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2022年7月の2件の記事

2022年7月30日 (土)

 まぼろしの秘境・白砂渓谷 黒石的痕跡

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( 黒石画 : 雨見山( 1347メートル ) から白砂山塊まで約18キロ。 )
 
 黒石の山と温泉めぐり旅って、昭和も軍国主義的色彩愈々濃くなった頃からってイメージがあるけど、昭和4年に春陽堂から《 峽谷を探ぐる 》が出ていて、その中に〈 吾妻溪谷 〉なるエピソードもある。何処で止められているのか、国会図書館のデジタル・サービスのリストから外れているので内容は定かでない。 
 昭和6年の《 山と溪谷 》( 二松堂書店 )にも同じタイトルの〈 吾妻溪谷 〉なる一文がある。( ひょっとして同じものかもしれない。)j
 渋川~草津へ至る吾妻渓谷旅ってことで、こっちは、黒石の他に、詩人・藤田健次、東京日日新聞・安成二郎、画家・竹久夢二、画家・水木伸一、漫画家・麻生豊、東京朝日新聞・翁久允、立正大学教授・加藤朝鳥といった大所帯で、上野駅から渋川までの車中、和気あいあいの俳句三昧だったとある。
 渋川から二台の貸切自動車に分乗しての渓谷旅。

昭和17年発行の《 山の人生 》( 大新社 )に、冒頭に述べられている昭和5年の頓挫した白砂山旅行記〈 白砂川渓谷  ー 草津から花敷へ ー 〉がある。これは国会図書館のネット・サービスで閲覧できる。こっちは会話もある如何にも旅行譚然としていて、今回の" 第二回の単独行 "のは、レポート風のモノローグ・トーン。
 

 

この昭和9年発刊の雑誌《 旅行日本 》の中の、〈 峯の白雲 ー 吾妻の山と谷 ー 〉の冒頭、四年前の吾妻渓谷行に先ず触れている。
 

 

 「 上・信・越の国境に坐っている白砂山塊に源を発する白砂川は、関東屈指の渓谷である。私がこの渓谷の探見を思い立ったのは昭和五年の、初夏であった。その時は草津温泉を根拠地として、温泉ホテルの主人や、土地の教育家に集まって貰った。温泉町の料亭に来会する者十余名のうち、草津館主人故山口茂三郎氏細野館主人細野停氏。写真師小雨氏が私と行を共にすることとなり、白砂川と長笹川の合流点にある花敷温泉部落を策源地に定め、渓谷の探見に就いたが、連日の雨に出水し、中道にて退却するの已むなきに至った。」

 

 

 山歩きも温泉趣味も金輪際的に持ち合わせてない当方なのだが、大泉黒石の一つの傾向性、黒石的軌跡の確認ってところで、比較的保存状態が好かったのかページ繰る指先にヒリヒリ感を覚えることなく、それなりに興味深く読まさせてもらった。
 元々高いところが苦手なので断崖絶壁の隘路なんて自分の方からのこのこと出てゆくことなんてありえない。例えば、フンザ・カリマバードなんてもうその集落だけで標高2500メートルの位置にある。確かにナウシカの谷を彷彿させる壮大な自然の風を感じさせるパースペクティブは申し分ないけれど、そのすぐ裏山で遭難した登山家からツーリストも数知れず。二度と帰らぬこととなった日本人女性登山家もいれば、フンザ・インの泊客の日本人学生の如く、禁忌とされている夕刻近くにサンダル履きでのこのこと出かけて行き、闇の中で足を滑らせて崖の途中に滑り落ち、にっちもさっちも行かなくなって一晩か、ひょっとして二晩だったか唯一所持していたペットボトルの水で何とか生き延び、欧米人の泊客や地元住人の捜索隊に発見され一命を取り留めた者も居る。

 

 

 唯一山登りの類といえるものは、チベット一古いゴンパ・立体曼荼羅といわれるサムイェ寺の近くに聳えるチベット仏教開祖グル・リンポチェ( パドマ・サンバヴァ )の聖地チンプ―渓谷( 青朴 : 標高4300メートル )に、他の日本人パッカー等とトラクターの荷台に乗ってノロノロと昇っていった時だろうか。何しろ標高が高山病エリアなので、徒歩で昇ってゆくのは皆パス。それにトラクターの背に乗っての登山ってそうそう体験できないエキスペディション・オブ・ホーリープレイスだ。

 

 

