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2024年6月の3件の記事

2024年6月30日 (日)

初夏末のオレンジの蝶 ひょうもんちょう( 豹紋蝶 )

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 今年の梅雨は、ここ数年長梅雨と化していたのが、湿気ばかりで雨の少ない空梅雨に終わりそうなここ南西辺境州だけど、週間天気予報は雨マークつづきなので予断は許さない。
 
 この幾年、否、もっと以前から、昆虫の類の姿を見かけることが本当に少なくなった。精々が、単体の一匹、小さな黄蝶や揚羽蝶、独特の青灰色のしおから蜻蛉、細い黒蜻蛉、緑の葉に紛れた緑のカマキリくらい。
 尤も、蛾や藪蚊も昆虫の類には違いないがそれが減ったなんて記憶はない。否、昨年あたりからか、春先に小さく細い毛のない黒い幼虫が集団発生するようになって、うんざり。空家同然の隣家の四囲にはみ出さんばかりの葉叢からやって来るのだろうが、どうも小さい蛾の幼虫のようだ。紋白蝶や紋黄蝶の幼虫だったら随分と扱いも違ったろうな、と我ながら手前勝手な、地面を這う蟻すらを踏み潰すまいと歩くインドのジャイナ教徒が聞いたらお怒りものの所業に、所詮人間的業の外に出ることもない己れの罪深さを知るばかり。勿論、踏み潰したりして殺した訳ではない。彼等がそこから生れ出てきただろう隣家の葉叢に投げ返しただけ。

 

 
 六月初め頃、隣家の鬱蒼とした濃緑の葉叢の上を、一匹の鮮やかなオレンジ色の蝶があてどもなく舞っていた。一瞬有毒鱗粉を撒き散らす蛾かと禍々しい危惧の念が脳裏をよぎったものの、蛾のような太々しい胴体のように思えず、もう幾年も使っている安物のデジタルカメラの25倍高額ズームで確かめてみると、若干胴太に見えなくもないが、メリハリの効いたオレンジ地に黒い紋様が気に入って、何枚か撮ることにした。

 

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 ネットでチェックしてみると、豹紋蝶 ( ヒョウモンチョウ )の種なのが分かった。只、ツマグロ豹紋等種類も多く、紋様にも一匹一匹づつの個体差があるようで、皆目見当もつかない。それでも、照合しながら、ツマグロ豹紋の類じゃなかろうか、と見当はついたものの、何の保証もない。それでも、雄オスなのは確かに判明した。雌メスは羽の黒紋部分がもっと多いので一目瞭然。
 6月の蝶らしく、やがて夏に入ると、もっと涼しい山間や渓流に移動するという。

 

 

 蝶々といえば、かつて、ダライ・ラマの居るチベット亡命政府のあるインドのダラム・サラの山間の斜面を、無数の蝶がどんどん昇ってゆく光景に出遭ったことがあった。えんえんと何時までも途切れることなく群れなして翔んで行く様は、神秘めいたものすら覚えさせるものであった。

 

2024年6月15日 (土)

チトラール=カフィリスタン  旅先のチラシ2

 

Kafilistan_20240503172801

 ( 黒衣に紅い装飾がよく映える異教徒の国・カフィリスタンのカラシュ族の娘達。四囲の圧倒的なイスラム勢に抗して生き延びてゆくのは大変なようだ。)

 

 パキスタン観光局発行だけど、一体何処で貰ったものだろう。
 アフガニスタンと隣接したチトラール州の州都・チトラール( 標高3800m )、ヒンドゥークシ山脈の麓、高原の町で、アフガン人達の姿を頻(よ)く目にし、大抵彼等は徒歩で国境を集団で越えて来るようだった。勿論、検問所なんて面倒くさい場所以外の。
 内戦中のアフガンじゃ何かと手薄な諸々を買うためだろう。食料や武器etc。

 

 

 隣の州だったかガンダーラ古代仏教遺跡の残るスワートで、ジープに乗った60代ぐらいのターバンを巻いた親爺さんがストック附きのモーゼル銃を銃口を上に向けたまま手にしていたことがあった。如何にもこれ見よがしでもあったけど、いつでも反撃できる臨戦体制ってことだったのかも知れなかった。パキスタンも隣国アフガン同様、基本部族社会。仇討ちはじめ封建主義的残滓もまだまだ残っていて色んな軋轢・抗争が生じるらしい。その旧弊的遺制ともいうべきものの最悪な形が、社会的下位に位置づけられている女性に対するあらゆる宗教的というより、封建主義的残滓をイスラム教で粉飾した悪逆な仕打ち。昨今頻く映画の題材にもなっている。
 

