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2024年3月の2件の記事

2024年3月31日 (日)

 春宵の日朝ダダイスト

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 旅行カメラマンの藤原新也が四国遍路を特別仕様のカブだったかに乗って廻ったってエピソード、もう幾年も前のことだけど、確かに、時間に限りある者なら功利的には違いないと感心させられたのが、ニ、三年前に、バイクじゃなく本道たる徒歩による単独一人の四国巡礼旅に出た当方の知人パッカーがいて、子供も設けた生活優先に、中々海外に出れないというストレス故の国内の昔ながらのバック・パッキング行なんだなと勝手に了解したものだった。
 ところが、つい最近、その彼が、今度は国内の別の場所のやはり一人単独の遍路旅に言及してきて、すっかり遍路旅に嵌ってしまったのだなと、ふと脳裏に浮かんだ一人黙々と山間を流浪してゆく山頭火や井月の漂泊的残像が、郷愁をともなった憧憬の念すら覚えさせてしまう春三月。

 

 

 1926年(大正15年)春、まだ寒さの残った帝都・虎ノ門の市電交差点の霧深い夜の巷、稀代の漂泊ダダイスト・辻潤、若きアナキスト詩人・秋山清、高DADA=高漢容( コハニョン )の三人が、散々飲み歩いた果て、漂う酒精の香も冷んやりと霧散する街路上、朦朧と一人白霧の只中に消え去ってゆく辻潤の後ろ姿に、ビロードのルパシカも凛々しいスラリとした姿態の美青年・高漢容が秋山に言うこともなくぼそりと呟いた。

 

 「辻って、さびしい奴ね」

 

 

 この場面が、韓国語翻訳家でもある作家・吉川凪の《 京城のダダ、東京のダダ 》の、この戦前の日朝ダダイスト達の交遊録の源基的イメージという。秋山と高漢容が連れ立って、雑誌《 虚無思想 》を創刊した辻潤を編集部に訪ねたその夜の一光景だけど、高漢容と辻は既にソウル( 京城 )で出遭ったというよりも、高漢容達朝鮮のダダ志向の青年達に辻が招聘され訪れていた。


 1924年の暮れ、日本のダダの本尊の来朝ってことで、当時の朝鮮の有名作家勢ぞろいの態で高級料亭・太西館で歓迎の宴を設け歓待したという。その数ヵ月前には、やはり辻と双璧をなす日本ダダ詩人・高橋新吉も呼ばれていて、突如ブラリと訪れ、高漢容の自宅に三週間近く滞在。
 辻も新吉も、正にダダ的実存というべきか、多分に奇態性を発露したりして、精神科にも厄介になったりした猛者といえば猛者なのだが、猛者という言葉のイメージとは裏腹な、何ともナイーヴな心性の持主達でもあった。但し、新吉の方は朝鮮ダダ青年達と同様に、束の間のダダイズムで、仏教の方途へと沈潜していった。

 

 

 日本統治・植民地時代の朝鮮といえば、秋山の郷里・門司の隣村の親戚だったギロチン社の中浜鉄が、ピストル入手のために赴いていたり、他のメンバーが爆弾入手のために潜航していた地でもあって、中国ともども、下駄ばきで行き来できていた時代であった。因みに、朴烈は上海で爆弾を入手していた。

 

 数千人の死者を出した1919年3月1日の三・一朝鮮独立運動以降、朝鮮からの日本留学志望の青年達が増えはじめ、1921年に日大に芸術科(美学科)が新設されると、まだ、規定があいまいで、有名学者・作家等の講義が聴け、夜間授業というのもあって、働きながら通える利点もあったため、朝鮮から学生が押し寄せたという。


 翌年には、ロシア文学専攻でき、昇曙夢が講座を受け持ち、ロシア文学史とロシア語も併せての授業だったらしく、高漢容も専攻。マルチリンガルの高漢容、朝鮮語・日本語・英語・エスペラントにロシア語まで話せるように。
 昇曙夢、大泉黒石の先輩ともいうべき、当時まだ僅少だったロシア語のエキスパートで、色んなロシア文学を我国に紹介していたのでも有名だった。当時、植民地化されてもう久しかった朝鮮、とりわけ日本文化強要政策による日本語教育によって大半の若者が日本の作家たちの作品を受容していたようで、高漢容もその典型で、高山樗牛にいたく傾倒していたという。やがて、興醒めし、失恋も併せて、失意のどん底に陥って、虚無主義に眼が向いたらしい。

 

 

 「 虚無主義にも少し目を向けてみたが、心安らかに落ち着けるところではなかった。以前から民族主義にはかぶりを振っていたし、社会主義は、理由は理解したけれど腹が減っていつになっても実行できそうになかった。」

 

