山上の銃弾・・・晋三的連鎖故事
令和四年( 2022年)七月八日昼前、近鉄・大和西大路駅北口で選挙演説中の安倍晋三・元首相が、旧・統一教会がらみの遺恨と政治的弾劾を企図した山上徹也によって、手製水平二連銃で狙撃され、殺害された。
それから既に三年も過ぎているにもかかわらず、現在以て初公判の日程すら決められずにいるようだ。今秋以降ということらしい。
あれこれ中途半端なまま諸事件をひきずって逝った疑問符だらけの総理大臣・安倍であったが、何と、それが国葬ってことで、度肝を抜かれてしまった。かつてあの悪名高い総理大臣・佐藤栄作がノーベル平和賞を授与された青天の霹靂事同様。
そういえば、佐藤栄作って、安倍晋三の大叔父にあたる同じ一族だった。
その安倍晋三が狙撃された大和西大路駅から南に約十キロ南、かつて幕末の頃、大和国丹波市( 現・天理市 )の街道で、高名な大和絵師・冷泉為恭( ためちか )が、尊攘派志士達によって斬殺された。
奇妙にも、為恭も、名が" 晋三 "であった。
冷泉為恭は、そもそもが京都狩野派の家系であったのが、復古大和絵師として高名となり、公家たちに贔屓され、京の町で佐幕派と熾烈に鎬を削っていた尊皇攘夷派には尊攘派と了解されていた。
ところが、為恭、平安時代作の《 伴大納言絵巻 》を模写したくて、その絵を所有していた酒井忠義の邸に日参していた。が、よりによって、当時、酒井忠義は尊攘派が目の敵にしていた佐幕派の総本山ともいうべき京都所司代だった。日毎の刀光剣影的血闘の真っ只中にあった尊攘派に、冷泉為恭の絵師としての活動に対する理解など皆無だったようで、朝敵=京都所司代に頻繁に係わっているという事実だけで、問答無用に、為恭も朝敵として断罪されることになった。
為恭、妻を連れ、尊攘派の白刃を避ける逃避行を余儀なくされ、勤王僧・願海の下に幾月も匿われていたものの、やがてそこからも離れざるをえなくなって、奈良の大刹・内山永久寺に逃げ込んだ。
当時、内山永久寺は国内有数の一大寺院であった。
その情報を得た尊攘派、長州藩士・大楽 ( だいらく ) 源太郎一派の画策で、騙されて籠に乗り、内山永久寺からおびき出され、西に一、二キロ行った先の街道の、鍵屋辻( 伊賀上野のとは別 )なる場所までやって来ると、いきなり引きづり出され、斬首。屍体はそのままに、生首だけ運び、翌日、大阪・本願寺の石灯篭の中に晒し、斬奸状まで掲示。
端午( 元治元年五月五日 )の昼頃、大和国丹波市路上で生捕り、天誅・斬首し、梟首した旨認めてあった。
為恭もとんだ災難だったろうが、京の町の血で血を洗う熾烈な状況をまるで意に介さないってのも随分なことには違いない。それ以上に、己が画業に集中専心していたのだろう。恐らく、その危うさを忠告する者は居たに違いないが。
( 長倉戦争時、戦利品として小倉藩から略奪してきた太鼓 )
ところが、尊皇攘夷派の急先鋒・長州藩士・大楽源太郎・・・青年期に妙円寺( 山口・柳井 )の長州勤王倒幕派の中心的存在ともいうべき僧・月性の門下に学び、久坂玄瑞等と親しく、京に上って、梅田雲浜や西郷隆盛の知己を得る。
《 安政の大獄 》が始まり、長州に戻ったものの、藩に蟄居を命じられ、再び上京し、件の絵師・冷泉為恭斬首事件首謀の後、長州藩と京都守護職・幕軍との京の町の少なからずを灰尽に帰した禁門の変(蛤御門の変)に参加し、敗北し、長州に敗走。慶応元年(1865年)、高杉晋作の騎兵隊が高山寺で挙兵すると、自らも郷里・防府で忠憤隊を組織し呼応し、四境戦争まで突き進む。
が、明治維新後、大村益次郎暗殺事件や騎兵隊・諸隊の脱隊騒動( 山口藩庁包囲事件 )等で、彼が郷里・防府で開いた私塾・西山書屋の少なからずの塾生達が関与していたことによって、藩庁・維新政府側から首謀者として疑われ、出頭命令が下される羽目に陥ってしまう。
大楽、九州・久留米まで逃げ、藩内を転々としながら、奇兵隊を模して作られた応変隊との〈 政府転覆 〉の謀議画策が発覚、維新政府に、久留米藩邸を接取され、久留米藩知事=久留米藩主・有馬頼咸までが取調べを受ける( 後、閉門三十日に処された )に至り、大楽が以前その藩主・有馬頼咸と面識のあったのを危惧した久留米勤王派の中核といわれた島田荘太郎や応変隊の同志等に謀られ、明治四年三月十六日、篠つく夜雨の中、筑後川畔に誘いだされて斬殺( 斬首 )されてしまった。