 

 チトラールは山岳エリアでペシャワールから飛行機( 双発プロペラ旅客機 )で入ると、両側の白銀の峰々の間の空港に降り立つ積雪に蔽われたその周辺の光景はなかなかのもの。只、パキスタンは空港の写真は御法度らしく、危ない橋を渡ってまで撮ろうという挙には出なかった。
 チトラールの町は、スワートの州都・ミンゴーラよりも小さな、現在は定かじゃないけど、当時はペシャワールで余り見かけないようなアフガン人達の姿が珍しいチトラール川に沿った細長い小じんまりした町であった。
 フェアランド・ホテルという安宿に泊まったけど、ともかく寒く、30ルピーで石油ストーブを借りたものの元々ちゃちな代物のようでしがみつくようにしてやっと暖を取れた。着火フィルターがいよいよちゃちで、3度も壊してしまった。そこの若いボーイが辛抱強く(?)交換してくれたが、さすがに最後にはもう他のはないと怒気を露わにしてみせたが。
 

 

 

 当方にとってチトラールといえば、バスも通わぬ悪路をもっぱらジープで川沿いに走った果てのカラーシュ渓谷に散在する異貌の少数民族カラーシュ族の村々。 黒衣に、編んだ貝殻で飾った帽子、赤い首飾りという独特の女性衣装が特徴で、アレキサンダー大王時代の遺制的部族ともいわれている。アニミズム信仰で、イスラム勢力が浸潤しようとしてあれこれ画策しているようでもあった。当方が滞在していた頃にも、既に附近にパキスタン人の経営する安宿や小さな雑貨屋なんかが建っていて、ルピー札を片手に、主婦らしいカラーシュ族の女性が、遠慮がちに店頭に並べてある雑貨を物色していたことも。

 

 

 北海道( 蝦夷 )のアイヌ同様、いわんや排他性の強いイスラム勢力に席券され、どんどん少なくなっているようだったが、昨今はどうなんだろう。むしろ外人と一緒になる者も出て来ていた。彼等にとっては、イスラム=パキスタン人より、イスラムにとって同じ異教徒たる外人の方が、より親愛的友好的な存在なんだろう。
 因みに、アフガン側にも、同じカラーシュ族は居るらしく、彼等はアフガン=イスラム勢力によって、強制的にカラーシュ的アニミズムを捨てさせられ、イスラムを押し付けられてしまったという。ヌリスターンと呼ばれる地域だけど、アフガン内戦でも常に地の利を活かして頑強に抵抗するのでも有名な地であった。

 

 

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2024年6月 1日 (土)

黒石研究の新たなリファレンス 《 黒石大泉清小伝 》

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 ( 黒石の祖父・本川庸四郎が参加していたという長崎・振遠隊。東北まで遠征し、帰路乗船した一艘が旧幕軍に撃沈され、大楠で有名な大徳寺境内に葬られたという。庸四郎は免れたもう一艘に乗っていたってことになるが・・・)

 


 元々多くはないといえ、四方田犬彦《 大泉黒石 わが故郷は世界文学 》(岩波書店)以降、ネット上における大泉黒石関係の記事・投稿、若干増えてはいたものの、所詮ポツリポツリと本当に微々たるものでしかなかった。
 一億総ベンチャー時代を反映してやたら商用( 営業 )ばかりが氾濫し、そこを掻き分けかき分けしてようやく辿り着けるって不如意な状況の中で、つい最近、

 

 《 黒石大泉清小伝 〈大泉黒石〉の誕生 》 児玉司

 

 なる卒論を小出版化し、ネットにも提示しているなかなかに詳細に渡って調べあげた力作に遭遇した。
 大泉清が大泉黒石として誕生するまでの軌跡=伝記研究ということらしい。
 四方田と同様ロシア文学専攻の徒らしく、一応ロシア語はできるようで、そこから黒石のロシア語能力を推論し、四方田はその辺りまだ確言はしてないけど、この早稲田の露文教授を尊敬しているらしい研究者は、既存の懐疑論を踏襲しているようだ。

 

 

 それはともかく、当方にとって、一番興味をもったのは、当方も以前何処かで聴いた覚えのある、黒石があれこれのペンネームを使っていたそのペンネームをそれなりに詳らかにしたってところだろう。

 

  〈 丘の蛙 〉、〈 大谷清水 〉、〈 泉清風 〉

 

