリアリティーを追及しているらしい謝晋映画の特徴の一つなんだろう。

 

 
 1905年(明治38年)11月、日本の文部省が清朝の要請に応じ、「清国留学生取締規則」を発布、それに学生達が抗議活動をはじめると、朝日新聞が酒上の壮語と留学生達を指弾し、陳天華が、大森海岸で入水自殺を計って抗議する事件まで発展。
 洪門天地會・光復会・中国(革命)同盟会と、秋瑾は次々と反清的革命組織へと参入してゆき、徐錫麟等と謀って中国本土での革命運動=武装蜂起を企図するようになる。

 

 

 帰国後、内密裡に革命戦士育成のため、紹興に、表向き体育教練の大通学堂( 大通師範学堂 )を徐錫麟等と創始していたものの、徐錫麟が安慶蜂起(起義)に失敗してしまい、仲間・同士に直ぐ身を隠す様に警告されたにもかかわらず、逃げることをせず、秋瑾一人悠然として官憲に捕縛されてしまう。
 2日後の早朝、紹興の軒亭口で、斬首される。(1907年7月15日)。
 帰国してから、約1年半ぐらいの短時日的終焉。
 4年後の1911年秋、孫文等中国同盟会を中心にした革命勢力が武装蜂起し、翌1912年初春、宣統帝溥儀が退位して辛亥革命が達成され、共和制中華民国が樹立。
 

 

 

謝晋《 炎の女・秋瑾 》(原題 秋瑾)
原作・夏衍戯曲『 秋瑾伝 』(1936年)
脚本:柯霊・黄宗江・謝晋 
上海映画製作所 ( 1983年 )

 

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2022年4月 2日 (土)

 西寧の旅( 1994年 )日記

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 ( 西寧体育館の脇にかかった見世物小屋。 ブレークダンス、手品、縄抜けetc. 文革以降の初期改革開放的産物とでもいうべきか。)

 

 1994年夏、前年と同様、ゴルムド( 格爾木 )から列車で青海省の省都・西寧(シーニン)に入った。只、今回は、チベットの四千メートル世界から二千メートル高原地帯への下り旅。登りは軽度の高山病的症状=吐き気にじくじくと苛まれ、隣席のカメラマンがあれこれ心配してくれたり、白人女にこれは効くのよと真っ黒い薬塊を飲まされていよいよ酷くなってしまったりの四方山満載だったけど、帰路は、下るばかりで軽快そのものだった。
   

 

 508次 中臥 3車15舗  160元+10元=170元

 

 

 バスもあり、普通バスだと80~90元、スリーパーで210元( 下段 )。一、二度中国のスリーパー( 始めの頃は無かった )には乗ったことがあって、カーブや下りだとベッドから転げ落ちてしまいそうになり、両手でしっかとベッドの端を握ってなけりゃならないコント紛いの代物だったので、さすが遠慮させてもらった。 昨今は如何なんだろう。日本や欧米は、リクライニング方式なのでまあ問題はないけれど、かのスリーパーは列車のベッドをそのままバスに組み込んだだけのような代物。スリリング好きにはうってつけ。

 

 

 夏の青海高原は小雨が降りつづけ、プラット・ホームに出ることもできず、半日中、もうもうたる煙草の煙と埃とゴミの山と化した列車の中に缶詰状態。
 ラサのヤク・ホテルで交換してもらった太宰治の《 富嶽百景 》(岩波文庫)をずっと読み続けた。『 魚服記 』、『 ロマネスク 』、『 富嶽百景 』が面白かったと日記には記してあるものの、今の当方の脳裏には青天の霹靂的に記憶の一片だにない。
 

 

