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2023年1月の3件の記事

2023年1月28日 (土)

怪奇小説 一體二心物語 (二) 大泉黒石

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 講談社の前身 《 大日本雄弁会 》 発行の月刊 《 雄弁 》 に掲載された大泉黒石の探偵物 《 四輪馬車物語 》 、実は半年に渡って連載されていたのが後になって分かってしまって、幾ら戦前の出版事情の情報が五里霧中的にお粗末極まりないものであったにしろ、単体的作品と決めつけたのは些か軽率であったか。
 ところが、もう一作、連作物の体裁をとりつつ、実はたった二回で終わってしまったものがあるのが分かった ・・・・・・ ( 本当に ? )
 それが、大正十五年( =昭和元年 )発刊の 《 雄弁 》 に掲載された 《 怪奇小説 一體二心物語 》 で、これは2021年6月に、既にこのブログで《 怪奇小説 一體二心物語  大泉黒石 》のタイトルで紹介していた。
 これは大正十二年、《 春秋社 》発刊の《 血と霊 》の再版ともいうべきもので、今回懸案だったその翌月( 2月 )号に掲載された2回目 《 怪奇小説 一體二心物語 》 を見る機会をようやく得て、12ページ程度なのに丹波黙仙の挿絵が三点も這入っているのに感心してしまった。
 

 

 前回、短絡的に 《 血と霊 》 と同じ文章ってことで、 《 血と霊 》 の文章をそのまま再版したものと断じてしまったが、今回の大正十五年( =昭和元年 )、《 大日本雄弁会 》 発刊の雑誌 《 雄弁 》二月号 の 《 怪奇小説 一體二心物語 》 をじっくり確かめてみたら、結構相違があるのが分かった。
 これは前回全く気にしてなくて実に迂闊だったが、《 血と霊 》 に較べて、というより全部の漢字という漢字にルビがふってあった。《 血と霊 》 がドイツ表現派的映画( 日活 : 監督・溝口健二 )の原作ってことで些かハイソな層向け故のルビの少なさなのか、今回の雑誌《 雄弁 》という一般大衆向け総合雑誌の読者層に合わせての所作なのか。
 小さな異同も、句読点や、ベトレヘム→ベツレヘムなんて綴りの変化もあって、一応は黒石、自らが訂正・改訂したってことだろう。
物語自体の変化・変容はなく、多少の表現の異同ぐらい。

 


 《 血と霊 》 じゃ杉貞子の「展観会」となっていて、意味は確かに「展覧会」と同じだけど、大正時代は「展観会」と呼ぶ云い方もあったのかと感心していた。(尤も、後の別の個所では「展覧会」と記してあった。) ところが、数年後のこの作品では、「展覧会」と変わっていて、これは素直に時代的変遷に対応したものと了解すべきなのか、それとも黒石の恣意的産物なのか。
 黒石、結構絵画が好きなようで、あっちこっちの画廊等を訪れたりして、美術雑誌なんかに感想・評なんかを書いたりしてるので、そんな呼称に疎い訳もない。
 鳳雲泰の寝室に飾っている絵画に言及した際に挙げた画家たちの名も、ちょっと変化している。

 

 

 「 チントレットやホルバインやゴロイツェやシャドリンなどの版画を飾ってます。」
 
                                           《 血と霊 》 29 頁

 

 「 チントレットやゴロイツェやモヤドリンなどの版画を飾ってます」

 

                                   《 怪奇小説 一體二心物語 》
 
 以下、若干修正例を挙げると、
 

 

 「 私は耳環が手に戻って大変うれしいのですが、これは今日かぎり私の物ではなくならねばならなかったのです。妙な事を云う様ですが、『 楊妃の瞳 』の耳環はあなたに差上げるつもりで、実は私の弟子の、秀夫と云うやつと二人で、一生懸命に仕上げたのです。」

 

                                          《 血と霊 》 29 頁

 

 

「 私は耳環( みみわ )が手に戻って大変うれしいのですが、『 楊妃の瞳 』の耳環は、あなたに差上げるつもりで、実は私の弟子の、秀夫と云うやつと二人で、一生懸命に仕上げたのです。」


                                 《 怪奇小説 一體二心物語 》

 

 

