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2024年7月13日 (土)

 前-黒石的時代の黒石的躍如《 午 》1917年

Photo_20240712100401  

 ( 冒頭、扉の綴じ込み見開き 黒石の印のある挿絵。当時のどんな経緯での奮迅の図なんだろうか。 )

 

 

 大泉黒石の赤本時代の、大谷清水なるペンネームで発表された《 午 》( 日吉堂本店 )、国会図書館蔵デジタルコレクションで一瞥。
 午は、牛じゃなくて、干支のうま=馬。
 著書タイトルの午は、また、著者・大谷清水( =黒石 )のことでもあるようで、冒頭の第一章の見出しも〈 「午」のおいたち 〉とある。黒石の干支が午なんだろうか。
  午とは、正午の十二時前後の二時間を指し、まさに盛りってところ。
 草木等が生命力の極を過ぎて些か疲れを見せはじめる頃の意でもあるらしい。干支じゃなく、漢語的意味に、さからう、ってのもある。
 

 

 赤本ってちゃちな安っぽい造本とばかり決めつけていたら、何と本の扉に、貼り込み見開きページがあった。
 国会図書館蔵書のコピーであるデジタルコレクション故なのか、彩色されたものか、墨一色のモノクロ画なのか定かじゃないけど、黒石の絵筆によるものらしい、僧や侍、その他が入り乱れ争っている図が描かれていて、その斜め左上に、墨で認められた黒石の句らしいものが認められている。

 

 

 旃陀羅之子
 正法之僧
 奮迅
 奔馬

 

 

 とある。
 旃陀羅(せんだら)とは、もともとインド起源の仏教用語で、殺生を生業とした屠畜・狩猟業に就く人々(カースト)を指し、日本でも、日蓮が自身の父親が漁民だったのを踏まえて自らを “ 旃陀羅が子 ”と自称していたという。
 サンスクリット語のチャンダーラの音写で、アウト・カースト的存在として賤民と訳され、マヌ法典じゃ、隷属民( シュードラ )の父と婆羅門( バラモン )の母との間に生まれた謂わば混血児を意味する。正に、当時の黒石が置かれた状況そのもの。

 

 

 二行目の“ 正法之僧 ”というフレーズも、併せて日蓮のことを指すという解釈も成り立ち得ようが、この句自体の前提になる当時のイワク因縁がまったく当方には不明で、そこに描かれた黒石の挿絵だと、黒衣の僧が一人周りの侍や其の他の男達( 斜め前には白抜きの若い女人らしき姿も )と格闘し、孤軍奮闘しているんだが、この僧って明らかに旃陀羅の子たる黒石、あるいは仮託された分身って趣き。
 中世の封建主義社会にあって、このインドのカースト由来の差別構造的概念=旃陀羅はいろいろと物議を醸してきたらしく、黒石も、被差別部落解放運動=水平社あたりから、《 俺の自叙伝 》等でのあからさまこれ見よがしな自己顕示性の強い挑発的言辞の横溢を諫められたというエピソードがあったように記憶しているけど、この赤本時代はそれより前。
 巻頭のこの一枚の挿絵だけで、もう、十分に大泉黒石的面目の躍如といえよう。

 

 

 

 「 私は、余り利巧な人間ではない。利巧な人間だったら、二十五歳の今日、既に大臣位にはなっている」

 

 「 私は未だ有名ではないけれども、何今から、ボツボツ有名になる。」
 

 

 第一章( 章のナンバーはついてはいないが )〈 「午」のおいたち 〉の冒頭のこの文章からして、自叙伝ほどのあくの強さは希薄だけど、滔々と黒石節が溢れ出ている。
 彼の文体は、もうこの頃から既に出来上がっていたようだ。
 筆勢のなせる術であっても、ハッタリ半分にしても、意気軒高。
 後年洩らすようになる些か気弱な言辞が単なる修辞に思えてしまう。否、これもあれもその当時の本懐に過ぎない・・・否、否、皆、小説的仮構世界的産物に過ぎない。
 黒石の生活的格闘・苦闘全開のラッシュ・ライフRUSH LIFE、けれど、もともと文学少年・青年でしかなかった黒石、そんな屠牛の血塗れの只中に在っても、文筆的営為に一瞬間であれ、有為本懐的な愉悦を覚えるってこともあったであろう。

 

 

 「 旧い支那鞄の中から、父が残して逝った手紙があった・・・」

 

 「 到々、学校の先生へ持って行ったが、さっぱり解らぬらしい。」

 

