« 権謀術数的大戦秘話、あるいは、四輪馬車物語  大泉黒石 | トップページ | 民衆蜂起・疫病・魔術蔓延る17世紀初頭パリ  魔法の手=ネルヴァル »

2023年1月 1日 (日)

大正の碧眼の時代的寵児の日本人考 大泉黒石・俺の見た日本人

 Kokuseki-1921    

 ( この若々しい黒石の写真は《 中央公論 》のではなく、大正十年(1921年)、 民衆文芸社・発行の《 小説倶楽部 》 ( 九月号 ) の口絵『文士の近肖』の一枚。因みに、この《 小説倶楽部 》、二年の短命で潰えた。竹下夢二が表紙や口絵を担当。)
 

 

 

 大正八年(1919年)の雑誌《 中央公論 》9月号・秋期大附録号に、《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》 、いわゆる《 俺の自叙伝 》で鮮烈デビューした大泉黒石、その二ヶ月後の、同じく《 中央公論 》11月号に掲載されたこの《 俺の見た日本人 》。
 実際の出版界デビューはその二年前の大正六年11月・12月号、『 トルストイ研究 』( 新潮社 )での《 杜翁の周囲 (Ⅰ)~(2) 》。
 《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》の、ロシアでのトルストイとの出逢いを描いた部分の原型のような作品だった。
 そもそも黒石、月刊《 中央公論 》でデビューする以前に、1917年のロシア革命の影響で生じたロシア・ブームの波に乗ったのか、同年の春には短編集《 露西亜西伯利ほろ馬車巡礼 》( 磯部甲陽堂 )を出していて、秋には別の出版社からやはりロシア物の短編集を出してる。
 暮れには、《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》が、単行本として、超ベスト・セラー《 俺の自叙伝 》のタイトルで玄文社から出版されることになった。
 そんな超売れっ子になる直前に書かれたこの12頁足らずの短文、それなりの自負は溢れていても、まだまだそんな存在になるとはおくびにも考えてないようで、むしろ駄目なら海外があるさ、とコスモポリタン振りを披瀝し、他の作家たちを煽っても見せる。

 

 

 「 俺は先達手(せんだって)、俺の日本系の親戚全部と絶交した。ハガキに、旨を含めて送ったんだ。俺もお前の家に出掛けないから、お前も俺の家へ断じて来るなと書いてやったように覚えている。面(つら)を合せる度に、俺を馬鹿にするから、癪に障ったんだ。露西亜服を着て、みすぼらしい姿で、出入りして貰っちゃ、近所の手前見っともないと言ったこともあった。せめて車でゝも来いと吐(ぬか)したこともあった。俺が貧(こま)っているのを、みんな知っていて、この間親類合議の上で、俺の細君へ、洗い晒しの木綿の袷せを小包で送って寄越したから、国交断絶を宣言したんだ。親類にさえ俺はこの位馬鹿にされている。」

 

 

 ロシア革命を受けての前年のシベリア出兵とそれに端を発した列島中を席巻した米騒動の余燼もまだ燻ぶっていたであろうし、更に世界的パンデミック・スペイン風邪の蔓延( 列島蔓延に帝国陸軍兵士達拡散説もあるようだ )で多数の死者が出ている最中でもある当時、穏やかならぬ世相の中、貧乏人にも活き辛い時代であったろう。
 ロシア服ってのは、当時流行ったルパシカの事に違いない。
大正8年同年、上海から盲目ロシア詩人・エスぺランチスト=エロシェンコが二度目の来日したり、革命による白系ロシア難民も日本に逃れてきたりして、“ 良くも悪くも ”ロシア絡みってことでの一種のロシア・ブームもあったようだし、当時としては珍しいロシア系作家の黒石も結構珍重されその波にうまく便乗できたって一面も確かにあったろう。

 

 

