« 2022年10月 | トップページ | 2022年12月 »

2022年11月の3件の記事

2022年11月26日 (土)

江青警護兵の冒険

Photo_20221031154301  

 

 

 

 「『 ごきげんよう!』江青は二人に向かって声をかけると、まず関宝太と軽く握手し、それから庄志明の手を固く握った。彼女は笑っているのかいないのか、はっきりしなかった。銀ぶち眼鏡の奥で鋭く光る目が、若者の全身を念入りに観察している。」

 

 

 「 彼女の声は甲高く、か細かったが、どこか勿体ぶった大仰さがあるように聞こえた。おまけに、ひっきりなしに震える声で言葉の終わりを長く引きのばすので、あたかも故障した高周波のラウドスピーカーががなりたてているようだ。」

 

 

 「 彼女は質問しながらも、一方ではまったく心ここに在らずという様子で、若者を眺めていた。庄志明は、ぎらりと光ったレンズの奥に、灰色の瞳を見たような気がした。その目には、普通の優しさや友愛とか信頼というものはまったく見られず、ただ、冷酷と虚栄と敵意に満ちていた。おまけにその目から警戒の色が消えたことはなく、絶えずヒステリックな輝きを帯びていた。」

 

 

 香水の漂う常に二十六度に設定したエアコンが春を想わせる、北京・中南海、一号大院の折からの中国中を席巻するプロレタリア文化大革命の最前衛、上海幇とも四人幇とも呼ばれているいわゆる四人組の頭目・江青の自室で、特殊学校の卒業を繰り上げてこの任務に就かされたエリート・庄( 荘 )志明が、責任者の関宝太に連れられて、初めて生の江青に出逢った際の場面。

 

 

 日本語タイトルは警護兵となっているけど、要するにボディー・ガード。
 その選ばれたよりすぐり達の専門学校でもダントツの成績で、早速中央も中央、それも国家主席・毛沢東の妻・江青の専従ボディー・ガードに抜擢された上海出身の庄志明。事前に写真やビデオを観て江青自身が指名した堂々とした体躯のイケメン。
 警護部門の最高責任者・関宝太の秘蔵っ子でもあったが、やがて、子弟間で血で血を争う暗闘劇を繰り広げることに。

 

 

 冒険ってタイトルなので、江青の文革時の生々しい内幕的エピソードは余り期待してなかったものの、案の定、江青そのものよりも、文革という極限状況下での江青等四人組の陰謀画策の暴露・告発、それもかなり示唆的なもので、それを阻止しようとしする四人組勢力=関宝太等との暗闘を主軸に物語は展開してゆく。
 
 
 江青とのはじめての面談から二ヵ月もしない内に、余りに唐突に、江青から、江青の身の回りの世話をしている江虹と結婚するように提案、つまり強制される仕儀に。二人とも抗弁することもかなわず、絶対命令として応じざるを得なかった。
 もう一人の江青の付き人の女性服務員・許鳳こそ、出逢ったその日から、庄志明に熱を上げていたにもかかわらず、江青の恣意によって、更に関宝太に襲われ、絶望的失意にうちのめされたあげく関宝太の子すら宿してしまう。
 後日、江青の知るところとなり、怒った江青に強引に結婚させられてしまい、一緒の部屋に起居するようになると関宝太いよいよ正体剥き出して、許鳳に対する虐待がはじまり、終いには流産し、彼女も失血死してしまう惨憺劇。
 関宝太とは、正に、江青=四人組勢力の暴虐性の象徴的存在に違いない。
 文革時、幾百万の人々の生命が奪われた一つのパターンでもあったろう。

 

 

 養母の具合が悪くなり、庄志明が上海に戻っている間の1976年1月8日、庶民に人気のあった総理・周恩来が死去した。多くの民衆が哀悼の意を表する中、四人組勢力が権力の威をかさに着、花束や喪章すらを禁じているにもかかわらず、繁華街・黄浦江には多くの花環がうず高く積まれているのを真近に眼にし、民衆の現権力(四人組)に対する怒り・怨嗟が澎湃として渦巻いているのをひしひしと肌で感得できた。
 養母が亡くなり、北京・中南海に戻って来た庄志明には、もはや以前のような優等生的な大らかな明るさは希薄になって心奥に仄昏い陰りがトグロを巻き始めた。四人組=江青たちに疑念を持ち始めたのだった。
 さっそく、許鳳が、関宝太が庄志明の上海からの帰還後の変化を猜疑し、調査し出したと忠告。

 

2_20221031154301

  文革時の壁画

 

 