 「 乳母は自分が死ぬと聖母マリアが祭壇の上から下って来て、自分の額に沁み出る臨終の汗を、御裳の裾でソッと拭いて下さるという信仰を抱きながら、実は主人杉貞子が、一人まえになり、そこで最早この世に思い残すことはないので、いつでも死ぬ覚悟をしている、と云うよりは、早く死にたいと願っていたのでした。」


                                          《 血と霊 》 37 頁

 

 「 乳母は自分が死ぬと聖母マリアが祭壇の上から下って来て、自分の額に沁み出る臨終の汗を、御裳( おんも )の裾でソッと拭いて下さるという信仰を抱きながら、主人杉貞子が一人前の女になり、そこで最早この世に思い残すことはないので、いつでも死ぬ覚悟をしている、というよりは、早く死にたいと願っていたのでした。」

 

                                  《 怪奇小説 一體二心物語 》

  

 

 「 『その男の呼び出し場所を調べてみればよかったのに』と杉貞子は気がかりになる様子で言いました。彼女の心には、いつの間にか、一種の不安と疑惑の影がさし込んでいたのです。気強い性( たち )だとは云うものゝ、やはりこうした事に面と向かえば、うっちゃって置くことも出来なくなるのでした。それが杉貞子と云う女なのかも知れません。」

 

                                        《 血と霊 》 41 頁

 

 

 「 『その男の呼出場所を調べて見ればよかったのに』と杉貞子は気がかりになる様子。彼女の心には何時の間にやら一種の不安と疑惑の影が差し込んでいました。気強い性( たち )だとは言うものゝ、矢張りこうしたことに面と向えば、打ち棄てゝ 置くことも出来ない。それが杉貞子と云う女なのかも知れません。」

 

                               《 怪奇小説 一體二心物語 》

 

 

 半年後の同年十月特大号からは《 四輪馬車物語 》の連載が始まっているので、この二月号で打ち止めに違いない。《 血と霊 》の発行元《 春秋社 》からクレームでもついたんだろうか。

 

2023年1月14日 (土)

民衆蜂起・疫病・魔術蔓延る17世紀初頭パリ  魔法の手=ネルヴァル

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 生来の盗癖故にとうとう刑死し、その美しい手指もあって役人に右手首を切取られ居室に飾られてしまった湘潭一とその美貌を噂された若き黄夫人、ところが、その手首、あろうことか彼女を官憲に売った義弟・黄隆泰への怨念と化し、東シナ海を越え、長崎まで黄隆泰を追いかけて来て、あげくの陰々たる復讐譚《 黄夫人の手 》だった。
 その作者・大泉黒石の二世代前、1808年生れのジェラール・ド・ネルヴァル、社会的困窮、パリ・六月蜂起、折からフランス中、否ヨーロッパ中に蔓延し多くの犠牲者をだした黒死病=コレラ疫等で物情騒然とした1832年に、この《 魔法の手 》La Main enchantéeを書いた。奇しくも、黒石が《 黄夫人の手 》を月刊『 中央公論 』に発表したのも、戦後( 第一次世界大戦 )恐慌や全世界的パンデミック・スペイン風邪蔓延の真っ最中だった。
 

 

 フランス語にも長けてたらしい黒石、フランス語経由でホフマンなんかも読んでたろうし、当然にネルヴァルのこの作品を読んでいた可能性も高い。似た体臭も漂っていなくもない。
 ネルヴァルって名前だけは昔から知っていて、現代思潮社から出ていた《 幻視者 》はタイトルからして食指を動かさせられていたものの、結局今日まで到り、ようやくこの日影丈吉・編『 フランス怪談集 』の 《 魔法の手 》 を一読できた次第。

 

 

 占星術師ノストラダムスに戴冠を預言されたというアンリ大王治世の末年、17世紀初頭、アンリ自身が命名したドーフィーヌ広場を囲む一画に、パリ奉行所民事代官・ゴディノ・シュヴァシューの居所があった。 
 小柄ででっぷりした、赤毛の髪には白いものが混じりはじめ、濃い眉の下に薮睨みの眼。大きな口。皮肉な口調。先の角ばった鼻に小さな耳。
 「血のめぐりの悪い心に含みのない単純な人物」を厭わしく思うような「才知と術策」を無上の価値と尊ぶ、かなりシニカルな民事代官であった。

 

 