 「 日本人が狡(ずる)いと思った最初の印象はこうだ。近所の子が俺の家へ遊びに来ると、ビスケットをやった。呉れる役が俺の祖母(ばば)だ。『 俺の自叙伝 』に出て来る三公や留太郎などが、ごたごたと集(たか)って、がつがつ食った。
 食っているうちは、遊んでいる形をしているが、食って了うと、『 失くなったから俺っちはけえる 』と云う。俺は狼狽して、『 コムドが帰るから、もっとビスケットをやってくれ 』とねだった。俺はコドモと云えなくて、コムドと云ったんだ。祖母はあの通の馬鹿ときているから、すぐ出してやる。それがなくなると、質(たち)わるく、また俺を脅かした。
 その年頃から、子供だてらに、物をせしめる旨い手管を呑み込んでいたんだ。
 子供からして、こうだから、その親に至っては、頗る徹底していた。」

 

 

 「 先刻云った三公や留太郎の親共は、そんな処世術の天才でなくって、たゞ、正直一方に正直で、狡(こ)すい一方に狡くって、横着一方に横着だったから、自分等の子が、たまに俺が外へ飛び出た面(つら)を眺めて、前後左右から、縦横無尽に『 異人の子やあい』と囃し立て ゝ手を叩いたとき、俺が口惜しくって泣いて帰って、俺の祖母が盲目の癖に、庭箒を逆様に提(ひっさ)げて、彼等をなぎ倒しに出掛けると、あべこべに逆ねじを食わせて、『 俺っちの餓鬼を箒でよくも掃き倒した』損害賠償に、結局またビスケットで示談にしたもんだ。」

 

 

 「 幼年時代には何故俺だけ子供の仲間から馬鹿にされて、のけものにされたんだか解らずに一人で小さくなっていたが、物心がついて、親類と他人の区別が判然(はっきり)と分明(わか)る時分に漸く、俺の親の爺が露西亜人だから、酷(いじ)められるんだと言うことが解った。
 俺が生涯を通じて最も日本人の男を怖れて厭(いや)がったのはその頃だ。だから女の友達しか持ってなくって、今でも笑われる。正直の處男より女がいゝ。ふざけるなと言うなら、勝手に言うがいゝ」

 

 

 そうは言ってみたものの、

 

 

 「 俺の近所に妙齢の娘が数人あった。毎夜俺の家に遊びに来た。御存知の通りの俺だから大いに歓待したしたのはよかったが、その娘達が他所へ廻って、『 今迄あれの眼玉を見て来たが、可笑しかった。あれで夜でも見えるから不思議だ』と云って笑いこけたそうだ。それっきり俺も嫌になったが、娘の方でも来なくなった。多分、眼玉の神秘を見とゞけて、すっかり安心したんだろう。
 それっきり、どの女とも交際( つきあい )は止めた。目の玉は、御承知の如く碧瑠璃の色であるが、眉は月に似て見事な濡れ羽色だ。外国の女は、俺の眉が黒いから、お化けだと陰口を叩かなかったから、これでも俺が一歩足を日本から踏み出せば、必ずもてると、其時分の日記に不平を書いたことがあった。」

 

 

 作家になったその当時も変わらなかったようで、引っ越した先の近所の主婦達が、黒石が出歩く毎に、異人珍しさに垣根越しにじっと覗いたりしてたらしい。
 売れている頃は、それでもまだ良かったろう。
 昭和に入って、そんな排外性が鬱勃と列島に充満し始め、黒石も次第に売れなくなって、黒石の子供達も、粗衣をまとった父親の異貌と大きな声で、独特の長崎訛りと些かロシア風に訛った口調で道端で呼び止められたりする御難にびくつき、姿を見ただけで慌てて身を隠したりする惨憺的傾斜を滑り落ちてゆくこととなってしまう。
 黒石の子達に碧眼の子っていたのだろうか。一番風貌が近しい俳優の大泉滉は、しかし、黒眼であったはず。上掲の写真見ると、やっぱし滉より、父親・黒石の方がイケメン!