 春の清明節( 先祖祭り。また、故人を偲ぶ祭祀 )の前日には、北京・人民広場の一角で故・周恩来に捧げる花輪で埋め尽くされ、次から次へと弔問に訪れる民衆の潮が途切れることもなく、予想外の成り行きに江青たちは憮然とし、民兵・武装警察を動員し、弾圧した。
 関宝太、江青の許可を得て、使いづらくなった庄志明を、西北方面( 新疆?)へ転属させる。が、列車で移動中、雨けぶる暗闇に忽然と姿を消してしまう。
 紆余曲折を経て、中国南部の景勝地・賈亭山( 仮名か実名か不詳 )の療養所、とはいっても機関銃座を備えた監視塔もある要塞化された党幹部たち専用の施設で、四人組と拮抗する勢力の方明将軍の拠点であったが、そこに将軍の手の者が、関宝太一派に攻撃を受け負傷し万事休した庄志明を救い出し、一昼夜かけて連れて来た秘密の隠れ家であった。
 北京から、彼の子を宿した江虹が呼ばれ、許鳳の惨死を知らされる。
 しかし、そこも関宝太の知るところとなり、部隊を引き連れ、国家主席・毛沢東の葬儀で将軍も北京に赴いた留守を突くように、襲撃されるが、辛うじて死から免れる・・・。

 

 

周恩来が没して8か月後の1976年9月9日午後4時、毛沢東が逝去。
 江青・四人組の早速の画策・妄動の機先を制するように、その年の10月6日、江青たちは逮捕された。漸く10年に及ぶプロレタリア文化大革命は終止符をうつこととなった。

 

 

 米国スパイ・アクション映画、ジェイソン・ボーンのシリーズを見ているような感なきにしもあらず、と云えば褒め過ぎなんだろうが、それでも人民中国の、1983年の小説なのを割り引いて考えれば、やがて香港や日本でも出版された由縁。
 適当な言葉が見つからずのタイトルの“冒険”だろうが、もっともこれは、邦題のみで使われているフレーズ。
 1983年のオリジナル版では、《 覚醒的警衛員 》(中国)で、香港版では《 江青貼身警衛遭遇 》そして香港版を元にした邦題タイトル《 江青警護兵の冒険 》(1984年)。
 中国・香港版じゃ、“ 覚醒 ”というフレーズが冠されていて、江青・四人組的圧政に目覚め抗するという、まだまだ1983年当時だと生々しいリアリティーをもったフレーズだったのだろう。
 ただ、主人公の庄志明、当初は四人組の悪辣・陰謀を、国家主席・毛沢東に訴えようとしていて、江青・四人組と毛沢東とを一蓮托生共謀犯と観てないようだった。 これって中国共産党的公式見解の域を出ない。
 それがそのまま、作家たる作者の薛家柱の見解かどうかは不明だけど、敢えて覚醒ってフレーズを使うからには、やはり毛沢東の手先・実行部隊としての江青・四人組と把握していたのではないか。
 現在( 勿論中国本土で )でも、あまり江青周辺のところにアプローチしようとすると色々圧力がかかってくるようで、とりわけ国民党がらみだといよいよって風なので、很難的課題ってところ。
  
 
 作者の薛(シュエ/せつ)家柱、浙江省出身で、テレビや映画の脚本等で活躍もしていたいわゆる人気作家らしく、昨年83歳で亡くなっている。代表作が清末豪商半生を描いた二月河との共著《 胡雪岩 》という。
 もう一人の作者・文新は、どうやら作家活動はしてないようだ。この作品の元になる情報を提供した人物のようで、登場人物そのものか、あるいはそれに近しかった人物かも知れない。あとがきでも、中国の何処かの工場で働いているらしいとだけ記されていて、ネット捜しても、半世紀前の作品なので、掠りもしない。
 因みに、江青、1981年に、2年の執行猶予付きの死刑判決を受け、1991年5月14日に、癌の療養のための仮釈放中に自殺。
 
 
《 江青警護兵の冒険 》著・薛家柱・文新 翻訳・下川辺容子・薄田雅人
                      1984年初版 (筑摩書房)

 

 

2022年11月12日 (土)

俺の落書  黒石的自画自賛

1a  

 