 「 その儘解らぬなりで翌年の尋常三年生になるまで、持ち越して、丁度九つの年、外国の学校に入学してからやっと解った。それは、英語だ、英語だと信じていたのが、豈図(あにはか)らんや露西亜語であったのだ。」

 

 
 ここの件(くだり)は、児玉司《 黒石大泉清小伝 》も触れていたけれど、まだ幼かった黒石は、その時になる迄、自身の父親がロシア人であることすら知らなかったと記している。
 しかし、長崎の町はそれほど大きな町じゃなく、十分に歩いて廻れなくはない。いわんや明治・大正の頃なら尚更。長崎湾に注ぐ浦上川の対岸・稲佐には、ロシア海軍マタロス休養所があり、多数のロシア将兵が滞在し彼等相手のレストランや商店等も並び、ロシア語の看板も堂々とこれ見よがしに掲げられていたという。どころか、稲佐の人々も簡単なロシア語位い子供達すら話せたという。( ロシア皇太子ニコラス二世が長崎を訪れた際、ロシア語を話せる日本人が多いのに驚いたらしい。 )
 勿論黒石の思春の頃には、日露戦争等で廃れていったとはいえ、その学校教師が自身は読んだり話したりはできずとも、特徴的なキリル文字=ロシア語ぐらいの了解性はあったろうから、何ともここの記述は余りに白々しく、やっぱり、話を面白くするためのレトリック・修辞と了解すべきだろう。

 

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 ( 稲佐の国際墓地の中のロシア人墓地 オランダ人墓地や中国人墓地同様朽ちた墓標が草叢に静かに佇んでいる )

 
 
 話は少しそれるけど、黒石同様中央公論の説話欄作家だった田中貢太郎だったか村松梢風だったか忘れてしまったが、そのどちらかの長崎の知人の言として、黒石が稲佐の出身( その事実性はともかく )とも語っていたというエピソード・・・単純に考えれば、確かに黒石の母親・恵子が、稲佐のロシア海軍マタロス休養所に係る地元出身の妓女=ラシャメン(洋妾)だったといえば、確かに、納得はしやすい。
 幕末に、折から降って涌いたロシア海軍休養所設立に、稲佐の貧しさを救うことにかこつけた ( 以前当ブログでも触れた ) 稲佐妓女=ラシャメン誕生故に、自刃した祖父・本川庸四郎のため、決して裕福ではなかったであろう女ばかりの大泉家であってみれば、そんな高収入を望める洋妾ラシャメン志向の若い娘達の中の一人として黒石の母親が居たとしても不思議じゃない。

 


 尤も、たとえ稲佐に住んでたからって、必ずしも妓女になる訳じゃないのは言を待たない。ロシア・ブームに沸く中で、それなりに知的な雰囲気の中で育ったらしい恵子がロシアおよびロシア文学に興味を抱くようになったとしても不思議じゃない。むしろ、庸四郎の家柄( 実際のところは定かじゃないけど )的に妓女は些か、当時の封建主義的観念からは無理がある。
 後年、黒石の嫁・美代の親族から、黒石の目の悪い祖母が自分の娘である恵子をロシア人に売ったと非難されたというエピソードが示すように、高稼の妓女であれ異人ロシアンに憧れ嫁ぐ文学娘であれ、幕藩体制から御一新=明治維新体制に移ってからも、封建主義的差別構造は殆んど変化を受けることなく、( 四民 )平等なんて何処吹く風。
 明治維新初頭、全国的に百姓一揆が頻発した際にも、真っ先に、四民平等化で成り上がったといわんばかりに被差別部落が一揆衆に襲われた事件が多数あったことからも、その封建主義的残滓の根強さが了解できる。( 欧州のユダヤ人ゲットー襲撃を想起させる。尤も、昨今のガザ=パレスチナ人に対する執拗な破壊・殺戮は、勘違いしたイスラエル人たちの逆行したポグロム以外の何ものでもない。)

 

 

 そもそもが天皇=国王、あるいは神を頂点に頂いていて差別のない平等社会なんて、字義からしても論理からしてもあり得ない。神の前の平等って、如何なる例外も認めない平等( 主義 )が自由の前提でもあるという基本原則 ーー それを自由と平等が水と油のように相反する概念として構造化して、どちらかの一方をのみ至高のもののように喋々する輩が、果てしないくらいに多くの暴虐と悲惨をこの世に蔓延化させてきた -ー を、権威・権力を正当化するために歪曲し偽装した全体主義でしかあり得ない。
 ありとあらゆる差別、性差別・職業差別等の底無し構造。この著作が世に出た当時から、ゆうに百年以上過ぎた現在においても、事情は変わらず。
 

