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2024年8月の2件の記事

2024年8月17日 (土)

空蝉の夏

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 今年はじめてプリメリアの苗を植えてみた。
 カンボジアの寺院の庭先で、白地に黄の混じった鮮やかな花々がしっとりと咲き誇っていたその静かな佇まいは独特のものがあって、何とか自宅の庭先にも是非一本植えてみたいものだと、長年の懸案だったのが、今初夏、ようやく苗木を植えるに至った。
 鉢植えは趣味じゃないので、狭い庭角に植えてみたのだけど、存外、適当にしか面倒みないのに、何たってすっかりトロピカル化した列島であってみれば、申し訳程度に先端についていた葉芽もすくすく育ち、大きな枇杷風の葉となってそれらしい姿にはなってきた。
 花は来年以降なんだろうが、如何にもトロピカルな佇まいはなかなかのもの。

 

 

 人影が途絶えて久しい隣家の庭もアベノミクスとトロピカル化で、いよいよ鬱蒼とした葉叢となり、奥の伸びた樹枝に小さな青い実が鈴なりなって、秋になると真っ赤に色づき、小鳥たちの餌になるって生態的リズム。
 ふと、手前の別種の大きな緑葉の上に、茶色い蝉の抜殻がひとつ。
 毎年何個か見つけるけど、翌日には、珍しく同じ葉の裏側にも、泥塗れの抜殻がひとつ貼りついていた。
 ネットで調べてももうさっぱり。
 只、泥塗れの抜殻はニイニイ蝉ってのが相場らしい。
 ニイニイ蝉は小柄で、どうもこの泥抜殻とは異なるようだ。それ以外の蝉も、地面の状態が雨上がりだったりしてぬかるんでると、ぬかるみの泥土に塗れたまま枝葉までゆっくりと這い上って来るという。

 

Mushi-2

 

 蝉は蝶と同様成虫となってから飛び立つと一月前後の命という。
 蝉は夏場に枯木の幹なんかに卵を産みつけ、翌年の梅雨頃、幼虫となり地面まで降り潜って根っこから樹液を吸って大きくなる。そして、夏頃、再び幹を昇り樹枝や葉にしがみついて羽化・脱皮するというサイクル。地中で生活する期間は種類によって違いがあり、日本列島の蝉だと、三年~五年ぐらいってところらしい。

 

 

 ところが、周期蝉( 素数蝉 )と云われる種は、きっかり13年または17年だけ生きる。勿論その長い間、樹液等を吸いながらずっと地中に隠れている。只、彼等の場合、集団で巣くっているいるようで、同じ木の地中に数万匹も幼虫が身を潜めているとのこと。但し、米国だけに生存しているという。
 その米国じゃ、今夏、その13年と17年蝉がダブル羽化する年で、その数一兆匹。you tubeで、その米国のダブル羽化の様子が見たけど、そのエリア内はやはり相当騒さいらしい。けど、特定の州、それも特定のエリアの限られた木々のある場所って訳で、米国中のどこもかしこもで一斉に素数蝉の騒鳴が始まるってんじゃないようだ。それでも、一本の木肌に羽化した無数の蝉が貼りついている光景って蝗の襲来を想起させる。二百数十年振りの現象ってところで、いよいよきな臭く権謀術数底無しの世相にこじつけて終末論的符丁とする輩も跋扈しかねない昨今ではある。

 

2024年8月 3日 (土)

大泉黒石 売文業はじめ 『 文壇数奇伝 』 その2 

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 大正11年といえば、大正8年の『俺の自叙傳』のメガヒット以来の人気も陰りを見せ始めた頃、それでも玄文社発行二月末《 露西亞文學史 》( 大鐙閣 )が発売され、その数ヶ月後には、黒石のもう一つの一大ヒット作《 老子 》( 新光社 )が発売、その年の暮れにも、続篇《 老子とその子 》( 春秋社 )が発売された復活の年。
 更に、翌年には、日活向島と提携した新進の溝口健二監督、映画《 血と霊 》に先行して《 血と霊 》( 春秋社 )も発売。
 正に風雲再起!