 
 高橋新吉の《 ダダイスト新吉の詩 》(1923年2月)、辻潤《 ですぺら 》(1924年)を読んで光明を見出し、覚醒し、自らも朝鮮総合雑誌《 開闢 》( ケビョク : 70号以上発行したものの半数近くが日本内務省の検閲で発禁処分。 )に《 ダダイスム 》と題してダダイズムを紹介。一切の権威を否定するダダが、当時の朝鮮を束の間席券したらしい。
 

 

 「 私はですから東洋風に、日本人らしく自分のダダを表現したいと思いますーーーまた思わなくても自分が日本人である限り自然その表現がそうなることだと思います。/ 私は昔からタオイズムのエピゴーネンで、今でも荘子や列子を愛読しています。さらに仏教の中にダダ的精神を発見して喜んでいます。/ それが、Anti-marxismになろうがニヒリズムになろうが、一向差しつかえありません 」
                
              辻潤1924年の講演《 ぐりんぷす・DADA 》
 

 

 

「 新吉や辻のダダが東洋的な思想であったため、やはり東洋的な教養を持っていた韓国の文学青年も共感しやすかったと思われるダダは何よりも、考え方と生き方の問題なのだ。 ・・・・・・ 日朝のダダは実は強烈な反近代的あるいは反西洋的情緒を持っていた。」( 59p ) 

 

Dada-x

 

 


 当方がこの本で興味を掻き立てられたのは、朝鮮( 半島 )にもダダ運動なんてあったのか、という初歩的問題意識もあったけど、やはり詩人・秋山清が漂泊のニヒリスト・ダダイスト辻潤と交遊があったのと、日大に高漢容はじめ当時のやがて朝鮮文学界・思想運動界で活躍することになる青年達が、海峡を越え、こぞって馳せ参じたというところで、そういえば秋山も日大予科に通っていたのを思い出した。

 

 

 日大といえば、60・70年代の学生運動華やかりし頃の東大・日大闘争は有名だけど、昨今の延々と続く体育会絡みの諸問題に、林真理子も巻き込まれての更なる迷走ってことなのか、何でも起きそうな古田以来の日大、それにしても作家だったはずの林真理子、どんな行きがかりで学長なんかに就任したのだろう。
 それ故に、戦前の初期の頃とはいえ、日大の一面・一エポックは意外だった。


 美学科と同様人気のあったのが社会科で、朝鮮万歳革命事件=三・一事件で逮捕され総督府に拷問を受けた青年達等が多数入学し社会主義者の温床になっていたという。何しろ、あのテロリスト朴烈もこの社会科に席を持っていたようなのだから。
 高漢容、没落御曹司なのか、東京では、苦学し、様々な仕事に就き、関東大震災の朝鮮人虐殺事件直後に帰国した。彼も当時朝鮮人狩りの自警団つかまってしまい、誰何されて定番の「15円50銭 」を、それこそ日本刀や竹槍を突きつけられながら言わされたものの、語学堪能の真骨頂、流ちょうな日本語の発音で難なくこなし惨殺の危機を免れたという。後、朝鮮日刊紙《 東亜日報 》に、高ダダのペンネームで、《 うおむぴくりあ 》に日本苦学留学時のことをこう記している。

 

 

 「不忍池のほとりでは皓皓とした月の色に故国の恋人が恋しくて、転々とした流浪の生活に世の中が悲しくなってしまった。」
        

 

 美学科の学監・松原寛は、学生達に人気のある中心的存在だった。大泉黒石と同じ長崎・鎮西中学の同窓で親交もあり、1922年に日大で開催した《 文芸思想講演会 》に、黒石を講師の一人として招聘している。
 十辺舎一九=《 東海道中膝栗毛 》の彌次郎兵衛と喜多八をニヒリストとして、アナルコ・ニヒリスト黒石のニヒリズム論を展開してみせたらしい。別の講演じゃ、老子を論じたという。大きな体躯の腹の底から響き出すロシア語なまりの声音での講演、是非聴いてみたかったものだ。但し、高漢容との係わりは記されてないので、特に黒石と交渉があった訳でもないのだろう。

 

Dada-xxx

 

 

 この頃、秋山清も、日大法文学部予科で知り合った斎藤峻と大正13年(1924年)暮に他のメンバーと共に詩誌《 詩戦行 》を刊行。どんどんと同人も増え、翌春、門司から上京した母親や恋人と同居していた東大久保の家に、そのメンバー達も居候し寝泊りするようになって、さながらコミューン( 共同生活体 )の様相を呈したという。

 

 