絵師・冷泉為恭も騙され誘い出され、首謀者の長州藩士・大楽源太郎も騙され誘い出されて斬殺という因果。
偶々あるブログに行き当たり、ふと気になったのが、安倍晋三がらみの一節であった。
大楽源太郎の郷里は藩庁・山口に南隣した防府だけど、彼の師たる僧・月性はもっと東寄りの柳井・妙円寺、その西隣りの田布施こそ、安倍晋三の本籍地でもあり、岸信介・佐藤栄作等の一族の根拠地であった。
時代は戦後昭和、件の田布施での選挙戦で、同じ兄弟のはずが、佐藤派と岸信介派が対立しているようで、岸信介派を遣り込める当地における定番的故事を連呼したという。
岸信介の家系を、“ 悪代官の家系 ”と蔑み貶める言説。
あれっ!と、すぐに思い出されたのが、幕末・明治初頭、長州藩が、関門海峡を越え、幕軍・小倉藩を撃破し、占領し、そのまま居座った企救六郷( 門司・小倉 )で、旧小倉藩の庄屋と長州軍( の一部?)の結託・不正に起因した数千人規模の農民一揆に発展した際の、占領長州軍のトップが、彼等の先祖・佐藤寛作。
その故事が、長州側でも伝説的に残っていたのか、と驚いてしまった。
が、実際は、もっと古い戦国時代にまで遡る逸話に拠った故事で、当方の勘違いに過ぎなかった。
( 桜山神社・招魂碑。高杉晋作肝いりで創建された。数百柱も立っているらしい。長州藩庁・維新政府と諍った残存奇兵隊や諸隊の連中のはないのだろうか。ロシア革命でもそうだったが、維新を裏切った維新政府に対する戦いも維新活動という局面もあり、彼等も同等に入れてやるのが晋作の本懐ではなかったろうか。樹立された維新政府からみれば、あくまで反-維新の反動分子ってことなんだろうが。維新後の不平武士たちが決起した萩の乱で処刑された前原一誠は、平成の頃に合祀されたという。なら、いずれ大楽源太郎も? )
それにしても、総理大臣・安倍晋三に発した連鎖的長州故事の禍々しさなのだが、内憂外患的緊迫と血の相克的日常の幕末・維新草創期にあってみれば、血糊慣れした疑心暗鬼・権謀術数的産物って陥穽に容易に足を取られてしまうのだろうか。
尤も、そんな血の相克的明治維新=大日本帝国も第二次世界大戦・大東亜戦争敗北で終焉した末の安倍晋三に、血塗られた真刀ではなく、手製水平二連銃から、私怨と義憤の鬱々と凝結した散弾を浴びせた山上徹也は、大楽たちとは、些か別様の位置にあるようだ。
ところで、ネットのウィキペディアの山上徹也のページがなくなった?
以前はあったような記憶があるのだけど、勘違いだろうか。
現在、現役被疑者ってことで作られてないって事由という話もある。外国語版はあるので、日本国内的事情・規制なのだろう。あるいは、日本語版作成の参加者の中に、規約を無視した投稿が少なくなく、成立しないという話も。
旧・統一教会絡み故に、色々勘繰る向きもあるようだけど、果たして、山上の放った乾坤の散弾、安倍晋三=自民党=統一教会=米国の那辺まで届いたのであろうか。
( 下関・桜山神社 坂本龍馬の妻・お龍の碑。京都、長崎、下関と龍馬がらみで逗留してたよう。尤も、この写真は、どうも本人じゃないようで、現存するのは、年取ってからの一枚きりのようだ。)
【注】 大楽源三郎一派に命を狙われていた絵師・冷泉為恭が、最後に逃げ匿われていたのが、奈良の大刹・内山永久寺。当時、国内有数の大寺でもあって、一大伽藍群が聳えていたようだ。が、これも、維新絡みで、国学・神道を国教に据えるため、あるいは国内寺院群が備える鐘・仏像等の金属や領地の奪取のため、廃仏毀釈令を出して、国内の可成りの数の仏教寺院が廃棄処分になった。一部の神社神主と信徒たちが、寺院を襲い、仏像や経文すら破壊し、薪代わりに売っばらったりしたという。この大刹・内山永久寺の場合は、完膚なきまでに破壊尽くされ、只の野原に化されたとか。
かつて、この国の保守勢力が、中国の文化大革命で、同様に寺院・道観が、紅衛兵によって破壊されたのを、鬼の首でも取ったように嘲け、あるいは口汚く罵ったという。廃仏毀釈時の神主と信徒達の如く、何ともあさましい虚偽と暴虐の連綿さかげんではある。
( 長州藩士・大楽源太郎像。奇兵隊すら写真撮っていたのに、結構撮ってない幕末有名人多い。西郷隆盛もそうだが、肖像画だけ。)