 

 

 学術系ともいえる《 露西亞文學史 》とほぼ同じ頃、新潮社から出されている《 文章倶楽部 》の三月号に、前号を受けての[ 承前 ]という続篇的名詞のついた《 放浪の半生[ 承前 ] 文壇数奇伝 その二 》のタイトルを冠された、きっちり3ページの短文が掲載されている。

 

 

 タイトルに“ 文壇数奇伝 ”とあるように、黒石の小説家的軌跡とそこで出会った作家・編集者達の文壇的四方山だけど、「 全く私は孤立である 」とか、保守派の文壇人達から「 下品な泥棒のような油断の出来ないソシアリストだ」と睨(ね)めつけられているとか、黒石の本音なのかシニカルな諧謔なのか、黒石節は健在。
 

 

 話題はいわゆる黒石の赤本時代の頃、このブログでも以前紹介した雑誌《 トルストイ研究 》に掲載して貰おうと新潮社に原稿を持ち込んだあたりの事にも触れていて、
  

 

 「 私は実に二十幾年の間何の目的もなく西洋の文学を読んで来た!その癖『 作文 』の一つも試みたことがない? ( 探偵小説例えばホフマンやコナン・ドイルや、レ・クヴエやアーヴングなどの誤訳は別として)。では私には文章が書けないのか? 書けたら何を書くか?・・・・・・書いて売ろうと云う考えの前に兎に角私は自分の身の上ばなしをざっとこしらえて見よう! かくてサラサラと書き上げた三十枚ばかりの原稿を持ち込んでいった雑誌社が、牛込の新潮社で、それは今も確かにあるに違いない雑誌社で、何故そこへ持ってったか? それは私の原稿の内容(私はゴリキー以外にトルストイにも会ったことがある。その印象記 )がトルストイ爺さんに関したことであって、その頃、この雑誌社から「トルストイ研究」と云う小冊子が出ていたからである。」

 

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 この時に対応した新潮社側の担当者が“みすぼらしい風采”の加藤武雄で、黒石の原稿を受け取ってくれたらしいが、後の行( くだり )じゃ、加藤におだてられいい気になって書いたとも記している。それが、

 

 《 杜翁の周囲 (Ⅰ) 》大正6年11月号
 《 杜翁の周囲 (2) 》大正6年12月号

 

 なのだが、余りにも原稿料が安過ぎ諍ったようだ。
 これで元気づけられたのか、中学時代に投稿し採用されたことのある《 文章世界 》( 博文館 )に紀行物を持ち込み断られたという。やがて黒石があっちこっちで発表することになるロシア紀行物だろう。
 この頃は、まだ、作家活動を始めて間もなかった時代で、やがて本格的に赤本時代に突入してゆくことになる。何しろ、大正6年末=1917年10月革命、つまり世界を震撼させたロシア革命勃発の時節、押しも押されぬロシア系たる黒石であってみれば、引っ張りだこは時間の問題だったろう。
 尤も、彼に云わせれば、

 

 

 「 あすも今日も過激派の話ばかり書いたものだ !そして私は過激派を喰い物にして一体何枚の原稿を書いて幾何儲けたかと云えば、一枚の原稿が五十銭から一円五十銭までだから、どうかすると何にも書かない月末が却って楽な気がする位だった。」

 

 

 要するにそれなりに原稿は書けたけど、原稿料が余りに安過ぎて、むしろ徒労感ばかりが蓄積されたのだろう。
 その後もうち続く赤本時代の大正9年の夏、神田にあった日新閣に子供向の短編の原稿を持ち込んだ折に偶然出会った田中貢太郎に《 中央公論 》を紹介されることに。

 