 以前紹介した、昭和9年発刊の雑誌《 旅行日本 》に掲載された大泉黒石の《 峯の白雲 吾妻の山と谷 》なる紀行文に彼自身の手になる《 雨見山より白砂山塊の遠望 》 なる恐らく鉛筆画のモノクロ作品が添付されていて、そんなに悪くはない質の絵だったのに些か驚いたことがあった。
 そういえば黒石の絵、稀に散見することがあり、それなりに絵心があるんだな、と感心してたのだけど、《 中央公論 》で華々しくデビューした翌年の大正9年(1920年)、大日本雄弁会講談社から出ていた月刊《 雄弁 》に続けて、自身の少年期からの自作鉛筆画等を発表しているのを発見。
 8ページくらいの各見開きの片側ページに濃い線描があって、デッサンも線描も
そこそこ熟(こな)している。冒頭に、黒石、こう記している。

 

 「 この数枚の鉛筆画は、俺が少年時代より青年時代に移ろうとしていた時のものである。顧みると十年の昔になる。俺は絵の心得がない。その才もない。その修養もなかったが、少かに絵心だけがあったように思う。この絵はみんな俺の初期の暗黒時代に出来たものばかりである。俺と俺の盲目な祖母は此時分飢えかけていた。俺はその間に中学へ通っていたがその傍ら稼ぐことを余儀なくされていた。」

 

 描いた作品を縁日で、一枚五厘で売っていたという。
 絵の心得がないと云いながらも、生活の必要からぬけぬけと縁日で売っていたってことは、買う物好きがいたってことで、確かに些かでも生活に潤いを求める市民にとっては安価な美術品ってところだったろうし、見るからに貧乏学生然とした黒石に対する支援的な動機に拠るものもあったのかも知れない。
 ふと、同時代の詩人・金子光晴の、大陸の東から西までの放浪の正に孤立無援の真っ只中での自作日本画売りを想い出した。但し、光晴の場合、まがりなりにも少年時であったか、日本画の手ほどきは受けていたはず。そういえば、グルジェフも国外で生活の糧か旅費を作るために、そこら辺の小鳥に絵の具を塗りたくって高価な鳥にしたてて売りまくったというエピソードもあった。皆、強心臓というより、切羽詰まったところからの投企的行為ってところ。

 

 有名作家となって黒石、どこぞに隠してあった売れ残りを取り出して眺めているうち、盲目の老婆や他人にも迷惑をかけ、自分一人すら持て余し、「波止場の石垣の上から身を投げ」て、巡査にすら厄介をかけた一日十五銭で凌ぐ日々の暗黒時代を思い出すのであった。 
その左ページに雑誌の写真からスケッチしたイプセン像が縦に三点。
 当時、黒石は、かなりイプセンに傾倒していたようで、学校の教科書と交換( 古本屋 )してまで読み耽ったという。ネットで符合するイプセンの写真を調べると、直ぐに見つかった。しっかり描かれている。

 

 

 冒頭の、《 俺の住んだ家 》というタイトルの素描、荒いタッチで簡潔に描かれているのだけど、「諏訪の森と相対した山麓にある。」とある。
 彼が生れた八幡様の境内の家じゃなく、何軒か目の家という。
 僕的には、かつては隣に芝居小屋がかかっていた八幡町の宮地嶽神社境内の傍らに建っていた家であって欲しかったが、残念ながらその何軒目か引っ越した先の朽ちた果てた家だという。

 

 「 俺は此処で貧乏していたんだ。此家から学校へ通っていたのである。二階が一間、下が二間あった。前も後ろも藪である。藪には苺が多かった。その藪を出ると、有名な長崎の墓地がある。つまり俺の家は、墓地の中央に一軒ぽつんと建てられていたのだ。以前は墓守りが住んでいた。」

 

 《 黄夫人の手 》で、主人公の中学生・藤三が盲目の祖母と二人住んでいたのが、中国系住民たちの寺もある寺町の寺院群の一つ三宝寺の裏の斜面を登った藪の中の、ようやく電気を引いたばかりの一軒家であった。寺町の背後は伊良林の丘が拡がっていて、その斜面に今でも墓石群がへばりつくように並んでいる。龍馬の亀山社中があった場所で有名。
 そもそもの黄夫人が役人に手を斬り落とされる機縁を作って日本まで逃げ延びて来た黄隆泰が単身訪れて来た家こそ、昼尚薄暗い藤三の二階屋だった。
 そんな小説的設定よりももっとリアルに黒石、彼の元墓守りの家に言及する。

 

 「 俺は二階に卓子を据えて、毎日墓場へ葬らるる死人や線香の煙を眺め乍ら、本を読んでいた。雨の日はたまならく心細かった。それよりも、或夕、隣人の女房に、榎の枝で首を釣られた時が一番怖かった。更に、その女房が、墓参者に発見され、救われて、四五日経ってから、『 どうも、色々御厄介になりまして、お恥ずかしゅうございます』と俺の家へ謝罪に来られた時が怖かった。暫くの間、夜、厠へ行けなかった。榎の枝は厠の窓へ垂れていたのである。」