 「 何といっても、日々彼の前に『 気ままな生活 』 と非凡な手管を汲めどつきぬ多様さでくりひろげている、かっぱらい、詐欺師、巾着切り、ジプシーといった連中の一大部族にしくはないものと彼には思えたのである。」

 

 

「大きな組織を持った盗みは、何物にもまさって巨大な富の分散と小さな富の流通とに寄与するので、その結果生ずるのは、ひとえに下層階級の福祉と解放だ、と彼は理解していた。」

 

 

 彼がオーダーした服を持ってきたラシャ服飾商グーバール親方の奉公人・青年ユスターシュ・ブートルーに、縁の欠けたエキュ―銀貨を呉れてやる。
 帰路、ユスターシュはアンリ大王が建てたポン・ヌフ( 新橋 : 幅22メートル 全長238m )に向かう。

 

 

 「 セーヌ河を横切って流れる民衆の大河をきわけかきわけ、大骨を折って進んでいった。人々は、まるで水面に浮かぶ流氷のように、ちょっとした障害物にも停滞し、ここかしこ、手品師、唄うたい、呼び売り商人などのまわりで無数の渦や逆流をつくりながら、橋の一端から他端へ、のろのろと流れていく。」

 

 

 ポン・ヌフの上の半月型の展望台で大道芸をしている古い道化師の衣裳を纏った“ ジプシー風の容貌 ”の奇術師・ゴナン先生に運勢を観て貰い、首吊台と漕役船を宣告されてしまうが、法官シュヴァシューに言われた通り、彼に貰った1エキュ―銀貨を渡す。

 

 1665年の版画だと、橋の両側にずらり屋根付きの小さな建物が並んでいて、恐らく商店なんだろう。この小説の舞台設定に近く、猥雑なまでの殷賑さが伝わって来そう。
 ところが、1777年のN.J.B.ラグネの絵だとそんなものは綺麗さっぱり無くなっていて、この小説が書かれた1832年のジュゼッペ・カネッラの絵では、今度はアーチの支柱の上の見晴し台が小さな屋根付きの建物になっていて、これも店舗らしい。それでも、1855年に施政上の問題で、橋の上の店(屋台風の出店も)は一斉に撤去されたらしい。
 因みに、カネッラの絵には、セーヌ川の手前側に、桟橋に繋がれた艀のような巨大な洗濯場らしいものが描かれていて、時代相を窺わさせる。

 

 

 その後、ユスターシュは、背が高くすらりとした金髪の商才に長けた親方の娘、ジャヴォット・グーバールと一緒になったものの、以前から、クロカンの乱、つまり国王に対して人頭税支払いを拒否し蜂起した叛乱農民制圧のため派遣されてきた彼女の甥・騎馬銃士が、最初二人の結婚式に列席するためにやって来ていたに過ぎなかったのが、いつまでも家に居座り続け、それも常に新妻ジャヴォットの面前でユスターシュを嘲笑しつづける無神経ぶりにホトホト嫌気が差していた。
 

 

 「 人の好いユスターシュを最も不愉快にしたのは、いつでも相手が彼を小僧っ子のようにあしらい、風采のあまりよくない点をことさらにあげつらい、要するに、何かにつけて、ジャヴォットの面前で笑いものにしたことで、これは、新郎が貫録をもってこの家に身を落ち着け、将来のための立場を築かねばならぬ新婚早々の時期にあたって、何とも都合の悪いことだった。」

 

 
 ある夕方、思い余って酔って戻って来た甥を締め出そうとドアを閉めたユスターシュ、当然に一悶着、堪忍袋の緒を切って、とうとう決闘を軍人相手に宣言してしまった。
 興奮から醒めてスッポかしたものの、決闘時間が過ぎると、甥の代理人が現れ、翌日同時刻に再度の決闘を通告。ユスターシュも意地になり、ポン・ヌフの南端川沿いのシャトー=ガイヤールに住むゴナン先生の居所に赴いて相談し、右手に魔術をかけられる羽目に。挙句、その代金が何と100エキュー。

 

 

「・・・で、結局、代金のかたには何が欲しいのですか ?」

 

「 お主の片手だけで」

 

 

ゴナン先生、 《 大アルベルトゥス 》 ( 十三世紀の神学者の魔術書 ) の 「一騎打ち」の項を開いて、素焼きの壺に呪文を唱えながら、種々の材料を入れて掻き混ぜ、その混合薬を、ユスターシュの右手の手首までべっとりと塗りつけた。とたん、右腕に異様な変化が起きた。