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 「 第二回は私単独で、渓中スルスの岩洞附近まで肉薄した。」

 

 
 つまり、“ 完全の目的を果たし得”ないまま今日まで至ってしまったという訳らしい。前年、昭和八年に、( 群馬県 )吾妻郡中之条町の吾妻山岳会が吾妻渓谷の溯行と白砂山塊の踏破の計画が地元の新聞に報じられたものの、結局流れてしまったという。
 スルスの岩洞とは、白砂渓谷中の小さな岩窟で、昔から猟師たちが休憩所・避難所としていた場所らしく、白砂山からは直線距離で3キロぐらい。目と鼻の先なのだが、山岳地の奥深い渓谷であってみれば、現在でも瀧なんかを迂回するためにえらく迂回させられるのも常道。いわんや、戦前昭和8、9年の頃は。
 

 

 「 上越南線渋川駅頭から、群馬自動車会社のバス(七〇銭)で中之条町に乗入れる。ここは名にし負う吾妻川渓谷の関門を扼する古ぼけた町で、奥上州の玉ノ井を以て誇る人気最悪の四萬温泉・沢渡温泉(これは悪化するに至らない)と、草津温泉・川原湯温泉に向うべき岐( わか )れ道だ。大昔は北関東の都会であったらしく只今はただ渓間の一集落には過ぎないけれども、時代の錆と一種の古典的風格を備えて、落ちついた暗さを示し、・・・・・・
 ・・・・・・唯一ッ活発な役割を演じているのが自動車会社の連中で、旅客に対するサービスのつもりか、何のためか知らんが、美人皆無の上州の山の中から頗る妙齢の別嬪・・・わリャはア、どこサ行くだかネエ・・・この種の婀娜者を撰りぬきに乗合自動車へ車掌として乗り込ませている謀略などは、東京の遙かに及ぶところでない。」

 


 「 この小さい町では都会人を迎えて、失礼にあたらぬような日本語で、お客様と応対出来る宿屋は鍋屋のほかに一軒もないんだし、温泉湯治の客は、私の関知するところでないが、この辺一帯の名勝探訪と渓谷歩き、登山の客に対しては、出来るだけの便宜を図ると申しておるのだから、都会から此方面に入って来る人達は、町のこの宿屋の前で乗換えるついでに、名物の吾妻蕎麦でも食いながら、ここのオヤジと相談して、前途のプランを確立するのも、賢い考えであろう。」

 

 

 中之条の群馬自動車会社の並びの、《 鍋屋 》なる創業延宝3年(1675年 )の、文人墨客の集う老舗宿屋は、口の悪い十返舎一九すらが、そこの亭主の愛想の良さを讃えていたようで、戦前昭和の黒石が訪れた際の亭主も愛想好しの、どうも代々の家柄のようだったのが、しかし、コロナ禍2020年に、さしもの15代続いた《 鍋屋 》も閉鎖の已む無きに至ったという。

 

 

 「 山と水との変化に奇を尽し妙を極めているのはこの河原湯の下流だ。上信国境鳥居峠に源を発し、十里の長渓を北に北にと流れる水は、大渦小渦を巻きながら、滔々として此処に到り、濬澗( しゅんかん : 奥深い谷 )に欹立蟠踞せる危礁嶮巌に激突し、俄かに乱れ崩れ、凄まじき逆浪を起しつつ驚瀾驚濤亙々に白牙を交え噛殺叫喚、・・・・・・」

  
 「 峡道を走る自動車の中から首を出して俯瞰すると、眼もくらむかと思われるほど壮烈な活劇だ。岩と水の格闘だ。その清冽な嵐気にひたりながら峡上に架けわたされた長橋を渡れば河原湯温泉部落だ。
 ・・・・・・敬業館という温泉宿が最も景勝の地点を占めている。夏は避暑客で満員の盛況を呈するが、紅葉の秋を過ぎると反動的に閑散になるので、年中客足の絶えぬような工夫はあるまいかと、温泉場の智慧者達が、頭蓋骨を集めて苦吟の結果、これまで一人もいない歌姫を、他所から仕入れて来て湯の中に泳がせて置いてはどうだろうかという名案が出たそうだ。水族館の魚を人間の女で行こうという趣向なんだがこの芸者衆が三味線を弾かずともお客さんを面白く遊ばしてくれる術を知っているとは是又調法なものである。」

 

 

