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2023年8月の3件の記事

2023年8月31日 (木)

炎夏の精霊的跋扈

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 盂蘭盆過ぎて暑熱もいよいよたけなわの感すらある今日この頃、ようやく人並みにクーラーをかけたまま毛布を被って寝るって策に倣い始め、熱帯夜的悪睡から何とか免れるようになった。
 余りの焦熱に、小さな裏庭に生えているハイビスカスが低丈の一本を除いててんで花をつけない。葉色濃い植えた時と殆んど丈の変わらぬ一本だけが、黄色のいかにもトロピカルな花弁をひろげ一抹の涼を覚えさせてくれる。
 吸血鬼宜しく蚊すら姿を隠す肌を焼きつづける陽光に、繁茂した雑草の間に伸びたハイビスカスに水をやると、弾かれたように薄茶のバッタや細っそりした緑色の精霊バッタが一斉に飛び立ち、ざらついたコンクリート塀やなんかにしがみつく。

 

Garden-2

 

 忙しさや暑熱に怠惰を決め込んでいる隙にびっしり伸びてしまった雑草も、実はメインの精霊バッタのために、あえて手つかず状態に放置していたのだった。いわば精霊バッタの生存域確保ってことで、ここ数年の間の常套的所作。
 早い話、殿様バッタみたいにいかつい風貌と違って、葉叢から生れた緑の分身、あるいは精霊の如くの細っそりと華奢な体躯は神秘的すらあって、童年時代からの愛着だけど、さすがに大人になってからは直に手で触れるような真似はしなくなった。
 蜘蛛や小鳥に食べられたのか、以前は一センチくらいの小さいのがピョンピョンいっぱい撥ねていたのが、十数匹ぐらいになってしまった。薄茶や緑の殿様バッタの方もかなり数が減ってしまって偶にしか見かけなくなった。

 

 精霊バッタも殿様バッタも孵化してから半年ぐらいの寿命で、殿様バッタの方は、年二回産卵するという。密度が高い環境で育った殿様バッタは、群生相という集団性を共有するようになり、大量に飛びまくって農作物に絶大な被害を及ぼすのは昔から有名。とりわけ、徳川時代なんて殺虫剤や農薬などの対抗手段も殆んどなくて、大飢饉に至ってしまった。遙か旧約聖書の時代からイナゴの災厄が云われてきてたのは、大量発生したこの殿様バッタの類らしい。

 

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「悔い改めよ、天(=神)の国は近づいた」

 

と叫んだヨハネ(洗礼者ヨハネ)、ナザレのイエスにもヨルダン川で洗礼したイエスの母親マリアの筋の義兄でもあり、やがて当時のイスラエルの領主ヘロデ・アンティパスによって斬首される預言者の、常日頃食していたのが、いなごと野蜜=棗椰子だったという。

 

 大豆より高蛋白ってことで、昔から長野はじめ東北地方じゃ、現在までも食用として採取され、近年、いよいよ世界的に高蛋白食として見直され、イスラエルですら既に企業化してるという。
 肉すら買えぬ貧困世帯の多いインドの州じゃ、州政府が直々に、ネズミを安価な蛋白源・食材として推薦していたことがあったけど、現在でも大量発生した殿様バッタの類の災害に苛まれていて、むしろ駆除の方に比重を置いているとのこと。有害な農薬・殺虫剤散布よりも、食材として大量捕獲し、食用に利用する方が遙かに健康的と思える。要はその技術ってことなんだろうが。
 何より、ネズミより抵抗感もなく受け入れられそうな殿様バッタ・・・ではなかろうか。( 路上の蟻すら踏みつぶすまいとするジャイナ教徒にとっちゃ、同様に許されざることなんだろう。)

 

 精霊にはじまってやはり精霊に終わらせてしまう人類的業の深さにあらためて思い至ってしまった。
 

 

2023年8月19日 (土)