 

 

 それはともかく、恵子の嫁先、黒石の父でもあるアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチは、ロシア海軍の軍人じゃない。
 稲佐マタロスは、あくまで、海軍将兵たちのためのもの。
 マタロスの名は、ロシア本国まで達していて、ワホーヴィチがそもそも長崎を訪れる機縁となったロシア皇太子ニコラス2世も、噂を聞いてマタロスに滞在したぐらい。
 普通なら、ワホーヴィチは外交官として、他の欧米人達が住んでいる南山手の洋館並ぶ居留地に滞在しているはず。只、ロシア皇太子の随行員としてなら、ひょっとして、マタロスに滞在したかも知れないけど、ワホーヴィチは中国語通訳として参加って話もあるんで、マタロスに一緒に連れ立つ必要あるとも思えず、南山手のロシア大使館側に滞在したのかも。
 それでも、海軍将兵たちと稲佐ラシャメン(=長崎娘)たちとの親密関係はワホーヴィチも既知の事柄でもあり、蠱惑的関心を持ったろうから、他の欧米大使・商館員たちが丸山ラシャメンと係わりを持った如く、素人であれ妓女であれ長崎娘へのアプローチを、そんな伝手を通して得たものが恵子だったのかも知れない。その辺りの本当のところ、プロセスは、依然としてこの国の封建主義的差別構造と排他的軍国主義の白闇に隠されたまま依然として不明。

 

 

 

 以下、計20章もあるけど、真ん中あたりにある〈 無限の理 〉(126~134頁)に興味深い記述がある。

 

 
 「 如何なる逆境にある貧乏人にも希望が有れば、前後には赫灼たる光栄の光明が路を照らしているのである、苦を苦と思わず、労を労とも感ぜず、一歩一躍、光明の一路を辿り、周囲より迫害排擠せられても、皆是れ自分を玉にして呉れる他山の石だと考えて自分の修養の道具に使い、他人が悪意を以て向かって来ても之を善意にとり、鬼で来れば仏で受けるようにするのは希望の力である。」

 

 

 正に悪戦苦闘の只中にあった黒石の、しかし、実際のところ、彼が真摯にかくのごとくの、マァ生計を立てるための売文とはいえ、何をかいわんや風の定番を己の銘にしていたかどうかちょっと怪しいものだが、ともあれ結構生真面目な性分でもあったようだし、やっぱり自身の思う所の開陳なのだろうか。
 つづけて、禅林世語集の一句を提示。

 

 

 「 人を皆吉野の花と思い見よ
    我を浪速のあしと云うとも。

 

 

 如何に世間から罵り嘲られても、我に希望さえあれば、他人の罵詈讒謗は吉野の花と見て愈々迫らず生活の歩を進めてゆく心掛けを持つ可(べ)きであろう。
 その希望は、吾人をして此の世からの極楽浄土に導く唯ひとつの光明であろう。」

 

  [ 注 ]禅林世語集じゃ、「花と思い見よ」ではなく、「花と見よ」だけ、「浪速」は「難波」。

 

 極楽浄土に導く唯ひとつの光明とは随分時代がかった言葉だ。
 確かに、禅林世語集の一句なら別に違和感はない。
 けれど、諧謔風味の黒石の口から出てしまうと、吉野の花という言葉と仏教的悲願ともいうべき極楽浄土という言葉の対照が、黒石の置かれた不条理と孤軍奮闘と混然一体となって、かえって一層、映画「砂の器」の仄昏い宿命的凄絶さすら覚えさせてしまう。
 この吉野の花の一句、この著作の流れじゃ処世君的ニュアンスとして了解すべきなんだろうが、しかし、あくまで禅林的一句、禅的見解は如何・・・ネット捜してみても、さっぱり出てこない。時折、耳にした記憶あったんだけど。禅宗的ネットにおいては、殆んど顧みられない句なのか。
 

 

 黒石、この本に限らず、他のペンネーム、丘の蛙や泉清風での作品にも、自ら挿絵を描いていて、作品によっちゃー幾片も描いているのもある。赤本時代から、挿絵家でもあったのだ。彼以外の作品にも描いていたら是非見てみたいものだが、そういえば、後年、美術雑誌にも投稿していて、何故美術雑誌に黒石が、と不思議に思ってたら、そんな挿絵家的前提があったようだ。

 

  大谷清水『午』( 日吉堂本店 )1917 年( 大正六年 ) 8 月発行

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