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2023年7月の3件の記事

2023年7月22日 (土)

1998年バンコクの雨季 タイのチケット

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 戦前、稲垣足穂が新宿・横寺町に住んでいた頃、尺八一管と故・伊藤野枝のラブレターの入った風呂敷包みだけを携え、酒精の芳気を漂わせたダダイスト辻潤が、思い出したように現れた。狸寝入りの足穂の掛け布団を引っぺがし、朝方まで四方山話に興じ続け、

 

 『 まことの修道僧とは四弦琴のほか
   何者も己が所有とは思惟せざる者なり 』

 

 足穂の開いていた聖フランシス伝の巻頭言を繰り返し読み、足穂の余りに貧窮した佇まいに、思わず、尺八で門付けして得た幾許かの金を置いて行ったという。

 

 昨今、そんな齢でもない者すら断捨離流行りの御時世なんだけど、当方、国外の旅に出なくなって二十年近く過ってるにもかかわらず、旅の途次資料として確保しておいてた種々雑多、一行に処分することもなく、段ボール箱いっぱいにしまったまま。
 足穂の流浪は聞いたことがないけれど、辻は終戦直前まで列島中を流浪・漂泊し、皇国日本の暴挙=絶対必敗を開戦時にあちこちに吹聴して廻った、その帰趨的帰結を視ることなく、敗戦前年のB29第一次東京空襲の日に、都内のアパートの一室で、一人餓死してしまった。
 そんな飄々とした流離人とは相違した、ゴキブリすら愛想を尽かして寄りつくこともない貧窮久しい足穂であっても、やっぱりどっぷり執着を決め込んだ側ではあるらしい。そこそこの生活者である当方も、その執着( 仏教じゃ、しゅうじゃくと読む )は、執着心希薄を己が属性の如く自らに言い聞かせようとしても、指の間から砂が零れ散るように底無しのようだ。

 

 

 その旅の種々雑多の中に、小さな紙片が出て来た。
 薄っぺらな黄色いその紙片は、タイはバンコク、当時はワールド・トレード・センターと呼ばれ、左にZEN、右側に伊勢丹が連なって同居していたその真中の建物。三棟合わせての商業コンプレックス、" タイ中間層の文化的象徴 "とも目されていたという。
 2010年のタクシン=アピシット( 軍部 )争闘の渦中に放火され、ZENは全焼、ワールド・センターと名前替えしていたワールド・トレード・センターも被害を受け、その後、伊勢丹は撤退、跡地ともどもセントラル・ワールドに一括されたらしい。
 そういえば、赤シャツ=タクシン派のカッティヤ将軍が記者達の面前で遠方から狙撃され殺害されるという大胆な事件もあった。

 

 そのワールド・トレード・センター( 当時は、WTCと略されることも )の上階にある映画館がづらり並んだシネ・コンプレックスの一つ、Major3W3の室内は、縦長でスクリーンが横一杯に拡がってて、上映されたスピルバーグの《 ディープ・インパクト 》のスペクタクル映像にピッタリの迫力。
 さすがに映画の内容の方はすっかり忘れてしまったが、当時のバンコク・ポスト紙の評だと三星。( 可もなく不可もなくってとこ )

 

 

 前日、珍しくプノンペンから空路で、それもプロペラ機に乗って、雨季に入ったバンコクに戻って来たばかり。
 ともかくバンコクは蒸し暑かった。
 観たのは昼の回で、90バーツ。 
 曲の入ったカセット・テープが同じくらいの価格 ( 当時1ドル=42~43バーツ)で、老舗・花屋の定食が同額。
 昼間は、高校生、それも女子高生の方が多い。
 この商業ビル自体、陽が落ちると色んな階層の人々で賑やぐものの、昼間はけっこう閑散として落ちついた佇まい。この界隈は、バンコクで一番の繁華街で、附近にも同様な商業コンプレックスが何軒もあり、シネ・コンプレックスも多い。
昨今、何処も皆リニューアルし、一層小奇麗になってる様が、YOU TUBEなんかで見てとれる。

