まぼろしの秘境・白砂渓谷 黒石的痕跡
( 黒石画 : 雨見山( 1347メートル ) から白砂山塊まで約18キロ。 )
黒石の山と温泉めぐり旅って、昭和も軍国主義的色彩愈々濃くなった頃からってイメージがあるけど、昭和4年に春陽堂から《 峽谷を探ぐる 》が出ていて、その中に〈 吾妻溪谷 〉なるエピソードもある。何処で止められているのか、国会図書館のデジタル・サービスのリストから外れているので内容は定かでない。
昭和6年の《 山と溪谷 》( 二松堂書店 )にも同じタイトルの〈 吾妻溪谷 〉なる一文がある。( ひょっとして同じものかもしれない。)j
渋川~草津へ至る吾妻渓谷旅ってことで、こっちは、黒石の他に、詩人・藤田健次、東京日日新聞・安成二郎、画家・竹久夢二、画家・水木伸一、漫画家・麻生豊、東京朝日新聞・翁久允、立正大学教授・加藤朝鳥といった大所帯で、上野駅から渋川までの車中、和気あいあいの俳句三昧だったとある。
渋川から二台の貸切自動車に分乗しての渓谷旅。
昭和17年発行の《 山の人生 》( 大新社 )に、冒頭に述べられている昭和5年の頓挫した白砂山旅行記〈 白砂川渓谷 ー 草津から花敷へ ー 〉がある。これは国会図書館のネット・サービスで閲覧できる。こっちは会話もある如何にも旅行譚然としていて、今回の" 第二回の単独行 "のは、レポート風のモノローグ・トーン。
この昭和9年発刊の雑誌《 旅行日本 》の中の、〈 峯の白雲 ー 吾妻の山と谷 ー 〉の冒頭、四年前の吾妻渓谷行に先ず触れている。
「 上・信・越の国境に坐っている白砂山塊に源を発する白砂川は、関東屈指の渓谷である。私がこの渓谷の探見を思い立ったのは昭和五年の、初夏であった。その時は草津温泉を根拠地として、温泉ホテルの主人や、土地の教育家に集まって貰った。温泉町の料亭に来会する者十余名のうち、草津館主人故山口茂三郎氏細野館主人細野停氏。写真師小雨氏が私と行を共にすることとなり、白砂川と長笹川の合流点にある花敷温泉部落を策源地に定め、渓谷の探見に就いたが、連日の雨に出水し、中道にて退却するの已むなきに至った。」
山歩きも温泉趣味も金輪際的に持ち合わせてない当方なのだが、大泉黒石の一つの傾向性、黒石的軌跡の確認ってところで、比較的保存状態が好かったのかページ繰る指先にヒリヒリ感を覚えることなく、それなりに興味深く読まさせてもらった。
元々高いところが苦手なので断崖絶壁の隘路なんて自分の方からのこのこと出てゆくことなんてありえない。例えば、フンザ・カリマバードなんてもうその集落だけで標高2500メートルの位置にある。確かにナウシカの谷を彷彿させる壮大な自然の風を感じさせるパースペクティブは申し分ないけれど、そのすぐ裏山で遭難した登山家からツーリストも数知れず。二度と帰らぬこととなった日本人女性登山家もいれば、フンザ・インの泊客の日本人学生の如く、禁忌とされている夕刻近くにサンダル履きでのこのこと出かけて行き、闇の中で足を滑らせて崖の途中に滑り落ち、にっちもさっちも行かなくなって一晩か、ひょっとして二晩だったか唯一所持していたペットボトルの水で何とか生き延び、欧米人の泊客や地元住人の捜索隊に発見され一命を取り留めた者も居る。
唯一山登りの類といえるものは、チベット一古いゴンパ・立体曼荼羅といわれるサムイェ寺の近くに聳えるチベット仏教開祖グル・リンポチェ( パドマ・サンバヴァ )の聖地チンプ―渓谷( 青朴 : 標高4300メートル )に、他の日本人パッカー等とトラクターの荷台に乗ってノロノロと昇っていった時だろうか。何しろ標高が高山病エリアなので、徒歩で昇ってゆくのは皆パス。それにトラクターの背に乗っての登山ってそうそう体験できないエキスペディション・オブ・ホーリープレイスだ。
「 第二回は私単独で、渓中スルスの岩洞附近まで肉薄した。」