 小雨の西寧駅に早朝到着( 所用約10時間 )。
 駅前からミニ・バス(1・5元 )に乗って西寧賓館近くで下車。
 西寧賓館は外人料金なしで、3人部屋で26元。
 カラーTVとバス・タブ付。
 同室の二人は日本人で、恐らくフンジェラーブ峠を越えパキスタン、イスタンブールに抜ける定番コース予定。
 翌日、昼頃から晴れて来たので、早速上海行のチケットを買いに西寧駅の右端の売場に赴くも、
 「 没有!」
 と、怒鳴りつけられ、西寧賓館の右横のチケット売場でも同様に、
 「 没有!」
 と怒鳴られてしまって、取り付くシマさえなかった。
 仕方なく、賓館内のCITS( 中国国際旅行社 )で手配してもらう運びに。
 この頃はまだ外人料金なんてものがあった時代で、件のCITSは国策会社なので、下手に外人に駅の窓口で人民料金でチケットを売ろうものなら、彼等が口汚く指弾してくるのを厭っての罵声なのだろう。
 トラブルの種を持って来るな!って寸法に違いない。
 バック・パッカーにとって、中にはさばけた職員もいるけど、基本、CITSは不倶戴天の敵。とくに、チベットへ向かうバスの根拠地ゴルムドのCITSは、一般のチケット売場で見張ってたりするぐらい。尤も、ラサ迄の列車がオープンしてからは意味なくなってしまったろうが。

 

 

 178/5 直快 至上海 14車 中舗 14号

 

 

 CITS手数料込みで440元。
 前回よく食べた豆沙包( あんまん )を買いに行ったら、もうその店はなく、別のレストランになって居た。ゴルムドにいっぱいある刀削湯麺(3元)を食べたてみたが、やたら塩っぽくて頂けなかった。
 

 

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 ( 西寧古刹・北山寺 岸壁をくり抜いた九窟十八洞ともいわれる桟道回廊。)

 

 

 前夜雨が降ったらしく、路上に水溜りができていて、雲は多いものの、陽は照っていた。二人は名勝チベット寺院タール寺に観光に出かけ、部屋でカップ麺で昼食を済ませ、町へ出る。中国中に溢れている本屋といえば新華書店、大きな町じゃ構えも大きい。
 場所柄、チペタン・コーナーがあって、チベット語の書籍や辞典も置いてあった。
 ラサと同じに、英雄ゲサル王物が多く、連環画(まんが)の小冊子まであった。
 老舎全集もあり、《 四世同堂 》があれば買う気で探してみたら、何冊分もあってかなりの長編なので、日本語ならともかく、中国語なので手に余り過ぎ。
 帰途、青島特製バター・ピーナッツを発見。
 適度に塩味が効いていて長旅には持って来いの気付け菓子で、滅多に見つからないが、重宝。当時の中国のスナックやら清涼飲料の類は味と作りがまだまだで、このバターピーも稀に保存の問題で脂が廻ってしまっているのがあったりするものの、まず最低ラインには達していた。
 2泊3日の上海列車行用に、後日2袋も確保。
 大陸旅の移動は結構長丁場が多く、ミネラル・ウォーターは何処でも手に入ったが、さすがに長時間バスなんかに揺られていると、無味なぬるい水よりも、カフェインを含んだ茶飲料の方が当方的には勝っていて、当初は余り見かけなかった茶飲料も時代が下るにつれてあちこちで見かけるようになり、重宝することとなった。

 

 

 夜、テレビで、チベットが舞台のドラマを途中から観る。
 人民解放軍が侵攻する以前のチベットの、ある貴族周辺を中心にしたドラマで、国民党軍らしき連中が登場し、その貴族の城に機関銃を手土産に訪れたところで終了( 第4篇と記してあった )。
 頭に紅い紐束を巻いていたので、恐らくカン・パ(カム・パ族)であるのは間違いなく、彼等の纏っている衣裳はなかなかに興味深かった。巷のカン・パには見られない、貴族や上層の連中の豪華な衣裳だったからだ。
 内容は何をかいわんや風なのだろうことが察しがつく類。
 最後に製作が、四川の軍管区政治部とうやうやしく掲げられていて、思わず唸ってしまった。そういえば、タイのテレビ局も軍関係のチャンネルが多かったのを思い出した。

 

 
 天気良好。
 同室の二人、一人は蘭州へ。もう一人は、黄河源流へ発つ。
 当方も、夕刻、バターピー2袋と缶珈琲2個をバッグに、上海行178次直快列車に乗るために西寧駅へ向かった。

 

 

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