 幕末長崎的風味 茂木ドロップス 

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 長崎といえば、原爆、異国交易=出島、隠れ切支丹ってところがすぐ思い起こされるが、昨今じゃこれに冬場のランタン・フェスティバルが加わるのだろうか。
 夏・八月と云えば、やっぱり原爆=敗戦。
 六日、広島にウラン原爆リトル・ボーイが落とされ、三日後の九日、長崎・松山町上空で、プルトニウム原爆が爆発し、広島型より威力が強かったにも拘わらず死者は半分の約七万人だった。山や丘の多い入り組んだ地形のせいという。
 長崎出身の作家・大泉黒石は、この原子爆弾投下の事を、当時、如何感じていたろうか・・・その辺のところに言及したモノは残してないのだろう。遅かれ早かれ敗戦の不可避を開戦時から確信していたろう黒石にとって、知人も親戚も居たろう近世以来のコスモポリタン都市・長崎の潰滅の報は、鬼哭啾啾たる惨状が陰々鬱々と脳裏にゆらめきつづけるばかりの慟哭劇だったろうか。

 

 

 横浜・神戸に較べて一番小さなチャイナ・タウンらしい長崎・新地中華街に並んだ土産物屋の店頭で、派手派手しい意匠の中国風味満載の中で、妙に地味な佇まいの小缶が眼についた。手に取って見ると、ドロップス缶で、中国の帆船・ジャンクの絵が描かれていた。モノクロ絵の上に、小さく 《 飛帆 》と記してあった。
 
 1989年に中国・福州で建造された復元唐船 《 飛帆 》(フェイファン)号のことらしい。オリジナルは、明末・清初の時代に、主に福建省で造られていた木造帆船《 大福船 》。 かつての出島・唐人屋敷に出入りしていた中国の交易船なんだろうか。元々は、対-倭寇の大型軍船として建造されたものともいう。だから、大砲なんかも搭載し、海賊等を撃退することもあったのか。
 長崎に寄港する途中のポルトガル船を、オランダ船が襲って、長崎港沖まで追いかけて来たって話もあるくらいだ。

 

 

 幕末頃、長崎代官屋敷で行儀見習いをしていた三浦シヲが、唐通事に枇杷の種子を貰い、茂木村の自宅庭に植え、やがてそれが茂木枇杷の元祖となったという。以降、長崎の特産品となる。
 因みに、茂木は、プルトニウム239原爆の炸裂した爆心地から入り組んだ丘陵の先十キロの天草灘に面した地にあって、直接的な人的損傷は余りみられなかったようだけど、熱波と爆風で窓硝子も粉々になったという。
 更に附言すれば、天正8年(1580年)に、大村純忠と長崎甚左衛門純景によって、長崎と伴に、茂木もイエズス会へ寄進された地でもあった。
 この茂木枇杷の果汁で造られた、昔ながらの飾らないさっぱりした風味のドロップスも、そんな歴史の変遷の中での人々の喜怒哀楽、諸行無常の妙味が隠されているのだろうか。

 

 
 更にもう一つ小さな点を付け加えると、茂木びわの由来を述べている冒頭、「 天保・弘化の頃・・・」を、「天保・弘北の頃・・・」と誤植されている。とっくに指摘されてたろうが、既に商品として店頭に並んでしまってたので、それも良しという判断なのだろう。
 天保といえば、長州藩で十五万人くらいの大規模な百姓一揆が起きているが、その後も、人肉まで貪る事態にまで陥った天保の大飢饉、大塩平八郎の乱等列島中、世情騒然とした時代でもあった。

 

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2023年8月 5日 (土)

夢を喰らう貘 ( 二 ) 地上は闇だ、よし俺が灯をともしてやる

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 ( 『 旗本退屈男 』第一作。監督・古海卓二。主演・市川右太衛門 )

 

 大正10年( 1921年 )、貘( ばく )与太こと古海卓二は、その年の中頃、治安当局に一斉検挙された《 大本教 》(京都・綾部)を題材にした“ 暴露映画 ”、《 大本教・伏魔殿 》( 三幸プロダクション )なる全6巻の長編映画を、現地ロケを含めて一月で作り上げ、事件のセンセーショナルな報道も相俟って、結構ヒットしたという。
 それまで、映画製作スタッフとして携わったこと皆無ながら、たった一月で作り上げ、ヒットさせたのだから、周囲もビックリ。