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 吾妻渓谷の素晴らしさを極めた黒石的修辞ではあるけれど、ところが、2015年(平成27年)、《 利根川改訂改修計画 八ツ場ダム 》の建設工事が始まり、2020年(令和2年)に完成。
 川原湯地域の大半が水没、長野原地域も一部が水没という事態に陥ってしまった。
 近代化=ダム=水没という定番的悲哀ではある。
 かの敬業館、戦後なのか、“ 敬業館みよしや ”の看板を掲げていたらしく、それでも2008年に、ダム工事に絡んで、閉鎖となったらしい。
 ネット見ると、まだ工事閉鎖以前の開業中の敬業館みよしやに、やがて八ツ場ダムの底に沈む前に是非という紹介記事が残っていた。
 そのネット記事に、“ 断崖露天から吾妻渓谷を一望可 ”なるキャッチ・コピーがあって、黒石の“ 最も景勝の地点を占めている ”の意味も了解できてしまった。因みに、このみよしやは、河原湯温泉の中で、唯一源泉を有している宿でもあったらしい。もはやダム湖の淵って訳だ。


 

 「 河原湯から長野原町に出る。幽邃なる須川渓谷を探賞しながら、湯ノ平温泉などには見向かずとも、花敷温泉は我等を迎えて充分に旅情を慰めてくれるだろう。ここが白砂川渓谷の玄関であり、白砂連峰登山根拠地である。この辺一帯の山間部落を総括して入山という。『 恐れ入山メンパに杓子』が名産では、博覧会にも出せまいが、月桂酒( 蝮酒 )に𩸶( いわな )、山魚( やまめ )、山芋、蕨、氷豆腐( 高野豆腐 )の好きな人なら、敢えて牛肉の缶詰を携帯しなくても、二日や三日の仙人生活が辛抱出来ぬこともなかろうし渓岸の岩畳の浴槽に湧く温泉に浸っておれば、体中の毒気も自ずからぬけ去り、ビールの十本ぐらいは時によると備えつけてあるから蕎麦饅頭に味噌をつけて噛っておれば頭中の俗気も自ずから抜け去るであろうというような極めて原始的な部落で考古学者や歴史家の興味を惹くに足る古代民族の、伝説、史蹟、風習のその中に部落民は朴訥な単純生活を営んでいる。」

 

 

 メンパ : 小判型の薄い檜に漆を塗った伝統的な弁当箱。

 

 

 「 白砂川渓谷の遡行については経験も浅いし、浅い経験だけでも、記述する段になると、一冊の書をなすであろう。日本アルプス山中の渓谷にも劣らない幽玄神秘の大渓谷であり、私に言わせると、関東一の谷だ。ここでは山に就いて略説しよう。花敷部落から西方二里半の山上湖(野反池)にい(出)で、魚野川渓谷支流の水源をかすめ、上信国境線を踏み伝いながら八十三山に登る登り着く(原文のまま)までに八十三度も休憩しなければならぬというので、八十三山( 六千六百余尺 :2101メートル )の名があるけれども、只今は小径が開かれているから、それほどの労働ではない。それから白砂山塊の盟主白砂山( 七千余尺 : 2139メートル )や上ノ間山( 六千六百余尺 : 2033メートル )にわたり着くのに汗を絞るのだ。」

 

 

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 長野県・新潟県・群馬県の3県の境に位置する「秘境の名峰」白砂山山頂からは360度の一大パノラマが開けているらしい。写真見ると、八十三山~白砂山~上ノ間山の稜線・峯伝いに渡ってゆくようだ。白砂山山頂は笹藪がびっしり繁茂していてけっこう鬱陶しい感じで、文末に、

 

 

 「 これほど素晴らしい山岳も、藪のために世に遍く紹介され、踏破されずにいるのはいかにも惜しいことだ。」

 

 

 と残念のほどを記している。交通の便が良くなった昨今、けっこう気軽に渓谷から白砂山を踏破できるようになったようだけど、それでも季節・状況によっては、渓谷渡りにけっこう艱難辛苦を強いられようだ。
 白砂山まで直線距離約6キロの位置にある野反湖( 標高 : 1513メートル )の突端が起点の一つとなっているらしい。信濃川水系中津川の水源でもあり、魚野川→中津川→信濃川と日本海側に流れ落ちてゆく。
魚野川本流渓谷も秘境と呼ばれている。
 以前、同じく黒石の《 ひな鷲わか鷲 》の紹介の際、魚野川=中津川で大正後期に発生した信濃川発電所工事に絡んだ中津川朝鮮人虐殺事件に触れたが、それをも併せて、この周辺は黒石の踏査エリアってことなのか。

