草葉の影の寝墓群 稲佐国際墓地 ( 悟真寺 )
薄雲多い晴れの長崎はやっぱり熱かった。
熱中症にこそならなかったものの、旭大橋を渡って帰路に就く頃にはすっかり暑熱と疲労で困憊状態。それなりに風が吹いていたので何とか無事に戻れたってところ。
昨年、あったはずの長崎駅がなくなってあっちこっちで工事中なのには驚いたが、一年過った今回、まだ工事はいよいよたけなわどころか、駅に隣接した建物が囲いのまま手つかず( 保留地と呼んでるらしい )、最終完成は相当先のようだ。
( 六月下旬の長崎駅周辺。一年過ってもまだまだ工事の真っ最中 )
( 以前は駅ビルの一階奥に改札があったのが、交通事情や新幹線がらみでか、
高架になってしまった。在来線のホームは去年から稼働してたけど、新幹線
は今秋。写真は長崎本線の終点側。駅舎の向こうに、長崎港ターミナルの黄
色いドームが覗けている。その駅舎のすぐ先の駐車場の向こうに、対岸稲佐
に向かう旭大橋の入口がある。)
最初、駅の近くにあるらしい旭大橋を通って、長崎湾の奥の浦上川を越え稲佐に至るルートを予定してたのが、旅行案内所を捜したのが運の尽きで、妙に消耗してしまい、午後になって、丁度道路を挟んだ向かいにある長距離バス・ターミナルの真反対のローカルバス(長崎バス)停から、も一つ上流側の稲佐橋経由で稲佐に向かうバスがあったので飛び乗った。只、バス停に、目的駅の名しか明示されてなく、順番に停まってゆく停留所名が列記されてないので、適当なところで降りる羽目に。
当然遠回り。それでも、狭いエリアなので、何とか朱塗りの山門を見つけ出せ、悟真寺に到着。
( 悟真寺の異国情緒たっぷりの赤門< 竜宮門 >。そういえば、耳なし芳一
伝説て゛有名な下関・壇ノ浦の阿弥陀寺、明治以降は赤間神宮も同様の
門構え。)
( 国際墓地入口の案内板。石橋の両側は蓮池らしいが、この時は乾期なのか
単なる雑草が繁茂しているばかり )
悟真寺の脇の高台いっぱいに国際墓地が拡がっていた。
眼下には稲佐の町が見晴らせ、上には稲佐山の頂きが覗ける丁度稲佐山の中腹に位置しているようだった。そんな地形故に風が強いようで、ロシア人墓地の象徴ともいえる玉葱型のドーム=ニコライ堂の屋根がその強風で破損でもしたのかブルーシートが被せてあった。おまけに、どの集団墓地もゲートに鍵がかかっていて、冊越し壁越しに写真を撮るしかなかった。残念至極。
この悟真寺の国際墓地は、長崎市内で最古の国際墓地という。
先ず慶長七年(1602年)に中国=唐人墓地が出来、承応三年(1654年)にオランダ人墓地、ロシア人墓地が出来たのは安政五年(1858年)、その翌年には前期以外の欧米人達の“ 国際墓地 ”が作られたようで、その後、手狭と不便の欧米人達の要求に、対岸の大浦に大浦国際墓地、更に浦上に坂本国際墓地が作られた由。
( ロシア人墓地のゲート。こっちは、入口側の石段をまっすぐ昇って行った
左側。)
( こっちは、悟真寺の脇を登って行った先の右側のロシア人墓地のゲート。し
っかり施錠されていた。)
そもそもこの悟真寺、切支丹大名・大村純忠がイエズス会に長崎の領地を寄贈し、伴天連=キリスト教会が次から次へと建てられ、信者も爆発的に増え、どころか既存の仏寺や神社が排斥・破壊され、さながら伴天連都市と化していたのを、久留米の善導寺僧・聖誉が憂い、慶長五年(1598年)に創建したという。
長い戦乱に明け暮れ、絶対封建制的な身分差別や搾取に辟易・呻吟していた農民・町民達が神の下のであれ、四民平等という平等思想に惹かれ走ったのは、けだし当然の成り行きではあった。当時の日本の領民達にとっては、一種の解放思想であったろう。