 

 例によって、フイルムが残っていず、当時の映画評から想像するしかないにしても、本書の作者( 古海の孫 )は、不敬罪等で起訴した当局の尻馬に乗った邪教叩きと批判的だけど、社会主義者、それもあらゆる権威( 主義 )を否定するアナーキーな卓二の立場からは、大本教=出口なお・王仁三郎も、国家神道=天皇も所詮一つ穴のムジナとしてしか捉えられていなかったのだろうし、機を見るに敏な彼にとっては、正に渡りに船だったに違いない。 
 そもそもこの映画、浅草の飲み屋で一緒になった卓二と映画プロデューサー・原島本太郎が折からの大本教事件で話が膨らみ、一気に映画製作へと結実したという。

 

 但し、この本じゃ、大正映画を起こした原島本太郎ってことで、その大正映画での制作ってことになるんだけど、大正映画ってネット捜しても見つからず、ネットのクレジットは大活(大正活劇)と記されているのが少なくない。
 ところが、大活の制作作品の中に、この《 大本教・伏魔殿 》の名は発見できなくて、やっぱし、玉川信明の《 大正アウトロー奇譚 》(社会評論社)に明記された《 三幸プロダクション 》ってところに落ち付いてしまった。恐らく、群小映画プロの一つなんだろうけど、名前以外沿革すら不明。ネット捜すと、戦前アニメ制作会社の三幸映画社があったものの同一のものなのかも定かじゃない。

 

 

 大正10年の秋。
 大活が潰れ、スタッフ・俳優達大挙して、江川宇礼雄の斡旋で、京都・牧野省三の《 牧野教育映画製作所 》に移転。妻の紅沢葉子も半強制的に同行とある。
 牧野側は、カット割りも知らなかった旧派が主流、トーマス栗原直伝のハリウッド流に慣れた大活組とは色々齟齬もあったらしいが、牧野省三は大活組のその最新のモダーンな遣り方を採り入れたくての招聘だったようで、それでも、やっぱし見栄っ張りの直情径行な卓二は、菊池寛の原作の三作目《 火華 》( ひばな )の撮影中に省三と衝突。
 『 今時、女形かよ!』と、吐き捨てるように主役のはずだった女形・衣笠貞之助を蹴って、トーマス栗原に見出されこの年デビューしたばかりの若干15歳の鈴木澄子を使うと強硬。

 

 結局、卓二は降り、卓二が監督した《 心の扉 》で内田吐夢と主演まで演じた葉子も、否応なく一緒に帰京する羽目に。
 他のメンバー達はそのまま居残って、その中に、やがて阪妻の《 雄呂血 》等を撮るようになる二川文太郎や内田吐夢も居た。映画は、女形・衣笠が残りを撮って完成させたらしい。
 因みに、三年前の大正7年にモダーン志向の純映画劇運動の旗手・田中栄三監督が撮ったトルストイ原作《 生ける屍 》( 日活向島 )でも、旧派=新派劇を越えるはずが、まだまだ女性役に女形達を使ってて、衣笠も女形で出演していた。

 

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 ( 『 邪痕魔道 』前編 監督・古海卓二。主演・坂東妻三郎 )

 