 

 

 このWTC、当時(1998年 )は日本のタワー・レコードが入っていて、ジャンルに幅があったので時々利用した。主にアフリカ系の音楽カセット・テープを探すためで、現在もまだ存在しているんだろうか。
 この日、タワーレコードの前に長蛇の列が並んでたので何かと思ってたら、翌日のバンコク・ポスト紙に、歌手のリッキー・マーチンが訪れた由。

 

 当時泊まっていた定宿TTゲストハウスのスタッフが、リビング・ルームに大きなモニターのテレビを持ち出して来て、やたらサッカー中継を流していた、1998年FIFAワールドカップ。当方、サッカーにゃまるっきし興味もなく、スタッフに日本チームのことをあれこれ云われても生返事するだけだった。
 そのワールド・カップのテーマ曲を、彼リッキー・マーチンが唄っていたってことでの列だったとは、後日知った次第。
 蛇足だが、バンコク・ポスト紙の第一面に、ポルポトの死が大々的に報じられたのもこの二ヵ月前だった。

 

 

 

2023年7月 9日 (日)

夢を喰らう貘 大正( 時代 )的多情炎環

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 大正・昭和に、草創期の浅草オペラや映画界で活躍した貘( バク )与太平の評伝《 夢を喰らうキネマの怪人・古海卓二 》( 筑摩書房 )を読んでると、昨今巷で喧しい女優・広末 涼子の三角関係=不倫事件等を見るにつけ、つくづく人間の性( さが )・業ってものに思いが至ってしまう。
 貘与太平=古海卓二の最初の妻・紅沢葉子は、アメリカ帰りで浅草オペラの偶像ともいうべきトップ・ダンサー高木徳子の最後の弟子であり、やがて卓二が浅草オペラを見切って、映画界に進むと、彼女も映画女優の路に就いた。
 ところが、当時、二人が所属した大活( 大正活劇 )で一緒に映画作りをした作家・谷崎潤一郎の悪しき転輪王とも呼ぶべき所業の渦に巻き込まれ、二人も紅蓮の炎に己が身を焼き焦がし続ける惨憺劇に。

 


 以前から気になっていた《 夢を喰らうキネマの怪人・古海卓二 》、大正・昭和の、浅草オペラ・映画のいづれも門外漢にもかかわらず草創期から参入し頭角を現すようになった紆余曲折、絵に描いたようにルパシカをまとったアナーキーな、ある種、時代の寵児の軌跡。
 彼の最初の妻であり、浅草オペラ→映画の女優だった紅沢葉子が、後年になって認めた日記を手がかりに、その孫にあたる著者・三山喬が卓二の実像に迫るのだが、古海( ふるみ )卓二のあまりの破天荒さに、思わず舌を巻いてしまった。
 

 

 尺八一管の流浪のダダイスト・辻潤や小生( こいけ )夢坊、貘与太平( =古海卓二 )、佐藤惣之助等が参加した浅草オペラの文士劇。
 常盤歌劇団の観音劇場公演。
 ことの起こりといえば、当時流行っていた浅草伝法院裏にあった《 カフェ・パウリスタ 》、そこの二番テーブルに、社会主義者や自由主義者、徳永政太郎、小生夢坊、ピアニストの沢田柳吉、浅草オペラの伊庭孝や俳優達、ダダイストの辻潤、作家達が三々五々集っていたのが、やがて文士劇へと結実していった。
 公演が始まると、大正デモクラシーの華あるいは象徴の如く、当時の谷崎潤一郎をはじめとする有名作家・詩人、大杉栄などの社会主義者達までもがその楽屋に詰めかけたという。
 因みに、観音劇場は、他の有名な浅草オペラの常盤座や金龍館と同じ経営母体=根岸興行部に、当時の売れっ子喜劇役者・曽我廼家五九郎が経営を任されていて、五九郎といえば、大泉黒石が脚本を書いていたらしい関係でもある。只、その浅草オペラも栄華を極めたのは幾年ほどで、常盤歌劇団に至ってはたった二ヵ月の短命。