 

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 プレ=オ=クレール( パリの昔から決闘によく使われた場所 )で、それぞれの立会人含めて計4人が対峙し、剣の心得すらないユスターシュが、銃士の胸板を深々と刺し貫いて勝ってしまった。というより、腕自体が勝手に強力な動きを発揮したに過ぎず、ユスターシュ、青空を見上げたままピクリともしない銃士の屍を見て、あわてて逃げ出した。

 

 

 ユスターシュ、民事代官シュヴァシュー先生に、件の決闘事件の顛末を告白し、民事代官は事件をうやむやにするのを請け合って呉れた。
 ユスターシュを玄関まで送り出そうとした正にその時、そのシニカルな高齢の民事代官に、ユスターシュの手が強烈な平手打ちを喰らわせた。ユスターシュは驚き、老民事代官の足元ににしがみついて詫びたものの、その後も続けざまに手が民事代官を襲い続けた。
 結局、ユスターシュは、決闘での兵士殺しと法官への暴力行為によって、シャトレの石牢に放り込まれてしまうことに。

 

 

 ある日、突如、石牢に奇術師ゴナン先生が現れた。
 ユスターシュが罵ると、

 

 「 お主が十日目に約束の金を持ってまじないを解きに来なかったのを、わしのせいにするのか ? 」

 

 奇術師がポケットから取り出したアルベルトゥス・マグナスの書物の一説を読み始めた。

 

 「 絞刑囚ヨリ、手首ヲ、アラカジメ死ニ先立チテ買イトリキ、コレヲ死体ヨリ切リトリ、心シテ拳ヲホボ握ラシメタルママ、・・・・・・カクノゴトク整エラレタル手首ハ、《 栄耀ノ手 》( ラ・マン・ド・グロワール)ノ名ヲ与エラルルモノトス」

 

 

 処刑の朝、以前よりも明るい独房に移され、教誨僧の説教を受け、トランプに興じ、二時になると、シャトレを後にし、ドーフィーヌ街の入口になっているオーギュスタン広場に護送された。
 石の首吊台で、最後の祈りの願いも断ち切られ、執行。
 が、すっかり身動きしなくなったユスターシュの屍の腕だけが動き始め、首吊役人がもはや脈拍もない男の踝の動脈を切ってみると血も流れなかったものの、件の民事代官の時と同様に、首吊役人にも襲いかかった。役人はナイフでその腕を斬り落とした。
 途端、その「魔に憑かれた手」は、高々と飛び上がったかと思うと、群衆のど真ん中に落下し、恐怖した群衆が左右に分かたれた道を、シャトー=ガイヤールの小塔まで飛び跳ねながら突っ走り、塔の壁を昇って、ジプシー・ゴナン先生の待つ小窓まで辿り着いた。

 

 

 ベルフォレは次のような言葉で結んでいる。

 

 「 コノ椿事ハ、注釈・註解・評釈ヲホドコサレテ、常ニ奇談怪談ヲ求ムルコト熱烈ナル一般庶民ノミナラズ、長ク上流人士ノ話題トモナリタルモノ。・・・」

 

 

 但し、この本の末尾の訳者の注釈にもあるように、ベルフォレの《 ベルフォレ悲史集 》の件りは、作者ネルヴァルの創作のようで、脚色・韜晦の類ってことらしい。黒石の常套的韜晦も、ひょっとしてここら辺に淵源があるのかも知れない。
 ネット見ると、元々スカンジナビアの伝説であったものを、12世紀末、サクソ・グラマティクスが《 デンマーク物語 》で取り上げ、更に1570年、ベルフォレが《 悲話集 》の中で言及あるいは紹介したものが、シェークスピアの《 ハムレット 》の原型となったという。

 


 実際の実物の『 魔法の手 』自体は、ヨーロッパでは比較的人口に膾炙したとまではいかないのだろうが、それなりに知られた魔術的産物で、その手の博物館なんかには陳列されていたようだし、現在でもあるようだ。
 人体丸ごとの陳列も、つい最近まで、タイ・バンコクのチャオプラヤー川沿いの大きな博物館の一室に煌煌と照らし出されてシー・ウィー( 当初から冤罪が疑われていたという )と呼ばれた中国からの出稼者の黒々と変色した骸が展示されたりしてたもので、世界中に同種の陳列・展示が見られるのだろう。
 黒石もそのくらいの知識はあったであろうし、斬取られた黄夫人の手が役人の居所に飾られた、というエピソードもそこから来たものだろう。 只、作品中じゃ、実際には何処に飾られかは触れられてなくて、ひょっとして役人の居所じゃなく、ヨーロッパと同様なもっと公的な場所を発想していたのかも知れない。