只、長崎だけでなく、周辺の伴天連諸領主・大名達の多くが、領民達を、その天主教=キリスト教に、イエズス会神父コエリョ等の要請もあって、強制的改宗させたりしていて、かなりきな臭い様相を呈していたようだ。
コエリョやイエズス会神父達は、日本をキリスト教化した後は、中国を武力的にも同様にキリスト教化しようと企図していたという。これって、秀吉の朝鮮征伐=“ 唐入り ”と如何なる相関関係にあったのだろうか。
( 入口側通路の塀越しに撮ったロシア人墓地境内。夏の陽光に赤い蘇鉄の実
が鮮やかに映えていて、脇の大きな墓石の十字架の両脇に、天使の石像が
あしらわれていた。前から見れなかったのが残念。)
( 上と同じ場所から撮った内部。奥にブルーシートで覆われたニコライ堂
が覗けている。強風なのか劣化による崩落なのか定かじゃないけど、列
島トロピカル化以来旧い建物の劣化は著しいようだ。)
( ロシア正教独特の十字架が繁茂し青々と映える雑草の間に静かに佇立して
いる様は、中々に味わい深い。)
( 墓石に刻まれたキリル文字がリアル。)
本当は、ロシア海軍・マタロス休息所、稲佐遊廓なんかの残影を渉猟してみようかとの今回の長崎詣でだったけど、真夏の暑熱と陽射しの下じゃ、お門違いもいいとこ。どころか、正にマタロス的終の棲家ともいうべき、終南山・悟真寺の集団墓地のみ、それも中途半端なものになってしまって・・・・。
他に誰一人姿もない遠くの騒音ばかりが潮騒の如く静かに響く終南山、青々と繁茂した雑草の影に点々と覗けた朽ちるばかりの墓石群って、一種独特の遠い憧憬の念を抱かせる。前夜の熱帯夜の睡眠不足と長旅の疲労と白日的困憊に、ふと、墓石にこびりついた霊的残影が、これまた一種独特の変性意識的視覚に・・・なんてこと、ある訳ないか!
( 悟真寺脇からの通路の先の阿蘭陀人墓地ゲート。ここは雑草の繁茂半端な
い。誰も訪れる者もない故なのか、たまたま地形的に雑草が伸びやすい
条件の地なのか。ポルトガル人より後から来崎してたはずが、ポルトガル
=イエズス会という政治性でスポイルされてしまった帰結なんだろう )
( 唐人墓地の寝墓群。ここら辺のは皆旧い墓石ばかりで、子孫達がわざわざ
東シナ海を渡って墓参に詣でているって雰囲気は感じられない。忘れ去ら
れたように枯れた落葉や生い茂るシダや雑草の間にずらり整列した色褪せ
朽ちた墓石群って、やはり一抹の悲哀を覚えざるを得ない。)
( 背後の竹林が中国情緒を醸し出している。地元に住んでいる中国人あるい
は中国系 の人達のいわば生きている墓は通路を挟んだ別の墓地に、日本
風の比較的新しい墓石を立てているようだ。)
因みに、終南山・悟真寺、元々は中国陝西省西安市郊外の終南山の麓に、本家とも謂うべき同名の浄土教寺院として隋の時代に創建され、ここを拠点に善導大師( 終南大師 )が浄土教を拡めたことで有名だったのを、怒濤の伴天連・切支丹勢の前に風前の灯だった長崎の仏教復興の礎として、それにあやかって命名したのであろう。
( 稲佐橋は短い何の変哲もない橋だけど、この旭大橋は、基本車両用で端に
歩道が設えられていて、位置も高く、長崎港の見晴らしは抜群。花火大会
の際は特別席になるらしい。奥に、長崎湾入口に架かった女神大橋が見え
る。)
( 旭大橋から長崎駅側に向かう。正に夏空の長崎の街が。向かい側からは、
ポツンポツンと買物を抱えた住民や下校中の高校生カップルなんかの姿も
あって、それなりに使われているようだ。)
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