 

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 常連だった谷崎潤一郎も浅草オペラを「 多少の退廃的要素と異国情緒との加味した小学校運動場的気分 」と評したように、明治維新以降半世紀近く続いた富国強兵的、国権主義的全体主義の果ての大逆事件、その後の時代閉塞的な“ 冬の時代 ”もようやく終りを告げ、大正デモクラシーの名の下に一斉に解放されたような浮揚感、その象徴としての女性的エロティシズムの発露→歌有り踊りありの大衆文化的歌劇って事らしい。
 そもそもアメリカ帰りのショーダンサー・高木徳子のダンスにその起源があって、扱われる歌曲も、本格的なクラシック系のオペラと異なる庶民的なポピュラー曲という、まだまだ揺籃期的産物。
 そんな総てが真新しいものばかりだった草創期だったからこそ、殆んど門外漢だった古海卓二も、貘与太平の名でみるみるうちに頭角を表すことが出来たのだろう。代表的な歌手の藤原義江すら、当初は楽譜すら読めなかったというのだから。
 文士劇とは別に、辻潤も自作劇《 虚無 》を自らも演じたが、当時の卓二の真面目が、コミック・オペラ《 トスキナ 》。作・古海卓二、作曲・竹内平吉の風刺劇だったようだ。

 

 

 伊庭孝等が中心に田谷力三・藤原義江・天野喜久代等で結成した「新星歌舞劇団」( 松竹系 )に在籍していた紅沢葉子が、巡業生活でのメンバー間の自堕落な悦楽的産物としての父親の定かならぬ妊娠って事態に陥り、部外者だった卓二が、義侠心を発揮し、敢えて嫁として貰い受け、責任者の伊庭孝も一安心したという。
 紅沢葉子( 以降、葉子と呼ぶ )は、それまでの荒んだ生活から、将来に希望が持てたように思えたらしい。 

 

 

 その結婚最初の一年目に、映画女優に転身していたばかりの葉子が、それまでの映画とは一線を画さんとばかりの本格的な映画製作をモットーにした大活( 大正活映 )の谷崎潤一郎・脚本《 アマチュア倶楽部 》(大正9年=1920年)に出演することになったのはいいが、撮影中に、後の大正・昭和初期を代表するイケメン男優として一世を風靡した、まだ駆け出しの岡田時彦とできてしまった。
 葉子20歳、岡田18歳。
 谷崎の嗜虐的業炎の火中に、葉子がらみで卓二まで巻き込まれてしまったのだ。
 映画自体はスラップ・スティック的なドタバタ喜劇で、主演が、谷崎の寵愛する葉山三千子( 谷崎の妻の実妹 )で、しなやかな日本人離れした肢体の水着姿が人気を博したという。
 翌年、上田秋成の『雨月物語』を脚色した脚本・谷崎、監督・トーマス栗原のコンビで撮った《 蛇性の婬 》の主演を、今度は何と葉子が演じた。ところが、ロケ地でも誰憚ることなく、岡田は葉子の部屋に頻繁に通い続けた。
 因みに、大正十年当時、読売新聞の人気映画俳優投票・女優部門で、葉子は九位に入っていたという。浅草オペラの女優なんかに映画出演の話をもってゆくと、憤然として断られたという、まだまだいわゆる河原乞食的な扱いだった映画草創期という限定された状況の故もあったのだろう。以降は殆んど脇役専門。

 

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 ( 《 アマチュア倶楽部 》のロケ現場。左端の着物女性・紅沢葉子、一人置いた帽子の髭の男・トーマス栗原、右隣の白スーツが谷崎潤一郎、水着の葉山三千子、岡田時彦。)