 卓二、映画監督となって15年の間に13社も渡り歩いた。
 その都度色々な状況があったとしても、少々じやない。
確かに、当時、関東・関西圏じや映画プロの離合集散、群小映画プロの雨後の竹の子状態的林立著しかったようで、とりわけ、卓二はセンセーショナルな《 大本教・伏魔殿 》で売り出したのだから、ネーム・バリューはあったろう。
 浅草オペラの時と同様に、イケイケまっしぐらの猪突猛進。
 それでも、突如の未曽有の大災害・関東大震災、その直後の、敬愛の無政府主義者・大杉栄の軍部による妻の伊藤野枝と親戚の幼児・橘宗一3人に対するリンチ殺害事件が、相当にショックだったようだ。
 当時の社会主義者や芸術志望青年の定番=ロシアの民族服・ルパシカを着こみ、髪を赤く染め、ステッキを振り回しながら焼け跡を彷徨い続けたという。
 何とも派手派手しいいでたちだけど、これって当時まだ街角に屯していたかも知れない朝鮮人・社会主義者狩りの自警団や似たり寄ったりの一味なんかが因縁つけて来るのを自ら求めての憤怒的発露だったか。
  

 

 大震災で関東の映画プロは潰滅的になり、皆関西に移り、卓二も通いなれた感のある関西に移動し、東亜キネマに入社したものの、翌年には、帝国キネマに移り、《 巣立し小鳥 》や《 行路 》等、キネマ旬報でも高評価された作品を相継いで作り出した。就中、《 行路 》じゃ、母親役に配された葉子、夫・娘を棄てて愛人の下に走り、あげくその愛人に捨てられるという設定の、その愛人役に岡田時彦という何とも皮肉な配役。彼等の関係を知った卓二と仲の良かったらしい悪麗之助の脚本。岡田はともかく、関係はとっくに清算したつもりの葉子には何とも忸怩たるものだったらしい。因みに、岡田時彦も、東亜キネマから帝国キネマに移って来ていた。
 この両作品も、フィルムは現存していないようだ。
 近くの長屋数軒借りて大勢の弟子を養っていた程の大所帯、この年、帝国キネマで18本の映画を撮り、《 行路 》以上の優秀作はないものの、興行成績は良かった。

 

 で、やっぱり帝国キネマでも、会社側と揉め、単身ステッキで会社事務所に乗り込み、めちゃくちゃに破壊尽くし退社。東京に戻り、独立プロ《 第一線映画聯盟 》を立ち上げる。
 打倒!四社連盟( 松竹・日活・帝キネ・東亜の排他的ギルド関係 )の鼻息も荒かったものの、一年足らずで解散。当時、あちこちで独立プロが出来てたらしい。 が、皆短命。
 卓二の《 第一線映画聯盟 》の場合は、知人スタッフが会社の金を持ち逃げしたためという。昨今も依然として、映画界に限らずあちこちで見られる世知辛さの極み。卓二が撮った作品はたった三作。いずれも、大正15年(1926年 )制作。

 

《 恐しき邂逅 》 撮影・玉井正夫、主演・高堂国典。新妻律子、正宗新九郎、紅沢葉子。

《 落花狼藉 》  撮影・玉井正夫。主演・阪東友三郎。新妻律子、住吉恵美子。

 

《 噫! 佐久間艇長 》 児童向け映画。東京では浅草公園の松竹館で10月26日に封切。二日遅れで、大阪・道頓堀の朝日座で封切。         

 海軍省推薦の映画。( 明治末、山口県沖で訓練中の潜水艇が沈没し、乗員十四人全員が死亡した事件。 日頃から佐久間艇長、安全性軽視や違反行為が多かっのが、明治天皇に対する謝罪等を艇内で遺書として認めていて、後、修身の教科書にも掲載されるようになったらしい。フィルムが現存してないようで、どんな内容なのか定かじゃないけど、佐久間艇長を批判的に描いていたら、海軍省の協力も得られなかったろうから、何処に権力批判の隠喩を秘していたのか興味のあるところ。)

 

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  ( 『 邪痕魔道 』後編 監督・古海卓二。主演・坂東妻三郎。)

 

 昭和2年(1927年)、葉子は卓二の仕事を得るため、京都の当時の時代劇の大御所・阪妻プロ( 坂東妻三郎プロ )まで赴き頼み込んでいる。
 意気投合した二人、異色作《 邪痕魔道 》として結実した。
 映画自体も長いが、後半がともかく、延々とチャンバラ・シーンの連続で、卓二の下にいた二川文太郎・監督『雄呂血』(大正14年)の立ち廻りシーンを遙かに凌ぐ超長丁場。
 

