濁流のメコン パクベン ( ラオス )
ミャンマー同様ラオスには一回しか訪れたことがない。
1996年の11月の上旬、タイのチェンコンから、老爺の運転するモーター付きの小舟でたった一人、紅いメコンを渡って、対岸のラオス・フエサイに入った。
当時は、まだ第四タイ・ラオス友好橋は出来てなく、もっぱら数分間のモーター・ボート渡河。
細い階段を昇ってイミグレに赴き、窓口で出入国カードを貰って、入国の方に記入し、パスポートと一緒に提出。切り取られた残りの出国カードとスタンプを押したパスポートが返される。
トゥクトゥクでボート乗場に着くと、傍のポリス・チェック・ポイントで、出国カードの裏にスタンプを2つ押される。と、ポリスが、いきなり、1500バーツと言って来た。
何なんだ?
訝し気に確認をとると、パクベンまでのスピード・ボート代という。
チェンコンのゲストハウスの青年に500バーツと聞いてたのを思い出し、紙に書いて見せた。
「オーッ!」
と、側にいたスピード・ボートの運転手が素っ頓狂な越えをあげた。
何だ、知ってるのかよと言わんばかりのニュアンス。
それでも、ポリスは中々諦めず、“ 1000バーツ ”と書いて見せる。
当方も10バーツ、20バーツ程度の事ならいざ知らず、500バーツはけっこう大きい。肯わずにいると、とうとう断念し、行く先々のチェック・ポイントでちゃんとスタンプを貰うようにとだけ申し渡された。
バンコクのチャオプラヤー川を走っているスピード・ボートほど長くはない6、7人乗りのボートは、それでも白波を蹴立てて、物凄い爆音を独特の緑濃い稜線の間を蛇行するメコンの濁流に轟かせ疾駆していった。
小舟なので、浅瀬の奥まで入ってゆけ、小さな集落から集落へと住民達を乗せては降ろしするので、メコン川沿の人々・こども達の生な姿が視れ、乗り心地悪く退屈なばかりのスロー・ボートより遙かに面白い。
前の乗客が降り空白ができると、強風でいやでも備えてあった顔全面シールドのゴーグルを被らざるを得なくなる。畑仕事を途中で放りだして走って来た女性もしっかりゴーグルってところが、当時のラオスの改革開放的状況の端的な象徴のよう。
どの集落の子供達も決まったように素っ裸になって汀で遊び興じていて、そうでなけりゃ、ボートの爆音を聞きつけてか、奥の方から浜辺にゾロゾロ集まって来る。小さな娘子たちにカメラを向けるとあわてて逃げ出したりするのが笑えた。
( 静謐なメコン流域。細長いロングボートもけっこう多い。スピード・ボートの爆音が一人その神話的なまでの静けさを破っていたが、改革開放的近代化で、現在はどな佇まいなんだろう。)
( 川沿いの小さな集落の子供達。女性は一様にシンと呼ばれる腰巻を身に着けていて、紺色のシンは学校の制服ではなかろうか。隣国カンボジアじゃ、小学生からの制服だったはず。)
( パクベンの船着場。小型舟に比してけっこう大き目のスロー・ボート。荷物と人間を運ぶ。)
2時間半位いでパクベンの船着場に到着。
運転手に500バーツ払って、イミグレの場所が分からないので、とりあえずホテルへ。いかにもラオスって感じの簡素な商店街を抜け、ガランとした《 Market 》の看板のある建物の前を通った先のちょっと小高い位置にある《 PHUVIENG HOTEL 》に投宿。
板張りの簡素な二階建てで、そこのレストランに、地元のおばさんや子供達が集まってテレビを観ていた。この頃、隣国のカンボジアでも、大き目のテレビで映画ビデオやテレビ番組を料金を取って観せる店があっちこっちで流行っていて、この周辺の山岳少数民族の住民を集め、映画館の代用、あるいはもっとナウい情報媒体たるテレビ観戦ビジネスってわけで、幼児を抱えた小娘はじめ子供達からも、その家の小娘が料金を徴収して廻っていた。僅かな額なんだろうが。