 

 

 まだ14歳だった葉山三千子の小悪魔的な魅力の文字通りの虜になり、溺れてしまった谷崎、困惑し傷心する谷崎の妻・千代に、彼等と親しかった佐藤春夫がすっかり同情し、やがてそれが一線を越え恋情に発展し、それを知った谷崎は、渡りに船とばかり、佐藤に自分の妻・千代と一緒になるように勧めるという四角関係が当時、小田原事件として巷でも話題になっていたという。広末 涼子の不倫事件なんて可愛いもの。
 《 アマチュア倶楽部 》撮影の際も、スタッフや俳優達もその関係を知っていて、自分より四歳下の小娘・三千子の奔放な態度に、葉子は、不快の念を抱いていた。

 

 

 三千子と谷崎の関係は、相互的というより、もっぱら谷崎の一方的なもので、それ以上に三千子は性的に奔放なのか、岡田に惚れ、葉子と岡田を巡っての三角関係に発展するが、同時に、むしろ谷崎の唆かしというべきか、それ以外にも、作家・今東光やドイツ人ハーフの俳優・監督である江川宇礼雄とも関係をもったという。岡田の時なんて、三千子の方から積極的に岡田の部屋に忍んで行ったらしい。
 ところが、谷崎が、若い三千子に結婚を拒絶されたからなのか、妻・千代を佐藤に渡すのが惜しくなったのか、妻・千代との離婚を放棄して、三千子と岡田の結婚を画策し、岡田を養子として迎えるって算段に落ち着いたのが、一晩同衾した際に、三千子のあからさまな性的貪欲・淫蕩さ加減にすっかり嫌悪感を覚え、婚約を解消。
 谷崎は小悪魔・三千子が様々な男達と関係をもつのを、むしろ唆かし、恐らくその逐一を三千子本人からあれこれ赤裸々に聴き出していたのかも。
 数年後、谷崎邸の書生となった後の探偵小説家・和田六郎が、まだ佐藤の下に赴く前の谷崎の妻・千代と関係をもった際にも、谷崎は情事の詳細を逐一千代本人から聴き出していたというのだから、充分にあり得るし、ある種のコキュ達の固着的嗜好とも謂うべき自虐的な煩悶にうち震えていたのだろう。
 否、それ以上に、小説家としての貪欲な真実の探求と謂うべきか。当時新聞の連載小説《 蓼食ふ蟲 》として、リアルタイム的に活字化していったのだから。
 正に、多情炎環。
 それぞれの、真摯に自らの欲念・情念の赴くところ一心。

 

 

 肝心の卓二と葉子の方はというと、小娘・三千子と破談した岡田は葉子との結婚に踏み込もうとしたものの、葉子が幾ら離婚を求めても、頑として卓二は拒絶しつづけた。元々恋愛関係の上での結婚じやなく、一方的な卓二の義侠心に発したものなので、些かにプライドを傷つけられた反撥心からなのだろう。それでも、葉子が失踪するに及び、渋々認めてしまう。 
 卓二の葉子に対する念は、やがて芽生えた恋情も含め錯綜混沌としたもののようだけど、葉子の卓二に対するそれは、この本=葉子の戦後認められた日記では、なんともけんもほろろに悪夫。早い話、当時の時代的偶像・岡田時彦との関係の赤裸々な告白日記とも云うべきとは、彼女の孫である著者の感想だ。

 

 

 著者も先ず触れていた、大正中期の、日影茶屋で神近市子に大杉が刺された事件に端を発した多情炎環、大杉栄=伊藤野枝=辻潤、堀保子=大杉栄=神近市子の相関図。
 尺八一管を携え列島中を放浪して廻った辻潤は、伊藤野枝の呉れたラブ・レターを常に風呂敷に包んで肌身離さず帯同していたのは、もはや神話の領域。正に、コキュの極み。彼の舞台活動への入れ込み様も、鬱屈したコキュ的悲嘆の発露って一面もあるのだろう。
 因みに、堀保子は、あくまで内妻で、大杉は、同志・深尾韶とつきあっていた保子を、半ば強引に掻っさらうようにして一緒になったのだった。つまり横恋慕。やがて野枝に対した如く、大杉は保子にぞっこんだったのだ。