 

 日本じゃ、今一つピンとこない。
 日本だと、もっぱら斬首=晒し首。
 中国同様、往来の要所に高々と高札と共に掲げられてきた。要は、庶民に権力の威力を見せつけるための見せしめ。
 ところが、所ろ変われば品変わるで、アーサー王の根拠地ともいえるケルト=ブリトンのアニミズム的産物としての生首信仰から始まって、ヨーロッパ自体が、昔から生首志向強い文化だったようで、ヨーロッパ絵画に生首が登場するのは珍しくない。
 つまり、生首志向は汎世界的なんだけど、手首信仰はやはり少数派のよう。
 
 
 因みに、法官シュヴァシューがユスターシュに呉れた縁の欠けた一エキュー銀貨って、ジプシー奇術師・ゴナン先生にも渡って来るのだけど、これって些か意味深な描かれ方してて、当時のフランスや、あるいはオカルト的な隠された意味でもあるのだろうか。

 

 

 魔法の手 La Main enchantée ジェラール・ド・ネルヴァル
               (1832年 ) 訳・入沢康夫( 河出文庫 )

2023年1月 1日 (日)

大正の碧眼の時代的寵児の日本人考 大泉黒石・俺の見た日本人

 Kokuseki-1921    

 ( この若々しい黒石の写真は《 中央公論 》のではなく、大正十年(1921年)、 民衆文芸社・発行の《 小説倶楽部 》 ( 九月号 ) の口絵『文士の近肖』の一枚。因みに、この《 小説倶楽部 》、二年の短命で潰えた。竹下夢二が表紙や口絵を担当。)
 

 

 

 大正八年(1919年)の雑誌《 中央公論 》9月号・秋期大附録号に、《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》 、いわゆる《 俺の自叙伝 》で鮮烈デビューした大泉黒石、その二ヶ月後の、同じく《 中央公論 》11月号に掲載されたこの《 俺の見た日本人 》。
 実際の出版界デビューはその二年前の大正六年11月・12月号、『 トルストイ研究 』( 新潮社 )での《 杜翁の周囲 (Ⅰ)~(2) 》。
 《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》の、ロシアでのトルストイとの出逢いを描いた部分の原型のような作品だった。
 そもそも黒石、月刊《 中央公論 》でデビューする以前に、1917年のロシア革命の影響で生じたロシア・ブームの波に乗ったのか、同年の春には短編集《 露西亜西伯利ほろ馬車巡礼 》( 磯部甲陽堂 )を出していて、秋には別の出版社からやはりロシア物の短編集を出してる。
 暮れには、《 幕末武士と露国農夫の血を享けた私の自叙伝 》が、単行本として、超ベスト・セラー《 俺の自叙伝 》のタイトルで玄文社から出版されることになった。
 そんな超売れっ子になる直前に書かれたこの12頁足らずの短文、それなりの自負は溢れていても、まだまだそんな存在になるとはおくびにも考えてないようで、むしろ駄目なら海外があるさ、とコスモポリタン振りを披瀝し、他の作家たちを煽っても見せる。

 

 

 「 俺は先達手(せんだって)、俺の日本系の親戚全部と絶交した。ハガキに、旨を含めて送ったんだ。俺もお前の家に出掛けないから、お前も俺の家へ断じて来るなと書いてやったように覚えている。面(つら)を合せる度に、俺を馬鹿にするから、癪に障ったんだ。露西亜服を着て、みすぼらしい姿で、出入りして貰っちゃ、近所の手前見っともないと言ったこともあった。せめて車でゝも来いと吐(ぬか)したこともあった。俺が貧(こま)っているのを、みんな知っていて、この間親類合議の上で、俺の細君へ、洗い晒しの木綿の袷せを小包で送って寄越したから、国交断絶を宣言したんだ。親類にさえ俺はこの位馬鹿にされている。」

 

 