 

 地方によっては墓標の代わりに植えられたりする榎、当然大木であろうが、ぽつんと一軒家のはずなのに、隣家の榎なのか、それともそれなりに離れた場所の隣家からわざわざ頃合いの頑丈さを認められた黒石の家の脇に伸びていた榎ってことなのか。墓守りの家というからには、恐らく後者であろう。
 その伊良林の朽屋のスケッチからして、鬼気迫るぐらいに荒廃感漂ってて、後年創られた《 黄夫人の手 》の素材的要素に満ちた雰囲気十分。
 雑踏的雰囲気に満ちた芝居小屋の隣の小さな八幡神社境内の家なんかじゃ、どうにもそんなおどろおどろしい素材生れようもない。

 

1b

 

 葉鶏頭というある種毒々しい禍々しさを覚えさせる葉が庭一面に繁茂していたという。近所の農民に聞くと、

 

 「 土の中に、まだ腐ったばかりの人間の屍が残っているので、土が肥えているからだと説明して呉れた。以前は、俺の家の周囲は、例の有名な長崎の『 紙山焼』を拵えた跡で、土を五六寸掘ると、その時分焼損ねた紙山焼の断片が、ころころと出て来る。」

 

 何とも、黒石流におどろおどろしい筆致で記たためられている。
 恐らく、楽しみながらの筆運び。元々墓地であり、昔の墓地の上に建てられた家なんだろうから、後年の梶井基次郎“ 桜の樹の下には屍体が埋まっている ”的発想の実証的根拠ともなりえよう。けど、黒石の小説にそんな素材扱った作品あったろうか。
 因みに、紙山焼とは、江戸後期に短時期流行った焼物《 亀山焼 》のことだろう。伊良林で操業していたとのことで、やがて廃窯になり、後年幕末頃、その関連施設の一つを龍馬が借り受け、亀山社中を建てたという。
 黒石の十八番の韜晦。

 

1c

 

 「 俺の妻は長崎の産である。彼女の家は、ある時、『 度生界 』と云う石の狗を蔵する支那寺の境内にあった。その頃俺は五歳であった。俺がこの絵をかきに出掛けた時、彼女も彼女の家族も、長崎を退散して行方知れずになっていた。」

 

 彼の元々の許嫁だった美代子は、その後も戻って来て黒石と一緒に遊んだりする仲だったのは、彼の短編のあっちこっちで描かれている。その美代子の居た寺ってのが、崇福寺と記してある。そこの陰鬱な景物が好きだった崇福寺が、しかし、「立山を後ろに」した「筑後町」とあって、その位置での中国系寺院は、実際には福済寺しかない。名指された崇福寺は、むしろそこと向かい合った伊良林を背にした寺町にある。これも、黒石の韜晦。錯誤なんかじゃ間違ってもない。
 『 度生界 』の名の刻まれた狛犬って、何処かで聞き覚えがあって、はて、黒石のどの短編だったろうと記憶を辿ろうとしたものの、残念浮かんでこなかった。

 

1d

 

 「 父かたの宗旨は露西亜正教であるが、母方の宗旨は禅宗である。・・・・・・俺の祖々母と叔母の骨も、この山門( 皓台寺 )の後に埋めてある。故郷を離れて今日まで一度も見舞ったことがない。俺がこの山門を写生した頃は、毎日芋を食って生きていた。中学からは頻りに月謝滞納で悩まされていた。」

 

 寺町の並びの皓台寺(曹洞宗)は、長崎の三大寺院の一つといわれてるらしく、シーボルトの嫁・遊女だった楠本滝、その娘イネの墓もあるらしい。二十歳の頃の写真が人気のある孫娘・高子は一緒に眠ってないようだ。当時も男たちを独特の雰囲気で魅了した様で、その魅力に抗いそこなった男たちに二度も襲われたというエピソードが、一層その神話的魅力を確かなものにしている。

 

 大泉黒石 俺の落書 『 少年時代に書いた絵 』と『 自賛 』
  月刊《 雄弁 》新年号・2月号 大正9年。( 大日本雄弁会講談社 )

 

 

2022年11月 1日 (火)

 赤土まじりの冠水路 カンボジア  ( 旅先のフリー雑誌 )

Phnompenh-vg-1

 

 

 