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 「 その雑誌に書いた物が私を意外にも、いや私を( “は” の誤植だろう。)有名になる気は少しもないのに、有名にして了ったのである。これがをかしなことに殆んど二日と云うものは寝ずに書いた私の『 自叙伝 』であったから馬鹿々々しいような気がする( 有り難迷惑とはこのことでしょう! 何故なら私はそんなもので有名になる所存は更になく、と云って、毎日押しよせてくる借金取り(かけとり)を追っ払う必要はあるしーーーそれから今日までザッと三年にもなるだろうが、兎に角思いもよらぬ文学者になって了って何とはなしに恥ずかしいことの限りをお目にかけ通して来たと云うものだ。」

 

 

 この行、当の田中貢太郎が後に述懐したものが些か面白い。

 

 

 「 大正八年頃であったろうか、大泉黒石が何処かからか出て来て神田神保町の日新閣という出版家に上がり込んでいるのに往き逢った。私は黒石を伴れて秀英社へ滝田氏に逢いに往って、黒石に書かせてもらうことにした。そして、出来たのが俺の自叙伝と云う黒石の傑作である。これも説苑の中間物として文壇には問題にせられなかったが、立派な創作である。ただし、滝田氏に逢いに行っての帰り、黒石が何処までも露西亜人になりすますので、刺身で日本食を食わせては気の毒だと思って、神楽坂に伴れて往ってみると、露西亜ではこんなふうに食べますと云って、ばくばくと犬のように洋食を喫ってみせたなどは、余りに創作家過ぎると思う。」

 

 《 奇談全集 歴史篇 》(改造社) 昭和四年「序文にかえて」 田中貢太郎

 

 
 これは蛇足だけど、この雑誌( 三月号 )の目次、新潮社、当時どんなレベルの出版者だったのか定かじゃないが、ともかくめちゃくちゃ。タイトルと筆者、ページが異なるのが少なくない。ここまでひどいのは、マァ~見たことない。校正は富士印刷( 小石川 )の方なのか、新潮社なのか。色々取り込んでいたのだろうか。

 

Bunshokurabu-3jpeg

 

 百ページちょっとの薄い雑誌だけど、普通の文芸雑誌と違って、読者の投稿が大部分を占める。
 短編小説だけじゃなく、散文・書簡文・論文・短文、短歌・俳句、小曲・コマ絵( 一コマ画 )までのジャンルが網羅されている。
 短編小説は、新進作家紹介と銘うっての募集で、原稿一枚につき1円以上の原稿料を約しているので、この号から最大15枚だから、掲載されれば15円の収入。
 因みに、選者は、かつて雑誌《 トルストイ研究 》に黒石が原稿持ち込んだ際に採用してくれた加藤武雄と水守亀之助。水守は、文芸誌《 新潮 》の編集に携わっていて、加藤と同様、編集の仕事をしながら、作家活動を続けていた当時流行った通俗小説家。
 コマ画には二種あって、いわゆる漫画と物語の人物・情景画。漫画は一~五円、物語画は一~二円の原稿料。赤本時代の一枚五十銭より倍以上。尤も、物価上昇故の実質変わらずってのかも知れないが。
 

 

 巻末の「編集の後」という編集者後記の欄に、いつもなら懸賞短篇小説の発表をするはずが、これといった該当作がなかった故に、今回はナシ、とある。毎回三百篇以上の応募作を子細に吟味しているらしく、「 不成績は毎度の事ながら、今回は殊にひど」かったようで、今回限り、思い切って休載にした由。
 その不成績の理由として、一篇の原稿規定枚数十枚が少な過ぎ、執筆意欲を減じてしまうかも知れないから、今回から、十五枚に増やし、作品さえ良ければ、何篇でも掲載する旨まで告示されている。

 

 

 

 放浪の半生[ 承前 ]( 文壇数奇伝ーその二ー ) 《 文章倶楽部 》三月号 大正11年発行 ( 新潮社 ) 42~44P

 

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