 ロシア革命を受けての前年のシベリア出兵とそれに端を発した列島中を席巻した米騒動の余燼もまだ燻ぶっていたであろうし、更に世界的パンデミック・スペイン風邪の蔓延( 列島蔓延に帝国陸軍兵士達拡散説もあるようだ )で多数の死者が出ている最中でもある当時、穏やかならぬ世相の中、貧乏人にも活き辛い時代であったろう。
 ロシア服ってのは、当時流行ったルパシカの事に違いない。
大正8年同年、上海から盲目ロシア詩人・エスぺランチスト=エロシェンコが二度目の来日したり、革命による白系ロシア難民も日本に逃れてきたりして、“ 良くも悪くも ”ロシア絡みってことでの一種のロシア・ブームもあったようだし、当時としては珍しいロシア系作家の黒石も結構珍重されその波にうまく便乗できたって一面も確かにあったろう。

 

 

 「 日本人が狡(ずる)いと思った最初の印象はこうだ。近所の子が俺の家へ遊びに来ると、ビスケットをやった。呉れる役が俺の祖母(ばば)だ。『 俺の自叙伝 』に出て来る三公や留太郎などが、ごたごたと集(たか)って、がつがつ食った。
 食っているうちは、遊んでいる形をしているが、食って了うと、『 失くなったから俺っちはけえる 』と云う。俺は狼狽して、『 コムドが帰るから、もっとビスケットをやってくれ 』とねだった。俺はコドモと云えなくて、コムドと云ったんだ。祖母はあの通の馬鹿ときているから、すぐ出してやる。それがなくなると、質(たち)わるく、また俺を脅かした。
 その年頃から、子供だてらに、物をせしめる旨い手管を呑み込んでいたんだ。
 子供からして、こうだから、その親に至っては、頗る徹底していた。」

 

 

 「 先刻云った三公や留太郎の親共は、そんな処世術の天才でなくって、たゞ、正直一方に正直で、狡(こ)すい一方に狡くって、横着一方に横着だったから、自分等の子が、たまに俺が外へ飛び出た面(つら)を眺めて、前後左右から、縦横無尽に『 異人の子やあい』と囃し立て ゝ手を叩いたとき、俺が口惜しくって泣いて帰って、俺の祖母が盲目の癖に、庭箒を逆様に提(ひっさ)げて、彼等をなぎ倒しに出掛けると、あべこべに逆ねじを食わせて、『 俺っちの餓鬼を箒でよくも掃き倒した』損害賠償に、結局またビスケットで示談にしたもんだ。」

 

 

 「 幼年時代には何故俺だけ子供の仲間から馬鹿にされて、のけものにされたんだか解らずに一人で小さくなっていたが、物心がついて、親類と他人の区別が判然(はっきり)と分明(わか)る時分に漸く、俺の親の爺が露西亜人だから、酷(いじ)められるんだと言うことが解った。
 俺が生涯を通じて最も日本人の男を怖れて厭(いや)がったのはその頃だ。だから女の友達しか持ってなくって、今でも笑われる。正直の處男より女がいゝ。ふざけるなと言うなら、勝手に言うがいゝ」

 

 

 そうは言ってみたものの、

 

 

 「 俺の近所に妙齢の娘が数人あった。毎夜俺の家に遊びに来た。御存知の通りの俺だから大いに歓待したしたのはよかったが、その娘達が他所へ廻って、『 今迄あれの眼玉を見て来たが、可笑しかった。あれで夜でも見えるから不思議だ』と云って笑いこけたそうだ。それっきり俺も嫌になったが、娘の方でも来なくなった。多分、眼玉の神秘を見とゞけて、すっかり安心したんだろう。
 それっきり、どの女とも交際( つきあい )は止めた。目の玉は、御承知の如く碧瑠璃の色であるが、眉は月に似て見事な濡れ羽色だ。外国の女は、俺の眉が黒いから、お化けだと陰口を叩かなかったから、これでも俺が一歩足を日本から踏み出せば、必ずもてると、其時分の日記に不平を書いたことがあった。」

 

 

 作家になったその当時も変わらなかったようで、引っ越した先の近所の主婦達が、黒石が出歩く毎に、異人珍しさに垣根越しにじっと覗いたりしてたらしい。
 売れている頃は、それでもまだ良かったろう。
 昭和に入って、そんな排外性が鬱勃と列島に充満し始め、黒石も次第に売れなくなって、黒石の子供達も、粗衣をまとった父親の異貌と大きな声で、独特の長崎訛りと些かロシア風に訛った口調で道端で呼び止められたりする御難にびくつき、姿を見ただけで慌てて身を隠したりする惨憺的傾斜を滑り落ちてゆくこととなってしまう。
 黒石の子達に碧眼の子っていたのだろうか。一番風貌が近しい俳優の大泉滉は、しかし、黒眼であったはず。上掲の写真見ると、やっぱし滉より、父親・黒石の方がイケメン!