 「 大正十四(一九二五)年の春に私の母が上京してきたその私の家に、独り立ちして生活してみたいということを許された斎藤峻がいっしょに寝起きするようになると、毎日のように同人の誰彼が集まってきた。
 ・・・そのうち働いている者が、斎藤を筆頭にして毎月一定のものを生活費として出すということになり、・・・皆が拠出する金は母があずかり、家賃と食費は心配なく、コーヒー代と電車賃は誰かが支払って神田、日本橋、銀座、大塚、新宿とよく歩きまわり、集会や講演会など皆で押しかけていって聞き、帰って来ては一二時一時までも議論に熱中した。」
             秋山清《 『 詩戦行 』のコンミュン 》

 

 

 東京に戻ってきた高漢容も時どき顔を出すようになった。

 

 

 「 東京のどこで彼と出逢い、行ったり来たりするようになっていたか、もうはっきりしないが、多分年齢は同じか、一つくらい彼が上だった。東大久保の私たちのコンミューンにも遊びに来て、おそくまで皆の議論をきいたりしていたが、滅多に発言しなかった。かといって、日本語がしゃべれぬのではない。朝鮮人の知り合いはその頃から、ずっと今も居るが、高漢容ほどわれわれとなめらかに話せる人は珍しかった。・・・
 その頃は本郷の東大附属病院の食堂ではたらき、夕方から時どき家にやって来ていたが、集まって来る中で一番の美男子だった。その上健康に陽やけして、きめの細かい皮膚の色が特色だった。」
             秋山清《 東京音頭『 昼夜なく 』 》
 

 

「 彼と私の交友は二ヵ年に及ぶ。この間私らの議論は反権力において一致し、ニヒリズムについてやや対立した。生きるに希望なし、自我あるのみ、と主張する高漢容は、社会連帯を思い、コンミューンを夢想する私の幼い詩の仲間よりもヒューマニストであるように見えた。」
                    秋山清《 東京音頭 》

 

 

 「高橋新吉は禅に傾き、辻はダダイストらしく破滅の道を歩んでいった。しかし狂うことも死ぬことも、マルキシズムに希望を見出すこともできなかった高漢容は筆を折り、その後の人生を市井の人として暮らした。」( p154 )
                          

 

 1924年~1926年のほんの束の間、朝鮮半島におけるダダは蒼白い燐光の如く一瞬にして燃えつきてしまった。
 戦後暫く朝鮮の映画撮影所の所長の職に就いていた高漢容、生真面目で余り商才に恵まれているようにも思えないのに、以降あれこれ色んな事業に手を出しては失敗しつづけ、晩年は神経痛に悩まされ、1983年晩秋、80歳で老衰で亡くなった。辻潤は敗戦前年、秋山は高ダダが亡くなって五年後八十四歳でこの世を去ることに。
 

 

 1926年春、霧深い夜の虎ノ門の市電交差点で、辻や秋山と別れた高漢容は、恋慕していたらしい菊村雪子を延岡に訪ねるため、無銭旅行に赴いた。
 当方が感心したのは、東京から宮崎・延岡までの1000キロ以上を歩いて旅をしたってところで、まさか車両が一般的じゃなかった当時ヒッチができる訳もなく、慕情を抱いての、関東大震災後の大正末日本列島の春を満喫しながらの徒歩行。高ダダにとって、つい数年前には朝鮮人ってだけのことで自身の生命が風前の灯と化してしまった帝都から離れ、未知の列島の町や村を一歩一歩踏みしめ踏みしめ感得してゆく漫遊行って、一体如何なるものであったのだろうか。 
 彼の尊敬する辻潤に至っては、大杉栄と一緒に虐殺された伊藤野枝のラブレターの入った風呂敷包みと一管の尺八のみ携えての、それこそ列島行脚の半生だった。

 

 

《 京城のダダ、東京のダダ  高漢容と仲間たち 》( 平凡社 )2014年 吉川凪   

 

2024年3月 9日 (土)

昭和的交遊録 金子光晴 

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 久しぶりに金子光晴の本を読んだ。
 《 回想の詩人たち 》( 冬樹社 )という短文ばかりを集めたもので、亡くなる一月前の消印のある〈 あとがき 〉のある最後の本ってことなのだが、消印の昭和五十年( 1975年 )六月一日は、最近、唐突な出現後病死した《 東アジア反日武装戦線・さそり 》メンバーの桐島聡や他のメンバーが、前年から日本中を震撼とさせた連続企業爆破事件を起こし、大量逮捕された翌月。
 序にこうある。

 

 「 青年は、観念の世界で、冒険する。他に冒険の場がないからであろう。青年の芸術の独走は、逆に今日の青年の貧しさを物語るもののようだ。こんなに芸術が抵抗なく世間に氾濫して、こんなに、芸術の喰い荒らされた時代を、僕はいままで見なかった。芸術に償われるようにおもい込むことのできた人の心が、みごとにしっぺ返しをうけて、そこもまた、他の世間とおなじ荒寥たる世界であることをしらされることになったのだ。
 はたして、『 常識 』が、こういう事態にさしあわせて、なにかの役に立つことができるだろうか。今日のいちばん大きな常識、国家革命にでも、それをきいてみるよりほかしかたがあるまい。」