 

 

 殆んど同時期、月刊《 中央公論 》の創作欄を巡って、大泉黒石・村松梢風等大衆小説作家等の説苑欄からの越境に対して、純文学小説作家の芥川龍之介・佐藤春夫等が一方的にクレームをつけていた頃、純文学の代表格ともいえる芥川龍之介は、妻・文( ふみ )以外の女性との係わりも結構あったようで、就中、歌人・秀しげ子との関係は人口に膾炙し過ぎているぐらい。秀しげ子には、夫も子供もいた人妻であった。
 しげ子は、しかし、次第に大胆になり、しまいには龍之介邸にまで押しかけてくるようになって、大正十年、龍之介は逃げるように海外視察員として中国行の途に就いた。
 龍之介の作品にも、彼女に触れた箇所がある。

 

 『 利己主義と動物的本能は実に甚だしい 』
 
 『僕の生存に不利を生じた 』

 

 何とも生々しい記述で、後、小説論を戦わせることになる谷崎潤一郎が魅了させられ虜になってしまった小悪魔・三千子に、その奔放さでは敵わないものの、同様に貪欲なしげ子の性衝動に、肺病持ちの芥川は死の恐怖をすら覚えてしまったらしい。

 

 

 同じコキュ的心性であっても人によって随分とその様相を異にし、ちょっと時代が下るが、金子光晴=森三千代=土方定一の余りにも有名な三角関係相関図にあって、も少し時代が下った戦後、三千代の中国人の愛人・鈕先銘との関係を描いた《 新宿に雨降る 》を、病で手を使えなくなった三千代の代わりに、光晴が口述筆記した際も、コキュ的被虐性全開って趣きだったのだろう。
 尤も、光晴が幾ら被虐的であったとしても、敢えて妻・愛人に他の男達等と関係を持たせるって谷崎的嗜好・志向は有していなかった。
 谷崎のは病的と断じていいのか、それとも芸術至上主義的産物に過ぎないのか。
 こうして観てみると、卓二と葉子って、とりわけ卓二って、いわゆる良いカッコ師なんだけど、その足元が何とも危うく、そこが日記中葉子に、さんざ毒づかれつづけてしまった所以に違いない。

 

 

 《 夢を喰らう 》キネマの怪人・古海卓二  著・三山喬 ( 筑摩書房 )

 

 

2023年7月 1日 (土)

麗江の門扉 

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 ( CITS指定の麗江賓館。かつてはそれなりに瀟洒なホテルだったのだろうが、当時はもうかなり朽ちた代物で、だだっ広いドミトリーにぼくや他の数人だけ。季節のせいか、じめついて洗濯物が乾かなくて閉口した。シャワーも先のない蛇口、トイレも人民厠的惨憺。それでも、人民中国の初期の頃の雰囲気が残っていて、嫌いじゃなかったけど、当然に、再開発で大きな近代的な建物に再建されたようだ。)

 

 

 トンパ( 東巴 )教の聖地である白雪を頂いた玉龍雪山が背後に聳える標高2400メートルの高原の街、中国雲南省・麗江。
 ぼくが訪れたのはかれこれ4分の1世紀前。
 ここは、少数民族ナシ( 納西 )族の古城( まち )で、旧い銀灰色の甍の民家が網の目のように走る水路沿いに立ち並ぶ街並みが人気の観光地でもある。他の少数民族や漢族も住んでいて、人口百万人以上。
 当時も既に観光地化されていたが、まだたまだ素朴な味わい・佇まいも残っていた。最近の様子をYOU TUBEで確かめてみると、軒並み叩き潰し、無味乾燥な高層ビル・マンションばかりが立ち並ぶという昆明の旧市街再開発みたいな行政的ゴリ押しは、さすがに為されてはいないようで安心した。それでも、当時には殆んど見られなかった紅提灯がづらり下がり、夜も煌煌と電飾三昧の中国の何処の観光地でも見られるような没個性的な街並みになってしまっていた。