 

 

 「 俺が日本にまごついて、食えない處から、苦しまぎれに色々なものを書きなぐるのは、恰もカンガルーが上野の動物園でのらくらして生きているようなものだそうだ。俺も確かに賛成する。要するに変てこで珍しいからなんだろう。」

 

 

 「 先達手『 俺の会 』に雨村氏が出るんだか、出ないんだか解らないからある会社に掛け合いに行くと、その隣の応接室に女雑誌の記者と訪問者とが密談していた。訪問客が『 近頃黒石と云う男が売り出しましたねえ。』女雑誌記者が『 なあに君、今の中央公論があてになるものか、ありゃ毛色が変わっているからだよ。中央公論にさえ出れやいゝものだと思うと大違いだぜ』。 そうだとも、本人の俺が動物園のカンガルーだと思っている位じゃないか。だから日本人はいかもの食いと云うんだ。食っているうちに飽きが来るんだ。飽きの来た時が即ち、棒で尻を叩き潰した時だと観念している。」

 

 

 黒石的には殊勝に過ぎる後半の言葉だけど、日本で「ハンディキャップ」をつけて貰っているとも他の箇所で認めていて、さすがの黒石も人並みに一抹の不安は抱えていたようだ。
 《 中央公論 》の自叙伝がヒットして “ 漸く飯が食えそうになった ”僥倖に戸惑っていると、ある人物が、あれは“書割の煉瓦建て”だと教示して呉れたという。つまり、芝居の背景に描かれた煉瓦の家に過ぎない、と。そこで、ハンディキャップを貰っているという訳だ。因みに、黒石の言だと、ロシア語じゃ、ハンディキャップは“ 資格が足らぬ ”って意味らしい。

 

 

 一躍有名になった黒石の元に、ロシア語翻訳の仕事を依頼してくるのもあれば、作家志望の新人達なのか、彼等の自作原稿が送られてくることもあるという。その原稿の雑誌社への斡旋すらぬけぬけと求めてくる豪の者もいるようだ。
 “ 私の原稿さえ、十度に五度は売り損ねて反故になります。” と記めて返却したとか。

 

 

 「 無名の文学者だって、何もへこ垂れるには及ばないだろう。
 拵( こしら )えた原稿が売れなくて、持て余すようだったら、英文に書き替えて、あめりかなり、いぎりすなりへ持って行くんだ。あめりかや、いぎりすで相手にならなければ、更にフランス語に書き替えて、ふらんすに持ち込むんだ。
 ふらんす人が解らず屋で、お前の原稿は御免だと言ったら、独逸語に書き替えて、マルクスの本場へ送るんだ。それでも駄目なら、奮発して、露西亜語に書き替えて、ゴーリキーの産地へ担ぎ込むんだ。」

 

 

 「 何。俺も食えなくなったら、その辺へ逃げ場所を拵えるかも知れない。『 いくら何でも、まだ一年や半年は大丈夫ですよ。長くは続くまいけれども。』と俺を慰めて呉れた、この方面の猛者があった。猛者の主説だから、まだ一年や半年位は、大丈夫だろうと、すっかり、その気になって了( しま )ったが、どうだか。 」

 

 

 大正の時代的寵児・大泉黒石を見出した月刊《 中央公論 》の編集長・滝田樗陰の慧眼は確かなんだろうが、当の滝田自身、かなり毀誉褒貶の激しい人物だったらしく、無意識的に自分と同じ体臭を嗅ぎ分け、黒石に親近性を抱き、自己増殖的再生産を決め込んだのか。但し、黒石、多産家族的必要に迫られ、アルコール漬けのブロイラーならぬ、放し飼い多産地鶏ってところで、不義理三昧的方途に直走ることに。

 

« 権謀術数的大戦秘話、あるいは、四輪馬車物語  大泉黒石 | トップページ | 民衆蜂起・疫病・魔術蔓延る17世紀初頭パリ  魔法の手=ネルヴァル »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

2026年2月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
無料ブログはココログ

フォト

  • フォト蔵

昆明・旧市街

逍遙遊片

  • 20070702100005
    三千世界の逍遙遊片
本コンテンツをご覧になるには、Flash Playerプラグインが必要です。FlashのWebサイトよりインストールしてください。

上海の弁護士・公認会計士・税理士