 

 あくまで、詩・芸術の今日(当時)的あり様を論ずるなかでのフレーズだけど、いかにも時代性を如実に反映している。亡くなる一月前の、いわば遺言。
 走馬燈の如くではなく、総じて淡々とした筆致で、光晴の周辺の詩人・作家達のところを光晴風に記してて、それほど親密ではなかったものの、光晴同様、関東大震災前にデビューし親密感はもっていたらしい稲垣足穂にも触れている。足穂の小説は初期の頃から読んでいたようだ。

 

 「 坐るというよりも、蟠踞するといったかたちでいた。蟠竜軒といったほうがぴったりしそうだった。不幸を背負っている人の奥ふかい眼と、棲愴なくらさをともなって 」

 

 褪せた風呂敷包みと尺八一貫の招かねざる客・辻潤が、真夜中、狸寝入りを決め込んだ足穂の布団をひっぺがし叩き起こした際のエピソードなんかの足穂のイメージとは、又些か異なる。いわんや異優・殿山泰司の、戦中での送別会での足穂の言行不一致的パノラマに驚天的に心酔した際の足穂とは・・・それでもやはり、ポツンと一人薄日射す陋屋に佇ずんだ足穂が一瞬のぞかせる仄昏い相貌なのかも知れぬ。

 

 その、大正の風雲児・大杉栄に奪われた愛妻・伊藤野枝からのラブ・レターを秘された宝玉の如く風呂敷包に隠し常に肌身離さず帯同し、生きるかて( 酒精 )獲得のための門付け尺八一貫の辻潤にも触れている。
 辻潤の死に際のうなぎのエピソードは光晴に拠るもののようで、敗戦( 終戦 )前年に亡くなった辻潤とは、更にその前年、自由ヶ丘のアパートに居た辻潤と頻繁に行き来していたという。
 歳は喰ってても、なかなかいろ男だったと述懐している。
 辻の枯れたような風貌の写真を思い出すにつけ、も一つピンとこないが、写真はあくまで写真で、おまけに白黒なので、実際には意外に肌の艶も良かったりするのだろうか。

 

 光晴が牛込余丁町に居た頃、アナキスト詩人・秋山清( 当時のペンネームは、局清)と初めて会ったという。
 秋山は母子家庭で、郷里に母一人残しておくのは不憫と懸念したのか、それとも魔都ともいわれた帝都・東京の西も東もわからない秋山一人じゃどうも心もとないと母親の方が上京して来たのか忘れたが、中野・上高田の広い空き地にあったという乞食部落近辺で山羊を飼いながら母子二人で住むこととなった。
 作家となって喰えるようになるまで被差別部落で屠殺業に勤しみ日毎牛の鮮血に塗れていた大泉黒石といい、乞食部落の住民と親しくしていた秋山母子といい、社会の底辺の人々とざっくばらんに融け混んで生活していたのだけど、小説家の黒石はそれをあけすけに小説の題材にして憚ることもなく、否、むしろ顕示し後にはそれ自体として言及した作品すらあったのに較べて、詩人の秋山は、詩作や詩・文学雑誌等での評論の方が勝っていて、そんなエピソードに触れるチャンスなど無かったのだろう。

 

 戦前はそれほど近しくはなかったものの、戦後になって、詩誌《 コスモス 》を一緒にやるようになってから次第に親しくなっていったようだ。たとえば、秋山の作品についても、

 

 「 うっかりしていると、他のガラクタとみわけがつかないでいる。十年もすると、やっとその重味がわかってきて、ゆるぎなく人をおしつけるといった風なのだ。そして、もううごかないのだ。秋山清については、僕には、まだわからない面がたくさんある。彼はそのものズバリのようでもありながら、煙幕をはっている。気の弱さや、人間的な割りきれないものがたくさんあって、そのためにある危険さを感じさせながら、根本は狂っていないという感じなのだ。 」

 

 光晴が遠のいた後も、秋山は詩誌《 コスモス 》を精力的に継続しつづけ、通巻101号( ~1989年 )まで発行し、その最終巻は前年に亡くなった彼秋山清の追悼号となった。
 この光晴の回想が出た昭和五十年には、まだ秋山清は活躍していて、光晴はこう記している。

 

 「 また戦争でもはじまることになれば、一緒の危険にさらされて、はげましあわねばならない味方でもある。」

 

 
 その光晴、この回想集のあとがきを書き終えた一月後、気管支喘息による心不全で自宅で逝去。

 

 

 《 回想の詩人たち 》金子光晴( 冬樹社 ) 1975年(昭和50年)発行

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