 これ以外にもまだある可能性があるようだ。
 月刊・中央公論《 俺の自叙伝 》で一躍スターダムに登るまで、いわゆる赤本世界で活躍していた時代のペンネーム。国会図書館蔵書検索でいずれもチェックすることができる。
 通俗低級な書物あるいは子供相手の書物等を一括して赤本と呼び、その最大手が日本雄弁会講談社であり、まだ第一高等学校に入学したばかりの1916年頃には、磯部甲陽堂から丘の蛙のペンネームで《 一高三高学生生活 寮のささやき 》なる単行本を出版。
 但し、基本的に赤本は、印税とは無縁の、原稿買取制らしく、当然に買い叩きの廉価故に、既に結婚し家族を養わねばならぬなっていた黒石は、国会図書館収蔵目録見ると、毎月の如く単行本を 一冊書いていて、その切羽詰まった遮二無二な執筆振りが了解される。その合間にも他の仕事もこなしていたのだろうから、正にRUSH LIFE !( やがて、LUSH LIFE へと変容してゆくのだが )。
 つまり、巷間言われていた出世作=月刊・中央公論《 俺の自叙伝 》の頃には、既に充分な作家活動経験を積んでいたってことだけど、所詮粗製乱造の赤本故に、その制作形態がその後の本格的作家活動にも尾を引き、忙しさにかまけややもするとそのイージーさが顔を出し、あるいは一気呵成故に前後の平衡性を欠いたりもするのもこのブログじゃ既に了解済み。

 

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 次に興味を惹いたのは、黒石の母方の祖父、本川庸四郎についてもう一歩踏み込んでいる点で、庸四郎は下級武士として明治維新戦争つまり戊辰(ぼしん)戦争でそれなりに活躍した故にであろう、明治政府に下関税関の長のポストを与えられ、賄賂を貰ったかで山口県下の小寺で自刃したというエピソードに、あれこれ詳細に渡って説論している。
 明治維新の頃、とりわけ維新後、たとえば長州藩の下級武士出身者たちも、さまざまなポストが振り与えられたのはいいが、なまじ慣れぬ官史職、ある種の旨味( 賄賂等 )に身を持ち崩す者多数に及び、一斉に斬首切腹等の厳罰に処された者多かったようだ。
 戊辰戦争の折、長州の対岸小倉藩を占領した長州軍、維新後も違法に占領をつづけていて、元の小倉藩時代の企救半島(門司・小倉一帯)の庄屋とつるんでいたのが、地元の農民たちの憤りを買い、百姓一揆にまで発展した顛末は、以前このブログでも言及したけど、その時の旧小倉藩占領の長州藩側のトップが、安倍晋三の先祖たる佐藤寛作だった。
 黒石の祖父・庸四郎もそのでんで自刃を迫られた可能性が高い。

 

 

 《 俺の自叙伝 》じゃ、下関税関の初代所長って肩書だったけど、この《 黒石大泉清小伝 〈大泉黒石〉の誕生 》じゃ、「 下関は門司税関の管内で税関長はいない 」等の黒石研究者の中沢弥の言を牽き、庸四郎の経歴の虚構性に言及している。
 黒石の書き様ってのは、整合性なんかには拘らない大雑把なあるいは一気呵成さにあるのであって、余りそんな微細な事実性に依拠した論理的整合性の追及は意味をなさないのではないか。
 元々下関税関の初発は、明治8年8月(1875 年)に、三菱系の郵船の横浜~上海航路開設にともなった長崎税関下関税関監吏出張所であって、門司より先んじて設置されたもの。当時はまだ、外航郵船を係留できるような港じゃなく、沖合での停留だったらしい。
 そのまだ出来て間もない長崎税関からの出張監吏を、文脈というよりむしろ力学的に税関長としたって仮説も、黒石の面目として成り立ちはするだろうけど、そもそも庸四郎の死自体が何時頃なのかもはっきりしてないようじゃ、その事実性は保留しておくしかあるまい。

 

 

 この《 黒石大泉清小伝 〈大泉黒石〉の誕生 》は、恐らくというより、普通に東京近辺在住という黒石研究には申し分のない環境、その上、大学という更なる好条件下にあって、その特殊性を十分に駆使したって風だけど、それ以上に辻潤とはまた異なった傾向性と因子の不可解さに惹かれたのだろうか。
 とまれ、四方田犬彦《 大泉黒石 わが故郷は世界文学 》とあわせて、黒石研究のリファレンスと評しても過大ってことはないだろう。普通に黒石ファンであっても、参照文献の網羅は、もう一歩踏み込んで視てみたい者たちにとって、確かな足がかりとなるだろうから。
 さて、第三のリファレンスは現れるだろうか。

 

 

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