 

 

 

  《 旅行日本 》昭和9年(1934年)7月号 東京ツーリスト倶楽部

 

 

 

 

 

2022年7月16日 (土)

草葉の影の寝墓群 稲佐国際墓地 ( 悟真寺 )

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 薄雲多い晴れの長崎はやっぱり熱かった。
 熱中症にこそならなかったものの、旭大橋を渡って帰路に就く頃にはすっかり暑熱と疲労で困憊状態。それなりに風が吹いていたので何とか無事に戻れたってところ。
 昨年、あったはずの長崎駅がなくなってあっちこっちで工事中なのには驚いたが、一年過った今回、まだ工事はいよいよたけなわどころか、駅に隣接した建物が囲いのまま手つかず( 保留地と呼んでるらしい )、最終完成は相当先のようだ。
 

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 ( 六月下旬の長崎駅周辺。一年過ってもまだまだ工事の真っ最中 )

 

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  ( 以前は駅ビルの一階奥に改札があったのが、交通事情や新幹線がらみでか、

  高架になってしまった。在来線のホームは去年から稼働してたけど、新幹線 

  は今秋。写真は長崎本線の終点側。駅舎の向こうに、長崎港ターミナルの黄

  色いドームが覗けている。その駅舎のすぐ先の駐車場の向こうに、対岸稲佐

  に向かう旭大橋の入口がある。)

 

 最初、駅の近くにあるらしい旭大橋を通って、長崎湾の奥の浦上川を越え稲佐に至るルートを予定してたのが、旅行案内所を捜したのが運の尽きで、妙に消耗してしまい、午後になって、丁度道路を挟んだ向かいにある長距離バス・ターミナルの真反対のローカルバス(長崎バス)停から、も一つ上流側の稲佐橋経由で稲佐に向かうバスがあったので飛び乗った。只、バス停に、目的駅の名しか明示されてなく、順番に停まってゆく停留所名が列記されてないので、適当なところで降りる羽目に。
 当然遠回り。それでも、狭いエリアなので、何とか朱塗りの山門を見つけ出せ、悟真寺に到着。 

 

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 ( 悟真寺の異国情緒たっぷりの赤門< 竜宮門 >。そういえば、耳なし芳一

  伝説て゛有名な下関・壇ノ浦の阿弥陀寺、明治以降は赤間神宮も同様の

  門構え。)

 

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 ( 国際墓地入口の案内板。石橋の両側は蓮池らしいが、この時は乾期なのか

  単なる雑草が繁茂しているばかり )

 


 悟真寺の脇の高台いっぱいに国際墓地が拡がっていた。
 眼下には稲佐の町が見晴らせ、上には稲佐山の頂きが覗ける丁度稲佐山の中腹に位置しているようだった。そんな地形故に風が強いようで、ロシア人墓地の象徴ともいえる玉葱型のドーム=ニコライ堂の屋根がその強風で破損でもしたのかブルーシートが被せてあった。おまけに、どの集団墓地もゲートに鍵がかかっていて、冊越し壁越しに写真を撮るしかなかった。残念至極。
 
 
 この悟真寺の国際墓地は、長崎市内で最古の国際墓地という。
 先ず慶長七年(1602年)に中国=唐人墓地が出来、承応三年(1654年)にオランダ人墓地、ロシア人墓地が出来たのは安政五年(1858年)、その翌年には前期以外の欧米人達の“ 国際墓地 ”が作られたようで、その後、手狭と不便の欧米人達の要求に、対岸の大浦に大浦国際墓地、更に浦上に坂本国際墓地が作られた由。

 

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 ( ロシア人墓地のゲート。こっちは、入口側の石段をまっすぐ昇って行った

  左側。)

 

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 ( こっちは、悟真寺の脇を登って行った先の右側のロシア人墓地のゲート。し

  っかり施錠されていた。)

 