 

 

 「 俺が日本にまごついて、食えない處から、苦しまぎれに色々なものを書きなぐるのは、恰もカンガルーが上野の動物園でのらくらして生きているようなものだそうだ。俺も確かに賛成する。要するに変てこで珍しいからなんだろう。」

 

 

 「 先達手『 俺の会 』に雨村氏が出るんだか、出ないんだか解らないからある会社に掛け合いに行くと、その隣の応接室に女雑誌の記者と訪問者とが密談していた。訪問客が『 近頃黒石と云う男が売り出しましたねえ。』女雑誌記者が『 なあに君、今の中央公論があてになるものか、ありゃ毛色が変わっているからだよ。中央公論にさえ出れやいゝものだと思うと大違いだぜ』。 そうだとも、本人の俺が動物園のカンガルーだと思っている位じゃないか。だから日本人はいかもの食いと云うんだ。食っているうちに飽きが来るんだ。飽きの来た時が即ち、棒で尻を叩き潰した時だと観念している。」

 

 

 黒石的には殊勝に過ぎる後半の言葉だけど、日本で「ハンディキャップ」をつけて貰っているとも他の箇所で認めていて、さすがの黒石も人並みに一抹の不安は抱えていたようだ。
 《 中央公論 》の自叙伝がヒットして “ 漸く飯が食えそうになった ”僥倖に戸惑っていると、ある人物が、あれは“書割の煉瓦建て”だと教示して呉れたという。つまり、芝居の背景に描かれた煉瓦の家に過ぎない、と。そこで、ハンディキャップを貰っているという訳だ。因みに、黒石の言だと、ロシア語じゃ、ハンディキャップは“ 資格が足らぬ ”って意味らしい。

 

 

 一躍有名になった黒石の元に、ロシア語翻訳の仕事を依頼してくるのもあれば、作家志望の新人達なのか、彼等の自作原稿が送られてくることもあるという。その原稿の雑誌社への斡旋すらぬけぬけと求めてくる豪の者もいるようだ。
 “ 私の原稿さえ、十度に五度は売り損ねて反故になります。” と記めて返却したとか。

 

 

 「 無名の文学者だって、何もへこ垂れるには及ばないだろう。
 拵( こしら )えた原稿が売れなくて、持て余すようだったら、英文に書き替えて、あめりかなり、いぎりすなりへ持って行くんだ。あめりかや、いぎりすで相手にならなければ、更にフランス語に書き替えて、ふらんすに持ち込むんだ。
 ふらんす人が解らず屋で、お前の原稿は御免だと言ったら、独逸語に書き替えて、マルクスの本場へ送るんだ。それでも駄目なら、奮発して、露西亜語に書き替えて、ゴーリキーの産地へ担ぎ込むんだ。」

 

 

 「 何。俺も食えなくなったら、その辺へ逃げ場所を拵えるかも知れない。『 いくら何でも、まだ一年や半年は大丈夫ですよ。長くは続くまいけれども。』と俺を慰めて呉れた、この方面の猛者があった。猛者の主説だから、まだ一年や半年位は、大丈夫だろうと、すっかり、その気になって了( しま )ったが、どうだか。 」

 

 

 大正の時代的寵児・大泉黒石を見出した月刊《 中央公論 》の編集長・滝田樗陰の慧眼は確かなんだろうが、当の滝田自身、かなり毀誉褒貶の激しい人物だったらしく、無意識的に自分と同じ体臭を嗅ぎ分け、黒石に親近性を抱き、自己増殖的再生産を決め込んだのか。但し、黒石、多産家族的必要に迫られ、アルコール漬けのブロイラーならぬ、放し飼い多産地鶏ってところで、不義理三昧的方途に直走ることに。

 

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上海の弁護士・公認会計士・税理士