 「 阪妻『邪痕魔道』で立ち廻りの長時間記録をつくった古海卓二は、この作品で検閲カットの最長記録をつくる。」(竹中労「傾向映画の時代」)

 そのチャンバラ・シーンの長大さも併せて、評判となり、大ヒット。
 が、ここでも卓二、顔アップの問題で、御大・阪妻と大喧嘩。当時の時代劇の主人公の顔アップは定番で、画面いっぱいにおどろおどろしさを極めるのだけど、卓二はにべもなく突っぱね、結局、映画雑誌にも、立ち廻りシーンの最長記録と合わせて顔アップ一回切りの最少記録といじられてしまう次第。阪妻が折れたのだろう。
 すぐに市川右太衛門プロに移り、市川右太衛門・主演《 野獣 》前・後篇、《 狂血 》前・後篇を撮り、東京・巣鴨の新進の《 河合映画 》に引き抜かれ帰京する。娯楽中心の低予算映画の粗製乱造で当たった会社らしく、竹中労に( この会社で卓二の撮ったものに )「見るべき作品はない・・・」と云わしめている。

 

 ちょっと余談になるが、この頃、卓二、やたら自分の映画に鈴木澄子を使っているなと思ってたら、竹中労の日本映画縦断1《 傾向映画の時代 》の紅沢葉子へのインタビュー中、当時、卓二が鈴木澄子に手を出していたと認めていた。
 鈴木澄子は後年のバンプ( 毒婦・妖婦 )女優でもあり、当たり役の化猫なんかの怪奇映画で活躍した。昭和12年の《 有馬猫 》じゃ化猫役で主演し、出演者の殆どが女性ばかりの、女性たちのアクロバティックな立ち回りが評判を得たのか、4年後の年末には日米開戦の火ぶたが切られる昭和16年に、自ら《 鈴木澄子一座 》を率いて、米国公演に向ったという。帰国後、戦時統制で映画出演が困難になると、一座で全国を公演して廻ったという。

 

 昭和4年(1929年)3月、労農党・山本宣治が権力によって使嗾された右翼によって殺害される事件が起り、その衝撃で、当時のインテリ達が左に傾いたという。( 半年後には世界恐慌が発生。) 勿論、ほんの一時に過ぎず、たちまちに弾圧が強まり、やがて戦争→敗戦まで全体主義的方途に一気に突き進んでゆくことになる。
 卓二、唐突に、予てから念願の、ロシア=ソビエトと合わせての欧州の旅に出る。シベリア鉄道でモスクワに入り、折からの日本映画博覧会ってことで、モスクワとレニングラードで計8万人が入場し、卓二もかなりもてはやされて、かつて浅草時代に《 どん底 》を演出したこともある作家ゴーリキーと握手する仕儀にも到ったという。
 卓二の作品は、葉子と岡田時彦が出演し評判の良かった《 行路 》と阪妻・主演の《 邪痕魔道 》の2作が出品。

 

 帰国して、右太プロで《 日光の円蔵 》( 主演・市川右太衛門。共演・鈴木澄子 )を撮る。
 帰朝後第一作がチャンバラ物とは珍しい、と批評家に揶揄られる。
 絵に描いたような、革命ロシア=ソ連的産物そのままの生硬なプロレタリア革命アジテーションの羅列を、あの御大・市川右太衛門に、活動家オルグのアジ演説そこのけの仕草交えて、延々と農民達に訴えさせる傾向映画の極みだった。
 竹中労がオリジナル脚本から、検閲カットされた字幕を紹介していて、

 

 「 この俺がいい御手本だ、支配階級の横暴と、悲惨な百姓の生活を見兼ねて、侍という特権を捨てて、農民解放の真っ先に立ったが・・・」

 

