ドイツ第二帝国から第三帝国への間 ムルナウ「最後の人間」
( 巨大な書割セット。日本の『 血と霊 』でも、負けないくらいの大きな書割セット世界を提示できたろうか。)
ドイツ表現主義映画の不滅の金字塔の一つらしいムルナウ監督の《 最後の人間 》を、you tubeで観た。1924年( 大正13年 )制作のサイレント映画。
大泉黒石・原作、溝口健二・監督の《 血と霊 》( 1923年 )の絡みで、ドイツ表現主義映画《 カリガリ博士 》( 1920年 )、カール・ハインツ・マルティン監督の《 朝から夜中まで 》( 1920年 )を、そして今度の《 最後の人間 》を観ることになったのだが、確かに、それなりに面白いのだけど、主人公のホテル・アトランティックの玄関番が老齢を理由に手洗場のボーイに廻されたことを、失意のどん底の如くふるまうのには、些か違和感を覚えてしまった。
( 自身の結婚パーティーのためのテンビで焼いたケーキの出来具合に満足そうな娘 )
同じ接客仕事とはいえ、片やかっぷくの良い体躯に立派なカイザー髭と金モールの制服っていう主人公のいでたちは、賑やかな表通りに面したそのホテルの顔とも言える一見派手やかな、最近の言い様じゃマスコットって存在で、薄暗い地階に設けられた手洗場の手洗客に差し出すタオル係りや拭き掃除係りって、チィップは貰えるものの灰色の作業着ともども如何にも地味な下働イメージも強く、突如、配置転換されてしまって、失墜感を覚えたのだろうか。
でも、それはあくまで外見的な、早い話、差別的な意識・観念に則ったものに過ぎず、人によってはむしろ逆に、派手な衣装で、重い客の荷物を乗って来た自動車の上から担ぎ下ろしたり、低頭して挨拶しつづける玄関番の方を厭ったりもする。
( 突然の配置転換に抗議する主人公。支配人はてんで相手にもしない。)
只、その日は、彼の娘の結婚式が催される当日で、朝、その件の娘が、天火で焼いたケーキ(あるいはパイ)を満足そうに眺めるシーンがあり、主人公が指先で舐めたりするほどの親愛さ加減だった。式にも、晴れがましいらしいその金モールを纏って出席するはずだったのか、唐突に一転、燻すんだ灰色の作業服に手洗場掃除って左遷=凋落的なイメージを引きずって、希望的祝福の雰囲気を損なってしまうのを厭ったのだろう。
主人公にとって、カイザー髭の門番、つまりホテル側の先頭に立って玄関で客を招き入れ、あるいは送り出し、且つそれにまつわる分担的差配も熟( こな )すってポジションって、自負的なプライドある仕事だったのだろうが、所詮、手洗場担当と大差ない雇われ仕事、差別社会で言う所の下働きに過ぎない。
早い話、同じ労働者に過ぎないのだけど、例えば、当時、床掃除にはモップぐらいあったはずが、監督のムルナウは、敢えて、彼に手洗い場の床に巨体を這いつくばらせて手にした雑巾で拭かせるって場面を提示し、落差的失墜と悲哀的憐憫を惹起する。
これって、第一次世界大戦後の敗戦国ドイツの、いわゆるワイマール憲法時代の、戦勝国、とりわけフランス・ベルギーに対する超巨額な負債と、数年で物価が何と一兆倍に跳ね上がったハイパー・インフレ、中産階級すら炊き出しの列に並んだという世相の只中であってみれば、アンシャン・レジーム( 旧体制 )の象徴の様なカイザー髭の主人公に、ホテルに参集するブルジョア達が、微妙な会釈をしてみせるのも、了解できてしまう。
未曽有の底無しの凋落であっても、貴族と大企業だけは、我が世の春を謳いつづけていたという。その象徴としての、ホテル・アトランティックであり、そこに集う客たちであるのだろう。
家に戻るにも、いつもの金モールをわざわざロッカーから盗み出して纏い、何事もなかったかのような佇まいを決め込もうとしても、もともと小市民的な臆病さも顕わに、ビクビクしながら、しかし、周辺住民たちは、彼の娘の嫁ぎ先の姑(?)の大騒ぎを盗み聞きしとっくに知っていて、せせら笑い乍ら、隠れてその虚勢を睨めつけ、更に大笑いするのを気付くことなく、嫁ぎ先の同じアパートの義息子の部屋を尋ねてゆく。娘の新夫と姑の冷たい視線と、娘の悲痛な眼差しにバレてしまったのを悟り、すごすごとそこを後にする。
居たたまれないのか、よたよたと深夜のホテルに舞い戻り、しんと静まり帰った地階の廊下で夜警に金モール服をロッカーに戻させて、殆んど瀕死の態で椅子に坐したまま・・・
凋落し尽くしたドイツ第二帝国の象徴たるカイザー髭と金モール、それに縋ろうとする旧態依然的ドイツって図式なのか。尤も、実際には、失敗したけど革命運動も起こり、その反動としてのヒットラー=ナチスが台頭し、鬱勃と白い焔がドイツ全国を焼尽くしはじめていた。