つまり、“ 完全の目的を果たし得”ないまま今日まで至ってしまったという訳らしい。前年、昭和八年に、( 群馬県 )吾妻郡中之条町の吾妻山岳会が吾妻渓谷の溯行と白砂山塊の踏破の計画が地元の新聞に報じられたものの、結局流れてしまったという。
スルスの岩洞とは、白砂渓谷中の小さな岩窟で、昔から猟師たちが休憩所・避難所としていた場所らしく、白砂山からは直線距離で3キロぐらい。目と鼻の先なのだが、山岳地の奥深い渓谷であってみれば、現在でも瀧なんかを迂回するためにえらく迂回させられるのも常道。いわんや、戦前昭和8、9年の頃は。
「 上越南線渋川駅頭から、群馬自動車会社のバス(七〇銭)で中之条町に乗入れる。ここは名にし負う吾妻川渓谷の関門を扼する古ぼけた町で、奥上州の玉ノ井を以て誇る人気最悪の四萬温泉・沢渡温泉(これは悪化するに至らない)と、草津温泉・川原湯温泉に向うべき岐( わか )れ道だ。大昔は北関東の都会であったらしく只今はただ渓間の一集落には過ぎないけれども、時代の錆と一種の古典的風格を備えて、落ちついた暗さを示し、・・・・・・
・・・・・・唯一ッ活発な役割を演じているのが自動車会社の連中で、旅客に対するサービスのつもりか、何のためか知らんが、美人皆無の上州の山の中から頗る妙齢の別嬪・・・わリャはア、どこサ行くだかネエ・・・この種の婀娜者を撰りぬきに乗合自動車へ車掌として乗り込ませている謀略などは、東京の遙かに及ぶところでない。」
「 この小さい町では都会人を迎えて、失礼にあたらぬような日本語で、お客様と応対出来る宿屋は鍋屋のほかに一軒もないんだし、温泉湯治の客は、私の関知するところでないが、この辺一帯の名勝探訪と渓谷歩き、登山の客に対しては、出来るだけの便宜を図ると申しておるのだから、都会から此方面に入って来る人達は、町のこの宿屋の前で乗換えるついでに、名物の吾妻蕎麦でも食いながら、ここのオヤジと相談して、前途のプランを確立するのも、賢い考えであろう。」
中之条の群馬自動車会社の並びの、《 鍋屋 》なる創業延宝3年(1675年 )の、文人墨客の集う老舗宿屋は、口の悪い十返舎一九すらが、そこの亭主の愛想の良さを讃えていたようで、戦前昭和の黒石が訪れた際の亭主も愛想好しの、どうも代々の家柄のようだったのが、しかし、コロナ禍2020年に、さしもの15代続いた《 鍋屋 》も閉鎖の已む無きに至ったという。
「 山と水との変化に奇を尽し妙を極めているのはこの河原湯の下流だ。上信国境鳥居峠に源を発し、十里の長渓を北に北にと流れる水は、大渦小渦を巻きながら、滔々として此処に到り、濬澗( しゅんかん : 奥深い谷 )に欹立蟠踞せる危礁嶮巌に激突し、俄かに乱れ崩れ、凄まじき逆浪を起しつつ驚瀾驚濤亙々に白牙を交え噛殺叫喚、・・・・・・」
「 峡道を走る自動車の中から首を出して俯瞰すると、眼もくらむかと思われるほど壮烈な活劇だ。岩と水の格闘だ。その清冽な嵐気にひたりながら峡上に架けわたされた長橋を渡れば河原湯温泉部落だ。
・・・・・・敬業館という温泉宿が最も景勝の地点を占めている。夏は避暑客で満員の盛況を呈するが、紅葉の秋を過ぎると反動的に閑散になるので、年中客足の絶えぬような工夫はあるまいかと、温泉場の智慧者達が、頭蓋骨を集めて苦吟の結果、これまで一人もいない歌姫を、他所から仕入れて来て湯の中に泳がせて置いてはどうだろうかという名案が出たそうだ。水族館の魚を人間の女で行こうという趣向なんだがこの芸者衆が三味線を弾かずともお客さんを面白く遊ばしてくれる術を知っているとは是又調法なものである。」
吾妻渓谷の素晴らしさを極めた黒石的修辞ではあるけれど、ところが、2015年(平成27年)、《 利根川改訂改修計画 八ツ場ダム 》の建設工事が始まり、2020年(令和2年)に完成。
川原湯地域の大半が水没、長野原地域も一部が水没という事態に陥ってしまった。
近代化=ダム=水没という定番的悲哀ではある。