 短いがこのセリフ、山本宣治暗殺劇を擬(なぞら)えているのが了解される。
 当時、一時的に流行した傾向映画の雄・伊藤大輔や内田吐夢達は、もっと婉曲な表現で、検閲カットも少なく、ヒットもしたらしいけど、卓二、ロシア革命の余熱冷め遣らぬ第一次5カ年計画の真っ只中の現地の薫陶を、歓待された分、余計に吸い込んで戻って来たのだろう。
 

 

 帰国直後、卓二は、アナキズムやニヒリズムを、公式マルクス主義・ボルシェヴィキ宜しく指弾してみせたという。( 竹中労に云わせると、革命ロシア=ソ連体験の余韻に浸っていたに過ぎず、卓二の正体は如何転んでもアナキスト! )
 革命があくまで議論・想念の域を出る事のない日本からやって来ると、当時のソ連は正にその革命が、既に裏切られたものに堕したものであったとしても、あくまで日々の現実としてレアで、リアルな変革的息吹がその残滓であっても、まだまだ溢れているのを、その渦中で体験すると、その一刻一刻一瞬一瞬が金科玉条の如く感得されてしまうのは、往々にしてあり得る心理作用だろう。
 これは卓二一人だけじゃなく、卓二の如くロシアに渡ることもなかった当時自称し活動していたアナキスト達の少なからずが、しかめっ面を決め込みマルクス主義・共産党に転向していた。アナキスト詩人の秋山清が、彼等の思想的把握の脆弱さを指弾する由縁のところ。
 卓二の心酔していたといわれる大杉栄もロシア事情に疎い訳じゃなく、遥か以前からボルシェヴィキの革命の歪曲・独裁的全体主義的支配を批判してきていたのだけど。

 

 「( 十月革命は ) 革命は如何にして為されなければないか」を,僕等に教えた。そしてそれ以来のいわゆるボルシェヴィキ革命の進行は,主として「革命は如何にして為されてはいけないか」を,僕等に教えた」

                           《 『無政府主義者の見たロシア革命』序 》

 

 

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 ( 『 青春血記 』前編 監督・古海卓二。主演・市川右太衛門。東亜キネマ。昭和3年 )

 

 

 それ以上に挑発的だったのが、御大・市川右太衛門主演の第二作、《 戦線街 》。
 長脇差一丁の侠客・木更津の網五郎が、貧しい小作人たちを苛む悪徳地主とその手先の地元の地回り相手に立ち上がる筋書で、スポークン・タイトルが、

 

 金がほしけりゃあ、別段やくざになるにゃあたらねえ

 

 地上は闇だ、よし俺が灯をともしてやる・・・
 

 検閲で126メートルもカットされズタズタ。
 例えば、寺の境内で百姓達が鎌を研ぐシーンや、一揆衆が竹槍を振りかざして襲うシーン、武器の大写し等の生々しいシーン、それらを含んだ一揆シーンのフィルム第三巻の字幕全部がカットされたという。
 それでも、当時の《 サンデー・キネマ 》の谷口順一の映画評によると、

 

 「 千日前( 大阪 )で二つのアジプロ映画の花が咲いているーーー、『 何が彼女をそうさせたか』もかかっている、前衛映画の大当たり、『 戦線街 』『 日光の円蔵 』には『 何が彼女をそうさせたか』で足りないものがつめこまれている、それは何か、アジプロである 」

 

 右太衛門も、阪妻すら撮っていた当時流行りの傾向映画ってことで、早速のこの二作だったけど、鈴木重吉・監督の『 何が彼女をそうさせたか』程のバカ当たりには及ばなかった。それでも、やっぱし御大・右太衛門 ! 、それなりにはヒットしたようだ。
 その後も、金子洋文・原作の《 剣 》なんかも撮ったものの、次第に世の流れが暗い谷間の昭和全体主義の方に傾き始め、傾向映画もたちまちにして凋落、卓二にしてみれば、傾向映画の本家であるはずのプロ・キノ=共産党から、所詮ブルジョワ映画(=傾向映画)と批判され続け、一人卓二のみが雑誌等で反論し続けてきた不如意と焦燥に終止符をうった如く、娯楽時代劇映画の不滅の金字塔《 旗本退屈男 》( 昭和五年 )の制作に至る。
 御大・市川右太衛門主演の、その後彼の代名詞となる早乙女主水之介。
 共演には、やがて女剣劇スターとなって一世を風靡することになる元宝塚女優・大江美智子。
 その次篇・第二弾は《 京へ上がった退屈男 》。
 主演・市川右太衛門。大江美智子、卓二の映画に頻(よ)く出てる高堂国典。
 しかし、やがて右太衛門プロで労働争議が起り、先頭に立っていたのが卓二で、それ故に馘首されたのか退社。