昔の日本だと、テレビのある家に近隣の子供や親達すらが参集して観戦してたものらしいが、近所のよしみってのが基本なので、金を取るなんて観念ゼロだったろう。下手すると、その家の家族がテレビの前で晩飯を食っている姿をすら、参集した住民達に鑑賞されてしまうって事態も少なくなかったようだ。
丘の斜面に茅葺屋根の簡素な家が連なってて、物質的豊かさとはほど遠いのが分かってしまうけれど、それを即貧窮と短絡するには資本主義的豊穣の底無しの虚偽性をいやというほど見させられつづけてきてしまった。
ラオスやカンボジアって、当時、中国と同様、改革開放に踏み込んだばかりで、誰もがやがて成金・万元戸夢見て資本主義的利潤追求に狂奔する亡者世界になだれこんでゆくことになる。
その流れでだろうパクベンも、最近は、小奇麗なホテルが林立し町の様相も近代的なものに変貌しているようだけど、相変わらず、スローボートやスピード・ボートは健在らしい。スローボートは願い下げ、スピード・ボートならもう一度、今度はルアンパバンまで疾走したいものだ。
部屋は二階の小さなベッドが二つ並んだ9号室。
トイレ・シャワーは中庭。
本当に粗い板張り造りで、やがて白人達の団体が到着し中年カップルが両隣に入ったのはいいが、ともかく話す言葉が全部筒抜け。夜になって、そのホテルの従業員かオーナー家族なのか定かじゃないけど、三十歳前後のラオス美人が部屋代を各部屋を廻って徴収していった後、中年白人親爺達のはしゃぎようったら、中学生の修学旅行そこのけ。同じ部屋にそれぞれ嫁さんがいるにも拘わらず。声筒抜けをいいことに、互いに大声で談笑し合うこと一頻り。
陽が落ち電灯が灯って暫くすると、外で小娘達の哄笑がし、窓から下を覗き込むと、部屋の薄明りにぼんやり照らし出されて、シン( ラオスの腰布 )にTシャツの小娘達がゴム跳びに興じていた。よく見ると、男の子も参加していて、小娘達は皆一様にシンをからげて横回転の要領で足先をゴム紐にひっかけるやり方で、薄闇の中の遊びに余念がなかった。何処の子供達も、夕闇や薄灯りの中での遊びには、昼間とは又違う独特の蠱惑を覚え堪能しようとするようだ。で、親達がそこに立ちはだかるように、呼びにやって来るって寸法。
( パクベンの街並み。1996年当時はまだまだ旧態な質素な生活ぶり。藁葺きや茅葺き、そしてトタン屋根がその象徴。)
翌朝はオーベロティン( 300キップ )だけの朝食。
フランス・パンも売り切れ、食べれるものがなかったのだ。
ラオスのフランス・パンは美味いと聞いてたので期待してたのが、白人達が去って行ったレストランのテーブルの上には、そのフランス・パンが何本も手つかずのまま残されていた。
そういえば前日、スピード・ボートで一緒だったドイツ青年が、
「まずい」
「美味しくない」
と、日本語で断じていたっけ。
朝食(?)後、通りを散歩してると、前に山岳少数民族そのままの三人組の女達が歩いて居た。前日フエサイで見かけたのとは別様の絵葉書にあるようないでたちで、どうも母娘のようだった。母親が片手に、何か円形上になった肉( 干肉? )を持ってて、通りの住民達も珍し気にその肉片を眺めていた。傍で見ると、皆チャーミングなのには驚いた。
やがてボート屋がやって来て、本来の目的地、古都ルアン・パバン行のボート乗場へ向かった。前にあるチェック・ポストで出境のスタンプを押して貰らう。が、スピード・ボートのつもりだったのが、何とスロー・ボートだった。
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