かの敬業館、戦後なのか、“ 敬業館みよしや ”の看板を掲げていたらしく、それでも2008年に、ダム工事に絡んで、閉鎖となったらしい。
ネット見ると、まだ工事閉鎖以前の開業中の敬業館みよしやに、やがて八ツ場ダムの底に沈む前に是非という紹介記事が残っていた。
そのネット記事に、“ 断崖露天から吾妻渓谷を一望可 ”なるキャッチ・コピーがあって、黒石の“ 最も景勝の地点を占めている ”の意味も了解できてしまった。因みに、このみよしやは、河原湯温泉の中で、唯一源泉を有している宿でもあったらしい。もはやダム湖の淵って訳だ。
「 河原湯から長野原町に出る。幽邃なる須川渓谷を探賞しながら、湯ノ平温泉などには見向かずとも、花敷温泉は我等を迎えて充分に旅情を慰めてくれるだろう。ここが白砂川渓谷の玄関であり、白砂連峰登山根拠地である。この辺一帯の山間部落を総括して入山という。『 恐れ入山メンパに杓子』が名産では、博覧会にも出せまいが、月桂酒( 蝮酒 )に𩸶( いわな )、山魚( やまめ )、山芋、蕨、氷豆腐( 高野豆腐 )の好きな人なら、敢えて牛肉の缶詰を携帯しなくても、二日や三日の仙人生活が辛抱出来ぬこともなかろうし渓岸の岩畳の浴槽に湧く温泉に浸っておれば、体中の毒気も自ずからぬけ去り、ビールの十本ぐらいは時によると備えつけてあるから蕎麦饅頭に味噌をつけて噛っておれば頭中の俗気も自ずから抜け去るであろうというような極めて原始的な部落で考古学者や歴史家の興味を惹くに足る古代民族の、伝説、史蹟、風習のその中に部落民は朴訥な単純生活を営んでいる。」
メンパ : 小判型の薄い檜に漆を塗った伝統的な弁当箱。
「 白砂川渓谷の遡行については経験も浅いし、浅い経験だけでも、記述する段になると、一冊の書をなすであろう。日本アルプス山中の渓谷にも劣らない幽玄神秘の大渓谷であり、私に言わせると、関東一の谷だ。ここでは山に就いて略説しよう。花敷部落から西方二里半の山上湖(野反池)にい(出)で、魚野川渓谷支流の水源をかすめ、上信国境線を踏み伝いながら八十三山に登る登り着く(原文のまま)までに八十三度も休憩しなければならぬというので、八十三山( 六千六百余尺 :2101メートル )の名があるけれども、只今は小径が開かれているから、それほどの労働ではない。それから白砂山塊の盟主白砂山( 七千余尺 : 2139メートル )や上ノ間山( 六千六百余尺 : 2033メートル )にわたり着くのに汗を絞るのだ。」
長野県・新潟県・群馬県の3県の境に位置する「秘境の名峰」白砂山山頂からは360度の一大パノラマが開けているらしい。写真見ると、八十三山~白砂山~上ノ間山の稜線・峯伝いに渡ってゆくようだ。白砂山山頂は笹藪がびっしり繁茂していてけっこう鬱陶しい感じで、文末に、
「 これほど素晴らしい山岳も、藪のために世に遍く紹介され、踏破されずにいるのはいかにも惜しいことだ。」
と残念のほどを記している。交通の便が良くなった昨今、けっこう気軽に渓谷から白砂山を踏破できるようになったようだけど、それでも季節・状況によっては、渓谷渡りにけっこう艱難辛苦を強いられようだ。
白砂山まで直線距離約6キロの位置にある野反湖( 標高 : 1513メートル )の突端が起点の一つとなっているらしい。信濃川水系中津川の水源でもあり、魚野川→中津川→信濃川と日本海側に流れ落ちてゆく。
魚野川本流渓谷も秘境と呼ばれている。
以前、同じく黒石の《 ひな鷲わか鷲 》の紹介の際、魚野川=中津川で大正後期に発生した信濃川発電所工事に絡んだ中津川朝鮮人虐殺事件に触れたが、それをも併せて、この周辺は黒石の踏査エリアってことなのか。
《 旅行日本 》昭和9年(1934年)7月号 東京ツーリスト倶楽部
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