 

 竹中労は、昭和6年退社のこの時点で、古海卓二の映画人キャリアは終焉したと断じた。
 後は、惰性・・・昭和12年コメディアン・古川ロッパの作品を最後に、忽然として映画界から去ってしまう。
 皆の反対を押し切って、故郷・北九州は八幡の隣町・黒崎に帰還。
 家業の鉄工所を継ぎながら、文筆の方途へ。

 

 ともかく、サイレント時代の事とて、現存するフィルムが殆んど残されてないから、如何にも己の眼で確かめようもない。脚本の方は少しは残存し、雑誌なんかにも部分的なものが結構掲載されてはいたようだ。
 けど、それすらも、我が南西辺境州じゃ中々に閲覧も難しい。
 昭和7年末の、阪妻こと坂東妻三郎・主演《 変幻七分賽 》前篇・後篇(制作・阪妻プロ、配給・新興キネマ)は、しかし、是非どんな作品なのか一見してみたいフィルムだ。同じ阪妻の《 邪痕魔道 》( 昭和2年 )が、そのタイトルからして面白そうで、露骨な傾向映画とは離れたはずの作品であっても、阪妻のニヒルな風貌と相俟って、果たして如何様な暗い谷間の妖花を映し出してみせていたのかやはり気にはかかってしまう。

 

 竹中はバッサリ断じたけれど、戦後大部過った当時( 竹中 )でも、現在とフィルム不在状態は変わらぬはず。恐らく、キネマ旬報やらの映画雑誌評や公開当時実際に観たことのある生存者( 大半が映画関係者だろう )に聴いたりしての推論的断定に違いない。
 卓二が形だけでも長年連れ添った葉子と正式に離婚し別れたってことを、卓二の映画製作への情熱の霧散の原因の一つとして、この著者は挙げている。
 実際、弟子達、俳優・スタッフ達の衣食住の面倒から、集金からとありとあらゆる煩雑な所用を一人こなしてきた葉子が居なくなってしまって、卓二はすっかりお手上げだったろう。その辺りは、あくまで、葉子の日記を典拠に構成された本書であるので、それ以降の卓二の舞台裏的台所的事情は不明。

 

 ロシアでの革命が、次第にボルシェヴィキ=スターリン独裁権力によって多くの犠牲者やシベリヤ追放者を出し、完全に革命と真逆なものとなっていった報道等に接するにつれて、失望と失墜の念に捉われていったのは先ず間違いないだろう。同時に、国内の共産党系であれアナキスト系であれ、ますます抑圧的になった権力の露骨な弾圧の前に、加速度的に消沈してゆき、映画産業・映画製作においても、検閲がいよいよ厳しくなって、御用映画化してゆき、卓二も砂を噛むような映画製作の日々だったのだろう。
 最後の映画を撮り終え、郷里の黒崎に帰った同じ昭和12年(1937年)、大杉栄と並ぶ老アナキスト・岩佐作太郎すら、《 国家論大綱 》なる、もはや偽装転向的パンフレットをしか出せなくなっていたらしい。
 いよいよ時代は、戦争へと直走っていく。

 

 

 《 夢を喰らう キネマの怪人・古海卓二 》三山喬 ( 筑摩書房 )
 
  参考 : 《 傾向映画の時代 日本映画縦断 1 》竹中労 ( 白川書院 )

 

 

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