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 当時、バックパッカー達の間で好まれたのが、釜めし。
 入口の扉なんかをとっぱらって、ずらり並んだ七輪の上で、アルミの手鍋や土鍋や鉄鍋を載せ調理する光景を通りから見えるようにしていた。米線(ミーシェン)、餌糸(アルシ)、釜飯。釜飯(6元)は、ライスの中にジャガ芋、上にエンドウ豆、ベーコンを載せたもの。塩味。小皿に唐辛子と赤い大根の唐辛子漬けが付いてくる。勿論店によって具は異なるけど、総じて味は悪くはなかった。
 当時はまだ改革開放路線そのままに、様々な環境も整っていない中での、中国民衆の試行錯誤的商才的発露といった風潮、沸々とした息吹が伝わって来て、面白くもあった。
 当時巷で騒がれた商的成功者の象徴が《 万元戸 》、昨今《 億元戸 》と言われるようになって久しい。


 

 

 ぼくが訪れたのは、大地震の翌年で、本来の佇まいとは異なったものかも知れない旧い街並みだけど、表通りの商店街から一歩奥へ入った細路に並んだ民家は、しかし、以前と変わらぬような落ちついた佇まいを呈していて、とりわけ興味を惹いたのが、各家の門・門扉だった。
 中国の伝統的民家は、基本両開き扉で、旧正月=春節の際に貼ったものをそのままにしているのかも知れない縁起物の対聯や門神・年画。日本にはない風情がなかなかにエキゾチック。( 但し、対聯の貼られてある民家はひょっとして納西族じゃなくて、漢族の家屋だったかも知れない。納西族も漢族の文化・風習をけっこう受け入れているとは言われているものの。)
 尤も、それは中国のだけにとどまらず、インドや中央アジア、アラブ世界の門扉も、それぞれ独特な意匠・様式を湛えていて、珍しく、つい写真に撮ったりしてきたものだ。

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 対聯や門神・年賀は、旧正月の前夜、年除日( 日本の大晦日に該当 )の陽が暮れる前には貼りつけてしまわねばなないってことらしく、その後、一家団欒で年夜飯( 年宴 )を楽しみながら、子供達は紅包( お年玉 )を貰い、年を越す。
 勿論、対聯って、旧正月=春節の際だけじゃなく、慶弔時にも貼り出し、さすがに弔事の際には挽聯と呼ばれる白色紙の対聯。
 左右の両柱に対聯を貼り、両扉には対の門神・年賀を貼る。一枚画の場合もある。扉の上の部分には、横批と呼ばれる聯も貼られるのが定番。

 

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 ( この家は門の背後に影壁が設けられている。一種の魔除け。魔物・邪気は

 直進する性質をもつらしく、それを阻止するための衝立。)

 

 

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 ( この家の内なのか外なのか崩壊してるけど、これは朽ち果てたというより、

  恐らく、前年の大地震の痕跡だろう。)

 

 

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 ( 表側の石塀の単体の門石に、白紙に手書き文字で書かれた対聯は、上方の

  横批「當大事」ともども、弔事の際に用いる所謂挽聯だけど、その少し奥

  の扉には、春聯らしき紅紙の対聯と年画が貼ってある。)

 

 

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 ( この通りに面した商家の単体の門扉も、白紙の挽聯が貼りつけてある。

  二年の文字が見えてるので、服喪二年目か知れない。「孝」の字なので

  も一つ定かじゃない。)

 

 

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