 そもそもこの悟真寺、切支丹大名・大村純忠がイエズス会に長崎の領地を寄贈し、伴天連=キリスト教会が次から次へと建てられ、信者も爆発的に増え、どころか既存の仏寺や神社が排斥・破壊され、さながら伴天連都市と化していたのを、久留米の善導寺僧・聖誉が憂い、慶長五年(1598年)に創建したという。
 長い戦乱に明け暮れ、絶対封建制的な身分差別や搾取に辟易・呻吟していた農民・町民達が神の下のであれ、四民平等という平等思想に惹かれ走ったのは、けだし当然の成り行きではあった。当時の日本の領民達にとっては、一種の解放思想であったろう。
 只、長崎だけでなく、周辺の伴天連諸領主・大名達の多くが、領民達を、その天主教=キリスト教に、イエズス会神父コエリョ等の要請もあって、強制的改宗させたりしていて、かなりきな臭い様相を呈していたようだ。
 コエリョやイエズス会神父達は、日本をキリスト教化した後は、中国を武力的にも同様にキリスト教化しようと企図していたという。これって、秀吉の朝鮮征伐=“ 唐入り ”と如何なる相関関係にあったのだろうか。

 

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 ( 入口側通路の塀越しに撮ったロシア人墓地境内。夏の陽光に赤い蘇鉄の実

  が鮮やかに映えていて、脇の大きな墓石の十字架の両脇に、天使の石像が

  あしらわれていた。前から見れなかったのが残念。)

 

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 ( 上と同じ場所から撮った内部。奥にブルーシートで覆われたニコライ堂

  が覗けている。強風なのか劣化による崩落なのか定かじゃないけど、列

  島トロピカル化以来旧い建物の劣化は著しいようだ。)

 

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 ( ロシア正教独特の十字架が繁茂し青々と映える雑草の間に静かに佇立して

  いる様は、中々に味わい深い。)

 

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 ( 墓石に刻まれたキリル文字がリアル。)

 

 本当は、ロシア海軍・マタロス休息所、稲佐遊廓なんかの残影を渉猟してみようかとの今回の長崎詣でだったけど、真夏の暑熱と陽射しの下じゃ、お門違いもいいとこ。どころか、正にマタロス的終の棲家ともいうべき、終南山・悟真寺の集団墓地のみ、それも中途半端なものになってしまって・・・・。
 他に誰一人姿もない遠くの騒音ばかりが潮騒の如く静かに響く終南山、青々と繁茂した雑草の影に点々と覗けた朽ちるばかりの墓石群って、一種独特の遠い憧憬の念を抱かせる。前夜の熱帯夜の睡眠不足と長旅の疲労と白日的困憊に、ふと、墓石にこびりついた霊的残影が、これまた一種独特の変性意識的視覚に・・・なんてこと、ある訳ないか!

 

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 ( 悟真寺脇からの通路の先の阿蘭陀人墓地ゲート。ここは雑草の繁茂半端な

  い。誰も訪れる者もない故なのか、たまたま地形的に雑草が伸びやすい

  条件の地なのか。ポルトガル人より後から来崎してたはずが、ポルトガル

  =イエズス会という政治性でスポイルされてしまった帰結なんだろう )

 

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 ( 唐人墓地の寝墓群。ここら辺のは皆旧い墓石ばかりで、子孫達がわざわざ

  東シナ海を渡って墓参に詣でているって雰囲気は感じられない。忘れ去ら

  れたように枯れた落葉や生い茂るシダや雑草の間にずらり整列した色褪せ

  朽ちた墓石群って、やはり一抹の悲哀を覚えざるを得ない。)

 

 

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 ( 背後の竹林が中国情緒を醸し出している。地元に住んでいる中国人あるい

  は中国系 の人達のいわば生きている墓は通路を挟んだ別の墓地に、日本

  風の比較的新しい墓石を立てているようだ。)

 

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 因みに、終南山・悟真寺、元々は中国陝西省西安市郊外の終南山の麓に、本家とも謂うべき同名の浄土教寺院として隋の時代に創建され、ここを拠点に善導大師( 終南大師 )が浄土教を拡めたことで有名だったのを、怒濤の伴天連・切支丹勢の前に風前の灯だった長崎の仏教復興の礎として、それにあやかって命名したのであろう。

 

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 ( 稲佐橋は短い何の変哲もない橋だけど、この旭大橋は、基本車両用で端に

  歩道が設えられていて、位置も高く、長崎港の見晴らしは抜群。花火大会

  の際は特別席になるらしい。奥に、長崎湾入口に架かった女神大橋が見え

  る。)

 

 

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 ( 旭大橋から長崎駅側に向かう。正に夏空の長崎の街が。向かい側からは、

  ポツンポツンと買物を抱えた住民や下校中の高校生カップルなんかの姿も

  あって、それなりに使われているようだ。)

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