 久しぶりにネットでカンボジアのニュースを見てみると、フンセン( カンボジア人民党 )、まだ首相として“ 頑張 ”ってて、さすがポル・ポトと決別した元クメール・ルージュ司令官。かれこれ三十年近く首相の座に君臨している。
 二十年以上前、プノンペンのキャピトル・レストランの路地側のテーブルでいつも眺めていた子供達が売りに来るタブロイド判英字新聞の《 カンボジア・デイリー 》に、選挙の毎に彼の対立候補ラナリットやサム・ランシーなんて名が踊っていたのを思い出す。そんな独裁者フン・センの後継者に彼の息子・陸軍司令官のフン・マネットが指名されたらしい。隣国タイと同様やっぱり軍掌握が権力のネックのようだ。

 

 何回も訪れキャピトル・レストランの路地側のテーブルに坐っていると、最初の頃街中でもここにでも地雷か戦闘で片脚を失った男たちをよく見かけてたのが、やがて稀にしか見かけなくなり、最後の方では何処を生活圏にしているのか全然見かけなくなってしまった。
 ところが、今年前半だけで地雷・爆発性戦争残存物のために四十人もの死傷者が未だに出ているという。
 隣国ベトナムでも同じなんだろうか。
 米軍・ポルポト派からのささやかな時限爆弾のプレゼント?

 

Phnompenh-vg-5

 

 

Phnompenh-vg-6

 

 《 カンボジア・デイリー 》Cambodia Daily、米国人ジャーナリストが1993年に創刊したものらしいけど、フン・センに煙たがられたからということらしく2017年に廃刊となった由。但し、ネットでウエブサイト版は現在も続いているようだ。
 当時、キャピトル・レストランに、外人旅行者向けのカラーのフリー雑誌が置いてあった。薄い大判のバイヨン・パ―ニックは毎回ちゃんと出版されていて、酒飲みファラン(白人)のためのような内容なので余り読むところなんてありゃしなかったが、それでもカンボジアのってところで一応眼を通し、カンボジア土産ってことで記念に日本に持って帰ったりした。

 

 

 それとは別に、もっと後になって出て来た小版のしかし六十ページもある紙質も色摺り用の光沢紙を使った本格的な観光客向広告誌《 プノンペン・ヴィジターズ・ガイド 》ってのがあった。
 これも現在も刊行されているようで、ウェブサイでも、free digital guide bookとして百ページものぶ厚いものが閲覧できる。見易い地図も豊富に掲載されている。
 ボクが持ってるのは2002年発行の奴で、おそらく最後のカンボジア行の手土産だったのだろう。

 

 

Phnompenh-vg-2

 

 

Phnompenh-vg-3  
 


 巻頭と最終ページに、カンボジアの航空会社の広告が掲載されてて、2000年に運航開始したロイヤル・プノンペ航空と総統航空公司(プレジデント・エアライン)。
 ロイヤル・プノンペ航空は、国内線はシェムリ・アブ、バッタンボン、ラタナンキリ、ストゥン‣トレン( 2003年に閉鎖 )、国際線はバンコク。けど、このガイドブックには、モンドルキリ、コ・コン(コン島)、国際線はホーチミンとヴィエンチャン・ルアン・プラバンまで地図に記してある。
 一方、総統航空公司の方は、1997年~2007年の運航。
 国内線はシェムリ・アブ、国際線はバンコクだったようだ。広告ページには、“NEW BOEING 737-800”とある。一応、台北も国際線の目的地として記されているのからして、ひょっとして台湾資本? 台北から日本やアメリカに向かう予定だったようだ。但し、これも“ President Airlines ”のウエブ・サイト( タイ語 )は現在でも動いているようで、よく分からない。
 ネット見ると、カンボジアの航空会社ってかなりあって驚いてしまったが、皆精々バンコクが唯一の国際線って規模のようだ。

 

 

 因みに、最近、首都プノンペンと第二の都市シアヌークビルを結ぶ高速道路が開通し、1日の交通量が一万以上という。多いのか少ないのか定かじゃないけど、いずれも仏・米がらみの戦乱・内乱に明け暮れたカンボジアやラオスにゃ、もっと早くまともなレベルの庶民生活が可能な国になって欲しいものだ。
 ミャンマーは・・・

 

Phnompenh-vg-4

 

 

« 2022年10月 | トップページ | 2022年12月 »

2026年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

フォト

  • フォト蔵

昆明・旧市街

逍遙遊片

  • 20070702100005
    三千世界の逍遙遊片
本コンテンツをご覧になるには、Flash Playerプラグインが必要です。FlashのWebサイトよりインストールしてください。

上海の弁護士・公認会計士・税理士